一回も披露したことのない豆知識

道理という言葉を辞書で引くと、

「物事の正しい筋道、また人として行うべき正しい道」とあります。
「正しい」という言葉が入っています。

現代人にとって何か正しさを押し付けられているようで、反発心を呼ぶ
言葉かも知れません。

さて、「正しい」という意味を含んだこの「道理」という概念をあなた
はどう定義しますか?

A 回答 (13件中1~10件)

★ (№11お礼欄) さて、この質問は「道理」ということについて各々


の定義を知りたいということです。
☆ 辞書から引用された定義でよろしいのではないですか。



★ 正しさということについてのご意見は分かりましたので、正しさという
ことを抜き取った後の道理という概念の定義を教えていただければと思いま
す。
☆ 《ただしさ》を考えることによって 辞書の定義における《筋道・道》
の内容が分かると思ったわけです。


例示に終わりましたが・そしてなお例示としてになりますが:

① ヘソが曲がっているかどうかの問題だ。行動における中身というよりは
行為する主体たるわれの主観が いかにはたらいているかというその内容を
問題としたい。《客観》は どちらかと言えば 司法・法律の問題だ。



② ヘソを曲げて ものごとの筋道に見合った内容を考えたりおこなったり
することが出来るか?

③ 《タテ》というのは 神とわれとのカカハリを イメージとしてですが
示すように思われます。(動物は そのカカハリが 本能において現われる
のではないかと)。



④ 昔むかし・大昔には 道理は 《おほやけ:アマテラス公民》の言うこ
と・成すことにあると見られていた。誰もが見ているという意味で《客観性》
があるという理屈でしょうか?

⑤ チカラが正義だという考え方が 道理を決める議論に一役買っていた時
代があった。いまは どうだろうか。



⑥ アマテラス公民が チカラによる権力奪取とその人間たちの世襲制ない
し身分制によって決まるのではなく そうではなく スサノヲ市民一般のあ
いだから普通選挙の投票によって決める民主制になった。
つまり アマテラス公民となった人びとの用いるアマテラス普遍語をめぐっ
て 人びとはみなが その科学性や人格性について自由に見解を述べ合う。
――この過程が 世の中の道理である。



⑦ 前項の重要性を強調するためにですが。
アマテラス普遍語と言っても つねにタテのものがヨコに寝てしまいがちな
ので・人びとは へそを曲げるのが好きな人間もいるようなので その自分
たちの勢力のおよぶ範囲においてのみ通用するような言ってみればアマテラ
ス方言を《創造し 活用する》くせがある。
――よって道理には この権力の地位にあるお二階さんの発言や思想につい
てよく検証し検討することが含まれる。





☆ もうここでストップします。これらが:
★ 自然の理、人生の理、社会の理
☆ の内容を成すと思われます。


権限を持つと:
★ 柔らの道
☆ にあっても 《寝》技がいろいろに出て来るのかも分かりません。

神事と呼んで国の《伝統》を担う世界にあっては 女人禁制が保たれ 腕力
が道理を示し続けているのかどうなのか?



★ そこには、主観的な部分を超えた、客観的に認識できる部分が存在しま
す。
☆ が そういった決まりや法律の部分では 第三者委員会が 道理をにな
うのかも知れません。



演繹法ですすめば 主観も客観もすべて筋道をあゆむことが出来るのだ・そ
れが 道理だと言い張るところの:

☆☆>このスレッドにも どうしようもないアホウが約一名出て来ています

★ あなたが見捨てた人ですか?
まあ、余計なことですね。
☆ 人間どうしのヨコの関係は――自由であって――つねに互いに疎遠にな
るモーメンタムがはたらいています。


ところが 《タテ》の関係は やはり自由であって・また自由すぎるくらい
であって しかもすべて・つねにお見通しの世界でもあります。


つまり 回り回って 人間どうしのヨコの世界も じつは 関係の絶対性と
よぶほどの社会性・相互なる共同自治性――腐れ縁?――があります。


《見捨てる》ことも 関係行為に入ります。

人間の愛は 限りがありますがなにものかナゾとのカカハリでは その相対
的な好悪や愛憎なる正負の愛が そのカカハリとしてのいわゆる摂理の内に
うまい具合におさめられる場合があります。

ふつうは 見捨てたら もうそれまでです。


ただし すべては――どれだけ憎んだとしても―― 互いに《われに還る》
ことのキッカケをつくりあっている。

これが ただしさのまぼろしとしての道理です。主観 あるいは 間主観性
( Intersubjektivität )の視点から見た場合です。

客観の分野は おまかせします。
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この回答へのお礼

へその曲がった状態というものを、いくつかの類型に分けて
分析すれば、あるいはもう少し拡大し、「感情に支配される
状態」というものを分析すれば、より現実的になるでしょう。

お礼日時:2018/04/15 02:24

トルストイさんの『人生論(生命とはなにか)』を読んでいたときに、彼がさまざまな経験を重ねるうちに、自分の心の中に理性が強化され、確信を深めた、というような表現があって、わたしは、ああ、理性と言うものは経験によって、少しづつ心の中に形作られるのだな、となにか新鮮なものを感じました。



勝手な妄想なのですが、25 才くらいで知力体力的にピークを迎え、30 代以降は、緩やかな衰えを感じてきます。

脳みそのなかの細胞も少しづつ減ってゆき、何かしらの工夫をしなければ、その知力のようなものは保てない、なにかしらの類比をこしらえることで、細胞の減少を補うように使っているのではないだろうか、と妄想しています。


理性が経験によって自分のアタマに描かれていくものなら、これは主観ですよね。


ベーコンさんとデカルトさんを対置させると、経験論 vs 合理論のような図式なのですが、これはひとりひとりのあたまの中では相互に参照しあって関係づけているように感じています。

いきなり空から合理性のカタマリが降って来て、人間にどうぞ使ってくださいというふうには思えないです。
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この回答へのお礼

「妄想」という言葉を使うと、病気を連想する人もいるだろうと思うので、
「根拠不十分ながら見当付けをしている」とかのほうがよろしかろうと思い
ます。

体力は30歳がピーク、ボディービルは40代がピーク、知力は40歳がピーク、
それぞれ、専門家の言です。
日本人の人生観はどうも老いが早いようです。

主観と客観ということも、キチンと考えないといけないと思う。私も思索をし
たいと思っています。

絶対というものはあり得なくて、あらゆるものが相対的である、とか所詮は主
観的なものであって客観ってあるのか?とか、こういうことをキチンと考えな
いと、エゴイズムやらニヒリズムに堕ちてゆきかねないと思います。

お礼日時:2018/04/10 01:40

★ ただしい


☆ というのは ヨコに寝〔かせ〕てしまったものを タテに立た
せる――なにやら おかしな話ににおいますが――という意味です。

それ以上の意味は――偏狭な日本人の成すところでなければ――あ
りません。

猿が直立歩行をやらかしたというコトとその意味が ただしいとい
う捉え方のことです。

立って――タテになって――歩くと おのおの自分のヘソが曲がっ
ているのかいないのかが 分かるというものです。





このスレッドにも どうしようもないアホウが約一名出て来ていま
すので――わたしが超偏狭人の事例に漏れずに―― 投稿します。





人間にとっての《まこと・ほんとう・真実・正義・ただしさ》は
すべて 《わたし》の主観真実です。相対的なものです。

ウソ・イツハリもあれば心からのまこと(あるいは まごころ)と
いった事例もあるそういう自己表現をなすのが スサノヲ市民の人
間語です。



それだけではつまらないと言うので 人びとは なるだけみんなに
共通の認識が持てないかと思案をめぐらせ いわゆる普遍性を問い
求めて公共ないし《おほやけ(大宅家のことらしい――プリンスた
ること――)》としてのアマテラス公民の特別な人間語をつくり出
して行きました。

あやまち得るスサノヲ人間語に対して すでにあやまち得ざる〔と
いう神話をも形成してしまった〕アマテラス普遍語です。




事物を要素に還元しつつ その要素どうしでその内容としての互い
の異同を探し出す。

見つかったなら その《同》の部分で互いの共通性ないし一般性あ
るいは普遍性を捉える。

世界認識を 主観による良し悪しの判断をできるだけ禁欲したとき
に持ったなら その場合の普遍性は 善悪観に中立のアマテラス科
学語を得ます。

良し悪しの判断をも交えるときにも もし普遍性があると思えた世
界認識は いわゆる倫理を扱っており これをアマテラス人格語と
呼んで世間をわたる(世の中をおさめる)道具とした。




人間にとってその能力で得ることのできる普遍性は アマテラス科
学語としては 少数意見をも受け容れ合い互いの批判を自由におこ
なってすすむその歴史過程にあります。

同じくアマテラス人格語としては これは おそらく人間の思考を
超えたところで得られるヒラメキやいわゆる良心にもとづき その
事態の良し悪しを判断しその普遍性を問い求めて行く過程であるよ
うです。

かんたんには 生活日常において モノゴトを思いコトを起こすと
きにヤマシサ反応というリトマス試験紙をとおして 善か負の善か
を判定するようです。





科学語も人格語も アマテラス普遍語とて すべて人間のわたしな
る主観のなせるわざです。

このような《能力に限りのある》人間としては せめてもの願いに
は 《スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との全体としての世界》
をしづかにながめ捉えて――安易に《神話のマジック》に逃れよう
とするならば―― 泥(あやまち得るスサノヲ土着人間語)の中に
蓮の花の咲く光景を夢見ること。・・・これが 《ただしさ》のま
ぼろしでしょうか。





こんなことは おしえたと言わずとも すでにまなび取っているの
ではないか? このヤロー。





演繹とは何か? アマテラス普遍語を大前提にいただき そこから
うんぬんかんぬんと主観がすすめるなんぢゃらかんぢゃらであると
なぜ あしらわないのか。

思想と行動の――つまり 人間存在の間違いではなく その自己表
現にかんする――あやまちについては もっとも偏狭かつ偏狂な精
神を発揮して徹底的にフルボッコでコテンパンに批判を励行し 冥
途へのみやげを十二分に用意し与えるのが 《ただしい》人間のふ
るまいです。
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この回答へのお礼

「正しさ」についてあなたのおっしゃることは、一般大衆は大抵心得ている
あるいは、心得ていた、と思いますからご心配には及ばないと思います。

ただ、近頃においては混乱があるようです。
そのことについては、思索の上新たに質問を立てようと考えております。

さて、この質問は「道理」ということについて各々の定義を知りたいという
ことです。
正しさということについてのご意見は分かりましたので、正しさということを
抜き取った後の道理という概念の定義を教えていただければと思います。

ちなみに私は、自然の理、人生の理、社会の理、発見された科学的法則、剣の
道、柔らの道、野球道、等々、等々と、かなり広く定義しています。
そこには、主観的な部分を超えた、客観的に認識できる部分が存在します。

>このスレッドにも どうしようもないアホウが約一名出て来ています

あなたが見捨てた人ですか?
まあ、余計なことですね。

お礼日時:2018/04/10 01:22

演繹過程。

Deduktion Verlaufでどうじゃ?
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この回答へのお礼

こういう話は、ご多分に漏れずお嫌いなようで…

お礼日時:2018/04/07 12:24

道理というのは、人によって作られものでは無いのでは無いか?と思っております。


それは天によって定められた理であり、地に生きるものの定めだと。

しかし一方で、人が定めし理こそが道理であり、それは常に変遷して行く常住ならざるものであるという考えも、また或いは、道理は常に深められて行き、普遍性を帯びて行くものであると言う考えも、理解できます。

正しいと言うことは、天の定めに従っているということだと私は思っています。このように思う理由は、まだ詳しく考えた事がありません。
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この回答へのお礼

道理というものは、「天によって定められた理であり、地に生きるものの定め」。

私にとってもそれは当然のことで、何の違和感もないのです。

科学で発見された諸法則は、科学的に立証されたものであり、少なくとも我々が
認識できる範囲内では、我々はその法則(道理)の外へ出ることはできないはずです。

科学の範疇外である人生というものも、まったく同様にいまだ立証されていない
法則(道理)の外へ出ることが出来ないと、我々は「感じている」と思います。

感じてはいるけれど、昔の人は権力者や世間に従って生きてきた。現代では科学や
法律という常識に従っている…

要するにこういうことだと思うんです。

>正しいと言うことは、天の定めに従っているということだと私は思っています

私も同じです。何故そう思うのかといえば、私の知る仏教哲学が「天の定め」を表現
しているのであると、直感で見当付けをし、根拠不十分ながらそれを信じていること
が理由です。

科学では、人生の重大事に対する答えを持っておらず、人類の諸問題解決の哲学を
持っていません。
宗教哲学はそれを提示しています。

ただ、私はそれを絶対として哲学しないつもりです。あくまで相対的に考え、より良
いものがあれば当然その哲学を採用します。

そうして、自分の結論に早く達したいと思っています。

お礼日時:2018/04/07 05:55

No.7です。



「しかし、これが本人はその意識が全くなくとも、文明の中にいれば負け組の犠牲の上に勝ち組が存在し、AIに頼って生きてゆくことになってしまう。それでは幸せはないだろうと思うんです」
⇒その通りですね。

特に、大都会、大企業という大人数の組織に組み込まれた生き方では、そうならざるを得ないでしょうね。

「お得意の文明批判を、いよいよ本格的にやろうと思っているんです」
⇒大いに賛成です。

私もそれをライフワークにしています。

応援しますよ。
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この回答へのお礼

おお!それでは同志ですね。

共に頑張りましょう。

お礼日時:2018/04/05 23:49

「さて、「正しい」という意味を含んだこの「道理」という概念をあなたはどう定義しますか?」


⇒簡単にいえば、他人に迷惑をかけず自分の力で生きていく、ということだと思います。
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この回答へのお礼

基本中の基本ですね。

しかし、これが本人はその意識が全くなくとも、文明の中にいれば
負け組の犠牲の上に勝ち組が存在し、AIに頼って生きてゆくことに
なってしまう。それでは幸せはないだろうと思うんです。

gouzigさんとももう長いお付き合いになりますんで(最初のBAはあ
なたでした)言ってしまいますけど、

お得意の文明批判を、いよいよ本格的にやろうと思っているんです。
ある方法で。

お礼日時:2018/04/05 23:31

「道理」みたいな二字熟語はいかにも


中国の古典なんかにみえそうですけど、
「天」だか「自然」だか分からないけど、なにかそういった
人倫を支配する法則に人の側が帰一するのが
世界がうまくいく「正しい」あり方
という世界観を含む語彙なのではないでしょうか。

でも現代人は、天も自然も法則も人が支配できると信じて、
丸い地球を征服して海の向こうから勇ましくやって来た
西洋文明の洗礼を受けていますので、
「正しい」という意味合いには違和感を覚えるのだと思います。

(でも、そろそろ思い通りにはいかないかも?)
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この回答へのお礼

人類は自然を支配しているわけではなく、自然の一部を切り崩して
快適に暮らせる空間をつくったに過ぎないわけで、しかも大災害か
らは守りきることもできないわけです。
私は東日本大震災の被災地に住んでいますので痛感します。

私の定義では自然の摂理も「道理」の中に入っています。

お礼日時:2018/04/05 23:12

道理、道が繋がっている理


かなぁ。と、

最初の頃に考えた。その道、
お茶なら お茶道。
剣なら剣道の開祖に近い人が見つけた真理

そこから派生する、理を
礼節を持って迎える。その心を持つ人々が、道に生きるもの達かもしれませんね。

詳しく考えたことのない言葉ですが、真理などについては良く考えるので、派生や類似にも見えますが。
僅かでも言葉に違いがあるなら、使う場所を変える考え
必要かもしれませんね。

一律と思う思い込みを廃すること

さて、何故開祖の思いを継承するのか。

その道を極めたと思う
からこそ彼ら開祖に近い人々は、おそらく、世のために (も) と、いいものを見つけた
と言う考えで、周りに教え始めたと思えます。

宗教然りですか なぁ。

道を極める。それど同じだけではなく、同じどころか、人は習った良いものをより良いものへと、進化させようと願います。

もちろん開祖の道 野崎なので、道を外れるようなことにならないようにしながら、
くのうで生まれたその道理を、尊厳を持って、礼を取り入れなが、
改良を考える

1つの道は、尊敬するその始まりの人や意思につながります ね。

では道理で、茶道など以外の、同を解くとは?

ちなみに、中国には道教とと言う教えがありまして、まぁ、知ってるか。

道は貴方の中にある。

人を傷つけ過ぎないなら、人は刺激を与え合う、意見は、人生成長にとても重要です。
私も歳をとると、忘れがちになりましたが
傷つくことを恐れずに、時に突き進むことは重要です。

礼儀とは、守ろうとした尊敬 に対する感謝、そしてイチゴ一会にも通じる、どう繋がりし
人類のみ の ち (血、土に通じる)
基盤でしょう。

感謝です。ご質問有難うございました。

全体的に見ても道はミチ、本質さえ知っていれば、正しいことはうちにある事に、人は築けます。

それは、よく生き、よく努力してきた人なら、自然と備わる。だから、真っ直ぐ行ってください。
人達、人の子ら、人類よ!

わたしより。
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この回答へのお礼

よく読んでみると、(今までよく読んでいなかったのかよ!)やはり鋭いですね。

>1つの道は、尊敬するその始まりの人や意思につながります ね

ああ、その通りですね。

そして、

>道は貴方の中にある

ということは、人の中にもある。

つまり、自分も人も尊敬すべきである。

いや、そうしてきたんですが、今は免疫力が大変に落ちているんでしょう。
ヨーグルトをたくさん食べることにしましょう。

お礼日時:2018/04/05 23:00

「道理」は、「道の理(ことわり)」に思えますが。



日本人は、茶道、剣道、芸道、と何でも「道」を見出し、その「理」を
追求したがります。

このとき、求める「道の真髄」が「道理」のように思います。

それは、正しいとか正しくないとかでは、ありませんが、
真髄に至ることは、結局、結果として「正しい」に通じる。

少なくとも、「正しいか否か」は、ある意味「意訳」であって、
重要ではないように思います。

個人の感想なので、正しい自信はありませんが・・・・・。
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この回答へのお礼

なるほど、賛同します。

残念ながら私は経験がありませんが、なんにしても「道」の達人と呼ばれる人は
高い精神性の世界に至るようです。

北辰一刀流の達人であった坂本龍馬は、相手の「気」が白い影になって見えたとか。

また、身体の小さい日本人がオリンピックでバレーボールや陸上競技で活躍できた
のは、この文化があったからではないかと思います。

厳しい修行によって得られる高い精神性によって、その道の「理」が、つまり、剣道
ならば、勝つための最も合理的な方法、が見えるのではないかと、想像します。

その「理」をさらに突き詰めると、どこに行き当たるのか?なんて考えたりします。

お礼日時:2018/04/05 22:40

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