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『理性の誘惑』

こんな思いを持った人がいるのだろうかと、グーグルで検索してみました。
まだ、のようですがどうでしょうか。

人は理性の誘惑に抗えず翻弄されているのではないかと、ふと思ったのです。
理性に"誘惑力"がある?、なんて考えたことありますか。

以前、我が家(アパート)にやってきていた猫が、久しぶりにまたやってくるようになりました。
やってくる二匹の猫はオスだかメスだか分かりませんが、兄弟あるいは姉妹のようです。

先にやってきたのは警戒心の強い方で、餌を用意しようと近づくと警戒して身構えます。
そして、何日かすると人なれしたほうの猫もやってきました。
その様子は、先にやってきたほうの猫(名前はまだ無い)が連れてきたような感じです。

猫の泣き声によるコミュニケーションは、孤独感・空腹感・主張感などかと思いますが、さらなる意志の伝達は"無言の意力"に依るように思います。

言葉を持たない生物の互いの意識の交流は"意"の働きであるはずです。
人間にもある、その"意"の働きは理性の誘惑力に負けているのではないでしょうか。

知らず知らずのうちに、大切な"意"は軽んじられているように思えてなりません。

乞う、ご意見・ご感想。

質問者からの補足コメント

  • 頂いた回答から、あぁやっぱり理性には誘惑力があるのだなぁという事でした。

    ありがとうございました。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/02/14 23:08

A 回答 (16件中1~10件)

「言葉を持たない生物の互いの意識の交流は"意"の働きであるはずです」


⇒多分、そうでしょうね。

「人間にもある、その"意"の働きは理性の誘惑力に負けているのではないでしょうか」
⇒その文章の意味がよく分りません。

「知らず知らずのうちに、大切な"意"は軽んじられているように思えてなりません」
⇒どのようなことを言いたいのか、よく分りませんね~。
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この回答へのお礼

gouzigおじさん。ご意見ありがとうございます。
ご指摘を受けましたが、当人自身が文章の意味や、言いたい事がよく分かっていませんね~。

いや、お恥ずかしい。

質問文でも云っていますが、単に"ふと思った"だけなんです。
だから、知者の皆さん方からの回答がほしいのです。

でも『理性の誘惑』って、かっこいいと思いませんか?
哲学として取り上げられそうな感じがしませんか?

こうして、ご返事をしていたら"教育"なんて言葉が浮かんできました。
あるいは、躾(しつけ)。
親の子に対する姿勢に、子供の"意"が反映されてないような教育とかに『理性の誘惑』は当てはまらないでしょうか。

ご意見、お願いいたします。

※ でも、もっと本質的な事柄に持って行ければなぁ、とは思っています。

お礼日時:2018/02/09 23:13

人間にも貴方の言う意を察する力はありますが、


その猫ちゃんたちと同じような行動はまずできないでしょうね。
それは誘惑ではなく必要だからそうなったのであって
追求していけば脳の器質的な問題にもなっていきます。
沢山の言葉を得た代償に猫ほどの意の働きを失ってしまった。
勿論、その働きを再確認し、再び高めていこうとする考えは面白いと思います。
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この回答へのお礼

何となくですが、私の思いを感じ取ってくださっているようで、嬉しいです。
ありがとうございました。

お礼日時:2018/02/09 23:17

おっしゃることをまとめてみますと次の感じでしょうか。


・普通は理性が意思だと思われています。
・しかし動物を見てみると、理性はないけれども、意思がある。
・すると人間にも理性以外の意思があるのではないか。理性によってそれが忘れ去られているのではないか。

理性が誘惑するという表現に、理性に対する徹底的な懐疑を感じました。
理性は誘惑=情欲や媚びへつらいと、最も遠いものだと考えられているのに、それが誘惑をするというわけですから。

私は誘惑はされないけれども、理性に説得されることはあると感じています。
理性に対して反感を持ったことはあまりないです。
それは究極的な判断をしないとならない時でしょうね。

例えば、死刑など。「法治国家としては死刑にしないとならない。しかし自分自身の心としては死刑にしたくない。死刑制度それ自体に反対だ。」こういう葛藤は起き得ます。しかし反対をするとしても、その人は他人の同意を得るために、再び理性を用いて言葉を使うことになるでしょう。理性の暴走を修正するのも、また理性です。

理性を完全に切り離して、ものを考えることができるのか、という疑問が起きてきます。
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この回答へのお礼

骰子さん。

理性に説得されるという事、それこそが理性の誘惑力なのだ!

、、、と云ったら?

ご返答、楽しみにしています。

お礼日時:2018/02/10 22:48

右翼左翼、保守革新の対立の淵源は


理性に対する信頼の差にあります。

理性の誘惑、という言葉を目にして、一番最初に
これを思い出しました。

理性を信用するのが左翼、革新です。
ここから社会主義が誕生しました。

理性など信用できない。
試行錯誤の結果である歴史、伝統、常識、習慣
などの方が信用できる、とするのが右翼保守です。

質問者さんの「理性の誘惑」というのは、これとは
少し違うようですね。


#3さんが鋭く指摘しているように、動物には
理性はないが意思はある、てのが本質かな、と
思います。

人間は理性が発達したので、意思が隠されてしまった。

人間の理性、というのは意思を合理的に達成する
為のツールなのです。

Hしたい、という意思があるとします。
レイプするとお巡りさんに怒られるから、プレゼント
しよう、甘い言葉で口説こう、と理性で合理的に
計画を建てるわけです。

そして、いつの間にやらHするという目的を忘れ
プレゼントに何を選ぼうと迷うのが楽しい、
口説くというゲームが面白くなる。

こんな感じでしょうか。
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この回答へのお礼

Hしたい、以下は『理性の誘惑』とは全く関係無いように思います。

”右翼左翼、保守革新の対立の淵源は理性に対する信頼の差にある”と云ったような事柄に結び付けての回答を望んでいました。

感情と云えば、良し悪しがあると受け止められています。
欲望と云うと、悪い意味に捉えられがちです。
理性は、悪く解釈されることがありません。
理性的、と云えばそれは正しいことだと受け止められています。
敢えて言えば、正しいことだと強制しているようなものです。

こんな思いが、理性の誘惑と云う言葉を引き出しました。

お礼日時:2018/02/10 23:21

No.1です。



「ご指摘を受けましたが、当人自身が文章の意味や、言いたい事がよく分かっていませんね~」
⇒そうだったのですか。

「でも『理性の誘惑』って、かっこいいと思いませんか?」
⇒そうですか?
逆に、欲望の誘惑という言葉であればよく分るのですが。

「"教育"なんて言葉が浮かんできました。あるいは、躾(しつけ)。の子に対する姿勢に、子供の"意"が反映されてないような教育とかに『理性の誘惑』は当てはまらないでしょうか」
⇒ん~、なるほど。
理性的なことへの憧れですね。
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この回答へのお礼

『理性の誘惑』というフレーズには、理性を否定的に捉えようという”魂胆”があります。

お礼日時:2018/02/10 23:25

★(№1お礼欄) 知者の皆さん


☆ のひとりです。(へっへっ)。


1. けっきょく ヤマシサ反応の問題ではないのですか?

2. やましさをすでに感じているのに なおも 理性は おのれ
の考えの素晴らしさや気高さに酔って それをあきらめない。とい
う:
★(表題) 『理性の誘惑』
☆ 。誘惑されるのは 《われ》であり 特には 《意志》です。




3. 良心の為せるわざだと思われるのですが 何かを思ったり
それを実行しようとしたりしたときには いや これは間違って
いるかも知れないと知らせる胸の動悸などが起こり やましさを
感じることがあります。

4. ここで――つまり 感性の(おそらく良心のハタラキとし
ての)このヤマシサ反応を受けて――理性は 二通りの反応を見
せます。

5. 第一次には むろんこのヤマシサ反応の認識であり その
ことの当否について考えます。

6. 第二次には 第一次で感性の原野に起きた反応についてそ
のとおりだと認識したときには その内容を重んじ従うか それ
とも それでもヤマシサをも押して感性(≒良心)に逆らうか。





7. 何をどうするかを決めるのは 実際には――触れておられ
るように――じつは 意志(広義一般)です。または 個別具体
的な意思です。

8. 理性は――あるいは 認識および思索としての知解は――
その思索の結果としてどうするかについての選択肢を用意します。
狭く捉えたならば そこまでがじぶんの役目です。選択をおこな
うのは 意志です。言いかえると 知解と判断とが 別の仕組み
に成っています。人間の自然本性が です。





9. 別の言い方をすれば 良心によるヤマシサ反応に――もし
そうだとすれば――逆らうと決めるのも 基本的には 意志が先
にそうするはずです。

10. ところが 意志のこの発動があったにせよ・あるいはな
かった(つまり 迷っているとき どういう方策を採るのがよさ
そうかを 意思決定より先に考える)にせよ 理性は この上な
く素晴らしい案を考える。(すでにそういうクセがついているよ
うなのです)。

11. この妙案を持って理性は 意志にも感性にも それを実
行せよと言ってせまる。――これが 誘惑であろうと思われます。






12. いやいや 妙案と言い誘惑と言い そんなに抗いがたい
魅力とは どういうことか? ほんとうにそんな魅力があるのか?



13. 具体的に行きましょう。
あまりにもうつくしい異性が目の前に現われたとき 配偶者を裏
切ることになる〔ゆえに ヤマシサ反応がすでに胸を噴火させつ
つある〕にもかかわらず いや ここは 相手が誘って来たのだ
から それを断るのは 失礼だという理性の声を聞いた気がする。
と意志は思い 感性は沈黙する。


14. 不倫が世間にバレてしまった。あぁ 反省する道を用意
する感性の原野でのウゴキにもさからって いやいや やはり相
手にわるいし 誰でも隠蔽してでも守らねばならない地位や体面
があるのだ 組織の恥部をそうかんたんに暴露してしまってよい
のか よくはない それでこそ(うやむやにしてこそ)大人の対
応なのだ――とあくまで 理性がささやく。これに意志も 感性
も なびいてしまう(!?)。


15. いやいや 世の中は そんなに単純でなまやさしいもの
ではない。ここは 真実を明かし反省路線を採るのが 賢明なの
だ。このおカネの世の中では どう見えているかが問題なのだ。
ここは あやまれ。あたまを下げろ。そういう路線をえらぶべき
だ。――それでこそ 地位も名誉も所得も守ることができるはず
だ。・・・というドクター理性の声に――意思も感性も――従う
べきだ。

16. 前項の《妙案》は 初めに感性(≒良心)が知らせてい
たのと同じ内容である。それを一たん理性が消化し 或る意味で
うまくきれいな形で排泄していることに成っている。


17. あぁ 理性とは 何ぢゃい?
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この回答へのお礼

1. ヤマシサ反応、というのは良心の反応ですね。
2. 理性が損得勘定をしていますね。
3. これは、感情の世界です。
4.5.6. では、理性に判断力があることを示していますね。
7. の意思決定と質問の”意”との違いを思いました。質問の”意”は意志というよりは、意思という心理を想定しています。
8. そのように思いますが、”じぶんの役目”と云うのは余分かと思います。
9. 理性の判断が先のように思います。意志はここでは決定力と言い換えられます。
10. 迷いの真っただ中ですね。
11. いや、とても理性的ですね。理性の理性たる所以か!
12. 理性の出した結論に付いての事ですね?
13.14.15.16. では、理性の負への働きが見て取れます。

★ あぁ 理性とは 何ぢゃい!

お礼日時:2018/02/13 08:22

No.5です。



「『理性の誘惑』というフレーズには、理性を否定的に捉えようという”魂胆”があります」
⇒そうだったのですか。

そうであれば、最初から、単刀直入にそのような質問にしたほうが良かったかもしれませんね。
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この回答へのお礼

アメンボ脳を自認する私は、それゆえに質問を立ち上げる時にはまだ”単刀直入”はできなかったのです。

残念!

お礼日時:2018/02/13 08:35

理性の誘惑。

かっこいいとは思います。何か考えさせますね。

>理性に説得されるという事、それこそが理性の誘惑力なのだ!

ここで、説得と誘惑は同じものであるという考えが前提にあります。あるいは違うものかもしれないけれども、同類とみなしても良いのではないか、という提案があるわけです。うーん。大きな問題です。
・説得は言葉にて、理性に訴えかけるもの。
・誘惑は言葉ではないもので、感性に訴えかけるもの。

理性が誘惑しているっていうことは、理性が感性的なものを持っているということになりますね。
もしそれがちゃんと指摘できたら、案外、大発見かもしれません。理性と感性の二分法が壊れるからです。
しかし具体的に、どういう事例があがるのか、私は思いつきませんでした。
理性が持っている感性的な一面を具体的に考えたら、哲学的に重要なところに接近していくのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

”理性と感性の二分法”という表現は初めて知りました。哲学的思考の世界ではこうした区分けがあるのですね。
初めて知りましたが、この二分法が壊れることは無いように思います。また、壊す必要も無いようにも思います。

たくさん回答をいただいたので、だいぶ自身の”思い”が見えてきています。
でも、この回答は私に《説得と誘惑》という事に付いて考えるように、と云っているように受け止めています。

説得は理性に。
誘惑は感性に。

成る程。

何度も回答を読み返しながら浮かんだ言葉。
それは、
”理性は感性を常に影のように纏っている”と云うものでした。

さらなる感想を頂けると望外の喜びです。

お礼日時:2018/02/13 08:57

№6です。



18. ☆☆(回答№6) 17. あぁ 理性とは 何ぢゃい?
☆ と考えているのも 理性なんですが。
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この回答へのお礼

ブラジュロンヌさん、これは蛇足ぢゃないですか。

お礼日時:2018/02/13 09:01

№6&9です。



この投稿は:
★(№9お礼欄) 蛇足
☆ の上の龍の鬚です。

19. 《理性》は 広狭みっつほどの定義があります。

(あ) ひとの存在を――生まれつきそなわった自然本性として捉え これ
を――身と心 身体と精神とに分けたとき それぞれを感性と理性と言い分
ける場合。

(い) 精神としての(総括的な)理性は さらに分けられます。記憶と知
解と意志との三つです。これは 国家としての司法・立法・行政という三権
の分立(つまり 協業)にそれぞれ譬えられ得ます。

《知解》という行為能力のことを 理性と言う場合があります。つまり 特
には意志と区別するためであり 知解なる理性は 認識と思考を担いますが
意志は 思考の結果(選択肢)について選択・判断します。

(理性が 判断をするというのは 事実認識や思考の推論に間違いがないか
についてです。行動につながる選択・判断は 意志の役目です)。

(う) いやいや 理性ないし精神というのは――あるいは 心という場合
にしても―― もっと広く高く深い内容をもってみづみづしく働く生きたチ
カラを言うはずだ。存在ないし人格の全体にわたる知恵もしくは知性のこと
ではないか。という場合。




              *




参考資料として 《こころ》についての定義集です。


A たましひ:
(1) 身体組織としての感性 
(2) こころ 
(3) 霊



B こころ:
(1)(感性) 身に起きた感覚を意識し 〔悟性を介して〕認識する。ま
た 認識した内容。 

(2)(こころ) いっさいの認識をもとにして 自己および他者あるいは
世界に相い対するとき人間存在に生じるもろもろのハタラキ。
      
これは 好悪の感情や喜怒哀楽の気持ちであったり こころ差し(志)であ
ったり あるいは要するに 《わたし》という意識そのものであったりする。
→《精神》

(3)(霊) さらには たましいが霊としても捉えられる場合と同じく 
こころも霊を意味し得る。
      
これは 肉(つまりこの場合 精神および身体を言う)をあたかも超えて伸
び広がるかに思われるところがある。→《信じる》



C 信じる(信仰):
《非経験》とわれとの関係を言う。これは 経験思考に非ざることである。
   
または 表象しえぬものをわざわざ思ってみること。ただしその表象し得ぬ
ものをも 言葉などその代理によって表象すると主張することがある。
絶対とわれとの関係でもある。→《絶対》



D 絶対:
そういう想定である。経験的な相対世界を超えたところと規定し想定する。
思考を超えている。

《考える》を超えるこころのはたらきは 《信じる》と呼ばれる。
むろん神のことなのだが それは 有神論と無神論とに分かれる。
どちらも 互いに同等である。
信仰であり その形態が 有る神と無い神とで分かれるということ。
つまり《神がある》と言うのも《神がない》と言うのも ともに《信じる》
の領域を捉えて言おうとしている。なぜなら 《絶対者》は表象しえぬゆ
え。



E 肉:
(1)身体 
(2)身体および精神 すなわち 経験的な存在の全体



F 精神:
こころのこと。
特にこころの(2)のはたらきとして 基本的に 記憶・知解・意志の三つ
の行為能力を言う。
  
( a ) 記憶行為:
精神の秩序。
感性内容を意識し記憶する。
意識内容を知解行為が加工(整理)したものをも記憶する。その組織・その
過程。
先験的に(生まれつきそなわったハタラキとして) 人なるわれの存在じた
い もしくは その自然本性じたいの秩序を司ると思われる。自然本性とは
《身と心》を言う。

( b ) 知解行為:
記憶組織という宝庫から 一般に言葉となったものごとを取り出し いま向
き合っている世界を認識しようとする。さらにあらたな整合性をもった認識
内容につくる。記憶に送り入れる。

( c ) 意志(愛):
大きく広く 直接的にせよ間接的にせよ 記憶および知解を行為するときに 
すでにそれらを促すように発動していると思われる。

知解行為の結果としての思案(試案)について取捨選択しその内容を みづ
からの意志(心のおもむくところ)として判断し決定する。それらの実行に
も及ぶ。 

愛とも言いかえるのは この意志行為が 世界や人を相手にしており その
カカハリ(関係)として実際にもマジハリ(交通)を成すゆえである。

つまり 愛は 相手との関係において発動する意志行為として ベクトルで
ある。向きが 引力と斥力とに・正と負に・好きと嫌いに分かれる。

心は この愛の大いさ(度量)として捉えられる。愛情と憎悪とをおさめる。
その全体が 愛と呼ばれる。
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この回答へのお礼

おおむね、なるほどと承りました。

想定の部分に付いては、想定ですよね、と念を押しておきます。

ありがとうございました。

お礼日時:2018/02/13 16:42

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