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何故、私は私であったか。
意識の無二性は何に拠っておるのでしょうか。
ご見解をお願い致します。

質問者からの補足コメント

  • 精神というのは非常に具体的な現象であり、私のような知識の浅い者にとっては、考える対象としてはあまりにも複雑なように思えました。しかしながら、三界という考えを聞いて、これならば精神を考えるのに私にも用いることができるかもしれないと思いました。欲界、色界、無色界の三界です。欲界とはつまりは物の世界で肉体(脳みそも)もこれの範疇です。色界とはいわゆる精神の世界でしょう。概念や感覚質もこれに含まれると思われます。私という意識も、色界にあるのではないかと思っています。無色界とは、情などの精神作用があるわけではないが、何もないわけではない、全一や無、言語作用でとらえられないものなどの、不可分の(分けられない)ものの世界だと私は思っています。

    補足2へ続きます。

    No.42の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/03/01 00:32
  • 私が水に形容するものも、この無色界の範疇に入ると考えられます。しかしながら、ブッダの境地はこの三界ではなく、涅槃と呼ばれる処のようです。これは喩えば、あらゆる味の中で、風味だけが他のどの味の種類(甘い、塩辛い、酸っぱい、苦い、旨い、など)とも違うようなものです。三界とはあらゆる存在の場であるが、その中に涅槃は無いという事だと私は理解しています。また、人生の喜怒哀楽とは異なる心的住所、それが涅槃であると思われるのです。

    つい脱線してしまいました。
    仮に精神が大本で一つであったとしても、更にその一つがまた無を基盤にして存在していたとしても、それ以上は私の思考の及ぶところではないのですが、その及ばざる私の思考の「限り無いという限り」を悠に超えている存在もまた居るのでしょう。

      補足日時:2018/03/01 00:32
  • ここで一旦、皆さまにお礼申し上げます。思いの外多くのご回答をいただき、自分の考えなかった興味深い見解を沢山聞くことができました。充実したQAになって、嬉しく思います。ありがとうございます。

    もうしばらく開けておきますが、回答が途切れるようでしたらその時には閉めますので、その事ご承知よろしくお願いいたします。

      補足日時:2018/03/11 13:48
  • 西欧では個人と唯一神との結びつきが個人主義を生み出していて、日本では個人と大地との結びつきが全体主義を生み出している、と言う見方を何処かで聞いたことがあります。

    No.69の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/03/16 15:14

A 回答 (74件中21~30件)

蛇の足です。




♪ 花も嵐も踏み越えて ゆくが男の生きる道
♪ 泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
♪ 月の比叡を 独り行く(西条八十:旅の夜風)

☆ 男女の差別をする必要はないと思います。

独りゆくときも みんなで助け合ってゆくときもあると思います。

花も嵐も・つまり成功も失意も あるいは栄誉も塵芥もでしょう
か。

踏み越えては どうでしょう? 一たん世の中に起きているもの
ごとは・そしてわれに降り掛かる火の粉のようなものごとは 受
け留めるはずです。

余裕のある者は 受け容れてさらにゴミ処理しなお再生させてし
まう。



このような・わたしがわたしする歩みが 自由の道として考えら
れます。

実存(現実存在)の道程です。



この人生が 人間一人ひとりにとって互いに別であると思われま
す。誰もが《わたし》と自称しますが その現実の歩みは 別々
におこなわれます。

世の中を相手にまわしてわたしの取る思索や行動は 煮詰めたと
ころでは おのおのの意志の自由な発揮にもとづく。

こう考える限りでは 意識の無二性は 人間の自由意志のハタラ
キにあると思います。
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この回答へのお礼

自由が自分という無二性の根拠であるというのは、なかなか良い答えだったと思います。
自由とは動きを連想しますが、ここから時間などにも考えを派生させることができそうです。

お礼日時:2018/03/07 15:12

他人の主観で考えれば無二性は存在しません。


なぜなら、共通点が多く見らるからです。

両手
両足
性格
好物
などなど
ただ自分の主観で考えれば無二性はあります。
例えば、何故、私は私であったか。
簡単です。
自分の目と感性は自分だけのものであり他人には手に入らないものだから私は私なのです。
そうでしょ?
同じ所を見てる筈なのに意見が食い違ったことはありませんか?
それは自分だけしかない主観や感性があるから食い違うのです。
それが無二性です。

まぁこれだけではなんらかの共通点はあるでしょうね。
ですが、全く同じ人間、動物がいない事も事実です。

全く同じ人間が存在するなら差別や格差はなかったでしょうし。(まぁそれはそれで最悪ですが笑笑、夢も未来も同じって意味ですから)

まとめると、無二性は自分のものであり定義も自分で決めるものだと思いますよ?
仏教で言えば無一物とかね笑笑
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この回答へのお礼

全く同じ個体が存在しないことは事実なのですが、何故そうなのか、という問いもまた生まれます。何故違うのか。
もし全く同じ個体が存在したと仮定しても、自分と他は存在するのではないか?
この問いではあえて、大事なものも含めて多くを捨像していますが、その際に残るこの私性とは何か。

本来無一物とは禅語にありますね。

無二性が自分の物であり定義も自分にゆだねられているとは・・・
うーむ。

お礼日時:2018/03/07 15:09

№52です。

お礼をありがとうございます。


あなたのほうが 上手く説明しちゃってますね。


ぐぐっ。
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この回答へのお礼

はは、それは先にbragelloneさんの言ったことを聞いたうえで書いているわけですから。最初の説明が私にとっては分かりやすい良いものだったからだと思いますよ。

お礼日時:2018/03/07 15:03

コメントをありがとうございます。



★(№49お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
我に帰るという時の我、とはわかりやすいですね。

わたしがわたしする、という時には、主語のわたしと動詞のわたし
がありますが、そこら辺をもう少し考えてみたいと思
います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1. 世の中のシガラミというのは 一般的なよい意味でもわるい
意味でも 〔わたしは〕 用いています。

2. いわゆる伝統であり 栄誉をも伴なっており 地位や身分に
つながり そこからおそらく旧習を重んじる場合には その殻を破
りたいと思うようになるマイナスのイメージにもなります。

3. 《わたしがわたしする》というとき 《主語のわたし》は
《われに還る》というときのわれだと思います。

4. 言わば純粋のわれであり このわれは 狭いイメージですが
《動詞のわたし》となるとき むしろ世間のシガラミをおのれの内
に包み込みます。

5. 《アース役》です。

6. そして 人びとの自由を阻もうとするふるい(社会的によく
ない)シガラミを アース役として吸収するときには 言わばゴミ
処理かつ再生工場のごとくはたらくことになります。

7. もし 白紙のわれが自由であって そのチカラを発揮するこ
とが出来るとするならば です。

8. 同じくこの白紙のわれは 栄誉や地位をも包み込みます。そ
れらから自由になるために。

9. 一たん包み込んだ身分的地位なるわれを 白紙のわれは己れ
からむしろ解放するということになるでしょうか。

10. 自由とは 栄誉と塵埃とのいづれからも自由になるわれの
生きるさまなり。
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この回答へのお礼

興味深い回答をありがとうございます。

純朴なる我が作用する時、つまりわたしする時には、世の中のしがらみに接触することになる。そして、それを包含する形で純朴なる私が、その我に帰るという作用によってしがらみからの解放を行う。
その過程を総じて自由という。

ふむ。人間の生き方の一つの形を、よく説明されていると思いました。自分にも当てはまる所が多いにありそうです。

社会において一度、「私」は規定されるが、常なる立ち返りによってそれを超える。その作用、過程を自由という。なるほど。

常なる立ち返りとは、わたしがわたしである、ということであると。このように理解しました。構造がよく見える良い説明だったと思います。

お礼日時:2018/03/05 15:58

以前このカテで、「哲学という分野においては現在、本質に向かっていない」という


話を聞いたことがあります。
哲学と言えば西洋哲学のことで、「不可知」という言葉が本質を求める心を萎えさせ
てしまったのではないかと私は思っています。
むしろ、理論物理学などの分野に活きのいい人材が集まり、その本質に迫ろうという
心意気を感じます。

また、東洋哲学はその「本質」そのものを研究対象にしている分野であり、その方法の
違いにより「科学」とは一線を画されている、ということで、現代においてはいまいち
信頼性に欠けるということ、なんだろうと思っています。

その東洋哲学のなかに「唯識論」というものがあり、まず私が支持をしている解釈を引
用してみます。

【物事を識別する心の作用に8種(9種)あるとする考え方で、古代インドの無著・天親ら
仏教学者が論じ、後に天台が9識・阿摩羅識を加えた。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識・阿摩羅識の9種。
(6識までは説明の必要は無いでしょう。)
末那識:深い思考を行う理性的な意識
阿頼耶識:第7識の根底・基盤となる無意識の領域の心で一切法を含蔵し一切現象の生ずる
根源となる。
阿摩羅識:第8識の奥底にある、究極的実在、根本識のこと。】

やはり難しいのですが、私が考えたことを申し上げます。

第7識までは個別化された意識、つまり「指」に当たるものと言えるでしょう。
第8・9識が共有された無意識の部分で、「手のひら」に当たるものと言えないでしょうか?
ただ、無意識層というものはこれだけでなく、個別化された無意識というものも存在すると
思います。
ユングは人間の心の内奥を「個人無意識」と「集団無意識」の二つの層から出来上がってい
ると分析したようです。

また、物質である肉体は完全に個別化されていると考えられますが、これは第7識までの識別
力で認識されたものであって、第8・9の識別力で認識したときにどうなのか、と今思ってい
ます。

「物質とは何か?」という質問を立てたのは、並行して考えることができたら、との思いがあ
りました。

とりあえず書き並べましたが、どうお考えでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
意識と言うのは思った以上にはるかに複雑であり、しかもとる視点、末那識にとるのか、阿頼耶識にとるのか、などで見え方が激変するであろう事が予想され、これは中々手に負えないとも思うのですが、特に無意識は近現代に発見された新たなフロンティアとも言え、看過するのはもったいない。

8、9織の意識は人間離れしたものであるかも知れません。人類の集合無意識には、太母や老賢人と言った原型達が群をなして存在していると言われます。この太母や老賢人は一種の像でありキャラクターを持っていますが、そのまま現実の人間となって現れるのは稀と思います。しかし、強力な力で人類に影響すると言う形で常に生きていると言えます。これら無意識から見た世界や自意識というのは、論理的には不可能なのですが、仮に説明するならそれは、視点を空間化し、自身の内包する内容物を観るような事ではないかと思います。
8織と9織の違いもまた大きく、強引に言えば、9織は無意識の無意識であり、想像によって把握する事はおそらく出来ないでしょう。しかし不可知と言うことではなく、智慧の源泉たるアマラ織を識ることは、なんらかの形、たとえば覚りの因縁と言われるものによって達成されるのかもしれません。

これら唯識などが科学的でない故に説得力を欠くというのは、現代重視されている科学は、ハードを研究出来るがソフトは研究し難い事によるのではないか。たとえば物理学と社会学は、物理学は科学ですが社会学は科学とは言い切れないようなものです。唯識や心理学は意識の内容物、ソフトとデータを扱っているのだと思われるのです。

お礼日時:2018/03/05 14:36

お話を伺っていて、次の有名な話を思い出しましたよ。

「両手を叩くと音がする。では片手の音とはなんだろう。」
禅問答の公案というものだそうです。片手では音なんて出るはずもありません。片手は音を出すにあたって、適切な単位ではありません。二つで一つの単位です。ところが「音が出る」と言葉の上で言ってしまった。するとこの命題が言葉の上で成立してしまいます。

同じことで、右手の指が独立した存在かどうか。そんなことは普通は誰も考えない。これでは意識が分解してしまいます。生物の体というものは、生命維持という目的のために統合されているものです。これがバラバラだなんて、SFの世界、あるいは病理の世界です。ところが言葉の上では「別々である」かのように説明できてしまう。するとそこに命題が成立してしまったかのように錯覚する。

あるいはさらに、なぜあなたは私ではないのか、と言ってみる。そして、あなたと私がつながっているとしたら、より大きな意識があるのではないのか、と言ってみる。これもやっぱりありえない。人間は身体という物質的なもので輪郭が規定されています。こういうことを言い出すと、最後は宗教的な話をしないとならなくなります。超越者は世界をどう作ったか、人間と人間はどうつながっているのか、という話になってしまいます。

しかしありえないことを想定すると、逆照射的に、今あるものが何なのかを考えるきっかけになります。「中指の独立性がありえないというなら、じゃ、そもそも自分だと思っているものは何なのか?意識とは何なのか?」という疑問が浮かんでくるわけです。この問いの射程は、こういうことなんじゃないかと今は思っています。

なぜこのような持って回ったやり方をしないとならないのか。意識のようなものは、一語でバシッと説明できるようなものではないからなんですね。あれではない何か、これでもない何か、と手探りでしか言えないことがあります。

>意識の無二性は何に拠っておるのでしょうか。

生命の単位をどう考えるかによりけりでしょう。
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この回答へのお礼

言葉について、区別について、単位についてと、良いところを話していたただいたように思います。

片手の音とは独り言のようなものかなと思いました。二人いれば会話が成り立つ、では一人でする会話とは何か?それは独り言である。独り言は会話と言えるのか?、いや、会話は相手があってのものだから、言えないだろう。しかし、その独り言が自分自身に向けられたものであるなら、自分との会話とも言えるのではないか?そもそも会話とは何か、独りとは、相手があるとは、などなど思索の範囲が広がって行けます。言葉だと言えてしまう故の危惧と、その自由度を考える良い話でした。

逆照的ということ、なるほどと思います。
射程感も明瞭になってきて、考えやすくなりました。
中指は独立していないとするなら、自分というこの独立性はなんであるのか。独立しているとはどういう事か。など。

意識というものは一言でバシッと説明できるようなものではない。その通りだと思います。それで、今回のQAの様に色々な意見を聞けるのでしょう。

生命の単位をどう考えるか。この問いは出発点こそ重要で、その出発点に着目できるご回答を得られた様に思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2018/03/05 14:08

№47です。

コメントをありがとうございます。

虚数など わたしが数学に通じているというわけではありません。
何とかついて行っていると言えるかも知れませんが。


今回は 《われ》について 一口メモです。


ふつう一般に《われに還る》と言います。不自然なところはないと
思います。

つまり 自然本性の・飾り抜きの《われ》があるのではないかと思
われます。決して出しゃばったりすることのない慎み深いわれです。

なら 《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》というと
きにも この自然で一般的なわれをそこに織り込んでいてよいと思
うのです。

ただ この命題じたいは そうであるのですが 《〈わたしはわた
しである〉わたしがわたしする》なる命題を実際に言っているとき
のわたしは 世の中のシガラミから自由であるとは 言えないと思
います。



そんなところでしょうか。
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この回答へのお礼

我に帰るという時の我、とはわかりやすいですね。
わたしがわたしする、という時には、主語のわたしと動詞のわたしがありますが、そこら辺をもう少し考えてみたいと思います。

お礼日時:2018/03/05 13:39

★(№47お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


何かから逃れる事が自由なのか、
嘘も含め選択出来ることが自由なのか、
自分自身含め何者かに束縛されないことが自由なのか、
創造的であることが自由なのか、

思いつくままに述べてみましたが、bragelloneさんは自由とは
何であるとお考えになりますか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まさに鐘の撞き甲斐があったというものです。コメントを
ありがとうございます。面白くなってまいりました。

ということなのですが 残念ながら たぶんわたしの自由観は
お話をトーンダウンさせてしまうかも知れません。

だって 《わたしはわたしである》に帰着する問題としか見て
いないからです。

《〈わたしはわたしである〉わたしが わたしする》 これが
ぶらじぇろーぬの自由の定義です。

言いかえると 不自由を内に包み込む自由 でしょうか。





不案内な投稿の仕方になりますが それぞれの趣旨説明欄をご
らんになっていただくとありがたいです。


【Q:《わたし》なる理論は 哲学プロパーではないか?】
https://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8749829.html


【Q:《わたしがわたしである》わたしがわたしする】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9673982.html


【Q:《虚数》という想像力の世界に現実はあるか(つづき)】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8873741.html
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この回答へのお礼

わたしがわたしする、とは、つまりは自己表現のことだと思いますが、この時、表現することによって自己が生起するのではないか、つまり何者かわからぬ主体が最初にあり、表現することによって自己というものが明確になってくる、このようにとらえてみました。

不自由を内に包み込む自由というのは、リンク先でも仰っている嘘の問題に絡んでいると思いますが、この不自由というのは、やましい感情を生起させるようなことであり、それを選択することもできるという事も込みでの自由というふうに解釈しました。

虚数の喩えについては残念ながら理解はできませんでした。ですが数について考えるのは面白いと思います。
数にはいろんなものがあり、例えばマイナス符号のついた数、これは現実には物としては存在することがありませんが(-2個のリンゴなどは存在しない)、確かな概念として存在しています。
虚数については以下の動画を参考しました。


「虚数は存在しない」とかいうイメージを今すぐ払拭したい↓
https://www.youtube.com/watch?v=nzx30v8PngU

お礼日時:2018/03/03 16:58

コメントをありがとうございます。



自由意志が ほかの誰でもないわれをつくり成している問題です。

★(№44お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
全てではないにせよ、人々は、同じような人生を生きている部分
も少なくないと思います。

それは語弊を恐れず言えば、流される生き方であり、意志の自由
はそこでは発揮されていないでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《意志の自由が発揮されていない》状態にあることは――あ
るいは 《人びとが互いに同じような人生を生きている部分を共
有している》状態にあるということは―― 《意志自由が もし
消えているとしても 無くなったわけではない》わけです。




誰もがいちどは嘘をついたはずです。それが――それも―― 自
由意志の許容する自由度であり わが心の思いに嘘と本当とを見
出してどちらかを選択するという判断が 意志自由です。

つまり 嘘をついたときの意志の発揮は 元々なる自由意志の働
きが備わっていることを分かりやすく気づかせます。

そして人間であるかぎり この意志自由の仕組みが 無くなるこ
とはなく 実際に発揮しづらい情況にあっても 自由が――おさ
えつけられていたり 《情況に流されていたり》しても―― 変
質したわけではないわけです。






きついことを言いますが 《人びとが意志自由を発揮し得ない情
況にある》とき だからと言って 自由意志が滅んだわけではな
いはずです。

つまり 全体主義や軍国主義のもとに自由が締め付けられていた
り または 締め付けのなくなった資本主義社会の自由のもとに 
この自由主体性を持て余し 孤独に感じ むしろ締め付けを求め
るかのように 情況に付いて行ったりするような 流されるだけ
の《不自由》な人生を余儀なくされているとしても だからと言
って――

――《われと なれと かれとは 互いにその存在が付け替えら
れる》ような人間に変質した・・・ということにはならないはず
です。







《自由からの逃走》という問題でもあると思います。

あるいは お隣りの国の某指導者は 4億死んだって また6億に
なる どうってことはないと言ったとか言わなかったかとか。

あのオウムだって ポアを言うのであって――つまり いま生きて
いても 悪事をおこない人びとに迷惑をかけるだけだ だから た
だちに死なせて 来世によい人間になるのを望むほうがよいと言っ
て ポアするのであって―― 人に付け替えが効くとは言っていな
い。(たぶん)。


このような社会の情況に流されていてはいけない・・・とさとって
慈母観音のふところの中へという思いも 現われます。

それが 真実の自由への道であるか? どうでしょうか。





《流されている人びと》は おのれの自由意志が わづらわしくな
ると 一方で上に対しては いろんな意味での《権威またはアイド
ル》に頼り 他方で下に対しては 弱者や少数者を世の中の屑やゴ
ミとして蔑み いづれの側面においても熱狂することに走ります。

社会主義の理想が まぼろしと化し アナーキズムもテロリズムも
論外だとしますと どうなりましょうか。

わたしは たましひが去勢されてしまったかの状態にあると言って
いますが それでも・そうだとしても 自由意志は 眠っているだ
けです。

うんぬんかんぬん・・・と ほざきたくなります。
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この回答へのお礼

嘘についてから始まりまして、なかなか込み入った話なってまいりましたが、少し真実味が出てきたように感じます。

自由意志は眠ってるだけ、自由意志はあらかじめ与えられている、自由は獲得して行くものだ、色々な見方がありますが、ここに来て自由とは何か、という根本的な問いが現れたようです。
何かから逃れる事が自由なのか、嘘も含め選択出来ることが自由なのか、自分自身含め何者かに束縛されないことが自由なのか、創造的であることが自由なのか、思いつくままに述べてみましたが、bragelloneさんは自由とは何であるとお考えになりますか。

お礼日時:2018/03/02 12:01

この質問が立てられた時に私が思ったことは、「分かる気がしない」というものでした。


それは、汽笛さんと同じですし、これまで何度も考えて分からなかった経験によるもので
したが、このカテで様々な意見に触れ、あれこれ考えて何も出てこなかったことが無かっ
たので、何か出てくるかもしれないとの期待があって頑張ってみましたが、質問の周りを
回るだけでした。

仰るように人が理解する、納得するということは個人差がおそらくあって、その違いにつ
いて議論をしたことは無かった気がします。この点を今後意識してゆくことは興味深い事
ですね。

「私が私である」と言うのは意識ですね。心・精神というものがそれを感じると言うこと
だと思いますので、精神というものを深く理解すれば何とかなるかなと思ったわけです。

で、ご指摘の「三界」ということに従って考えようとしたのですが、仰るところの定義と
私の知っている定義とがかなり違うので、このことはひとまず置いておいて、「唯識論」
ということについて少しお話しようと思いましたが、すいません、時間切れにつき、また
投稿します。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。三界の解釈は私の勝手な解釈ですのであまり気になさらないで下さい。こうかなあ、とキサラギは思っている程度の事ですので。

質問の周りをぐるぐる回る、このQAもそんな感じでそれぞれの回答者さんの考えを聞くことができたわけですが、初点に帰るという意味だけでも、この質問は意味があると思います。それぞれの人によるアプローチで辿り着いた見解に、意外な共感を見つけたりして、思わぬ収穫が結構ありました。良かったです。

唯識についても興味あります。しばらく開けておきますので、お時間よろしい時にでもまたお願い致します。

お礼日時:2018/03/02 01:34

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