このカテゴリーでいいのかはよくわからないのですが。
別に哲学的な回答を求めているわけではないのでねぇ‥‥

世の中広いですから、質問自体に「そうっかぁ?」と首をかしげたくなるものがあります。
えー、僕からの例はこんなものです。
「口笛はなぜ、遠くまで聞こえるの?」
そうっかぁ? 僕はトランペット吹いたことある人間だから、そうは思わないぞぉ?
「あの雲はなぜ、私を待ってるの?」
そうっかぁ? 雲が待ってるってどうしてわかるんだぁ? 
このサイトに限らず、そういう例を探しているんですが、何かありますか?
もちろん、文化が違うとか、そういう理由でおかしいと思うことも含めてみます。

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A 回答 (11件中1~10件)

#6のやりとりが可笑しかったので、書き込ませていただくことにしました(^^;


ゴジラのお話みたいに面白くはないんだけど、こんなんでもいいですか?
(この質問はネタじゃありません。)

●文化
「お祈りするとき、人はどうして合掌するんですか。」
そっかぁ? 手を組む人とか、土下座する人とかもいるぞぉ?

「紫色はどうして高貴な感じがするのでしょうか。」
そっかぁ? 下品な感じの紫もあるぞぉ?

●家庭 (そっかぁ?な理由は省略)
「専業主婦はどうして夫に従属して我慢していられるのでしょうか。」

「嫁と姑はなぜ仲が悪いんでしょうか。」

●人間関係
「あなたはどうしてわたしのことわかってくれないの!?」
そっかぁ? のバリエーション多数。

「上司ってものは、どうして皆ああも理不尽なんでしょうか」
そっかぁ? の理由省略。

●ゲーム
「○○(ゲーム名)はゲームというものの概念を変えたと思いませんか?」
....。
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この回答へのお礼

うまいっ!
こういうの待ってました。
全部、そうっかぁ?、ですよね。
思いっきり笑わせていただきました。
どうもありがとうございます。

お礼日時:2001/08/01 08:32

 わたしが「質問自体に「そうっかぁ?」と首をかしげたくなる」時は、パターンがほぼ決まっています。


 それは、質問する人が「自分の感覚が大多数を占めている」と信じてわたしに同調を求めている場合で、かつ、わたしがたまたま例外を知っていたりわたし自身が例外そのものだったりする時です。
 わたしはそういう時にちょっと複雑な気分でしたが、、前向きに楽しまれてる方もいらっしゃったんですね。

「どうして男の部屋ってとんでもなく散らかってるの?」
「どうして女は地図が読めないんだ?」
「理系学生は、語学にはあまり興味ないでしょ?」
「まったく近頃の若い者ときたら……」

 性別や年代、職業などひとくくりにして人が話す時って、けっこうそういうこと多くありませんか?
 と書くと、これまた「そうっかぁ?」と返されそうですが(笑)
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この回答へのお礼

ご協力ありがとうございました。
うまく「そうっかぁ?」と思う感情を言葉で説明してもらって、納得ができました。
なんとなく、自分の求めていた答が見えてきたような気がします。
どうもありがとうございました。

>と書くと、これまた「そうっかぁ?」と返されそうですが(笑)
少なくとも、僕は「そうっかぁ?」とは思いませんでしたのでご安心ください。
というと、これを読んだ人が、「そうっかぁ?」とか言ってたり。
ええぃ、締め切ってしまえばこっちのもの、なので、もう締め切ります(笑)

お礼日時:2001/09/23 14:52

いつまでも意味の無い質問を閉めないあなたの行動が、「そうっかぁ」です。

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この回答へのお礼

納得のいく回答がくるまで待っています。
閉める閉めないは僕の権限なので、いくらそういうことを言われても困ります。
大体、趣旨は、そうっかぁな「質問」であり、「行動」ではありません。
こちらの趣旨をくんでいただけないのでは……

逆に問いたいと思います。
1.「意味のない質問」なら、なぜplanktonさんは答えたのですか?
2.この質問における専門家の定義とはなんですか?
3.planktonさんは、良回答のポイントほしさに答えている人ですか?
4.質問者、回答者を「あなた」呼ばわりするのはあまりよいマナーではないと知っていますか?

1.のこともあるので、もう1度出てくる勇気があれば回答してみてください。
お礼ではなくて申し訳ないのですが。

お礼日時:2001/08/31 07:44

ウケてもらえてよかったです(微笑)。



ただ、わたしいま、ちょっと悪ノリなところがあったなぁと反省して、
慌てて繋いだところです。

最初は「ありそうでないもの」を考えていたつもりだったんですが、
特に最後のものなどは、
(「"字面だけみると" そっかぁ?」なもの、とはいえ....、)
内輪だけで話してるぶんにはともかく、
こうした不特定多数の方が見られてるところでは、
不適切な投稿だったように思います。

どうも申し訳ありませんでした。
(興醒めかな? 水を差すような発言でゴメンナサイ。)
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この回答へのお礼

ひとつきほどお礼を放っておいてすみませんでした。
謝られて恐縮です。

8番の回答はいい線だと思いますので、あまり気にしないでよいです。
それより、一月も経つので、そろそろ次回作があるかな、と待ち伏せしております。
またあればよろしくお願いします。

お礼日時:2001/08/31 07:50

>そういう例を探しているんですが、何かありますか?



"愛とは何ですか"等の抽象的な質問に対しての回答に点数が付いていた時によく思うのですが・・・
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この回答へのお礼

なるほど。
しかし、それは「そうっかぁ?、な回答」ではないですか?
僕も、「努力とはなんですか」という抽象的な質問に対しての回答に点数をもらった人間ですが、努力というのは言葉で言い表しうる何かなのでしょう。愛だって同じことだと思います。
つまり、質問は最初から「愛とは何かである」ということを前提にしていますね。そこに「そうっかぁ?」と思うことはあるかもしれませんけど。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/07/30 11:56

どおも、chaffです。

お久しぶりです。
むむむ..なにやらむつかしい話になっていますな!
僕は「責任者でてこーい」の、「人生行路」ネタ募集だと思っていたのですが。

でも..口笛って本当に遠くまで聞こえるんですね..へー
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この回答へのお礼

おひさしぶりです。
僕もこんなむつかしいことを言われるとは思ってもみませんでした。

口笛が遠くまで聞こえるのは別にどうでもいいんです(苦笑)。
質問自体につっこみたくなるようなものの例で挙げたつもりが、そっちで盛り上がってしまって……

また何かあったらお願いします。

お礼日時:2001/07/30 11:59

「口笛はなぜ、遠くまで聞こえるの?」



これは柳田理科雄氏の「空想科学読本3」にて科学的に解説されています。
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この回答へのお礼

話が脇道に逸れてしまっているようなのですが、科学的な解説があるのですか。初めて知りました。
しかし、「空想科学読本」はどれだけ信用できるのでしょうねぇ。

僕がこの質問に対して「そうっかぁ?」と思うのは、「口笛は」という主語が別のものでも成り立つからです。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/07/25 14:26

主旨は理解しました。

(わら
この哲学カテゴリをちょっと見ただけでもたくさんあります。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=103440
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=97671
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=94653
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=93743
理系の学問のカテゴリーならもっとたくさんあります。
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この回答へのお礼

締め切ってからお礼で申し訳ありません。

うーん、僕が見たところでは、「その人の見方次第だなぁ」と思うのが多くて、大多数の人間を「そうっかぁ?」と思わせるほどではないかと。

でも、そういう個性の差があるということを教えてもらったのは収穫でした。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/10/05 19:29

「ロウソクが燃えています。

この火を消しました。炎はどこへいったでしょう?」
こういう質問を聞いたことがありますね。

「口笛はなぜ、遠くまで聞こえるの?」
 ↑これは科学的に説明できそうな気がしますけど。
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この回答へのお礼

うーん。どこへ行くのか、かぁ。
あるものがなくなるのを、どこかへ行くととらえることに、「そうっかぁ?」な訳ですね?

「口笛」は科学的には説明できないんじゃないかと。まず、遠く、というのがかなり曖昧ですし。

お礼日時:2001/07/19 12:28

「口笛はなぜ、遠くまで聞こえるの?」も


「あの雲はなぜ、私を待ってるの?」も
字面を追わず質問者の意図をくみ取れば全然「そうっかぁ?」ではありません。
そういう自分も質問者の意図をくみとっていません。(わら
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この回答へのお礼

お礼遅れました。なるほどね。例えば「コシヒカリはどうしておいしいのか?」という質問に対して、コシヒカリをおいしいと思わない人が回答するとすれば、問題が別になってきますよね。質問者に共感することが回答者の第一歩ということですか。どうもありがとうございます。

そこで補足してこの質問文を変えようと思います。
「字面を追っただけでは『そうっかぁ?』と思ってしまうような質問ってありますか? あれば例を挙げてください」
これならばどうでしょう。この質問自体は字面を追って「そうっかぁ?」と思われないはずですが。あるかないかですから。

お礼日時:2001/07/16 23:29

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Q《貴様ぁーっ!》と《おのれぇーっ!》との違いは?

 二つとも 一般に怒りを伴なって叫んでいる場合のせりふです。
 《個人》という人間の問題であり 《自己同一性》のそれです。なぜなら いづれの場合も 相手に向かって 

   その相手よ。あなたは《自己の同一性》を見失っているではないか?
  我れに還れ! そうすれば このような事態を引き起こしておいて 平
  気でいるわけがないはずだ。

 と訴えていると考えられるからです。(いま その正否は別とし得るでしょう。つまり 表現の問題だということにもなります)。
 そして 《自他の区別》の問題にもかかわります。

 【Q‐1】 前者の《貴様ぁーっ!》の場合は そのように叫ぶ自分と相手との区別がついていると言うべきでしょうか?

 【Q‐2】 後者の《おのれぇーっ!》というのは 《貴様》と呼びかけるだけではなく 《相手自身》のことを言ってその自己意識を呼び起こして 事態を明らかに見てみろとでも言っているのだと考えられます。ならばこれは 自他の区別がついているでしょうか?

 【Q‐3】 ただしつまりは いづれの場合も 《自分自身》を基準にして《人間》を捉えており その《おのれ》にもとづくなら 《わたしがわたしである》アイデンティティは守られるはずだという前提を置いているようです。このとき 自他の区別はついていますか? 
 ついているから しかも人間にとっての普遍的な人間性(自然本性)のことを大事にしようとしているのでしょうか?

 【Q‐4】 近頃 このように怒りの感情を顕わにして叫ぶ人を見かけなくなったように思いますが どうでしょう? そしてもしそうであるなら それは どういうことが起こっていると言うべきでしょうか?
 (α) 個人が確立し自他の区別がきちんとつくようになったから ことさら声を荒げて叫ぶ必要がなくなったのではないか。
 (β) いやいやそうではなく 人びとに共通の人間性――あるいは飛躍して神の霊? あるいは仏性?――が信じられなくなったので 《おのれ》を共有することもなくなった結果なのではないか。
 (γ) あるいは その他その他(?)。――《貴様ぁーっ!》と《おのれぇーっ!》とに違いがあって その違いによって事情は異なると言うべきなのだろうか?

 二つとも 一般に怒りを伴なって叫んでいる場合のせりふです。
 《個人》という人間の問題であり 《自己同一性》のそれです。なぜなら いづれの場合も 相手に向かって 

   その相手よ。あなたは《自己の同一性》を見失っているではないか?
  我れに還れ! そうすれば このような事態を引き起こしておいて 平
  気でいるわけがないはずだ。

 と訴えていると考えられるからです。(いま その正否は別とし得るでしょう。つまり 表現の問題だということにもなります)。
 そして 《...続きを読む

Aベストアンサー

{<なんじ>を語るひとは、対象といったようなものをもたない。なぜならば、<なにかあるもの>が存在するところには、かならず他の<なにかあるもの>が存在するからである。それぞれの<それ>は、他の<それ>と境を接する。<それ>は、他の<それ>と境を接することによってのみ存在する。しかるに、<なんじ>が語られるところでは、<なにかあるもの>は存在しない。<なんじ>は限界をもたない。
<なんじ>を語るひとは、<なにかるもの>をもたない、否、全然なにものをも、もたない。そうではなくて<なんじ>を語るひとは、関係の中に生きるのである。}
{永遠の<なんじ>は、本質上<それ>とはなり得ない。なぜならば、永遠の<なんじ>は本質上、量や限界のなかにいないからである。それは計ることのできない量とか、限界の無い限界のなかにすらおかれていないからである。また、永遠の<なんじ>は、本質上、性質の総体として考えることも、超越的存在にまで高めた小勢の無限の総和として理解することも不可能である。なぜならば、永遠の<なんじ>は、世界の内部にも外部にも見出すことができないからである。それは経験することも、思惟することもできない。なぜならば、もしわれわれが、わたしは<彼>がそんざいするのを信ずるというならば、存在者としての彼を見失ってしまうであろう。<彼>ということも、また一つの比喩となる。しかし<なんじ>は決して比喩ではない。}
プーパー 我と汝 植田重雄訳

<われーそれ>主体ー客体関係
<われーなんじ>根源的な関係。

<われーなんじ>という根源的な関係における<われ>は、決して認識の主体ではなく、<なんじ>もまた多様なものと境を隔てた、全体の部分であるような客体ではなくて、何にも限定されない全体そのものである。だから、汝は全体であり、<われ>はその全人格をかけてなんじを選び、直接自らをなんじに与えきってしまわなくては<われーなんじ>の関係を結ぶことはできない。そしてこの関係では選ぶことは選ばれることとなり、全人格をかけて<する>ことが、<される>ことになる。

ここまで異論はございますでしょうか?

{<なんじ>を語るひとは、対象といったようなものをもたない。なぜならば、<なにかあるもの>が存在するところには、かならず他の<なにかあるもの>が存在するからである。それぞれの<それ>は、他の<それ>と境を接する。<それ>は、他の<それ>と境を接することによってのみ存在する。しかるに、<なんじ>が語られるところでは、<なにかあるもの>は存在しない。<なんじ>は限界をもたない。
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Qアレン:原因と結果の法則、仏教でそういうのある?

ジェームズ・アレンの、邦訳(邦題)『原因と結果の法則』というのがあります。
まだ読んだことないですが、自己啓発本の起源のようです。
ザ・シークレットというのがあり、読んだことないですが、プラス思考すると、実際にそのようなことが起こる、といったようなことだと思います。

それで、因果関係の議論になると思いますが、私が知る範囲では、仏教のアビダルマでは、因果関係についていろんなパターンが論じられていたと思います。
しかしそこで、上記自己啓発本のような、因果関係が論じられていたような印象は残っていません。

質問ですが、ちょろっとでもよいので、自己啓発本でいわれるような、精神論的な因果関係について、アビダルマ(倶舎論など)、あるいは仏教全般の経典の中で、そういった言及が(ほんの一行でも)あれば教えてください。
よろしくおねがいいたします。

Aベストアンサー

こんばんはー。
僕もこの本持ってますが、これは自己啓発本の種にはなってますが、この本自体はそうではないと思います。
自己啓発本では願いを叶えることを目的としてますが、この本は基本的に違います。
もっと抽象的で普遍的内容を持ってると思います。



この本の内容は、もちろん読まないと無理ですが
個人的感想だと

この宇宙を動かしているのは、混乱ではなく秩序。
すべてのことには原因があり、不思議な事はなにもない。
良いことも悪いことも全て自分が中心となって周りの環境を生み出している現実。
人生は非常にシンプル
穏やかで満ち足りた生活をおくる方法
自己責任

というふうな感じかなーと思います。
成功哲学などではないことは、著者が冒頭で「昔から論じられている「思考のパワー」の完璧な解説書である、などと主張するつもりは全くありません」とあることからも想像されます。





このすぐ後に著者は、「自分が人生の作り手であることに気づくこと」が大事と書いています。
つまりいいことも悪いことも全て自分が原因となって、外部環境の変化という結果を生み出している、という現実のメカニズムについての分析です。
これが原因と結果という題の意味ですし。
このあたりは仏教とそっくりです。

P22に「私達を存在させている法則でもある、原因と結果の法則」とあります。
あなたがあなたがなろうとする人間になる、というこの本の言葉は、表面的な願望ではなく、自分の本音と、その本音に対する
自己責任が問われています。
その責任の認識こそが、外部環境は自分の思いで生まれ出る、ということにほかならないので。
http://ja.wikipedia.org/wiki/縁起 に書かれてる
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」
というお釈迦様の言葉は、ジェームス・アレンの言っていることと変わりません。
マイナスからもプラスからも目を背けない、という責任を背負うことで、すべてが自分から生まれていることを自覚できる、という意味になります。
それは、キリスト教でいう自分の罪、仏教でいう自らの業や因縁縁起に対する理解と変わりません。
自分のプラスもマイナスも対峙して理解しないと、原因と結果は見えてこないと言ってるように思えます。

そこまで理解が深まれば、確かに成功哲学の本が語るように、自分で願いを叶えるという発想もありなんですが、
でも一方、悪や悪いことが自分を原因として生まれるなら、それを止めるのも自分であり、それで悪が無くなるのだから、
あえて、成功哲学という風に、プラスに持っていく必要もないかも?とも思います。

この、環境は自分が作ったもの、という所だけがひとり歩きして、のちの成功哲学に偏って取り入れられたように思います。
成功哲学は願望を叶えることに特化したためちょっと視野が狭いのじゃないかなー(失礼)という気もするんですが、
この本はそうでなく、うまく中庸中道を踏んでおり、すごいなと思います。内容はとても普遍的です。
またそういう偏りのない現実に対する視野がないと、原因と結果の法則が、夢ではなく現実だとは悟れないのじゃないでしょうか?
成功哲学を特殊なテクニックだと考えてる限り、この原因と結果を理解してない、ということになるんじゃないかと・・





自分を原因の第一としてすべての事象は起こっている、というこの本の内容は、ほぼ仏教の主張と重なります。
というのも、不思議など何一つなく、全ては単純明快で、理不尽なことなどこの世に一つもない、アレンの主張は、
ほぼ仏教のいう「無、空、縁起」と重なるものがあると思うので。
仏教の根幹と、アレンのいう中心事項は、僕は同じものと思うのですが・・。
論理的に説明しろ、と言われると大変ですが。

もともとこの時代のこの関係の本は、19世紀、インドからヨーロッパに仏教がどっと入ってきた時期に当たるみたいで、
そういう影響は大きいと思います。
一語一句仏教と同じというところは少ないけれど(背景に神やキリスト教がありそうなので)、内容を理解すれば、仏教と変わらないと思うので。

この本は、冒頭「環境は自分を写す鏡である」から始まり、「穏やかでいなさい、穏やかにしているのです!」で終わります。
この中間には、のちの成功哲学に取り入れられるような内容も確かにあるんですが、それが理論的基礎ではなく、彼の言いたいことはそれではないから
「原因と結果」という本の題にしてるんじゃないかなと思います。
仏陀のことについては、この本ではP72と、P94に少し記述があります。
著者は、仏教のことも十分その骨格は理解していると思いますし、表現方法は違っても、仏教と自分のいう内容に矛盾がないことは、
著者本人が一番良く知っていたんじゃないか、と思うので。
スピリチュアリティーと仏教は、いずれも現実について説明したものなので、同じ内容だと思います。
死を基礎にする仏教と、生を背景にするスピリチュアルでは、表現は正反対になりますが、
生と死というこの2つがそもそも表裏一体のものなので、裏を返せば2つは同じになると思います。



以上、私見というか、大雑把な話ですが。

こんばんはー。
僕もこの本持ってますが、これは自己啓発本の種にはなってますが、この本自体はそうではないと思います。
自己啓発本では願いを叶えることを目的としてますが、この本は基本的に違います。
もっと抽象的で普遍的内容を持ってると思います。



この本の内容は、もちろん読まないと無理ですが
個人的感想だと

この宇宙を動かしているのは、混乱ではなく秩序。
すべてのことには原因があり、不思議な事はなにもない。
良いことも悪いことも全て自分が中心となって周りの環境を生み出している現実。
...続きを読む

Q事態を収拾する為に動く人とそうでない人の違いとはなんじゃらほいっ!

事態を収拾する為に動く人とそうでない人の違いとはなんじゃらほいっ!

Aベストアンサー

責任感。

Q命が私を生きている そうなんだろうけど、そうだなあと思うことが自然だとは思わない。なんかスレてて

命が私を生きている


そうなんだろうけど、そうだなあと思うことが自然だとは思わない。なんかスレてて時を経てきたんだろうなと思います。

最初っからしっくりきてしまっては、
命さんとしては困ることでもあるんですか?

Aベストアンサー

これね、枝雀師匠の座右の銘みたいなものでした。
首を吊ってしばらくして亡くなっちゃったけど、仏教をよく学んでいた人でした。

命さんがお上で、私が手下、という理屈は足すところも引くところもない理屈なんですけれども、〈私〉というのは、〈私〉を否定し続けたら病気になるように出来ていて、〈私〉にOKを出さないと死んでしまうものなんですね。この、能動的な〈私〉に、受動的な〈私〉が否定ばかりされるようなことがあったら、もう、生きて行かれないのです。〈私〉が無いと命も生きず、また、命が生きているなら意識不明でも〈私〉はあるといえましょう。
だから、生きて命を守るためには、〈私〉が上で監視をして、ほどほどにOKし続けないとなりません。そういう心の(脳の)習慣が、一歩間違うと、〈私〉が上にあって命さんをどうとでもできる気持ちになってしまったりと、両刃の剣でもあります。解約希望さんの心が標語にしっくりしないのは、監視役の〈私〉が、〈私〉をOKしつつ命を守っているからで、また、それが人間の自然だからです。

Q量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在してる、そうです。そうすると、認識している私は、自

<量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在しています。>
そうです。
そうすると、認識している私は、自分自身を認識している、ということになるのですか?

Aベストアンサー

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり前のこと。

「世界は認識される」という表現で問題なのは、この表現中の世界(主観的世界、物理学的な世界などなどの対象化された世界)を〈世界そのもの〉としていること。

我々の知る世界は、程度の差はあれ、主観的な世界に過ぎず、
そんなものがあればですが、
客観的な世界や〈世界そのもの〉に至ることはできないんじゃないですかね。


☆認識している私は、自分自身を認識している
◇〈認識している私によって対象化され、再構成された《認識している私》〉を認識しているに過ぎません。
認識主体である私が、私の表象(イメージ)を認識していると言っていいのかもしれないですね。
もっとも、ここで言う〈認識主体である私〉がすでに表象(イメージ)に過ぎないけれど。

ショウペンハウアーのこの言葉が参考になります。

ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。
https://goo.gl/w67lxK


ミクロとマクロの関係の話が出ているようなので、私は違う角度から。

我々が実際に生きる世界は、10²³というアボガドロ数オーダーのさらにアボガドロ数オーダーくらいの超多粒子系の世界。
たとえ電子などの粒子一つ一つの挙動が確率的なものであったとしても、このような超多粒子系の現象は平均的なものになり、この平均的な振る舞い、平均値からの逸脱は殆どなくなります。
 ――量子力学のトンネル効果があるからと言って、超多粒子系の我々は、我々の体を構成する電子などの量子の如く壁を通り抜けたりは出来ない!!――

我々はマクロサイズの世界で、そして、圧倒的多数の多粒子系の世界で生きているので、量子力学がどうであれ、我々が日常的に観測する現象はほぼ100%の確率で(古典物理学的な)決定論に従っており、ここに量子力学の出番はありませんよ。

まして、哲学の認識論に量子力学や量子論は必要ないと思います。

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり...続きを読む


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