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人間存在にとっても世界・宇宙にとっても 存在 とは何か分からなければ答えは出ません。

私は私なりに答えを出しましたが 皆さん批判される。

それでは「存在」を定義してください。この世界は存在だらけです

酸素も存在します。水も存在します。私も存在しあなたも存在する。

では存在とは何か?この疑問に答えて欲しいと思います。でないと哲学は鉄屑です。

階層構造ですよねえ 変化し続けていますよねえ では何を持って存在とみなすのか?

影は存在するのか?空間は存在するのか?

A 回答 (11件中1~10件)

存在することに価値がないとしても、



存在に人間は愛を感じるエネルギーを持っているので、HARUさんの発言が他人に影響を与える事はあると思います。

ただし、存在を破壊しようとするエネルギーがある事も忘れてはいけない。

スタンフォード監獄実験や、テストステロンの効果、そもそも、人類が滅亡するように宇宙は出来ているのだから。

エントロピーの増大に逆らうエネルギーが「存在」する事であり、宇宙の予定調和であるけど、

同時に存在を破壊するエネルギーもあり、

宇宙は対称性を保ち続ける。
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この回答へのお礼

ありがとう

宇宙はエントロピーが増大する方向に広がっていますが 地球では太陽の光を受けて

なんと エネルギーをある程度コントロールし秩序を創り、エントロピーを減らします。

そう つまり形而上学的にも形而下の問題を解決して人間の調和と進化と創造に導かなければならないのです

宇宙が崩壊するだけなら 何故今宇宙にいろんな秩序があるのでしょうか?

お礼日時:2017/12/18 22:00

主観ではなく形而上学的に生きる意味(存在の意味)を考えた場合、いずれ全てが終わり永遠の無が訪れるのに、生きる意味はあるのか?それともないのか?という事はみんな考えるかと思います。

(量子脳理論はここでは無視で)

形而上学的に言うと、生きる価値は無く、生きるという一連の営みは、宇宙の対称性に従う無価値かつ美しい予定調和。生きる意味は、主観の無価値な幻想だというわけです。これには安心しました。

「形而上学的にも生きる意味があるとしたら世界を救わないといけない」という強迫観念に捕らわれていたからです。

もしも形而上学的にも「存在」に価値があるという恐ろしい事が本当だとしても、価値というエネルギーに従う人間がいるだけであって、「ただ動いているだけ」だ。動くことに意味は無い。いずれにせよ存在に価値があるという感覚自体人間の幻想だ。すべて等しく価値がない。そう考えるようになってからは、
形而上学的に生きる意味があっても安心していられるようになった。
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この回答へのお礼

ありがとう

>「形而上学的にも生きる意味があるとしたら世界を救わないといけない」という強迫観念に捕らわれていたから

形而上学というのが何なのか分かりませんが 生きる事には意味があります。存在するためです。

存在する為に 次の瞬間の為に、明日の存在の為に、40億年前からタスキをつないできたのです

死に物狂いで生きてきたのです。必死だったのです。

母親は命懸けで我が子を守って来たのです。父親も危険を冒して働いてきたのです。

形而上がなんかわかりませんが 意味が無い訳がない。存在する事に意味があるのです。

お礼日時:2017/12/18 22:31

認識しないと存在しない



見ないと見えない
聞かないと聞こえない


存在という概念は定義不能です

ギリシャ哲学などでの 重要な課題のひとつ
アリストテレスの存在論 ヘーゲルの存在論
神学などでも語られます

ある とか 無いとかでは 結論できないのです

人間の存在は
西洋哲学 キリスト教 仏教 量子論 生命物理学
等から 解明を試みています

超長くなるので

面白い 注目したのを ご紹介します


釈迦
 
比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。
 彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、覚者の法に順い、
あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、
 したがって、彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、
我は色を有すとも、我が中に色有りとも、色の中に我有りとも、見ることはない…。

一切は因縁の結ぶがままに有り、一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、
ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、
すべて壊するものであるがゆえに、彼は、

われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。

我は無い。
それが、お釈迦さまの教え。
ここで言う「我」とは、インド思想でいう「アートマン」。
アートマンとは、「生まれ変わり、死に変わり、永遠に存続する個の実体」 (真我、要するに霊魂)。
つまり、「霊魂は無い」というのが、お釈迦さまの教えです。
もちろん、「自分」はいます。
でなきゃ、今ここでブログを書いたり読んだりしている、私は一体だれ?・・・ということになる(笑)。
自分は有る。 でも、自分の実体は無い。
言ってみれば、ブッダの人間観とは、実体がなく、中身がカラッポな人間。
じゃあ、人間って何なの?・・・という疑問に答えて、ブッダは「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)
という人間観を提示しました。
五蘊とは、色・受・想・行・識。
ざっくりと言えば、色は肉体作用。 他の4つは精神作用とでも言おうか。
これらは、人間を構成する5つの要素。 すべて、壊れやすくて、一瞬で壊れるのが特徴。
(ただし、壊れるたびに一瞬で再生する)。
 
人間は、これらの要素の寄せ集めで出来ています。 
ただの寄せ集め。 中身はカラッポ。
永遠に存続するモノなど、何もない。
 真実の自己は、たった今、この瞬間(即今)にしか存在しない


生命物理学では 人間の存在は ありえないのです
神が創った  こちらの方が 納得し易いのです

量子論 哲学と交差しています



何か まとまりがないようで あしからず

私だって 正直 わかんねえ


http://sannkuto66.3zoku.com/newpage55.html
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この回答へのお礼

Thank you

>真実の自己は、たった今、この瞬間(即今)にしか存在しない

アイデンティティや魂についてどう思いますか?

40億年続いてきた生命と100万年の人間の心、魂、文化文明。

仏教が正しければもっとみんなに分かるように説明してもらわないと

お金だけ持って行って意味不明のお経を上げて お亡くなりになりました

それが人間の一生?何か違うんじゃない?

アートマンというものはない?心もない、精神もない? 無いならアートマンって何?

存在の単位は個性ですよ。イナゴという個性 酸素分子という個性 あなたという人間の個性

自動車という存在の個性。それが単位ですよ。この世を救ってくださいよ

貴方には学がある ぜひ活かすべきだ。

お礼日時:2017/12/18 22:12

いえ、以前お話したときには、(存在)は(いのちそのもの)、(存在性)は(いのちそのもののはたらき)で落ち着きました。



(存在A)と(存在B)があって、(存在A')と(存在B')と変化している場合は、A も B も変化しているので、A と B の関係は作用反作用のように変化しています。

(存在A)と(存在B)があって、(存在A')と(存在B)になるとして、(存在B)がない場合には(存在A)→(存在A')の変化が極めて起こりにくいとき、(存在B)を触媒と呼ばないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとう

触媒 とも言えるでしょうね。複雑な関係性の中で全てのものが変化しますから

なかなか単純には言いにくいですが。存在Aの環境とか関係するものすべて 触媒なんですかね

そう言ってもいいかもしれません。

お礼日時:2017/12/18 17:39

わたしたちのよくみている知っている世界では、原子の周りの電子状態の変化で説明されるような気がします。



よく考えてみれば、非生物も生物を助けているように思われます。

原子にちょうど良い範囲のエネルギーが来れば、それを用いて反応が起こります。

それ以上のとてつもないエネルギーがやって来たら原子自体が壊れることもあるのかも知れません。

生物は組織を作りながら、程よいエネルギーを吸収する仕組みをつくりだしていますね。


(存在とはなにか?)と聞かれると、ここは哲学の場所なので、ふつうは身構えてしまいます。


(存在を存在たらしめる存在そのものとはなにか?)と問われたら、触媒だ、と答えるべきでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとう

存在を存在たらしめているものは 存在性という性質だと答えればいいですよ^^

詳しくは存在性思想で検索^^

お礼日時:2017/12/17 22:36

こんにちは


「存在」について語りたいなら、
私は、まず述語論理を勉強すべきだと思います。
さらに形式言語論の意味論と存在論も勉強すべきです。
これが基本です。
これが分かれば、
There is an A.
An A exists.
という2つの文の違いが分かるでしょう。
(哲学的に重要なものですが、日本語では表現できない。)
さらに、進みたければ、
"There is an A" の A に関しては、現象論
"An A exists" の A に関しては、哲学の存在論
を勉強するのがいいでしょう。
(哲学の存在論の「存在」は質問者が問う意味とは違います。)
『存在』の話はそれからです。
いいえ、話は終わります。
老婆心から。
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この回答へのお礼

ありがとう

"There is an A" と"An A exists"とどう違うのでしょうねえ?

存在者と存在の違いとか そういうのじゃないでしょうねえ

存在者という言葉自体がおかしいし 現実に存在するものが存在だと思いますけどね。

哲学家を出てないので分りませんねえ。

定義はその2文なのでしょうか ?それとも定義はないのでしょうか?

お礼日時:2017/12/17 17:32

量子論において、存在的な有限性は認識される事で


派生している事が明らかとなっています。
つまり感じられているこの全宇宙は、自己の内にのみ
存するものなのです。

全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、
無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、
無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の
闇に認識体の仮定断面(潜在的認識可能性)の運動
(時系列化=プランク定数hの収束=物体収縮=宇宙
膨張)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、
認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、
自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識
するのです。

超弦(量子定常波)において光速に還元される本質を、
仮説的に階層現象を表面的に(いい加減に)捉える事
によって、潜在的認識可能性(現在)から、自我仮説
(記憶=時間の流れ=過去=超光速)と空間仮説(予測
=空間の広がり=未来=光速下)に相補分化する。
「存在とは一体何でしょうか?定義できる人は」の回答画像5
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この回答へのお礼

ありがとう

「・・・超弦(量子定常波)において光速に還元される本質を、
仮説的に階層現象を表面的に(いい加減に)捉える事
によって、潜在的認識可能性(現在)から、自我仮説
(記憶=時間の流れ=過去=超光速)と空間仮説(予測
=空間の広がり=未来=光速下)に相補分化する。」

この仮説は正しいのでしょうか?記憶が時間の流れ=過去=超光速

過去は超光速なのでしょうか?現在、自画仮説と空間仮説に分化するのですか?

何だかよく分からないですねえ。分かる人がいるといいですねえ。

お礼日時:2017/12/17 15:37

では存在とは何か?


  ↑
酸素、水、私、あなた、は認識出来ます。
影も空間も認識出来ます。
だから認識出来るのが存在、といえそうです。

しかし、未発見の惑星は認識出来ませんが
存在します。

だから認識可能なモノが存在です。

未発見の惑星は認識出来ませんが、
認識可能性はあります。
だから存在します。




変化し続けていますよねえ では何を持って存在とみなすのか?
  ↑
甲から乙に変化しても、甲として存在したし
乙として存在しています。
乙として存在した時には、甲の存在はなくなります。
変化したって存在することには変わりません。
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この回答へのお礼

Thank you

分から易い説明ありがとうございます。

認識してなくても宇宙に様々なものが存在しますねえ ただ人間が気付いてないだけです。

人間の認識できる範囲なんて身の回りと経験したこと、それも経験は過去のことで

確かここに前住んでた家があったよなあ と思うことがあります。

未来に向かってマンションがどんどん組みあがっていくこともあります。

しかし存在は今ですね いま存在するかどうかが問題でしょう。

過去と未来はそれと因果関係にあるわけです。

とても参考になりました。

お礼日時:2017/12/17 12:19

気になることがあります。



算数の問題等で、「自然数nで・・・」「〇〇を△△と仮定した場合・・」のように、
「条件付け」を最初に定義しますよね。

これは、そのように「思考領域」を簡素化して、考えやすくする手法です。
確かに、そのように「特殊化」すれば、誰が解いても、同じ答えが出ます。

しかし、この「特殊化」は、実社会では、有効である場合もあるが、
役に立たない場合もあるように、思います。

例えば、「〇〇国人は、信用できない。」「白人は、体格がいい。」、
「雪国の人間は、スキーがうまい。」などは、誤りが分かりやすい「特殊化」です。

ハルさんは、「存在」について、考えられますが、「存在とは?」と言う
命題自体、「特殊化の罠」に落ち込んでいませんか?

色々な方が、別の視点で「存在」と言うものを考えた時、別の答えが出る。

これは、自然なことだと思いますが、算数の答えを求めるように、
唯一の、「普遍的な答えが存在する。」と言う算数的思考になっていませんか?

よく「アンケート」調査の結果が出ていますが、それは、算数的に「そういう傾向がある。」と
言うだけの話で、例えば、「だから自民党が選挙で負ける。」と言った事にはなりません。

「特種解」から、「一般解」を無条件で導き出す、というのは、現実の世界では
危険のように思います。
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この回答へのお礼

ありがとう

私は今の段階では色々な存在の定義が出るのは当然だと思います

何せ一般にここに酸素が存在する、ここに人間が存在するというのに

大哲学界では「存在」一つ確かな定義がないのですから

考え過ぎなのか、意見が分かれ過ぎなのか、あるいは宗教の影響でも受けているのか分かりませんが

存在とは何かがわからないと人々は困るのです。肝心の哲学がそれを示さないと

結局この世は何なんだろう 宗教に頼るしかないないのかな?と 大事な問題が解けずに

人生の可能性に気づかずに選択してしまいかねません。それでこの質問を上げたのです。

お礼日時:2017/12/17 12:07

私の目で見えた。

私の手で触れた。
これが私が認識できる存在の限界です。
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この回答へのお礼

ありがとう

そういう考えが大勢を占めてるようですが 認識の限界 と言う分にはいいのですが

認識できる範囲だけが宇宙だという人がいるから話がややこしくなりますねえ

目で見えたではなく耳で聞いたもあるのでしょうね

成る程。

お礼日時:2017/12/17 15:13

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