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1.人間は何故、あらゆることに理由を求めるのか?

2.人間の存在に理由があるのか?あるとすれば、それは何か?

3.人間の存在に理由がないとすれば、それはどういうことなのか?

質問者からの補足コメント

  • 1.について補足します。

    小さい子供が親に「なんで、なんで」と本質的なことを問います。大人になっても
    同じように本質的なことを問い続けることの理由は、子供と全く同じであると思い
    ます。

    その理由を知りたいと思っています。

      補足日時:2018/03/29 22:30
  • どう思う?

    2.について補足します。

    様々な観点から理由付けができると思いますが、哲学的・本質的理由ということで
    「因果」つまり、「人間を存在ならしめている因」とは何だろうということを考え
    ました。

    勿論、簡単に答えの出る類の疑問ではありませんが、あれこれ考えて一つでも進展が
    できればと思います。

    また、「目的」ということは、「様々な観点からの理由付け」の一つであると私は考
    えています。

      補足日時:2018/03/30 06:51
  • どう思う?

    3.について補足します。

    本質的なことについて「偶然」であるとする哲学が世に存在しますが、
    「因果律」の枠から外れるということが、「時空の枠」から外れること
    と同じくらい私には理解ができません。

    もし、「偶然」というものが本質であるならば、それはどういうことな
    のかということを知りたいと思いました。

      補足日時:2018/03/30 06:58
  • うーん・・・

    人間の存在についての「因果」は、人間がそれをどう意識しようが、
    それには無関係に存在するものであろうと思われます。
    また、因果は通常は因が先だつもので、あるいは因と果が同時に起き
    る場合も多いと思います。

      補足日時:2018/03/31 10:17
  • 人間が「何故と問うことの理由」と、

    「人間を存在ならしめている因」は何かという問いであり、

    キリスト教であれば「神の意思」ということになり、
    「存在性理論」であれば「存在性」という性質、とい
    うことになろうかと思います。

    「人間は何故生きるか」という問いではありません。

      補足日時:2018/04/01 02:05
  • うーん・・・

    本質と存在のどちらが先立つかと言われれば、存在と私は答えます。
    だって、私はヒューマニストですから。

    今は、本質のことを考えているということです。

      補足日時:2018/04/01 03:06
  • BAは、その内容には議論の余地があるにしても、一番
    掘り下げていると思いました。

      補足日時:2018/04/11 14:17

A 回答 (34件中1~10件)

1の回答 人間は世界が合理的に動いて変化することを知っているからです、経験上。



2の回答 人間の存在の理由は 存在し存続し未来に色んな存在を実現して行く事です。

     人間がやらなければ世界はエントロピーが増大し熱死します。

     それは人間が秩序を作りエネルギーをコントロールする事が出来るからです。

     それがAIであっても構いません。

3の回答 存在に理由がなければ理由を創造するか、野となり川となるわけです。
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この回答へのお礼

1.それを確認したいがために、理由を求めるということでしょうか?
子供がそれをするということは、人間は「無意識」のレベルつまり「集団心」で
それを理解しているということになるのでしょうか?

2.なるほど、haruさんの結論の一部がやっとわかりました。納得はできていませんが。

3.2.の理由があるのみということでしょうか。

お礼日時:2018/03/30 07:33

ラプラスさんが思うには、ひとつひとつの粒子をきちんと追いかける装置があって、すべての粒子の行く末をみることができるなら、すべて必然であると証明できる、というものでしょうか。



わたしたちが言葉で理解できているものはずいぶん捨象されているので、注目している部分の前後関係しかわからないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ラプラスの決定論って、よく知らないんだけど、正しいの?
正しくないんでしょ?

どっちにしても、人間を存在ならしめている根本的因のことを
考えているので、ちょっと違うかな。
でも、情報ありがとう。

>注目している部分の前後関係しかわからないのではないでしょうか

自然科学だとそうですね。でも、物事を深く広く考えようとするのが哲学で
しょ?
ですから、哲学カテの「回答者」の言としてはいかがなものかな。

お礼日時:2018/04/07 23:57

2は、やってて悪いから上回る、ロボットが出来てきて、人間をうわまって、ロボットが止めると思いますよ!!


3は、偶然だから、三次元(時間)に地球は、入っているから、そこの偶然ですね!!四次元空間ですど、偶然は時間を上回っているから、偶然はありません!!三次元に入っているから、偶然がありえるのです。
だから、先ほどの答えですよ!!過去に戻れない、未来に好きにいけない、今しか見れないから偶然がある。
だから、時間に地球は、三次元になってるよ!!
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この回答へのお礼

ロボットに止めてもらいますか。

三次元と四次元の話、滅茶苦茶な気もするけど、すごい鋭い気もする。
マジでね。ちょっと考えてみますね。

お礼日時:2018/04/07 23:44

1 は、結果を求めたいから理由を求めるのじゃないですか!!


2 人間に存在に理由があるかないか?どちらでもありません!!それよりも、自分自身の存在があるかないかですね!!自分自身が存在するから周りがわかるし、わかることによって自分がわかるからです。人間の存在に理由があるとしたら、次の進化に行くための通過点です。
3 2の答えから、人間の存在の意味がないとすれば、進化をしても永遠に進化をするから意味がありません!!後々、解りませんが、人間に上回る物が、できるからです。ですから、恐竜と同じです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.間違いではないと思います。

2.どちらでもない、ということは一つの回答足り得ると思いますが、人間存在の
根本的「因」というものがあるはずだと考えていますし、人間というものは何か
ということの答えになると思います。
要は、「こんなに勝手気ままにやってていいの?」という疑問に対する答えがほ
しいということです。

3.偶然ということの意味を知りたかったのです。

お礼日時:2018/04/07 06:27

人間は理由を知らないと不安、把握しておきたいと言う思いがあるからです。


でも、実際は知らなくていい事はたくさんあるので、
何でも答えを求めるのは良くないです。
人間の存在には理由はないです。自由に生きてください。
自由を奪われるって本当につらいです。
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この回答へのお礼

私にも興味のないことはたくさんあります。

有名人のプライバシー的なこととか。

本質的なことを知ることによって奪われる自由があるとすれば、
それは、道理を無視して人に迷惑をかける生き方をする自由、
ということになりませんでしょうか?

お礼日時:2018/04/07 05:17

補足読みました。

1.に答えたいと思います。これはですね、知的欲求と言うものだと思います。高等動物になると遊ぶ事を覚えると聞きます。猫やイルカなんかは生存に必要な事を遊びで学びます。一見役に立たないようなそれですが、そこからいろんな動作や、対象の持つ様々な性質を学び取るのですね。鯨の類が、鼻から出す気泡で魚を追い込んで漁をするのですが、この漁の方法は遊びから生まれたのでは無いかと推測します。そして人間の段になると、遊びからさらに進んで知的欲求と言うものを持つ。一見役に立たない、そんなものを詳しく見て何になるのか?と言えるような事が、知識を生み出し思いもよらぬところで役に立つ。この石を熱すると何故、冷えると硬くなる物質に変成するのか?地の果てはどうなっているのか?犬は何故この草を食べるのか?そう言った知的探求は人類の生活の質を高め、その範囲をぐっと広げて来たように思います。技術と科学が生まれた原因に、何故何故?と言う知的欲求があったわけですが、それが人類の生き方の一つのコンセプトになっていると言えるでしょう。この知的欲求が自分自身のことや世界や宇宙の事に向けられた時に、それらをどう捉えるかと言う思考モデルが形成されます。これらのモデルは、事実の発見の積み重ねによって、後代にその正しさ如何が証明されるのですが、思考モデルの構築自体は非常にクリエイティブな作業です。発想の正しさが証明されるかどうかは別にして、その事(クリエイション)自体が人間の生を拡大して行くことは容易に想像されます。
遊び、知的欲求、創造、これら全ては生存本能の様々な形の現われと見れるのでは無いでしょうか。で、この生存本能とは一体何なのか?と言う問い自体もまた、人間の飽くなきフロンティアを求める営みであると言えるでしょう。
ここに来て初めて自由と言う一つの哲学的題材が発見されるのであると私は思います。ここでは、哲学とは、問いのレベル(次元)が拡張して行く事によって生まれる問いの解決法であります。平面を空間によって再定義する事でその全容を見る事ができる様に、問いの次元を引き上げる事によって、もとの問いを解決すると言う事ですね。

1.の答え
それが人類のフロンティア精神だから。
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この回答へのお礼

私がこの1.の問題を、自分の子供のときの記憶をもとに考えたところ、「道理」
という哲学を知りたかったからではないかという一応の結論に至りました。

ほとんど記憶は残っていませんが、おそらく私の性格からして一緒にいた母親に
変わった質問を連発したのだろうと思います。

私の両親は学歴がなく(戦争の影響もあり)、博識ではありませんでしたから、答
えることが出来なかったんだと思います。
その満たされない欲求が、大人になっても何故を問い続けさせる原因になったの
ではないかと思っています。

現代においては、子供たちに懇切丁寧にものを教えるということが普通になって
いますが、私はそれはいかがなものかなと思っています。

さて、キサラギさんのお答えは、道理というものを知り、さらにそこから価値創
造のために思考モデルを創りたいという欲求まで拡大させたものを因とする、と
いうものであると理解しました。

仰ることは分かるつもりなのですが、ここで一つ疑問が生じます。

子供のころは、道理を知ることで手一杯でも、大人になるにつれてそれを創造と
いうところまで昇華させてゆくことのできるクリエイティブな人は、かなり限ら
れるのではないかと思います、現実に。

ということは、おっしゃることが人類に普遍的なことなのかどうかということ。
そして、それが普遍的なことならば、それをできないということはどういうこと
なのかということです。

お礼日時:2018/04/07 05:06

デビットさん硬いですよ。


しかし、情けないことを言っていることも、多少に理解した方が良いと思いませんか?

学びは対話にて起こる。
貴方が ここで学ぶつもりをないと言う言葉は、
少しでも知識を得てよりよく生きようとする人々に失望を生みますよ。

要は、質問しているが暇つぶしだと断言しているのに近いのですから。

ここも度合い節度でしょうが…

端的に言うと貴方に学ぶつもりはなくても、、相手の尊厳を立て、そこしは話を聞く姿勢はあるじょうたい。それが貴方の今の、一般的な表し方と思えます。

何も学ばないで人に聞くと言うセリフね。
それは、相手を馬鹿にする行為と似ています。
要は貴方から学べるものはないけれど、面白い話をしてくれないか、聞いてやるから、と傲慢な姿勢とも取れるのです。これも程度に。なので、やや強めに言って申し訳ない。

さて、
真剣度の法則を押さえておいてあげましょう。
まだ、謙虚姿勢の意味を知らない 貴方には。ぜひ探して欲しいところです。

ゲーム(遊び) → 試合 (+現実的) → 真剣((試合))!!

上の図?は、
要は心の持ちようで、現実の必要な意識は変更されていると言うことを表します。

詳しく説明すると、

将棋やオセロ、碁^_^のプロがいるとします。

しかし、彼らは、社会が人間を生かすと言う点において、何ら必要性のないもの、か
と問えます。

生かすのであれ、活かすのであれば 必要と先に答えておきます。

しかし、戦争のような有事には、不要。または扶養 (性 申請 神聖)

食べ物を作る一次産業や 基盤を作るインフラ 土木産業よりは、重要度は、場合により軽いと みなせます。

ではなぜ人は真剣になるのでしょうか?

真剣試合とは、
しなくてもいいのに、
生死を分かつ試合
それを行う 状態 にある
2人の状況 と呼べます。

しかし、プロ野球選手は試合に真剣だ!
何故なら、食っていけないから。負け続ければ。〜。となりますね

同じく囲碁やオセロや碁などのテープゲームのプロとて、人生の死生観に近い真剣さを持って
社会に必要とされる (要は儲かる)
仕事 (つかえること)をしていると呼べます。

不真面目な姿勢では、勤まりません。

何故社会は、彼らを必要とするのか?

それは、1.歴史ある競技を廃れさせたくないから。
2.そのテーブールゲームを学ぶ人が増えることが、人生。豊かにすると本気で考え(れる) 人々がいるから。
3.知的 思考の末に人類発展は続くと、思考を伸ばす側面のあるこれらゲームを応援するから。

1〜3が複合の割合で、それを推す人々が成立すると言えるでしょう。

つまり、そう言うこと。
真剣にやらないものを、
人は見下し、また、真剣に学ぶものを応援するのは、

社会の秩序 (学問)上言えば、
この社会をよりよくしていくことを、信じれる。
その真剣さが、将棋や碁にプロへの、投資を作り出している。信頼の人類社会のお話です。
オセロにプロがあるかは渡し知りませんか"

さて、プロ野球とて、夢や希望に必要と社会が思う。

アリとキリギリスの真実は、昔だから、程度間違いがある (封建社会の 王政側の 賛同が得られやすい 論だったとも)

働きアリは、音楽が必要なんです。

今の世界には、
音楽なしで生きていて、は、何ら楽しみのモテない人生と、断ぜれる論者が一般にも大量にいる。

ゆたかさをひていすることはたやすくはゆるされない。

けれども、野球は有事
戦時中には止まっていたでしょう?

これは命よりも大切に、真剣に取り組むべものは本来あるべきではないと言う思想、真理に由来があります。

この 【程度】の 節度、
全体を見た上での、真剣みを持たなければならない場所を、感が見えないうちは、まだ、見るべき うつつを抜かさずべき、現実が、見えていないと元得るのです。問

私から見れば貴方と、他の人の会話は、チグハグな点があり、どちらが正しいか、まだまだ見えない状態
(他に真剣さを取り入れるべし課題が私にあるため、単に全ての分は読めていない、と呼べます か" 申し訳ない。程度全体像を予想した上でこの回答を出しています。恐れ入りまし。有難う 因果 そして我らの無知の智よ 大地)

貴方は、一般より博識で、物の本質に向き合う姿勢において、誠実に近いと思えました。
学識がない点に、自己嫌悪からか?自虐が目立つように見えます。この最近の回答。
して、少し学ぶ姿勢があるのですから、ブロックでの相手の言論弾圧や、
学ぶ気ないと言う、ニヒルに決めすぎる 悲観主義は?
抑えた方が良いのではなくて!かなぁと思った故に出しています。
今回の回答発表もかねますがね。世を良くするための。

では、どうか、適温で、仲良く喧嘩してください。
論議はそもそも相手に否定される恐れもある諸刃の刃なのですから。
それでも人は触れたい。人とかかはりたきとねがう。愛の魂があると信じています。

長文 若輩なわたしで失礼しました。世界への渡で素。


なお、


真剣試合。
≠ (ノットイコール ギャランブル ) ギャンブル
と呼べるのは、社会のためではなく個人の儲けのため、オンリーにそれは成立するからです。
それは、やり方によって悪式もある
この見方は、だれも、どうか忘れないでください。嘘喰いは、やり過ぎ。カモ。鴨



それと存在との関連。確かに愛持って、物質をも動かす作用的 動作は、ストレスを生み
時に生きている事に、行きてきたことにすら、マイナスと
負の領域を生み出す場合はあります。 (生きていたくないともなる、本能セイリ性 = 疲れる)
例えば、貴方のもう学ぶのは疲れたから、学ぶ気での話どしたくない。しかし好奇心はある。なら

では、質問などせずにただ見ているだけでも良いはずです。
学ばずに、自身をゲームを外から傍観する傍観者に、と、なることを求めるならでしょう。?

観測者 上川目線は物語における 本を読む方。真剣味がなければ感情移入はできません 理解という、なりきり、と言うか。この世界に)

けれど触れて見たい。
故に存在は成立する、
この肉持ちて、身 心とともに、複雑なる重さを持つ体を操(くる)る世界に生まれしこと、と言うものこそが、

世界に何らかにカカワリたいと、願う魂たちの、到達した楽園惑星、地球。とも呼べる、かも、知れぬ、から然り。

しかし、どうか、触れることで痛みを追うことに、疲れたからと言って も、
いつか、その疲れが取れる日が来ると信じ、
学ぶ方向性に向かう(光) だけは、失わ何でくださいね。

それは愛ある砲口。
それは愛故、見失いつつもある光の石、秩序。

コスモスは、もうすぐこの世紀、この世界に降り立つ!

それでは、ゆっくりでも歩き正してください。歩き出して、それがゼロじゃない限りは必ず辿り着くべき場所へと、帰りつけるのだから。


では、何故人はあらゆるものに、理由を求めるのか、
もっと良い喜び、真理に(世 界 甲斐 貝)に、出会いたいから。イデアの思想に似ますね。

ね。
少しは重み現実味が帯びたでしょう?
このありきたりな言の葉

僅かでも、触れて経験したもので、愛は深まる。

人は、そのために生まれてきたとて、そう信じるものたちには、過言ではないのでしょう


エル ミル システィーア
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この回答へのお礼

不思議な雰囲気を持ったMercurious0_7810さんですが、感性の鋭いあなたなら
分かると思いますが、今の世に満ちた精神性ですよ。
これを吸収してしまって、私の免疫能力を超えアレルギーが噴出しているんです。

生来の私はクソの付く真面目、純情人間ですから。

ここにいるのは、良い回答があったりするからです。刺激にもなりますし。

まあ、今後はアレルギーブロックをしながら、私なりの勉強をしようと思います。
実は多くのことを学んでいるんですよ。
もういいと思ったら、いなくなりますけどね。

あなたの回答にろくに返答できずに申し訳なく思っていますが、この人は一体何を
持っているのだろうと思いますわね。

お礼日時:2018/04/05 14:49

>それから、私は学問をやるつもりはないということを何度も書いていると思うんです。


>こういうことをすると、ハラスメント的に受け取られますし、

哲学カテに来ているのに学問をしているわけではない。
ハラスメントになるかもしれないと自分でわかっている。

それを言ったらおしまいよ、という感じですねえ。ちゃぶ台をひっくり返し、ひっくり返さないでいいおかずも2皿、さらにひっくり返したという感じがします。
年寄りだという自負があるなら、もっとクールでないと。
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この回答へのお礼

>哲学カテに来ているのに学問をしているわけではない

ということは何度も言っています。それを、今更否定するのは不自然ですね。

哲学という学問に興味のある人は少ないけれど、物事の本質を考えることの好
きな人は多い、とはかねてからの私の主張です。
哲学カテだから学問をしなければならない、と言っているようなもんですよね。
もしそうならば、参加者はドンと減るだろうと思いますよ。

>ハラスメントになるかもしれないと自分でわかっている

そんなことは言っていません。

ハラスメント的に「受け取られる」、と言っているんです。

なんだろう?本当に頭が悪いのでしょうか?

私を攻撃することで頭がいっぱいなんでしょう?
頭冷やしたほうがいいと思います。

お礼日時:2018/04/05 02:07

>もう一つは、「分からないことに対する見当付けが鈍い」つまり直観力の問題。



直感というよりは、話を合わせる力、調整力、太鼓持ちの技術などが当てはまるように感じました。
そしてDRさんの主張は簡単いうと、自分が勤め人時代にやっていたことを私にも求めているということですね。もっと言えば、「若者よ、お前の太鼓持ちが足りないぞ。俺が若い頃はもっとうまかったぞ」と叱咤なさっているということでもあるようです。
私は、学問とはそういう態度ではいけないところもある、とお伝えしておきます。DRさんは学問については時間が浅いようだから、私の話を聞いても良いだろうと思って、噛み砕いてお伝えしてみます。

学問っていうのは、わかったふりをしないんです。私は小学校の頃に、わかったふりのうまい友達がいたことを思い出します。私もわかったふりがうまかったものです。ところが、わかったふりをし続けていると、算数の問題がいくらやっても解けないことがわかってきた。仲のいいわかったふりの、友達は10点くらいしか取れていない。私は40点くらいだったが、これもまずい。なんとなく要領よく雰囲気に流されていると、70点が限界です。私は90点の人の行動を観察して見ました。するとこの人、「わからない」ってはっきりいうんですね。

その時は「こいつばかじゃねえの」とも言われますし、大恥もかくし、教室の雰囲気も悪くなります。先生が一生懸命説明したのに、「わからない=不十分だ」っていうわけですから。しかし私は教室の雰囲気を作っても、自分のテストの点数が悪かったら何にもならないだろうと思ったわけです。で、私はこの「わからないさん」を見習って、一度、自分もそれをやってみることにしました。すると、新しい見地が広がってきました。「聞くは一時の恥,聞かぬは一生の恥」とも言いますが、自分でそれを体験したわけです。

私も人間ですから話を合わせることはしばしばやりますが、精密な話がしたいところでは「わからない」と発言するように気をつけています。問題は70点でいいと思うか、90点を取りたいと思うか。ここの差だと思います。

余談ながら、セールスマンは、全然違うロジックで動いているのではないですか。わかった感じがして、わーっと盛り上がる。雰囲気がとにかく大切。契約にまで行けば、それでひとまずOK。自分たちはムードメーカーを担当して、細かいところは、専門家の部署に言って、いろいろやってもらう。(私はセールスマンではないから違っていたらごめんなさい。こういう単純なことではないかもしれません。)
しかし学問はセールスマンよりは、専門家の部署に近いんです。だから職人気質というかね、「そんな分析力じゃやって行けねえよ、力がないことに言い訳してんじゃねえよ、てやんでえ」みたいなことを言うわけです。

セールスマンの奥義であると直感力を馬鹿にするわけではありませんが、TPOが違うことはわかってもらいたいところですね。

バルト海さんと、No26さんには感謝したします。
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この回答へのお礼

>「若者よ、お前の太鼓持ちが足りないぞ。俺が若い頃はもっとうまかったぞ」

どこでどう読み取ったのか分からないのですが、私はサラリーマン時代は上司の
太鼓持ちとは正反対で、上司に正論をぶつけて睨まれるタイプでしたね。
どこかで書いたと思うんですがね。

それから、私は学問をやるつもりはないということを何度も書いていると思うん
です。
自分の目的のために勉強をしたいということであって、学問をしようとは思って
いないということです。

だから、やっぱり、鈍いと思います。

cyototuさんもA氏もあなたには苦言を呈しています。知っていますか?
彼らの苦言が身に染みているのなら私は何も言わなくてもよかったのですが、そ
うではないと思ったので、最後の贈る言葉でした。

議論でもないし、あなたを攻撃するための悪口でもないことは自分でよくわかって
います。
こういうことをする人はすっかりいなくなりましたが、つまり、大きなお世話のお
節介なんです。

今は、こういうことをすると、ハラスメント的に受け取られますし、ここぞとばか
りに私を気に入らない人たちなんでしょうね、2~3人寄ってきて責めているようで
す。こういう時代です。

あなた、A氏をさんざん悪く言って、彼女が対話を求めてきたときに拒絶しましたね。
私もあなたを拒絶します。もう二度と来ないでください。

お礼日時:2018/04/04 21:00

あなたよりずっと優れている人とは、どんな人か、自身を馬鹿だと謙遜白状するよりもまず、



自身の認知バイアスを認識できる人ですね。

あなたのおっしゃる通りあなたはバカだけど、あなたが自身についてどういう評価をしているか自体興味はない。(関係ないこといいました)
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この回答へのお礼

そろそろ、気が済んだかな?

お礼日時:2018/04/04 20:21
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Q存在理由=レゾンデートルの味

人は、それぞれ(仕事や近親者への情愛など)何かしらの具体的な存在理由を実感して生きているものだと思います。しかもそれは一つではなく数えれば限り無くあるでょう。言葉にはし尽くせない程に。

ところが、自分一つのシワの少ない頭を過信して、それだけであーだこーだ考え、しょぼい人生の言い訳作りをする事が哲学だと思っている様な人は、レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている様です。

その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。
たとえばそれは喪失感でしょうか、失って初めて気付く様な大切なことなど。

Aベストアンサー

存在理由など考えないで生きている人が大半なのではないでしょうか。考える暇もないというか、時間に忙殺されてる人も多いし、逆に何も考えずに時間に流されている人も多い。ただ、その前提には個人的なゆるぎない背景というものがあるはずです。家族への愛情、仕事に対する情熱など。
存在理由、立ち止まって考えることができる時って、きっと出会いや別離、深い喜びや悲しみに遭遇したときなんでしょうね。そう思います。

Q存在と存在理由とは どちらが大切ですか

 前者だと考えるのですが もし

 ○ 生命を賭してでも これこれの使命を果たせ 

という存在理由を持ったとした場合 どう考えるでしょうか。
 A. 存在こそが大事なのだから その使命とやらが あやしいと考えるのか。
 B. いやいや おのれの生涯を賭けた使命としての存在理由なら 存在そのものなのだから おのづと答えは知れているとなるのか。

 * 人間は考える葦だとは よく言ったものですね。このことで考える余地があるということが 人間なのでしょうか。

Aベストアンサー

では、神の「情」はどう推理でき、捉えることが出来るのか? 

ここにキリストが登場します。 キリストがそれを語ってくれました。

しかも、身を呈してです。  つまり、その存在理由がおそらくですが、最大限に存在の意義と同じほどの意味を持つようなあり方でそれを私たちに示してくださった。  ということだと思うのですが、 そこはたぶんbragelone様と私の考えは同じだと思います。

でもその意味合いを持って 三位一体論を語るならば、そのように言えてもしまうような「存在」がキリストであったとしても、 おそらく神学でいう意味とわたしのそのへんの理解とは違うのではないだろうかと思っています。  

私のは単純すぎます。 でも私自身には覆せない考えです。

キリストは情の部分で神と同じような境地に達したのではという信頼性は私の中に起こります。 でもこれは信頼です。 たぶん信仰ではないと思います。   そうだとすれば、私たちの心(情)にとって、キリストは神と同じようなもの(かどうかは 聖書という記述だけではそれもまた厳密なことは解らないとも思っています。)そういう人間だったとは、言えてしまうということであり、  では「霊」とは何かといえば、 私の考えの中では、神もまた人間と同じようにあたりまえに他には存在しない「主体」だということにすぎません。    あたりまえのこととしてしか考えられないということです。

其の「情」の部分、キリストは物質あるいは生物でもあるわけですが、さて「表象」は可能かというと、 ここで近代演劇論における「表象」の問題がでてきますので、 ここはbragerone様の次の質問への私からの回答の方でもでてくるでしょうから、そちらにまわします。   演劇論での「表象」ということなら、やはり、これは確かに不可能です。ということなのですが。

しかし、「情」は、私たちの経験から追いかけてゆけますし そうすべき存在です。 その道にても この論議に必要な謙虚さも神への謙虚さも始めて得られるという考えです。

親ならば、普通は自分の子供に対して その個のかけがいの無さに気がつく感性の機会はたくさん体験しているでしょう。 しかしこれさへもいそがしさとか、それこそ間違った「欲望への対応」のために見過ごしてしまう時があります。  そのへんが森のある村の中では 気がつく能力とかは大きかったという推理もあるのですが、ここは簡単に触れるにとどめます。   その経験知プラス 存在の不思議さとかの感受が 徐々に神の超自然という五感では捕らえられない「情」を想像できるようになる。というありかたでしか、 神の其の姿を推理できないという考え、 ここまではわかりましたでしょうか?     これは しかし、そこにエベレストが見えるようになったら、 始めて空や星の奥深さが実際に少し感じられるようになったという時の、はるかはるか上の がゆえに非思考にならざるを得ないそういう存在が神の心あるいは「情」の世界なのだというものです。   

これ以上完璧なキリスト賛歌なる音楽は無いという音楽を音楽においては仮にバッハが完成してしまったとしましょう。 それも考えられませんが仮にです。  でも、その音楽を感じる完成は そのエベレストよりもはるかに高みの可能性を宿しています。 そして、もちろん、其の可能性は神が私たちにすでに与えてくださってる贈り物です。  あるいはこれを存在の贈り物と言ってもいいですが、 いわゆる無神論というと、これを人間の力のみで生み出している可能性ととらえるわけですから、べつに神にとっても社会の正しい進歩にとってもどうでもいい理論ですから、それはそう考えたい人の自由でいいのですけど、あくまで半欠けの理屈と私には思えるということにすぎません。   有神論と無神論が、同じ信仰とう形のものとなるとは思えないということなのですが?

無神論のことは、私の方からは論じる必要は感じませんが。どうなのでしょう?   感性が深くなれば必然として有神論となるし、論というよりそれが自然に感じられるようになるし、 それでいい問題だという意味で喧嘩する必要なんてどこにも無いというのが私のそのへんの考えということなのです。

また、このように考えならば、 理性信仰?に陥る危険は、経験から出発しても無いと思うのですが、どうでしょうか?

神はすばらしい理性を私たちに与えてくださっていると思いますが、だからといって、私たちの脳は偏在知に近づくこともできませんし、時間を考慮に入れなければ、A地点からB地点への旅はかならず可能だという理論ならば成り立つのかもしれなくても、なんでも出来るということは絶対にありえないということを知ることも この理性にはできるようになっていると私は思います。

経験から 海の香りをうっすらとでも知る理性を 私たちという命の存在はすでに贈り物として贈られているという考えです。

A,その命(存在)を もし理性で考えた使命で捨てたとしたら、たぶん、その使命とやらは、理性信仰の疑いあり、となるのかもしれません。 あやしいです(^^)笑えますが。

Bは、同じです。 おのれの生涯をかけた使命、 だからといって、すこしでもキリストに近くなければ 純粋な感性からの自然なものでないなら、答えは知れてなんかいない。 存在そのものなんてと言えない。 

あれ? わたしはキリスト者なのですか?(^^)。 たぶん、ただ当たり前に、キリストの愛を考えたら 自分ってなんて小さいのだと思えてるだけのことだと思ってるのですが… それでいいのではないでしょうか?

理屈にはなってないのかもしれませんが、 これが信仰ならば、これ自体相対的なものであり、そして、経験の進化により発見し、感動し、さらに深めてゆけるものと捉えられるように思えてしまうのですが。

経験が大事というよりも、経験の進化が大事なのだと思う。 と そこにもまた「感性教育」ということがどうしても出てくることになります。

では、神の「情」はどう推理でき、捉えることが出来るのか? 

ここにキリストが登場します。 キリストがそれを語ってくれました。

しかも、身を呈してです。  つまり、その存在理由がおそらくですが、最大限に存在の意義と同じほどの意味を持つようなあり方でそれを私たちに示してくださった。  ということだと思うのですが、 そこはたぶんbragelone様と私の考えは同じだと思います。

でもその意味合いを持って 三位一体論を語るならば、そのように言えてもしまうような「存在」がキリストであっ...続きを読む

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>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q良心の呵責を感じることはありますか?

哲学者カントは、良心の呵責についてこのように述べています。

「人間が良心の呵責によって感じる苦痛は、たといその根源が道徳的であるにしても、結果からいえば、
哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。」
参考:カント 道徳哲学 岩波文庫 p.41

つまり、良心の呵責は、たとえ道徳的であったにしても、自然な感情から来ている。恐怖とか、哀愁とかいったように。

あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
それはどんなことですか?

Aベストアンサー

私も感じますよ。それも取り返しのつかない子供の頃の自分の行動とかにね。
歳を重ねていくうちにいろいろ経験していく中で、まだ自分の感情が未熟だった頃の失態とかを思い出して、何であんなひどい事をしてしまったんだと感じます。
たとえば犬を飼ったのに遊んだのはちょっとの間だけで、あとはほおっておいて散歩もしないでフィラリアで死んでしまったときとか、思うようにならない事で腹を立ててヤツ当たりに弟を叩いて泣かせてしまったことや、子供の時の事なんで誰でもやってしまう仕方がない事とはいえ、とても辛く思い出すときがあります。ほかにもいろいろと自分の失態を思い出しては良心の呵責に胸がつまります。不思議なことにそういう想い出だけは心に残ってるんですよね。

Q遊戯とは

念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。
これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。

「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)
 したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。

 きみが自ら投げるものをとらえる限りは
 すべては たくみと任された獲物
 きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき
 正確に可能にされた飛翔のなかで
 神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・
 そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の----
 そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば
 いや もっと不思議なことに
 勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・
 あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を
 若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように----
 そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者
 投擲はきみに軽くもなく 重くもない
 きみの両手から流星が輝きいでて
 自らの空間を駆けめぐる・・・
           (リルケ『後期詩集』より) 」

引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書 

念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。
これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。

「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。

健やかにお育ちのことと拝察致しております。
寝かしつけの際には子守唄か絵本の読み語りでしょうか…。
まことに勝手ながら、私にとって懐かしい、「遊戯」に関する物語にふれさせていただきますね。すみません。

『だるまちゃんとかみなりちゃん』
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=180
天から落ちてきた”かみなりちゃん(鬼のこども)”を見つけた”だるまちゃん”。
だるまちゃんは、高い木にひっかかって取れないかみなりちゃんの浮輪を取ってあげるべく、自らの傘をめがけて投げる「遊戯」をするものの。
何と傘が当の浮輪にひっかかってしまい、二人で途方にくれてエンエン泣いてしまいます。
そこへかみなりちゃんのパパが探しにやってきて、お礼に?かみなりちゃんの天の国へと招待されることに。
大歓迎を受けただるまちゃんは、180度異なる「異界体験」を大いに満喫したのち、お土産を持って無事戻ります(傘を開いて空から飛び降りる!)。

古来、「鬼」とはトリックスターのごとく、春をもたらす祝福の、そして「陰(おん)」の存在でもありました。
かみなりちゃんが悪戯心で天から落ちてきたり、だるまちゃんの傘投げを通じた人助けも、屈託のない好奇心と探究心に満ち満ちていています。

本来、こどもたちの世界とは「境界」を行ったり来たり自由自在であり、こども自身が想像力の豊かな異人的存在なのでしょう。
そして現代のこどもたちは、魑魅魍魎としたこの世の「陰の鬼の存在」を、どのように幼心に察していくのでしょうか。

『ゆきむすめ』
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=8777

かぐや姫と似たプロットの、ロシアらしい素朴な民話です。
”ゆきむすめ”が火の上を順番に飛んで、最期はふわっと消えてしまうところが、とても儚く切なくて。
春の到来を告げる祝祭の一幕なのでしょうけれども、
こどもたちの発案する「遊戯」とは、何と危険で残酷なのでしょうか。

いえ、こどもたちの他愛も無い「遊戯」だからこそ、半ば容赦なく時に危険、或いは残酷がまかり通るものでなくてはならないのかもしれません。
広い空の下の野原は家庭規範の及ばない治外法権の独立国、仲間外れや喧嘩は承知の上。
「ここまでやったら(言ったら)マズイ!やめとこうよ!」と、相手を最後まで追い詰めさせない限界基準や、最悪追い詰めてしまった果ての失敗などなど、
観念の理屈ではなかなか得られにくい稀有な「感性」だと思います。

ロシアの冬は長く厳しく、さぞ鬱々とした荒涼たる世界のはず。
それなのに、まるでなごり雪を愛で惜しむかのようなお話が生み出されたあたりに、
ロシアの大地や交響曲にも似た懐深さ、鷹揚さを感じずにはいられません。

ちなみに──"j"を辞書で追ってみると…
──jeter(to throw/投げる)
──jeu(game, play/遊び、遊戯)
──jeune(young/若い、幼い)
──jeuness(youth/青春、若さ)
──joie(joy/歓喜、喜び)
──joli(pretty/綺麗な)
──joue(cheek/頬)
──jouer(to play/遊ぶ、戯れる)
──jouet(toy/おもちゃ)
──jouir(楽しむ、味わう)
…と、何とも若々しく楽しげな言葉が列記されてありました。

Jeunesseの古語はjouvence。
まるで「青春、若さ」と「戯れ」とが、同源のようでもあり。

あの頃──自らが投げていたのはいったい何だったのか──
そしていま、いつの間にか「大人」になってしまった自分にとっての「遊戯」とは、何なのだろう、と──

ご教示下さった美しい詩を拝見して、ふと、そのように思った次第です。

こんにちは。

健やかにお育ちのことと拝察致しております。
寝かしつけの際には子守唄か絵本の読み語りでしょうか…。
まことに勝手ながら、私にとって懐かしい、「遊戯」に関する物語にふれさせていただきますね。すみません。

『だるまちゃんとかみなりちゃん』
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=180
天から落ちてきた”かみなりちゃん(鬼のこども)”を見つけた”だるまちゃん”。
だるまちゃんは、高い木にひっかかって取れないかみなりちゃんの浮輪を取ってあげるべく、自らの傘をめがけて投げ...続きを読む

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Qジェンダーの哲学

https://www.youtube.com/watch?v=yp1siFTAfWg&list=PLjRNMBifTNgy6OjUfqWPj-tmmndM0Xy91&index=13&t=0s

※参考映像

男女の不平等をなくし、お互いに自由に生きるために、我々は今後どのように
考え、行動していったらよいのでしょうか?

Aベストアンサー

日本の女性は腕力、すなわち体力で男性をはるかに凌駕していたのをご存知ですか。腕力に勝れば当然権力も手に入る。

昔の90%ほどが農家でした。それも稲作が主だ。稲作で最も重要な行事は田植えです。んで、田植えは女性の独壇場だった。男性には骨盤の都合上、前かがみで長時間行う田植えは無理なのです。だから、田植えの時は男どもの役割は、岡から苗を放り投げる役割と子守と弁当運び位のもので、残り時間は、岡で太鼓や笛に合わせて躍っているくらいなものだった。だから、昔の田植えを描いた絵は男どもが躍っている場面が定番です。

女性のその強大な労働力は日本の農家では周知の事実でした。娘さんは強力な労働力だった。だから、結婚したからといって、簡単に娘を他家に嫁がせて貴重な労働力を奪われるわけにはいかない。だから、日本の米作農家では男性の通い婚が普通だったのです。これは決して源氏物語の貴族階級だけの風習ではなかったのです。多くの村では第一子が生まれるまでは通い婚が普通で、その子供が生まれてからやっと、娘さんは夫の家に嫁いで行ったそうです。

確かに、武家では女性は子を産む以外に労働者としての役割がなかった。でも、そんな女性は日本の女性の中でほんの一部でした。圧倒的に大多数の日本の女性は、稲作農家で重要な労働力の持ち主であることが認められていた。すなわち、強力な腕力の持ち主であることが認められていた。そのことの証左として、日本の女性には財布を握る権力が与えられていたのです。

これって、西洋の女性のあり方と全く違っていますね。日本にはそんな長い歴史と伝統があった。道理で、日本の奥様方が絶大な権力を握っていると日本の男性なら誰でも認めているのですね。

日本の女性は腕力、すなわち体力で男性をはるかに凌駕していたのをご存知ですか。腕力に勝れば当然権力も手に入る。

昔の90%ほどが農家でした。それも稲作が主だ。稲作で最も重要な行事は田植えです。んで、田植えは女性の独壇場だった。男性には骨盤の都合上、前かがみで長時間行う田植えは無理なのです。だから、田植えの時は男どもの役割は、岡から苗を放り投げる役割と子守と弁当運び位のもので、残り時間は、岡で太鼓や笛に合わせて躍っているくらいなものだった。だから、昔の田植えを描いた絵は男ども...続きを読む

Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

>女性が女性の権利の主張をするほどに過去にいかに差別を受けてきたかを知ることになり、男性に対する憎しみが募るとは、エマが言っている通りでしょう。

逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む

Q人間は、食糧の奴隷か?

人間は、食糧の奴隷か?

Aベストアンサー

食料でなくて、力を持った人間の肥大化した欲望の奴隷でしょう。

Qそんな綺麗なことじゃない。

これは何を意味してますか?

Aベストアンサー

結果に至る過程というものは
結果の整理された状態から見ると
想像を絶するものだ。
ということだと思います。


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