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何故、私は私であったか。
意識の無二性は何に拠っておるのでしょうか。
ご見解をお願い致します。

質問者からの補足コメント

  • 精神というのは非常に具体的な現象であり、私のような知識の浅い者にとっては、考える対象としてはあまりにも複雑なように思えました。しかしながら、三界という考えを聞いて、これならば精神を考えるのに私にも用いることができるかもしれないと思いました。欲界、色界、無色界の三界です。欲界とはつまりは物の世界で肉体(脳みそも)もこれの範疇です。色界とはいわゆる精神の世界でしょう。概念や感覚質もこれに含まれると思われます。私という意識も、色界にあるのではないかと思っています。無色界とは、情などの精神作用があるわけではないが、何もないわけではない、全一や無、言語作用でとらえられないものなどの、不可分の(分けられない)ものの世界だと私は思っています。

    補足2へ続きます。

    No.42の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/03/01 00:32
  • 私が水に形容するものも、この無色界の範疇に入ると考えられます。しかしながら、ブッダの境地はこの三界ではなく、涅槃と呼ばれる処のようです。これは喩えば、あらゆる味の中で、風味だけが他のどの味の種類(甘い、塩辛い、酸っぱい、苦い、旨い、など)とも違うようなものです。三界とはあらゆる存在の場であるが、その中に涅槃は無いという事だと私は理解しています。また、人生の喜怒哀楽とは異なる心的住所、それが涅槃であると思われるのです。

    つい脱線してしまいました。
    仮に精神が大本で一つであったとしても、更にその一つがまた無を基盤にして存在していたとしても、それ以上は私の思考の及ぶところではないのですが、その及ばざる私の思考の「限り無いという限り」を悠に超えている存在もまた居るのでしょう。

      補足日時:2018/03/01 00:32
  • ここで一旦、皆さまにお礼申し上げます。思いの外多くのご回答をいただき、自分の考えなかった興味深い見解を沢山聞くことができました。充実したQAになって、嬉しく思います。ありがとうございます。

    もうしばらく開けておきますが、回答が途切れるようでしたらその時には閉めますので、その事ご承知よろしくお願いいたします。

      補足日時:2018/03/11 13:48
  • 西欧では個人と唯一神との結びつきが個人主義を生み出していて、日本では個人と大地との結びつきが全体主義を生み出している、と言う見方を何処かで聞いたことがあります。

    No.69の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/03/16 15:14

A 回答 (74件中51~60件)

我れながらよい説明の仕方が思い浮かびました。




相手との対話において 互いに見解の相違に合意すること
が――人間には――出来るということ。

このことは もしいま問題の《ひとは互いにその存在が付
け替えできる・取り換えることが出来る》という考えがあ
るとするなら まさしくこの考えにもとづいて可能になっ
ているということです。


つまり 《見解の相違》に互いに合意するというとき判断
をくだしている《わたし》は 透明であり 誰ともそのま
ま取り換えることのできるわたしです。


このように判断の主体あるいはその意志のハタラキ これ
が おのおの《ほかの誰でもないわたし》を成り立たせて
いる。――これが 人類史においてつねに基調と成ってい
る人間学としての哲学です。








さらに説明を添えることができます。

もし 相手といっしょにいるとき おまえがわれであって
もおかしくないんだよなぁとか われは おまえであるか
も知れない・・・これは どういうことだ? といった思
いが現われたとしたら: 

けっきょくその場合というのは――少し触れていたことで
すが―― その思いは われがあたかも神のもとにあると
いう状態で現われたものなのでしょう。

どういうことか? 

あたかも神との一体感を得て そういった気持ちや思いが
――そして考えとしての展開もが―― 起きており なか
なか消えて行かない。

こういった事情として 説明できるものと思われます。







ふつうは・つまり一般に社会生活の中では こういった神
との一体感のままでは 人とマジハリ(交通)を成すこと
は まれです。

あるいはもし――思考実験をしてみましたが―― 現実に
いわゆる他人と こういったかたちで対話をするときにも
《神との一体感を持って 人間のわれどうしの付け替えが
可能だという思慮のもとにある》のなら 相手が自分とは
違った考えを表明していたとしても それをまづは その
まま受け留めるはずなのです。

神のもとなるわれを 押し付けないはずなのです。

もし押しつけるのなら それは 自己に閉じこもったわた
し意識の成せるわざでしょう。







ひとは互いに掛け換えが出来る存在だと思っているなら
それゆえに 相手の考えを まづは受け付けにて受領する
はずです。

言いかえると 《掛け替えが可能だ》という考えをもし皆
が皆 表明しているとしましょう。そうだとしても その
表明は――その判断すなわち意志のハタラキにおいて―― 
一人ひとりそれぞれ《自由》であり その自由において 
個別性を基本として持つ。
――こうなるのだと思います。

《意志自由》でなければ 掛け替え可能だという思いを持
つことはない。これです。思いに目をやるのではなく・そ
れだけではなく 思いのミナモトにも思慮を向ける。これ
が 大切だと考えます。
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この回答へのお礼

今回の問いは、基本的には「命」の話をしているのではなく、意識とか、自・他の話をしています。

お礼日時:2018/02/22 21:23

私がこの話を初めてしたのがやはり中学の同級生とでした。

親友でしたので
馬鹿になどしていませんでしたが、彼はクラスで一番勉強ができない人間で
したし、勉強がすべてでないにしろIQが高いという感じではなかったです。

もう一人親友がいて、彼は後に一流大学を出て弁護士になった人間で、話し
ていても理解が早く、おそらくIQは高かったのでしょうが、この話は通じま
せんでした。

二年ほど前に私もこの問題をこのカテで質問しました。すると、真っ先に汽笛
さんが回答をくれて、質問の意味を分かってくれて嬉しかったことはよく覚え
ています。
他の方たちは、質問の意味を理解してくれなかったようです。

この問題についてピンと来る人と、そうでない人の違いは何だろうかと考えて
みました。

私の場合…

私が何故キサラギさんでなくて私なのか、という疑問というよりも、私から見た
キサラギさんをはじめとした他の人の存在が、理解できないという感じなのです。

言い換えますと、私とその親友が同じ部屋の中で、一つの話題で心を通じ合わせ
ているのに、まるで十万光年も離れた星雲同士のように、あまりにも距離がある、
そういう感じです。
その距離感が理解できないとか不思議ということなのではないかと、そういう疑
問を持つか持たないかということなのではないかと思いました。

これでは何を言っているか分からない可能性があるので、もう一度言い換えますと、
何故私は私なのか?という疑問は、個性はあれど本質的には同じであるはずの周りの
人達のことを本質的に理解できない、あるいは信じられない、ということを自覚する
ことによって生ずるものなのではなかろうか、てなことを考えました。
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この回答へのお礼

そうだったのですね。今回も汽笛さんが回答に来てくださいました。

今回のデヴィットさんの回答は、私とは違った感性で、この質問を深くとらえてくださっているものと思いました。
十万光年離れているどころか、別の宇宙と言ってもいいほどに、自分と他人は別のもの、という感じはします。他の人の気持ちが分からないとか、共感できないとか、人間不信であるとかではないという事は、一応言っておきます。
キサラギというのは身体的にも性格的にも、した経験というのも特別でも何でもない、多勢の内の一人なのですが、「自分」という意識は、その特殊性は一体なんなのか、なぜ今ここ、この私なのかという事なのです。

この問いの出発点を共有できるというのは貴重なことのようです。
ここから如何に問いを進めていくかというのは素人の私には難しいことなのですが、素人なりに楽しみながらやれて、意外なことを見つけられたらそれでいいかなとも思っています。

日常生活の中で薄れるこの問いの感覚を、最近思い出しまして、それは自分についての新鮮な気持ちを取り戻せたようでした。

お礼日時:2018/02/22 20:06

この宇宙のただ一粒の小さな地球と云う星の元に生まれた生き物。


どれほどの生き物が誕生し、そして死んでいったか。

想像を絶するようなその世界にあって、宇宙的時間で計ればほんの一瞬でしかないはずの「この時に居る私」。
未来こそ分からないけど現在、そして過去には様々な体験をしてきたという事実。

父母もいれば兄弟もいて、親戚やご近所さんもいる。
働ける職場もあって、でもそれは「私」の世界。

仮に「私」を消したら?

なぜ、いま、ここに、「私」がいるのだろうか?

それはたぶん、人間にとって最大の疑問。それも答えの得られない疑問。
神でさえ、答えられないように思う。

そんな唯一の「私」

苦しみの生を受けた”命”を貴重と云うわけではない。
ごく一般としての哲学的こころとしては、やはり貴重な命と受け止めたくなる。

そう思えば、答えが得られないのだからせめて「この私」を全うしなければ、と思う。
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この回答へのお礼

そういうことです。
自分自身を全うするのは賢者であると思います。
しかしながら、今回の問いは、そこを問うているのでも微妙になく、上述のような結論を得ることは優れていることですが、初めに問うたことからいかにブレないか、というのがこの度のQAの課題であるようにも思います。

・なぜ、いま、ここに、「私」がいるのだろうか?
・そんな唯一の「私」

ここら辺を問うていきたいと思っております。

お礼日時:2018/02/22 19:56

№18ですが おっしゃっていることが ますます分からなくな


っています。

こういうときには わたしの流儀では 相手の発言について分か
らないところを尋ねるということにしているわけです。




★(№18お礼欄) 質問というのは回答の形式をはからずも規
定してしまうものです。
☆ いったい何のことか 分かりません。《規定してしまう》の
なら 《図らずも》ということではないでしょうし。そうだとし
たら 事後においてでも ほんとうは自分で《図った》ことだと
分かりましょうから。

わたしの考えは 単純です。《質問が 回答の形式を規定する・
しない》にかかわりなく 対話がどこで渋滞しているのかが 質
問とその応答をつうじて分かるはずだというものです。


ですが そこまでの考えは持っていますが いったいぜんたい 
どういう応答が返って来たのか。さっぱり分からずにいます。

もし質問というかたちで 対話をすすめたとしても:
★ しかし私はその意図的な計らいであるそれに乗ってはいませ
ん。
☆ という対応の仕方が自由にかんたんに出来るということでし
たら 《質問》というものが《回答の形式を規定してしまうこと
は 何ら ない》ということを証明していますし。







さて 分からないところを尋ねることによって互いにその考えを
なおよく・くわしく知りたいというわたしの問いです。( お答え
になるかどうかは ご自由です)。


★★(№10お礼欄) 命がかけがえのないものと思えるのは、
比較的に楽な人生を送ってきた人々の考えであるのではないでし
ょうか。
☆ これだけでは 《楽な人生か 苦労の多い人生か》を判断す
る共通の基準がさだまっていないと思われるからには 決まりま
せん。話が 落ち着きません。


★★(同上・承前) ではキサラギよ、君は死んでもいいのかと
問われれば、それは微妙だと答えなければならないですが、少な
くとも生存を無条件に肯定するような考えを私は持っていません。
☆ わたしは 割り合い楽な人生を送って来た人のほうが この
《死んでもいいのか》の問いに 条件をつけるのではないかと思
っていましたが 違う見方もあるようです。

ことほどさように 見解は――互いに 自由に――相違している
ようです。

つまり この項目についても 互いに話を前にすすめるための応
答ないし対応が 見つかりません。



★★ また、命というのは無尽蔵に湧いているようにも見え、
☆ ここは まったく理解のしづらいところです。どういう意味
なのかが 分かりません。《命が湧く・湧かない》という捉え方
が――文学の表現の話でなければ―― 何のことかが分かりませ
ん。

★ その現象だけを見るならば、その一つにかけがえのなさなど
は認められません。
☆ 《命が無尽蔵に湧いているように見える》という《現象だけ
を見るならば その一つにかけがえのなさなどは認められない》。

ということは 《次から次へ命が湧いて出て来る――死にそうに
なっても また元気を取り戻す?――から 命がひとつ・ふたつ
といったように 限りなく その掛け換えが出来ている》という
ことなんでしょうか?

と言っても それでは わたしには分かったことにならない。こ
れも 文学的表現でないならば 同じひとつの――ほかの誰でも
ないわたしの――命でしかないはずだと思うからです。




★★ かけがえのなさというのはまさしく「私」意識がもたらし
ているのだと考えられるのです。
☆ これは ささやかな反論を成し得るかと思います。

自己閉鎖的な固定観念としての《わたし意識》などから自由なわ
たしにして初めて このわれなる存在は もう掛け替えが効かな
いのだから 粗末にしてはならないぞと 必要な場合には語りか
けているはずだと思うからです。

見解は 自由に 相違しているようです。

これは これで ひとつの里程標となる結論ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

自分を粗末にするしないとかの話ではないという事です。
他の回答者様へのお礼も、よければご参照ください。

お礼日時:2018/02/22 19:51

丁寧にありがとうございます。

噛み合って参りました。
悟性についてはまた後で説明するかもしれませんが、パッと今、簡単に説明します。

西欧だとカントのあたりまで、人間の意識は3つで成り立っていると考えられていました。
・悟性:真理の把握、規範的なもので、人間の判断の余地がない。真理は神の認識に到達する。
・理性:善悪の判断。倫理的判断。状況に応じて変化する。
・感性:美の判断。場当たり的に変わって行き、脈絡がない。

さてお礼欄を読んで考えました。「水」が悟性かどうか。少し違うようですね。
3分類なので、どちらかというと悟性ではあるが、もっと細かい分類が欲しいということはあるかもしれないと思いました。
やはり当面は「意識ー水」とでも呼んでおいて、適切な表現を探していくのがいいのかもしれません。

>私は特に事態を鳥瞰しているわけでもありません。

ここはお考えが、よくわかりません。個人が唯一無二ではなく、社会の歯車として交換可能という判断をするにあたっては、全体を俯瞰していないとならないと思います。これは超越者、ないしは管理者の視点ではないですか。

>こういう思考実験を骰子さんが好むかどうかわからないのですが、今回の質問ではこういうことを問題にしているのです。

そうでしたか。私は白状すると、思考実験をほとんどしないです。なんていうのか、現実に起きていないことは考えない習慣がついています。だから反応が鈍いのはお許しください。しかし、コピーの話と「意識ー水」はどう関連するのか、いまひとつ見えないでいます。

まだなかなか時間がかかりそうですね。しかし問いの中身が具体的になってきたと感じています。面白いとは思いますので、思考実験の箇所を起点に、新たに問いを立ててみてはどうでしょうか。具体的ですので、今までの抽象論では入っていけなかった人も、答えられるようになるかもしれません。他の方の意見を見ると、私も考える手がかりが見えてくるかもしれません。
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この回答へのお礼

悟性についての説明をありがとうございます。悟性は心理の把握という事で、これを発揮するのはなかなか難しいものだと思います。ヘーゲルにおける悟性というものを少し読んだのですが、こちらはなんとなく分かりやすかったです。

社会、とりわけ仕事などにおいて、自分の替わりはいくらでもいるという見方をすることが鳥瞰しているとまでは言えないのではないかと思いますが、骰子さん的には鳥瞰しているのではないかという事で、ここら辺はこの鳥の視点がどれだけ高いことに拠るのかという、程度の問題かと思いました。何百万人という従事者全体、或いは業界全体のことを考えるとか、人を育てるのは国家百年の計だとか、そういうことになると鳥瞰しているとも言えると、キサラギ的には思います。神の視点ともなれば、人類の存亡だとか、或いは宇宙の始まりだとか、こういうことを考えるのは神的視点だと思います。これは科学者なんかは良く採用する視点だと思われます。今回の質問で採用している視点は、どちらかと言うと極めて等身大で、自分はなぜ他の誰でもなく自分なのかという、跳ねも沈みもしていない視点とご理解いただければと思います。

コピーの話は、区別出来て当たり前である固有の部分を捨像するためにしたものであります。身体とか、経験とか、性格とかの事を捨像しても、「私」というものは残るのではないかと。その、何者でもない私というものを無色透明と表現し、それは水のようなものかもしれないと思ったのです。
骰子さんが、思考実験などよりも、現実を重視しておられるのだろうなというのは感じております。
時間はかかるかもしれません。新たに問いを立てるかどうかは、このQAの成り行きで決めたいと思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2018/02/22 19:48

No19に足りない論点があってので補足。



質疑応答を読んでいて思いましたが、「意識=水」は、エゴを成立させる成分であるばかりではなく、人と人とをつなげているもののようですね。そして人は、何かの目的に沿って歯車のように回っており、壊れると入れ替えられるとお考えになっているようにも思いました。

つまりおっしゃるお話は、個人の話だけではなく、集団の話でもあるわけです。
こうなってくると、集団を管理している超越者の視点が重要になってくるわけです。
私はNo16は末尾がやや説教めいていて失礼しました。しかしキサラギさんには、

>超越者の視点に自分を重ね合わせる、

という態度はあるのじゃないか、とは感じています。
そうすると「水」って、もしかしたら悟性のことかもしれませんね。
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この回答へのお礼

心理学的には水というのは無意識を意味しているそうです。その意味で、人と人とを繋げているという見方はありますね。その場合には、ユング的な解釈も可能かと思いますが、この「私」の問題というのは、哲学においては伝統的なものでもあり、問いの発生は自発的なものではあっても、少なからずの人々が抱いてきた問でもあるのです。心理学や社会学が発展する以前の、ある種プリミティブな問いと言えばそうでしょう。
 
人は歯車のように単純ではないとは思いますが、この社会においては、入れ替わりは効くものと考えています。キサラギが辞めて仕事に穴が開いたぞ、と言っても、誰かが埋めるし、開いたら開いたで何とかなります。スター選手は入れ代わり立ち代わり現れてきます。その人でなければならないという仕事は、あるようで無い、というのが私の見たところでありますが、決して骰子さんの目標や努力、成功を貶めているのではないという事はご理解いただきたいと思います。

仰られる超越者の視点というのが、イマイチ掴めていないのです。私は特に事態を鳥瞰しているわけでもありません。
どのようなことを超越者の視点と仰られているのでしょうか。集団を管理している、と仰られてますが。
また、悟性とはカント?の言葉でしたでしょうか。しかし悟という言葉は禅でも用いられ、その意味内容は変わってくるでしょうし、ちょっと勉強不足で申し訳ないですが、簡単に説明していただけると助かります。

何度も訪れていただきありがとうございます。

お礼日時:2018/02/21 18:18

>フロイトの考えるようなエゴのモデルは、身体や、いわゆる人の内面と言われる性格などに収まる事であって、固有のものだと思います。

各人によってエゴの組成、成分は異なるでしょう。ですから、問題の本質ではないと思います。本質は、「皆、違う人間であり、固有なのにも関わらず、みな同様に「私」を所持しているであろうという点」であり、この「私」とはいかなる事態なのかという事です。

まだわかりませんが、何となく、輪郭は掴みかけて来ました。
・「意識」は、「水」と「絵の具」とでできている。
・質問文で「意識」と呼んだものは、水の方である。
・そこに絵の具(固有の何か)が加わって、固有の意識が出来上がっている。
・固有の意識は、エゴである(?)。
・しかし「水」の方は何なのだろう。皆も同じように「水」を持っているのかと思って、問うている。

No16で書いたことと結びつけると、私が注目するのは「絵の具」の方なんですね。「水」の方ではありません。(水は無色透明だとありますが、正直なところ、私はその存在を感じたことがないです。ミクロな違いの方が重要と感じているというNo16の話は私の立ち位置を示しているので、留意していただけたらと思います)。
ここまでを踏まえると、質問の解釈も変わってくるようです。次のことになります。

>何故、私は私であったか。

上で「絵の具」と表現したものが、「水=意識」に混じって、色がついているからである。

>意識の無二性は何に拠っておるのでしょうか。

上の定義に照らすと、「意識=水」はどこにでもあるもので、無二のものではない。したがって問いそれ自体が成立しない。
問いを立てるなら次のようなものだと思います。

・「水」にあたるものを他人が持っているのかどうか。それをどう立証するのか。
・「水」の存在はどのように認識するのか。冷たさなど、色とは異なるもので、理解するのか。

最初にきっかけを聞いた理由は、認識の方法が見当がつかなかったからです。どうでしょうか。
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この回答へのお礼

そうです。認識を近づけてきてくださって感謝します。また、ミクロな違いの方が重要とされておることについては了解しました。

・「水」にあたるものを他人が持っているのかどうか。それをどう立証するのか。
これについては、持っているはずだとするしかないように思います。そうでなければ独我論を採用することになりますが、独我論についてはここでは触れないでおこうと思っています。

・「水」の存在はどのように認識するのか。冷たさなど、色とは異なるもので、理解するのか。
喩えとして水を用いましたが、無色透明な私というのは、つまりは「存在しない」ということであり、「私」を認識をするのではなく、あえて言うならば、「私」が、認識から「外れる」ことを意味しています。この「外れる」という感覚を以て無色透明と言っています。
(敢て言及いたしますが、社会のはみ出し者になって無職無収になるとかいうダジャレを言っているのではありません。社会問題ではないという事を言っておきます)

分かりにくいので、問いを極めて単純化します。
右と左があって、二者は区別される。しかし、現実に起こっていることは、左だけが自分であって、右は他である。それは一体何故なのか?と言う問いなのです。そして右は右で同じように思うことができる。なぜ自分は右であって、左ではなかったのか?と。

これは場所の問題と考えたこともあります。私と全く同じ組成をしたコピーがいたと仮定します。完璧なコピーであり、違い、区別はありません。しかし二人が並んだ時に、一方は私であり、もう一方は他になるのは何故か?ということです。そしてさらに仮定を推し進め、仮に、同じ空間にこの二者が配置されたならどうなるのか?全く同じ存在が二つ、全く同じ場所に配置されるとしたら。それでも「私」は一つにしかなり得ない。それは何故なのか?という事なのです。こういう思考実験を骰子さんが好むかどうかわからないのですが、今回の質問ではこういうことを問題にしているのです。
もしかしたら、「私」は一つにしかなり得ないという、実感を以てする考えから脱却する必要があるかもしれない。「私」の問題は、「今」という時間の話とも関わりうる問でもあります。

この手の問題を考える人は少なくないですが、その中でも問うていることに差異はあるでしょう。ひとまずこんな感じです。

お礼日時:2018/02/21 18:02

№15です。



そのわたしの――問いのかたちをした――回答は ご質問の
趣旨から はづれているのですか?

でも おつきあいしてくれたのですか?


問いのかたちをした文も お応えの中にありましたので 再
びお応えしますが その問いについて直接にではありません。

なぜなら 間接的にお応えくだすったようですが じつは
的から離れていると思われるからです。




すなわち:
☆☆(回答№17) ~~~~~~~~~~~~~~
〔きさらぎさんの〕このお考えを 横田めぐみさんに・そし
てご両親にそのままつたえることが出来ますか?

つまり いのちは掛け替えが効くから だいじょうぶですよ
と言えましょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《言えます》というお答えであり お考えだということ
でしょうか?




わたしには 言えませんし そもそもきさらぎさんの今のこ
のお考えを持ったことがないし 考えようとしたこともなく
持つ予定も つもりもありません。
(ほかの人が表現したこの種の考えについて 思考をめぐら
したことはあります)。

ですから 横田めぐみさんのために何かをしたかという問い
に答えることとは 別の問題だと思います。

《いのちは 掛け替えが効くのですよ》と本人や家族に向か
って言えるかどうかだけの問いですから。


《言える》ということでしたら もうそれは互いに――思想
・表現の自由にもとづく自由な意志の発揮としての――見解
の相違ですから ひとまづお話は 一件落着として 済んだ
ことになります。






ちなみに――ひと言多いというだけではない価値のあるつけ
添えになると思うのですが―― このように見解の相違が自
由に成り立つというのは 互いの意志や表現の自由にもとづ
いているということです。

すなわち この意志自由が ほかの誰でもない一人ひとりの
《われ》という存在を表わします。

これは おっしゃるような:
★ 「私」意識
☆ とは何のかかわりもありません。生まれつきそなわった
自然本性としての透明なわれです。
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この回答へのお礼

質問というのは回答の形式をはからずも規定してしまうものです。しかし私はその意図的な計らいであるそれに乗ってはいません。ただ言葉が同じというだけで、意味も内容も異なる二つを重ね合わせるのは事態を空しくするだけです。
前回答でいただいた横田さんの話は、『意識の無二性』というこの質問とははっきり言って関係がありません。
 
結局横田さんのためにbragelloneさんは何もできていないのでしょう?それ自体は恥ずかしいことではないでしょう。
私には関係者ご家族の心痛はこの身を以て理解することはできません。この事件に関して私の理解している苦しさ、それを共感というにはおこがましいでしょう。
しかし本当に共感ができる人は、今回のbragelloneさんのように、ここで唐突に、拉致問題という重要な問題を切り出すようなおかしなことはしないでしょう。
そういうことです。
私は、命はかけがえのないものであるという気持ちを理解したうえで、命がかけがえのないものであるという考えは無条件には持っていないと言っているのです。
この無条件という言葉の意味内容を差し替えて、横田さんの生存と帰還を無条件に喜べるか、ということとすり替えたのがbragelloneさんのしたことであり、この行為は横田さんの事件にかかわる当事者から見れば、まさしく弄ばれたということになるでしょう。
そしてこの自覚はbragelloneさんはまだ持てていないのです。

・・・・・・
私の言う無色透明と、意志自由とは関係ありません。意志自由や自然本性は身体や人格、精神、内面と言った固有のものに規定されています。
無色透明の私というのは、非固有であり、誰しもに備わっているはずのものです。特に意志自由を、この無色透明な私というものが持っているわけではないのです。

お礼日時:2018/02/21 17:16

投稿したと同時に、お礼が来てしまい、入れ違いになりました。

同じ時に何かを投稿しようとしていたとは、なんたる偶然。
No13のお礼はまた後で考えさせてください。no16は継続しているやり取りとは別で、私の意見表明としてお読みください。
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この回答へのお礼

あら、と思えばno17も骰子さんでしたかw
私も入違ってしまいました。偶然は重なるものですね。
了解しました。

お礼日時:2018/02/21 16:42

問い詰めるつもりもないので、そろそろ頃合いかなと思い投稿。



言葉の問題もあるでしょうが、多分、私にはわからないと思います。私は、他人と自分が同じだと思うことはないと思います。
マクロで見れば似ているとしても、ミクロな違いに意義を見出すのが人間だと思っています。
つまり神様とか、お釈迦様とか、全能者のような超越者の目から見れば、「どうでもいいじゃん」と思うような差を敢えて大切にしているわけです。その差が、精神に由来するのか、身体に由来するのかは、問題ではありません。また差は長所かもしれないし、短所かもしれません。それを含めて向き合っていくのが、自己受容であり、生きていくということではないでしょうか。

>意識と言うのは無色透明であって、そこに固有個性と言うものは無い

悪くいうつもりはないんですが、ふと、これは少年Aの手記で読んだことのある表現だな、と思いました。そういう事件とキサラギさんを結びつけつもりはありません。しかし安易に超越者の立場に身を置いているな、と感じるのです。

私自身は短所、至らない点、そういうものに気づく度に、とても誰かと同じとは言えないです。
また余人をもって代え難し、と言われるような仕事をしようと努めています。そう言われるような舞台に臨ように努めています。
この上で答えるととても単純です。

>意識の無二性は何に拠っておるのでしょうか。

自分でそうあるように日々努力しているからです。
客観的な根拠とか、アプリオリな根拠は要りません。
根拠は自分で作ればいいんです。

超越者の視点に安易に自分を重ね合わせると、人生、投げることになってしまいますよ。
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この回答へのお礼

うーむ、そういう人文的な話ではなかったのですが、頃合いという事でここら辺にしておきましょうか。別に超越者云々について提出したつもりはなかったのですが。
ありがとうございました。

お礼日時:2018/02/21 16:40

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