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何故、私は私であったか。
意識の無二性は何に拠っておるのでしょうか。
ご見解をお願い致します。

質問者からの補足コメント

  • 精神というのは非常に具体的な現象であり、私のような知識の浅い者にとっては、考える対象としてはあまりにも複雑なように思えました。しかしながら、三界という考えを聞いて、これならば精神を考えるのに私にも用いることができるかもしれないと思いました。欲界、色界、無色界の三界です。欲界とはつまりは物の世界で肉体(脳みそも)もこれの範疇です。色界とはいわゆる精神の世界でしょう。概念や感覚質もこれに含まれると思われます。私という意識も、色界にあるのではないかと思っています。無色界とは、情などの精神作用があるわけではないが、何もないわけではない、全一や無、言語作用でとらえられないものなどの、不可分の(分けられない)ものの世界だと私は思っています。

    補足2へ続きます。

    No.42の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/03/01 00:32
  • 私が水に形容するものも、この無色界の範疇に入ると考えられます。しかしながら、ブッダの境地はこの三界ではなく、涅槃と呼ばれる処のようです。これは喩えば、あらゆる味の中で、風味だけが他のどの味の種類(甘い、塩辛い、酸っぱい、苦い、旨い、など)とも違うようなものです。三界とはあらゆる存在の場であるが、その中に涅槃は無いという事だと私は理解しています。また、人生の喜怒哀楽とは異なる心的住所、それが涅槃であると思われるのです。

    つい脱線してしまいました。
    仮に精神が大本で一つであったとしても、更にその一つがまた無を基盤にして存在していたとしても、それ以上は私の思考の及ぶところではないのですが、その及ばざる私の思考の「限り無いという限り」を悠に超えている存在もまた居るのでしょう。

      補足日時:2018/03/01 00:32
  • ここで一旦、皆さまにお礼申し上げます。思いの外多くのご回答をいただき、自分の考えなかった興味深い見解を沢山聞くことができました。充実したQAになって、嬉しく思います。ありがとうございます。

    もうしばらく開けておきますが、回答が途切れるようでしたらその時には閉めますので、その事ご承知よろしくお願いいたします。

      補足日時:2018/03/11 13:48
  • 西欧では個人と唯一神との結びつきが個人主義を生み出していて、日本では個人と大地との結びつきが全体主義を生み出している、と言う見方を何処かで聞いたことがあります。

    No.69の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/03/16 15:14

A 回答 (74件中11~20件)

>数学を嗜む人には、数学に宿る美というものを感覚する



仰るようなことは、世の中にたくさんあるようです。
自分の仕事なり打ち込んでいることに忠実な人は、必ずそれを論理立てようとしますし、
様々なことと結び付けようとしますし、哲学化しようとすると思います。

唯識論に戻ってしまいますが、六識から未那識、阿頼耶識へと繋げようという努力を知ら
ず知らずのうちにやっているように思います。
その努力の末に(先天的なもの、つまり才能というものもあるでしょう)、本当に見えたり
聞こえたりしているのかは疑問ですが、見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こ
えたりするのではないかと思います。

この中には、UFO的なもの。幽霊的なもの、いわゆるオカルト(もちろんインチキは除く)
も含まれると考えています。

アインシュタインとボーアの論争の詳しい知識は無いのですが、この話を改めて考えてみ
ると、彼らのような偉大なる科学者は、紛れもなく一流の哲学者であると思いました。
分野は物理学ではあるけれど、「究極の実在」を探求していたと確信しました。
つまり、超一流であるゆえに、阿摩羅識に繋げようとしたのではないかと私は思います。

「ヘボ将棋王より飛車をかわいがり」、名言ですよね。

誰でも素人のうちは「ヘボ」です。それを自覚して精進すればよいのですよね。ただ、
「ヘボの名人」になってはいけないと、つくづく思います。
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この回答へのお礼

目立つところではなく、本質に着目する。これが玄人なのでしょうね。

アインシュタインら無類の学者達が、どの様な意識で探求に励んでいたのかは分かりませんが、仮に阿頼耶識などにアクセス出来たとして、その大海をどの様に漕いで渡ったのか。そこには恐ろしい怪魚や化け物もいるでしょう。
阿頼耶識は平らかでクリーンな意識ではないと私は考えています。時に荒ぶる危険な領域であるから、宝がそこにあるとしても容易には近づけない。ただ、自己全体が、穏やかな天候に恵まれているならば、その阿頼耶識も穏やかな海となって人を害することもないのでは。その全体感を安定して保持できていることが、卓越した考えや見解を生み出す基礎になるのではないかなと思いました。
阿摩羅織についてはまるで憶測に過ぎないですが、これは無住心、法蔵のことであるとも思えます。これが起動するにはいくつかの条件があるのではないでしょうか。

お礼日時:2018/03/13 13:37

過去の偉大なる科学的発見は、その存在を根拠なく信ずるという非科学的なことが


始まりだと言われます。
これは、学問に限らず音楽も文学もあるいはスポーツも将棋も、いやあらゆること
が直観力によって見当をつけ、そのあとに理性的な検証がなされるのだと思います。

論証的思考のみで何かが創造されるということは、まずないことであると考えてい
ます。
もう少し言えば、論証的思考に頼ることは、根本的間違いに陥る危険性があると思
っています。

つまり、論理を追っていれば間違いが無い、ということが現代的「迷信」であると
いう言い方にもなりますね。

歴史に名を遺す哲学者たちの「哲学的洞察」、ユング・フロイトの結論も「哲学的
洞察」と言っていいと思いますし、ベートーベンの音楽論もイチローの打撃論も、
将棋の羽生名人の理論も、また、もちろん東洋哲学も、直観知による洞察をひたむき
な検証作業の末に出来上がったものだと思います。

私は論理というものは、ある「哲学」(まあ「道理」と言っていいと思いますが)を
基として組み立てられるものだと考えています。

例えば、ヘボ将棋の名人の論理もありましょう。そのヘボ論理によって、羽生名人
の論理を批判し、論破することも可能だと思います。
ただ、将棋をよく知らない人にとって、その場面を見たときに、何が何だか分から
なくなってしまうのでしょう。
ですから。知性は常に磨いておかなければなりませんね。

本題に入れませんでしたが、「自我」ということについてもう少し考えてみたいと
思います。
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この回答へのお礼

数学を嗜む人には、数学に宿る美というものを感覚するそうで、この式は美しいとか、そんな発言を聞くことがあります。論理的思考だけでは世界を紐解くには不十分であるのでしょう。記述できるもの以外にも、詩や芸術といった形で論理的ならざる感覚を人々の間に共有する事もできますね。

信じたものを証明するとは、実際に起こっていることなのでしょう。しかし、偉大な科学者であるアインシュタインでさえ、ボーアの量子力学を聴いて、神はサイコロを振らないと言ったそうですから、何を信じるかと言うのはやはり微妙な事柄なのだと思います。

ヘボ将棋とは、目的と手段を取り違えることを言う様ですが、目的が定まらない時、とりあえずやってみる、手段を行じてみる、と言う場面は人生においては少なからずありそうです。人生の説明書などは存在していないですから、とりあえずやってみて覚えると言うのは有効だと思えます。私も将棋の素人ですから、王よりも飛車の方がカッコいいと思い重宝します。しかしそれが素人臭い考えという事も分かっていますから、偽のヘボ将棋という事になりますか。ややこしいですが。

しばらくは開けておきますので、いつでもお気軽に来て下さい^_^

お礼日時:2018/03/12 14:05

★(№62お礼欄) 意識はどの程度基本的、原初的なのか、と言うことを


考えたのですが、このように遡るのはキサラギの癖であり、堂々巡りかも知
れないとも思えます。むしろ常に私意識は生まれ続けているのではないかと
も考えられ・・・
☆ 《わたし意識》について 余滴をつづって このご質問へのわたしの投
稿は 打ち止めにしたいと思います。




1. けっきょく《わたし》には ふたつの貌があるようです。

2. 《われに還る》というときのような素朴なわれと そして知識で着飾
り・誇りとも高ぶりとも見分けのつかないような香りをふんぷんと匂わせ・
中身がゆたかになったのかただ雑多な世間の知恵で膨れ上がったのか分から
ない《おのれ意識》とがあるようです。

3. 末那識の《マナス manas 》は 英語の《 mind 》と同じ語だと見ま
したが ラテン語系統の《 mens 》つまり英語にも入った《メンタル》とい
う語で捉えると分かりやすい。

4. いわゆるメンタルなことは マナ識ないしマインドとよぶ心的現象で
あるようだと。




5. ところで 昨今は メンタルと言えば そのヘルスのことについても
何かと話題にのぼり 議論が 展開されているようです。

6. つまり メンタル・ヘルスにかかわることは 《素朴なわれ》ではな
く《膨れ上がったおのれ意識》ゆえの現象なのか? それともあるいはむし
ろ 世間の風に当たり波にもまれた《素朴なわれ》においてこそ そういっ
たトラブルが発生すると見るべきか?

7. 《アース役》に――時に――ともなう傷でしょうか。



8. そう言えば サンスクリットの《 manas 》とやはり同源のギリシャ
語に《 mania 》がありました。そのまま日本語でも《マニア》です。執着
ないし我執と関係があるのでしょうか?

9. そう言えば ブディズムでも そういう気配が感じられますね。
▼(ヰキぺ:末那識) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3 …

第七識・末那識と相応するものは、

我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩、
作意・触・受・想・思の五遍行別境の慧
・・・(省略)・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

10. わたしの仮説では この《執着》関係の出来事は 例のヤマシサ(恥
づかしさ)反応の関数だと見ています。

11. 恥ぢをしのんでも・ということはしばしばヤマシサの警告を無視して 
心にさからってでも〔もうひとりの〕われの欲するものを求める強行軍を冒し
したときから 《こだわり》が芽を出し花をも咲かせるかに見られます。

12. こだわりのバイパスが開通したあとは 何かとその――恥づかしさを
繕うために――辻褄を合わせなくてはならなくなります。

13. ますます《おのれ意識》は 膨れ上がります。


うんぬんかんぬん。

長い投稿 失礼しました。
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この回答へのお礼

素朴なわれと、膨れ上がったコンプレックスとしての自己意識、マインドやマニアの話など、なかなかすんなりと読めました。
とくに、一連のご回答で述べられた素朴なわれについては、これは良識であり人生をトータルした時にはなかなか大切なものであるように思いました。
私の提示した質問は、質問の純度を高めたいゆえに色々と捨像もしましたが、捨像によって重要なものも排されてしまう危惧については、少し鈍感だったかもしれません。そこを補うものとしていただいた回答は貴重なものでした。
ありがとうございました。

お礼日時:2018/03/12 13:40

№61より続きます。



14. 《意識》をめぐってですが 自己の意識をしばしば《自我》と
――これは 翻訳語のようです――と呼ぶことがおこなわれています。

15. これは あたらかじめ結論づけますが 《わたしが わたしみ
づからのことを――何かのきっかけを得て――あらためて確かめるよう
にして 思う》ことが 自己意識なわけです。ジガなんて言うから わ
かんなくなってしまいます。



16. まづ(2)を再掲します。:

☆☆(№61) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2. 机の角に足をぶつけて 痛いっ! というとき:

① 痛みそのものは 感性(痛覚)であり 知覚そのものです。

② これを《痛い》という言葉で捉えるのは そういう概念認識です。

③ ①の痛さそのものや②の痛いという認識内容を あらためて心に思
 うこと これが 意識です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここに 次をおぎないます。

④ 痛さやその概念を確認する思いとしての意識を――意識そのものを・
あるいは意識しているわれをわれが――思うという場合の意識 これが 
さらにあります。

17. この④が つまり 自己意識です。《われがわれであると確認
すること》といった内容だと捉えられます。

18. なんでこの《われの自己到来(自己還帰)》を わざわざ《自
我》と呼ばなければならないのか。はっきり言って そのこと自体が 
おかしいし その用語を使っていると 互いに話がおかしくなる。






19. ▲ (ヰキぺ:自我) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91

(じが、英語: ego、ドイツ語: das Ich または Ich)とは、哲学および
精神分析学における概念。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《イッヒ》とは 英語の《アイ( I )》のことであり 《わたしが》
という意味の語である。《エゴー》は ラテン語・ギリシャ語の《わた
しが》である。

20. つまり 自己意識とは やはり《わたし》ないし《わたしなる
もの》のことを言うはずである。

21. ちなみにサンスクリットでは 《アハン( aham )》である。
→アガン→アゴ―→エゴ―といった変化を思えば いわゆるインド・ヨ
ーロッパ語族では みな同じひとつの語である。

22. スぺイン語が《ヨー》と言い イタリヤでは《イーヨ》と言い
フランス人が《ジュ》と言っても ロシア人が《ヤー》と自称してもみ
な 同じ語(エゴ―からの音韻変化)であり 互いにそれぞれ訛ってい
るだけだ。〔語中の -k- / -g- はしばしば落ちます。akitari(飽きたり)
→ aita (飽いた)。kagitari (嗅ぎたり)→ kaida (嗅いだ)〕。

23. すべてただの《わたし〔が〕》という単語である。





24. ▲(前掲ヰキぺ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
§ 1 哲学における自我

哲学における das Ich(私とも。以下自我とする)は自己意識ともいい、
批判哲学および超越論哲学において、自己を対象とする認識作用のこと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《わたし》とは 自我かよ?!?!


25. ▲(承前) 超越論哲学における原理でもある。
☆ それは アートマンと同じような成り立ちだ。アートマンは 《お
のれ( self )》のことである。これが 超越論(形而上学)として の
ちにブディストはそれをブッダターと言いかえたところの《霊我なるア
ートマン》として用いられるかたちである。

26. 《自我》などと言わずに せいぜい――《わたし・われ》が嫌
なら この《アートマン(おのれ)》の例にならって――《自己・自分》
と言えばよろしい。



27. ▲(承前) 初期フィヒテの知識学においては、自我は知的直
観の自己定立作用 (独: Selbstsetzung) であり、哲学の原理であるとと
もに唯一の対象である。
☆ ひとは 《何か知らなかったこと・いささかよくないことを仕出か
したと気づいたときに われに還る》。《知的直観》としての自己還帰
である。

28. 《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》わが自由の
あゆみにおけるその気づきの都度の《自己定立作用》とやらだと言うわ
けであるらしい。

29. それは――翻訳をした先生がたにとっては――《自我》だと言
いたいらしい。ふざけんな! と言いたい気持ちをおさえがたくなりま
す。

☆ 失礼しました。
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この回答へのお礼

意識とは何か、初めに戻ることはいつでも歓迎です。この問いは広がりやすいので、つい初めを忘れがちになります。
三連の回答をいただいて私もつらつらと考えたのですが、意識は果たして言葉を持つのだろうか?と言うことを思いました。意識はどの程度基本的、原初的なのか、と言うことを考えたのですが、このように遡るのはキサラギの癖であり、堂々巡りかも知れないとも思えます。むしろ常に私意識は生まれ続けているのではないかとも考えられ、その事によって無二性が担保されているのではないか?と思ったりもしました。
ざっくりと考えただけですので詳しくは述べられないのですが、今はそんな感じです。

お礼日時:2018/03/11 13:44

あらためて(この期に及んで) 《意識》とは何かから考え始めます。



1. 意識とは わたしにまつわるものごとのすべてについて わたし
が あらためて心に思う(確認する)ときの思いのことです。

2. 机の角に足をぶつけて 痛いっ! というとき:

① 痛みそのものは 感性(痛覚)であり 知覚そのものです。

② これを《痛い》という言葉で捉えるのは そういう概念認識です。

③ ①の痛さそのものや②の痛いという認識内容を あらためて心に思
 うこと これが 意識です。

3. 意識の対象は すでに《わたしにまつわって起きているものごと》
です。現実のものごとの意識 あるいは 意識された現実とも呼ばれま
す。




4. 意識にのぼせないものごと(対象となり得るものごと)は もち
ろん 《意識していない(意識下)》です。一般に――すでに記憶のア
ーカイヴには収められていますから―― 潜在意識のことです。


5. ふつう《無意識》というのは 《意識していないこと》であり
具体的に《無意識に》という表現は 《ふと思わず》とか《意図せず》
などと表現する場合と同じく 意識下にあるものごとがそのまま現われ
る(潜在意識が顕在化する)ときに用いるはずです。


6. ところが 精神分析では 脳内の神経組織にこの《無意識》とよ
ぶ独立した部位があるのだと仮説します。

7. 《エス(=英語 it :それ・あれ)ないしリビドー》として独・立
・し・たハタラキを持つと言うわけのようです。

8. 乱暴に言ってしまえば 《性的欲求ないし欲望 あるいは 性的
衝動》が ムイシキなる脳内組織の独自のハタラキとして 起きるのだ
と。

9. わたしたちは何だか分からないものを――《それ》ではなく――
《あれ。あれだ あれ》と言うことがありますが この・不意の出来事
に際して《あれえーっ》と言う場合にも用いられる《あれ=エス》が
われわれの思いや意志にかかわりなく勝手に はたらくのだと。

10. 過去の歴史(人生)において抑圧されていたもの(そうしてム
イシキなる部位を刺激する何ものか経験したこと) これが 現われる
に到るといったかたちで。



11. 記憶にしまわれた何らかの思い――悔しさや無念さやあるいは
あこがれを執念としたような気持ちなどなど――が 何かの拍子に外に
出て来た・・・と見てはダメなのか? 潜在意識が顕在化したと言うだ
けでは済まないのか?

12. という問題だと思います。なぜなら ムイシキと名づける独立
した部位が脳内に存在するとは これまでに実証されていないからです。


13. 不用意に発言しますが アーラヤ識もアマラ識も ムイシキと
同じような仮説です。
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自己顕示欲に凝り固まったやからの出しゃばりです。




◆ 阿頼耶識: 法身の自己の精神は一大観念である。
☆ 《法身:ダルマ・カーヤ》とは すでに神のことです。

宇宙の主宰神であるブラフマンと言ってもよいでしょうし あるいは
アミターバ・ブッダのことでもありましょう。

さらにあるいは 《ノン・ブラフマン(無梵)》なる《無い神》でも
ありえます。

けれども 神は――有る神も無い神も―― 経験世界を超えていて人
知をも超えています。




たしかに《超えている》ということは その人知が 及ばないと決ま
ったわけではなく――神のことを人間が知ることはないと証明された
わけではなく―― 《おれは神を見たんだ。神を知ったんだ》と言う
場合が ないとは言えません。

そこで 弁栄氏は ご自分の神体験にもとづく神観を披露していると
いうわけなのでしょうが そうだとすると この神を《観念》だとい
うのは 勇み足になるでしょうね。



観念とは その中身が実在のものに対応しない概念のことです。ある
いは 実在していても それと切り離してただの言葉≒概念だけとし
て扱う場合です。

つまり 観念とは 人間のあたま(思考や想像)におさまるだけのも
のです。



法身たるブッダ(つまり 神です)は 人間の観念を超えたナゾです。

《超えている》なら 人間もそのナゾに肉迫しうるはずだという見解
は そうは成らない(絶対のへだたりがあるのだから 到達しえない)
という他方の見解をも――同時に――認めていなければならない。

きよらかなおそれです。



◆ 絶対観念
☆ これは 自己矛盾です。《観念》は 相対です。

仮りに 仮りのシルシとしてそのように呼ぶ場合をみとめたとしても
そうは呼ばない場合・つまり 絶対は絶対であり観念ではありえない
という立ち場をも――自己の立ち場と同時に――みとめていなくては
ならない。




◆ その絶対観念を根底として世界相対に規定せられたる個体的存在
を衆生心、即ち阿頼耶識と名づく。一切凡夫の心相を阿頼耶と云う。
☆ これは 《一切衆生 悉有仏性》と言うに同じである。すなわち 
ブッダターないしアートマンあるいは神の霊が 人間の自然本性にや
どると言うのと変わらない。

わざわざあらたにアーラヤ識と呼ぶ必要はない。


いやいや 説明をいろんな視点からおこなっているんだと弁明された
なら こう答えます。――つまり 仏性のはたらきは 《識》か? 
人間の自由に知解し意志することのできる経験行為か? ――そうで
はあるまい と。

だから 神をただ《精神》と言い《観念》としたのが わざわいの元
ではないのか?


そこんところを――人間の領域か神の場かの区別にかかわるところを
―― しっかりと腑分けして分析しないと 多彩な神観にはなっても
哲学をふかめない。

神に向かって自己表出し自分自身を高めることができたとしても み
なさんの哲学を前へ進めることがむつかしい。



世間のシガラミからわれを解放するということは――われは 生身の
からだであるからには―― つねにシガラミと隣り合わせている状態
にあるということです。

この現実に立っていなくては 神観は言うまでもなく 哲学ですら
その内容が伝わることは おぼつかなくなりましょう。

という批判です。






シガラミないし地獄や六道のことにも 言い及んでいます。:

★ 法相家によれば、一切衆生の本体なる阿頼耶識は法爾法然として
自ら存在す。この法爾の性が一切万法の元である。この心識に無明薫
習すれば衆生の心として六道に輪廻す。もし真如が薫染すれば無漏の
聖徳現れて仏果に向ふ。
☆ 世間のシガラミをどう受け留めどう処理するか。

《無明》をどうおのれの内にもおさめ 《仏果に向かう》すなわち自
由の道をあゆむか? という実存のかたちは まだではないか?



◆ 無漏の成徳
☆ は ただのネンブツとして言い出しているのではないなら 実践
ないし実存のすがたを――私生活では成就していたのなら―― 哲学
として明らかにするのが 人の道です。

■ われは 宇宙である。
☆ と言うだけでは 徳を建てません。大化城は もう要らない。
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皆様に弁栄(べんねい)上人の文章をプレゼント致します。


先日、デイブさんにプレゼントした文章の続きになります。

物心二相の理
 客観の物と主観の心とは同一性なることは既に解しぬ。吾人能観の心が所観の相と顕然と判別することを得るは、同一質の反対現なる故である。同質の故に相関して障げず。反対なる故に心は物相を識別す。すべて感覚の能力は反対の刺激の力をまちて顕然と現はる。能観と所観と全く融合して反対の相無くば、顕然たる刺激を与えて主観の心を意識すること能はざらしむ。例えば自己の皮膚の温暖の程度と外部の暖度に於いて平均なるときは、感覚鋭利ならず。有形の物質と無形の心質とに斯く反対現象ありて人をして顕然と意識せしむ。眼、眼を視ず、心こころを識らず。同一本質なればとて主観の無形に反対なる客観の形色と顕はるゝ故に能く意識せしむ。能くこの理を会得せば万有一大観念の相対現象との義、明ならん。

阿頼耶識
 法身の自己の精神は一大観念である。世界は相対的の故に一切の万象が主観の心と客観の物象との反対の二面と現象してをる。その絶対観念を根底として世界相対に規定せられたる個体的存在を衆生心、即ち阿頼耶識と名づく。一切凡夫の心相を阿頼耶と云う。
 法相家によれば、一切衆生の本体なる阿頼耶識は法爾法然として自ら存在す。この法爾の性が一切万法の元である。この心識に無明薫習すれば衆生の心として六道に輪廻す。もし真如が薫染すれば無漏の聖徳現れて仏果に向ふ。
 阿頼耶とは蔵識と翻ず。この阿頼耶の一面を見分と相分と自証分との作用を有す。
 見分とは主観にて相分とは客観を云ふ。謂(いわ)く外界に現れたる山河大地等の一切の客観現象なるものは、自己の阿頼耶が向こうに現れたので、自己の心の外でない。また自己の主観と現はるゝも、客観の相分も元同一阿頼耶の相対的現象であると。然るに一切衆生各自己の心の業道に差あり。従って必ずしも一定して居らぬ。地獄の衆生は地獄の阿頼耶を以て地獄の苦の身と苦の世界とを感ず。餓鬼は餓鬼の阿頼耶を以て餓鬼の身と世界を感ず。人間は人間的に客観の事物を感見してをる。これを阿頼耶の境界と云ふ。
 阿頼耶の現境が六道各々姿が別々に観ずるのは、頼耶の本質は同一なれども、これを組成する処の化合性が特殊的と成りて、例えば水の本質は同一なれども、混淆物の為に種々性質を殊にする如く、同一本質の頼耶が六道の異熟種と為りて地獄の業を以て、地獄の因と地獄の縁とによりて地獄の結果を成熟する時は、心性も相も体も能力も悉く地獄型を造る故に、身も心も感ずる世界も悉く地獄ならざるは無い。六道悉くその形式を殊にして、心と身と国土とを自己の頼耶に相応して観ずるは、是れ同一質の道業の化合特殊なるに依るものとす。
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この回答へのお礼

これは興味深いですね。
読みこなすのにちょっと手間がかかりそうですが、反対のもの、境界、因縁、と、キーワードがたくさんあったように思います。ありがとうございます。

お礼日時:2018/03/09 19:06

◆ 末那識 manas-vijñāna


☆ は 英語で言えば  《 mind 》のことです。

五蘊のうちの《色(身)》を除いた《受・想・行・識》のいづれかの《思い・考え》
のことです。

これをわざわざ第六識として立て 末那識と称したのは――たとえば心的現象にかん
する総括的なハタラキを想定したと好意的に解釈したとしても―― 愛嬌でしょう。

身(感性の原野)と心(思考の緑野)の内に おさまります。または 心身を統覚す
るわれのハタラキの内でしょう。



○  mind ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://www.etymonline.com/word/mind

PIE root(印欧語語源): *men- (1) "to think,"

 ☆ 語尾の -d は 発音しやすくするために添えたもの。
  cf. son-nare, son (音) → sound

○ *men- (1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://www.etymonline.com/word/*men-?ref=etymon …

この推定された〔アステリスクなるシルシ( * )が 推定であることを示します〕
語根《 *men- 》は 次のような各国語を成すと見られています。〔(1)という
のは ほかにも同じ語形で 別の意の語根があるからです〕。

Sanskrit: manas- "mind, spirit,"  matih "thought,"  munih "sage, seer;"

Greek: memona "I yearn, " mania "madness," ・・・
Latin:  mens "mind, understanding, reason,"  memini "I remember,"
   mentio "remembrance;"

Lithuanian: mintis "thought, idea,"
Old Church Slavonic:  mineti "to believe, think,"
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




◆ 阿頼耶識
☆ は 《蔵(アーラヤ)》と言うごとく 心的能力について さらに《記憶行為》
を取り立てたものでしょう。

意識・無意識にかかわりなく 記憶です。



◆ 阿摩羅識
☆ は 同じく記憶能力を言うものでしょう。それは 覚えるというよりも その
知覚し認識したものごとを《整序し収める》ハタラキだと見られます。秩序作用で
す。


もし このアマラ( amala :pure, white, clean )識を《無垢識・清浄識》とし
て立てるのであれば つまりは 《自性清浄心》のことであり ブッダター(仏性)
あるいはアートマン(霊我)と同じものです。

つまりそれは 超経験の場に移り 人間の能力を超えた何ものかです。

アマラ識の独自性は――カルト関係でなければ―― ありません。





ちなみに 精神分析が説く《エス・リビドーなる無意識》は――それは 脳細胞と
して他から独立して働くとされているからには そういう部位は脳内に確認されて
いないからには―― SF小説もどきです。哲学ではなく 文学です。

いわゆるムイシキがはたらくと言うのは――それは 潜在意識のことであって――
記憶の倉庫から何かを取り出したときの何らかの現象でしょう。





精神分析への傾倒者が言いました。:おまえは マザコンだな。
わたし:そんなことはないよ。
分析者:いやいや。それは ムイシキのはたらきなので 意識はされていないんだ。
 そうやって否定する応答が何よりの証拠なのだよ。

☆ このオフザケが なおまだ世間に居座ってのように つづいています。
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この回答へのお礼

外国語のことはあまり知らないので理解できませんでしたが、記憶という着目点について応答したいと思います。

末那識が個人の記憶であるのに対し、阿頼耶識というのは、人類の記憶とも言えるものではないかと思いました。人類の太古からの記憶が、阿頼耶識におさめられているのではないかなと。で、アマラ識は何かというと、記憶と呼んでいいのかもわからない様な、原理的な何かがそこに存在しているのかもしれないと。

マザコンの話ですが、これはもし、マザコンではないのか?と言われて、そういう傾向はあると答えたならば、それは無意識が意識化されている良い兆候ということになるのでしょうか。コンプレックスが解けているという意味で。

お礼日時:2018/03/07 15:46

追伸



以前このカテで、「哲学」と「哲学学」があると言った方がいました。
シンプルな発想ながら、卓見だと思いました。

敷衍しますと、「学問」と「学問学」があるということになるでしょう。
学校で習うものなどはまさに「学問学」で、既存の学問の枠の中、しかも
大抵は特定の学者の解釈の枠の中、であると言えるでしょう。

これを「教わる」ということが教育であったわけで、実は私は学生の頃は
これが嫌だったのです。まあ、それで遊んでいたのですからあまり立派な
態度であるとは言えませんけれど…

欧米などでは違いがあり、近年に至り「考えさせる」ということに重点を
置きつつあるということです。日本はまだ、それを模倣している段階とい
う指摘があります。

ともあれ、殊に哲学においては、既存の結論の枠内であれこれやっても、
それは、井の中の蛙的、あるいはガラパゴス的であると思います。
わざわざ哲学する意味が無いと思います。

全くの余談になりました。
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この回答へのお礼

私は、考えることを学ばせるというのはどういう事態だろうか?と考えます。
基礎があって、つまり先人の考えを学ぶ中で、考えるとはどういうことかを学び、そして高校、大学と進むにしたがって自分の考えというものも生まれてくる。これが自然な流れだと思います。
つまり、井の中ですら泳げない蛙が、大海に出て泳げるわけがない、という考えです。
様はエッセンスを学ぶことが大事なのであり、学びの態度をこそ学ぶことが必要なのではないでしょうか。
その結果、ガラパゴスのような個性的な考えも生まれてくるならそれは吉だと思うのです。
既存のルートだけが学びの道ではないと思いますが、知識を生み出す、ということについてはある枠内のことを修めなければ話にならないのは事実でしょう。私も、それを修めていないので、話にならない部類ではあるのです。ただ、世には知識ではなく学識というものが存在し、学ぶべきことを知る学識というものこそ、本来人間が具有すべきものである事は本当でしょう。

哲学において、既存の結論を知ることもないなら、その結論を超えた結論を出すことは難しいでしょう。これは客観性のかかわる事でもあります。つまり、自分が体験しなくとも、知るべきことを知ることができるのが、人間の強みであり継承というものの優位点だとおもわれるのです。

しかし同時に、原初的な問いで既存に結論の出てない問いは存在すると思われ、この意識の無二性の問題もまたとてもプリミティブなものだと私は思っています。

余談もOKですよ^^

お礼日時:2018/03/07 15:40

はるか昔の東洋の賢人たち、あるいはその後二千年以上の時を経てはいるけれど、


西洋のフロイト・ユングがその哲学的洞察で、一体何を掴んだのか、知りたいです
ね。

私はこう思います。

こうした学者だけでなく、「達人」と呼ばれるような人達は、剣術、柔道、スポー
ツ、あるいは職人などあらゆるジャンルにおいて、ひたむきな努力・精進によって
末那識に、あるいは阿頼耶識の一部に達したということではないかと。

あるスポーツでトップクラスの人は他のスポーツもよくできる、と言いますし、学者
でも専門外のことを知識がなくても深く理解できるそうです。

これらのことは、訓練によって末那識という認識能力が高まったということではない
かと思います。
単純に考えれば、阿頼耶識・阿摩羅識も、何らかの訓練によって会得できる人間の能
力ということになりそうです。

そして、仰るように、その会得の度合いによって、

>見え方が激変するであろう事が予想され

るのだと、私も思います。

しかし…

この8識(9識)は、識別する能力のことであって、今回の問題についてはやはり、的外れ
だったと言わざるを得ません。

この能力で、認識をする「本体」、あるいは実に様々な心の状態というものが人間には
ありますが、それらを発する、感ずる「本体」というものがあるのではないだろうか?

それを「自我」という言葉で表現しますと、それは一体何なのか?ということになりま
した。

※私の現在の唯識論の理解には、あまり自信がありませんが、ひとまず。
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この回答へのお礼

一芸を極めた人々の業を称して神業と呼んだりしますね。これは神業を体得しなければどういう意識でそれを為しているのかわかりませんが、もし、人生そのものを作品と見た時に、芸術的な人生の存在を認めるならば、その意識は神がかったものとなるのではないか、つまり、それは阿頼耶識が表層に出た人生であり、時代の寵児や英雄などはその気(け)があるように思います。
これは只の訓練ではなく、一種の修行と呼びうるものによってそうなるのかもしれません。意識をさかのぼり、根源的なものを見出し、祖的なものとして新たに現代を生きると言いますか。ちょっとオカルティックな話になるのかもしれませんが、ユングもオカルトに傾倒した時代がありますし、こういうことを考えると、オカルトは必ずと言っていいほど顔を出しますね。でもそれは別に問題ではないです。

そして、おっしゃるように、心の状態は様々あれど、それを統合する自己というものがあるのであり、自我とはまた異なった意識状態が想定されます。自分が単一の存在であると考えること自体が、一つの固定観念であり、そうではない総合的な見方や視座が存在する気もします。個性化というものをユングは提唱していますが、個性というものは、私が思っているよりもずっと大きなものである可能性があります。一つの大樹の在り様を示すような言葉であるかもしれません。

推測の域を出ない話ではありますが、楽しいですね。

お礼日時:2018/03/07 15:24

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