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▼ (朝日新聞DIGITAL:副総理、講演で差別表現 指摘に「不適切でし
た」 ~~~~~~
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170902-0000 …

(あ) 祭りの参加者を「きちがいみたいな人ばかりだ」と述べ、
(い) 精神障害者を差別する表現を使った。
(う) 氏は 後 「不適切でした」と述べた
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ (え) 引用は端折っていますが この記事は 何を言おうとしてい
るか?

(お) すなわち 前提として〔暗に〕言っていることは 《きちがいと
いう表現による規定がまちがって当てはまる人びと――ここでは 〈精神
障害者〉――がいる》である。

(か) けれども ここで副総理は 祭りの参加者のことを言っている。
だけだ。

(き) この記事は それでも 《間違った規定》が一般に広がっている
と見て――そういう問題意識が 普段からつよいゆえだろうか―― ただ
ちにその言葉を捉えて (お)の前提につなげた。

(く) ということは――記者の心を忖度するならば―― 副総理の表現
は 《間違った規定としての 差別表現につなげて見られやすい》ゆえ 
気をつけてくださいと言おうとしているか。

(け) もしそうならば (お)の前提について その規定は間違ってい
るということを しっかりと伝えなくてはいけない。そのとき同時にであ
る。

(こ) さもないならば むしろこの種の――《間接的に不適切となるよ
うな表現》を控えようとうったえる――記事が広く伝え勝ちになってしま
うことは むしろ差別表現の固定化なのではないか?

(さ) 差別表現は その規定が間違っていないけれど 差別表現になる
から やめようと言っていることになりはしまいか? その誤解を生みや
すいのでは?

(し) もしくは このような差別用語といった規定の仕方をこそあらた
めるかだ。言葉は 自由に使ってよいのだと。《適切かどうか》は その
人の文体いかんにかかるのであって 《言葉狩り》の問題ではないと。

質問者からの補足コメント

  • №3お礼欄よりつづく。

    ★ ポリティカル・コレクトネス
    ☆ も 目を見張るべき方法だとは思えません。(これは むしろトラ
    ンプが問題提起しています)。


    哲学は根本から考え直してすすむべきと考えます。

    精神疾患は むしろ精神の健常ゆえに――アース役となって―― 社会
    の歪み・ゆがみを身に引き受けたその結果として 一面には現われたも
    のと考えられます。

    健常ではないゆえに――受動のチカラに欠け アース役には成れないこ
    とから―― その疾患が出ないという場合も考えられます。

    どうでしょう。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/03 13:56
  • №6

    《福祉》ということが声高に言われ始めたころからむしろ 区別してい
    るという感覚が見られ それは 極端に言うなら隔離している――その
    民生役の人たちの心の中では 障害者を一般からは隔離している――と
    いうほどにさえ感じます。

    何かがおかしい。どこか おかしい。

    フロイトがワルモノだとわたしは思っています。それを受け容れた人び
    との思想や生活感覚が 基礎になったとしたら それは どういう事態
    か?

    けれども やっぱしニーチェは どこから見てもおかしい。と勝手な放
    言を書いてしまいたくなります。

    さっぱり分かりませんが こういった探究は のぞまれると思います。

    たしかゴルバチョフというのは 背虫という意味ですよね。識別符号だ
    けに終わるか終わらないか。でも いつも携えている苗字だというのは
    どうなのか。


    《言葉に罪はない》が 基本になると思うのですが。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/03 17:22
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A 回答 (16件中1~10件)

力強くない追記ですが。



わたしを【気の毒】【憐れ】【可哀想】と呼ぶ人は、
本当に失礼なひとだと思います。
本当にムカつきます。

わたしに向かって
勝手に【気の毒】【憐れ】【可哀想】
という言葉を放る人は、
どのようにわたしより仕合せるのが上手くて
どのようにわたしより満ち足りているのですか?
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この回答へのお礼

《障害》というのは ひとと話しあいが出来ないことだと考えています。

話し合いが出来ない状態にある人について その人についてというより
は その障害の起きていることについて あぁ 残念だとわたしは思い
ます。

それ以外のことは――つまり 世間で《障害》と呼んでいることは――
感覚的に あぁとか思ったりすることはあっても 気の毒・憐れ・可哀
想といった規定をすることは ありません。

ほかの人たちは どうなんでしょう。

お礼日時:2017/09/09 21:46

こんばんは、ぶらじゅろ~ぬさん。




御題に対しての建設的な意見は出ませんが、
少し物言いをしてよろしいか。


たかが言葉ごときにいちいち反応
してしまうのも恥ずかしいのですが、
障害者を「気の毒に思ふ」という発言は
撤回してくださるやうお願い申し上げます。

あなたの、何番回答へのお礼だったか忘れましたけど。

勝手にひとを気の毒に思ったり
勝手にひとを憐れんだり
勝手ににひとを可哀想だと決めつけるのは、

思い上がりが甚だしいですし、想像力が乏しいです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆(№6お礼欄) ~~~~~~~~~~
わたしが子どもの頃 つ〇ぼ とか め〇らといった言葉は し
きりに聞かれ だからと言って差別していたとは思いません。

むしろ 気の毒だという思いのほうが つよい。そして 当人も 
静かに耐えている。それは 無理しているとも思えませんでした。
~~~~~~~~
☆ その昔わたしは 人びとが 目や耳の不自由な人について 
つ○ぼとかめ○らとか言っているのを知っています。

わたしもその言葉を使いました。

総じて誰にも差別の気持ちはなかったと記憶しています。

そして当の人たちも さして気にしておらず それぞれは自分の
ところを得ていたと感じていましす。

どんな気持ちでその言葉を使ったのか? 

言葉遣いの問題ではなく わたしの場合で言えば 特には戦争で
脚を失くした人がいるのを見て――あぁ 傷痍軍人と言っていま
した―― 気の毒だなぁと思ったことを記憶しています。

★ 障害者を「気の毒に思ふ」という発言は
撤回してくださるやうお願い申し上げます。
☆ 現在において障害者について 気の毒に思うというのは 無
いですね。

強いて言えば 早う元気になれといった気持ちが湧きます。ほと
んど言ったことはないですが。

妹に ちちんぷいぷいと言って 自分で直してしまえと言ったこ
とがあります。


★ ~~~~~~~~
勝手にひとを気の毒に思ったり
勝手にひとを憐れんだり
勝手ににひとを可哀想だと決めつけるのは、

思い上がりが甚だしいですし、想像力が乏しいです。
~~~~~~~~
☆ 《可哀想だ》と感じるときは あるかも知れません。

たしかに 想像力をはたらかせる以前の状態においてです。

《憐れむ》というのは 自分の非力を思い ああ! というため
息をつくことがあったかも知れず それは《あわれむ》ことかも
分かりません。

あは!(Ah ! )⇒ あはれ⇒ あはれむ


現在 《ひとを気の毒に思う》というのは ないですね。

昔の傷痍軍人について 残念だったろうな 生きて帰って来ただ
けよかったのか それとも 帰って来てもそんな状態では 何ら
よいことはないと思うのか・・・何とも気の毒だなあと思ったこ
とは おぼえています。

戦争に対する怒りのような気持ちから出て来たのだと思います。

お礼日時:2017/09/09 21:39

ふたたびこんばんは、ぶらじゅろ~ぬさん。


悪意は、無い場合がほとんどです。
人の発言の中に悪意を探すことこそ気がちがっているのだし、
間違いを指摘されて言い訳をするのも気がちがっています。


例えば息子の友達がわたしの家に遊びにきて、
さんざん遊んで喉が渇いてわたしの冷蔵庫を開けて
勝手に飲み物を物色して勝手に飲むのは悪意がありません。

しかしこのような事態はわたしが困るので、
あなたはわたしの冷蔵庫を勝手に開けてはいけません
わたしが不愉快ですので今後はやめてください、
どうしても水分が必要な場合はそのように要求してください、
なお、自分の水筒を持って来てくれると助かります、


とわたしが訴えれば済むことです。


ものを知らないことは悪いことではありません。
人に訊いたり聞いたり聴いたりすることは
いつでもどこでも誰でも自由にできますので。



なんか質問からズレてきてますかね。
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この回答へのお礼

★ 悪意は、無い場合がほとんどです。
☆ そうだと思います。

と同時に:
★ 人の発言の中に悪意を探すことこそ気がちがっているのだ
し、間違いを指摘されて言い訳をするのも気がちがっています。
☆ となった場合には 事情が違って来るとなっているようで
す。

すでに《差別表現》だという指摘があって――ハラスメントの
場合と同じように―― 一般的にもそうだというふうに規定さ
れた格好になっています。

メディアなどでは きちんと取り決めがなされている。

そこで 悪意がなくても 《不適切だ》という警告が出される
ようです。

★ 例えば息子の友達がわたしの家に遊びにきて、
さんざん遊んで喉が渇いてわたしの冷蔵庫を開けて
勝手に飲み物を物色して勝手に飲むのは悪意がありません。
☆ 《勝手に》というのは ひと言もことわりを言わないでと
いうことですか? その場合は 悪意がなくても ちょっと行
き過ぎだとも感じますが。

★ ~~~~~
しかしこのような事態はわたしが困るので、
あなたはわたしの冷蔵庫を勝手に開けてはいけません
わたしが不愉快ですので今後はやめてください、
どうしても水分が必要な場合はそのように要求してください、
なお、自分の水筒を持って来てくれると助かります、


とわたしが訴えれば済むことです。


ものを知らないことは悪いことではありません。
人に訊いたり聞いたり聴いたりすることは
いつでもどこでも誰でも自由にできますので。
~~~~~~~
☆ ひとつの場合として その子は まだ家庭でしつけられて
いなかったというようなことが考えられるかと思います。

お礼日時:2017/09/06 21:46

こんばんは、ぶらじゅろ~ぬさん。


今ようやくリンク先の麻生副総理の記事に飛びました。


この人は祭りに熱狂する人を眺めて、
選挙に熱心な人を連想し、
そのまつりごとに対して熱心な人たちを
【きちがい】と呼んで愛でて敬い、

【きちがい】を歓迎しているのだと理解しましたが、
わたしの理解に間違いがあれば直してください。

わたしはこの人を支持する者でもなく、
排除する者でもなく、
今は何に対しても不熱心な者ですが、
熱心な人がいるというのは頼もしいことです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~
この人は祭りに熱狂する人を眺めて、
選挙に熱心な人を連想し、
そのまつりごとに対して熱心な人たちを
【きちがい】と呼んで愛でて敬い、

【きちがい】を歓迎しているのだと理解しましたが、
~~~~~~~~~
☆ わたしの理解をそのまま述べますが:

 補選が祭りの日と重なった。
 大変な祭りのようだが 祭りも選挙もどちらも力を入れて
 やっている人たちがいる。
 自分の故郷の祭りも 大変なもので 祭りになったら も
 うよその人が見たら ほとんどきちがいみたいと思うほど
 祭り一色になる。

★★(回答№10)そもそも祭というのは、ハレなのだから
(ケとは)気が違うのが当たり前なのではないの?
☆ このご指摘についてコメントしそこないましたが おっ
しゃるとおり 祭りの日などのハレは ケ(褻=日常性)‐か
れ(離れ)のことです。

このケ‐カレから ケ‐カレ(枯れ)⇒ケガレ(穢れ)といっ
た意味の展開もがありましたが もともとは 《生活日常か
ら離れた時間(つまり 祭りなどの特別な日)》を言うはず
です。

つまり 日常性としての気から とうぜんのごとく離れてい
ます。飛んで行ってしまっているかも知れません。

その意味で 《日常性としての気から違っている》と呼んで 
何の問題もないはずです。



★ わたしはこの人を支持する者でもなく、
排除する者でもなく、
☆ この麻生氏は ほかではほとんど自明な失言をおこなっ
てもいるのですが。

★ 今は何に対しても不熱心な者ですが、
熱心な人がいるというのは頼もしいことです。
☆ 分かりました。

お礼日時:2017/09/06 21:35

質問文の記事で問題なのは、差別・侮蔑用語を使ったと言う事実だけで、当該語を差別・侮蔑の為に使ったと言う事では無いんです。

(実際問題、その発言には、当該語を差別表現として使われる人は含まれていません)
記者は、所属しているメディアの用語の手引きによって、当該語が差別・侮蔑語として、使われるので、使用してはいけないと言う事を指摘しただけです。
つまり、(あ)→「差別・侮蔑用語が使用された」、(い)→「当該語は、ある特定の疾病の人を侮辱する言葉であり、使用してはいけない」と言う事であり、(あ)と(い)の間には、発言から連想される関連性はありません。(それぞれは、独立しているんです)
当該語と被差別者は、(い)において関連づけらていて、それは、告発者により、メディアが認識している事です。(つまり、当該語と被差別者が対応すると言う事を指摘したのは、告発者です)
もちろん、当該語と被差別者が必ず、一対一対応の関係だとは、告発者は考えていなかったかもしれませんが、その表現をするたびに、それは差別・侮蔑語だから、使用する事は許さないと言う告発が執拗に告発者からなされました。
その為に、メディアは、この言葉を使用しない事に決めたわけです。
告発者の目的は、当該語をメディアで使用禁止とする事です。 したがって、当該語が、他にどんな意味を持とうと、使用は許さないと言うのが目的です。
当該語=被差別者と言う意味では無く、当該語が差別・侮蔑とする対象=被差別者と言う関係であり、告発者が目的としているのは、当該語≠被差別者とする事ですが、その為の方法は、当該語を使用禁止にするしかないと言う事です。
ここでは、発言者も、それを聞いた記者・聴衆も、当該語≠被差別者である事は認識しています。(発言の意味を当該語=被差別者であると受け取る人はいないでしょう)
ただし、当該語を自分に対する差別・侮蔑語と連想する被差別者もしくは、被差別者の関係者がいると言う事です。
これは、どのように使用されても、そう連想させる、歴史的・社会的な事実があった事を意味するので、当該語の対象と受け取る被差別者の心情を理解して、その使用を制限すると言う事です。
つまり、連想するのは、その語を使用した人では無く、被差別者及び、その関係者です。
セクハラなどを連想してもらうと、わかりやすいんですが、この犯罪は、行為者及び被害者がいないと成立しませんが、これをさらに発展させて、犯罪行為で無くても(当事者同士の合意であっても)、その行為がセクハラを連想させるならば、それは犯罪だと言って、裁判で証言した人がいました。
当該事件の詳細は、記載しませんが、当事者以外の人が、その行為がセクハラに見え、公衆の前でなすべき行為では無いと証言したわけです。(実際は、介抱していただけだったんですけどね)
この証言の「行為」を「言葉」に換えれば、差別・侮蔑語の意味がわかります。
実際に、差別・侮蔑語として使用していなくても、その「言葉」が差別・侮蔑を連想させるならば、そのような「言葉」は公衆の前で使用してはならないと言っているわけです。
直接的な意味は違いますが、「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」も、そのようなモラルを意味します。(誤解されるような行為はするなと言う事です)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ つまり、(あ)→「差別・侮蔑用語が使用された」、(い)→「当該
語は、ある特定の疾病の人を侮辱する言葉であり、使用してはいけない」
と言う事であり、(あ)と(い)の間には、発言から連想される関連性は
ありません。(それぞれは、独立しているんです)
☆ この一点も 重要だと思います。

そのことを 記者が ことわり書きに書いておいて欲しい。


★ 当該語と被差別者は、(い)において関連づけらていて、それは、告
発者により、メディアが認識している事です。
☆ たしかにその取り決めは ひとつの善処なのでしょう。

ただし:
★ (つまり、当該語と被差別者が対応すると言う事を指摘したのは、告
発者です)
☆ いかにこの告発者が 疾患のような状態にある本人かその家族である
としても 《言葉に罪あり》という前提に立つなら それは なお考える
余地をのこすものと 素人ながらわたしは 考えています。


★ 告発者が目的としているのは、当該語≠被差別者とする事ですが、そ
の為の方法は、当該語を使用禁止にするしかないと言う事です。
☆ 単純な反応だけでなく煮詰めた結果としても 《取りあえず》は そ
ういう善処策になるのでしょう。


★ ここでは、発言者も、それを聞いた記者・聴衆も、当該語≠被差別者
である事は認識しています。
☆ これは もしそれを疑う人は一人もいないとしても 言葉の表現その
ものは その等式をほのめかす論理を持つとは思います。

そこから その匂いは 飛び散って行くと思います。(それだけを言うだ
けすが)。



★ セクハラなどを連想してもらうと、わかりやすいんですが、・・・当
事者以外の人が、その行為がセクハラに見え、公衆の前でなすべき行為で
は無いと証言したわけです。(実際は、介抱していただけだったんですけ
どね)
☆ こういう場合は その第三者なる証言者が 気が違っているのだと見
ます。そういう気ちがいにかかったなら どうしようもないということだ
と考えます。

★ 直接的な意味は違いますが、「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」
も、そのようなモラルを意味します。(誤解されるような行為はするなと
言う事です)
☆ 《気ちがい》に誤解される場合は 適切に振る舞っていても その誤
解は生じると考えます。

お礼日時:2017/09/05 21:44

澄みません。

冴えてゐません。

わたしは昨日まで精神科に3度目の入院してをり、昨日退院したばかりで、状況が読めてゐません。今回は11日間の入院でした。

関係ないかもしれないけれど、わたしは友達とランチやディナーをするときに「neutralは ぎっちょ だから、左端の席に座りなさい」と言われます。これは、左手で箸を持つわたしに対しての、隣の人と肘がぶつからないやうに、という配慮であり、決してマリスミゼルではありません。
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この回答へのお礼

そうですね。

薬の問題もあるのではないか。とは 思っています。固定してしまう
かも知れない。


言葉そのものとそれを発信した人の意図とは 別でしょう。

悪気がないからよいと言ってしまうのも まづいらしい。

お礼日時:2017/09/05 21:24

こんばんは、ぶらじゅろ~ぬさん。


読み切れていないのですが、ご返事ありがたう。

たぶん、(あ)と(い)のあいだが ちがう。
きちがい=精神障害者と
瞬時に認識できる(してしまう)人がいる
というのは驚きです。


それから、そもそも祭というのは、ハレなのだから
(ケとは)気が違うのが当たり前なのではないの?


要領を得てゐませんが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

だいたい そういった趣旨のことを すでにわたしもお礼欄で書いて
いると思います。


おそらく精神分析が 科学として認知されてからは――医学をいちお
う習得するんですよね―― それが規定する状態とその名前が その
受け留めを一般に固定させてしまう。のではないかとも思います。

お礼日時:2017/09/05 21:21
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《言葉じたいに罪あり》という思想を 現実の事例に即して・かつ
歴史的な事情の中に それが根拠を持たないと批判し切れるという
ところまで持って行きたい。

その切り口よりほかの扱い方では――実際上の効果を挙げることは
確かにあり得るとは 考えますが それでもそれは―― いたちご
っこになることを免れないと やはり考えます。


《言葉に罪あり》という思想は 人間の自然本性には支えられてい
ないと捉えます。

よって その思想は 人間の人間性にとって無効であり 待ったな
しの情況に生じる社会力学によってのみ 有力になっている。

つまり 悪貨が良貨を駆逐しているに過ぎない。と見ます。


短期(待ったなしの問題)の解決と 中期・長期の(人間論にもと
づく基本の問題)の解決とがあると見ます。

お礼日時:2017/09/05 14:26

こんにちは、ぶらじゅろ~ぬさん。



どうでもいいんだけど、精神障害者はキチガイではありませんよ。そのように生まれたからそのように生きてゐるだけです。

それから、これは精神障害者には関係ないのだけど、気が違うというのは、間が違うとか勘が違うのと同じで、よくあることだと思いますけどね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたしの理解は 趣旨説明欄の(お)に書いたとおりです。
☆☆(お) 規定が ま ち が っ て当てはまる人びと――ここでは 
〈精神障害者〉

☆ ただし 回答№3末尾の段落では 表現としてその規定は まちがっ
ていないという認識を示しています。


これまでに述べたわたしの認識としては:
 人びとの怒りなどのガミガミ電波や悩み苦しみなどのモヤモヤ磁力線
を すすんでか止むを得ずかアース役となって引き受けたとき 自分の気
持ちにも いやな気分が生じる。

ス これが 慢性化すると 精神に疾患があるような状態になる。

セ 単なる気の所為の問題が 親から子へ――アース役に耐えかねて家の
中でその反動としての反応を顕わにするにしても・しないにしても 子が
やはり受動的なチカラをはたらかせて 親の気を受け留めることによって
――伝わったりすると 極端なかたちとしては 子のさらに子の気質にも
影響を及ぼすかも知れない。

ソ つまり言いたいことは 気が冴えない・晴れない状態というのは 基
本として社会源の現象であるというものです。


タ 差別表現だと見なされる〔ようになった〕言葉の問題としては 民俗
としての《言霊》なる現象が かかわっているかも知れない。

チ だが この言霊なるナラハシにしても それは 人間の生まれつき備
わった自然本性には 基本としてかかわるものではない。人工的でやはり
社会源のものではないか?――これを あたらしく質問に立てています。

ツ 《言葉に罪はない》なる命題が 人間とその社会にとっての基礎であ
り基本となるはずだ。

テ 差別用語をそれとして規定し ねらいとしてはその表現でいやな思い
をこうむる人を守るということであっても これは その規定を取り決め
たところで 言霊現象という悪貨に良貨が駆逐されている社会にあっては
《言葉に罪はある》というふうに受け留められがちになる。――これが
現状だ。


☆ 歴史認識について 自分たちに不利な史実は葬り去り 有利な史実の
みを――しかもしばしば有ること無いことをねつ造して――訴えるという
のは 世界を知覚するアンテナのような《気》が 根本的に違って来てい
る。そういう気ちがいが 横行しています。

おそらく 間も違っているはず。勘違いは 一時的にて 罪が浅い。

お礼日時:2017/09/05 13:14

お礼及び、補足ありがとうございます。


差別・侮蔑用語に関しては、外国においては、その機能語自体が差別語になる事が少ないのに対して、日本の場合は、機能語自体も差別語になる事に特徴があります。(むしろ、そのような例の方が多い)
これは、言語の問題と言うより、民俗的思考の中に、「言霊」と言う思想がなお残っているのでは無いでしょうか?
これは、漢字表記に関わらず、同音異語であっても、表現を変えなければいけない事の理由になっていると思われます。
つまり、差別・侮蔑用語は、むしろ「忌み言葉」の性格を持ってしまっていると言う事です。
これは、決して、発してはいけない、不吉な用語の意味合いを持ちます。
そうであれば、近代において、機能や状態を表現する語が差別・侮蔑用語となる例が増えている理由もわかります。
本質的に、その機能や状態自体が、忌むべき事とされていると言う事です。(つまり、差別・侮蔑的な内容は、絶対に消えないと言う事です)
簡単に、結論付けるのは、早計ですが、本質的な差別は、それが差別・侮蔑用語となる事によって、むしろ深刻化していると言うのは、ある意味、事実でしょう。(これは、その機能と言うより、言葉の音に関してです)
元々は、単なる機能・状態語だったのが、ある瞬間から「忌み言葉」に変化したとしたら、それは、より差別が深刻化している(もしくは、深刻化していると思われている)と言う事です。
現状は、どうかと言えば、ある意味、言い換えは成功しています。
「統合失調症」は、簡単に告白できる病名になりました。
「認知症」も、深刻な病気ではありますが、それを告白しても、特に差別は受けないでしょう。
「精神障害者」は、微妙ですが、割と使用される言葉です。
実を言えば、これらの病名は、言い換える前の言葉と表現は違っても、その示している機能は同じです。
「統合失調症」は、精神機能の統合が失調している、つまり精神機能が分裂している状態を意味します。
「認知症」は、認知機能に障害がある状態ですが、古くはこれを痴呆と呼んでいました。
「精神障害者」は、精神機能に障害がある状態です。 これは、精神を気と呼べば、気が(正常状態)と違っていると言う事を意味します。
実を言えば、ある単語の機能自体を揶揄して侮蔑しようとすれば、いくらでも差別・侮蔑用語となります。
「学者」、「政治家」などは、格好の餌食となるでしょう。
しかし、これらは、文脈や真意を問わないと、差別・侮蔑表現とは認識しがたい単語です。(ある意味、より陰湿とは言えるでしょう)
基本的には、「言霊」の思考では、機能的に負の要素がある言葉は、すべて「忌み言葉」となります。
それらの言葉だけ消せば、そのような事が消えると言うのが、「忌み言葉」の発想である以上、その機能・状態の本質的な負の要素が消えない限り、どんどん「忌み言葉」が増えるだけなのは、明らかでしょう。
現代の日本が抱えている問題としては、核家族化、少子化により、家族などでのサポートや、小集落などでのサポートが期待できなくなった事により、公がそのサポートの責任を負うべき局面が増えたと言う事でしょう。
その際には、平等性が主張の根拠となりますから、あらゆる差別に対する告発が多発すると言う事です。
これは、哲学と言うより、社会学や、文化人類学、あるいは言語学の範疇となりますが、それが行きつく先がどうなるかと言うのは、人間の社会の哲学的探究としての課題としてはあり得ます。
ただし、現在は、それらは哲学からは、分離して、諸科学へ移ってしまいました。
これを、諸科学の哲学に対する離反と見るか、哲学には諸科学に先行するメタ科学だけが残されたと考えるかは、難しい問題です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 言語の問題と言うより、民俗的思考の中に、「言霊」と言う思想が
なお残っているのでは無いでしょうか?
☆ これについては 一時期考えていました。

大した成果もありませんが ひとつその起源について思ったことがあり
ます。

ことだまは それを言霊とするのは どうも第二次の展開ではないか。

第一次の発生としては 事霊ではなかったか。

放電現象である雷が 神鳴りとして捉えられ しかも 稲妻や稲光や
稲つるびといった言い伝えが残っています。

稲の実が生るために 神鳴りからの光が稲に当たって 交尾(つるび)
をおこなうのだと。

そういった事の霊的現象であると。

つまり 言葉のほうの言霊は もともとの事霊からの第二次展開では
ないか。

つまり 稲妻といった名づけが出来てから こんどは――妻とかツル
ビとか言うのですから――その言葉を聞くと そのコト(現象)が思
い出され じっさいに実現する場合がある・・・というふうにして
一般的に言霊なる思想が成った。

それゆえ:
★ 「忌み言葉」の性格を持ってしまっている
☆ というのも 事霊⇒言霊の展開のあとである。それは 異常者を
呼ぶふつうの言葉が 何らかのかたちで意識されるようになったあと
では その言葉を言い出すと 差別表現だと見られるようになったこ
とと よく似ています。

《言葉に罪はない》という自然の社会生活があり得るはずなんです。


★ 元々は、単なる機能・状態語だったのが、ある瞬間から「忌み言
葉」に変化したとしたら、それは、より差別が深刻化している(もし
くは、深刻化していると思われている)と言う事です。
☆ この歴史の過程を研究すべきでしょう。

★ これを、諸科学の哲学に対する離反と見るか、哲学には諸科学に
先行するメタ科学だけが残されたと考えるかは、難しい問題です。
☆ 現状にかんがみて そのように見えると思いますが もし歴史の
過程をさかのぼってこれを明らかにすることが出来るならば 決して
《メタ科学》〔のみ〕ではなく 歴史学としての探究になるはずです。




★ 現状は、どうかと言えば、ある意味、言い換えは成功しています。
「統合失調症」は、簡単に告白できる病名になりました。・・・
☆ 復唱をはぶきますが 現状としての措置になるものと思われます。

お礼日時:2017/09/03 22:10

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