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江戸時代前期というと17世紀ですが、その時の世界はというとスペインから独立したオランダが世界中に植民地を持ち(オランダ海上帝国)、世界の覇権国家として振る舞っていました。

英蘭戦争でイギリスに負けて衰退するまでは、名実ともに世界最強の軍事力・経済力を有していたオランダですが、当時の徳川幕府に対しては強硬な姿勢を見せたことはなかったようで、出島のオランダ商人は徳川幕府(長崎奉行)の監視下に置かれ、宗教活動・軍事活動は一切禁止されていました。

極めつけが、キリスト教徒による島原の乱において、キリスト教徒の反乱軍に対して幕府の援護のため艦砲射撃を行ったことです。

このように、オランダは当時の覇権国家と言いながら、徳川幕府との関係において尻尾を振っていたのはなぜでしょうか?これがイギリスだったら、阿片を売りつけたり長崎・平戸あたりを武力により占領し租界にしてしまいそうなものですが。

A 回答 (3件)

貿易を独占できたからです。



どんなものでも「独占的な商売」ほど旨みのあるものはありません。江戸時代の初期にはヨーロッパで中国の磁器と日本の漆器がとても人気があり、また日本製の絹織物なども非常に高価に扱われていました。これを供給できるのがオランダだけ、だったのでオランダとしては「江戸幕府が他の国に貿易を許可しないようにすることが何よりも重要」だったのです。ですから幕府の求めには基本的に応じていたし、無駄に武力に訴えることもしませんでした。
オランダ人は一部では幕府から屈辱的な扱いをうけたようですが、それでも「独占貿易の旨み」のほうが優先だったのです。

中国の磁器などはイギリスもスペインもポルトガルも買い付けることができました。特にイギリスは東南アジアを牛耳っていましたから、陸送で磁器などの貿易品を手に入れることもそれほど難しい問題ではなく、中国の磁器は競争にさらされていたわけです。
しかし日本の物品は島国である幕府の統制化にあり、それらを密輸入することはかなりの困難を伴ったうえに、戦国時代が終了した結果どこかの藩と密貿易することもできなくなったのです。
ちなみに島津藩は江戸時代中、沖縄を通じて、中国や西洋国と密貿易をしていて、それによって幕末の資金を貯めていたのは公然の秘密ですが、大ぴらにするわけにはいかないので、藩一つ分の利益以上にはなりませんでした。

オランダの側の事情もあって、それはオランダがプロテスタントの国だ、ということでした。ポルトガルやスペインはカソリックで宣教師による布教と武力による占領そして貿易はひとつのパッケージだったのですが、日本は豊臣時代にカソリックを追い出しているので、潜在的な競争相手はイギリスしかいなかったわけです。

だからこそ、隠れキリシタンが反乱した天草の乱などでオランダは幕府の求めに応じて砲撃をしています。九州が一部であっても幕府に反乱して、カソリック宣教師がやってくることは見過ごせなかったし、当然に島津藩の密貿易は知っていて、薩摩・肥後は隣同士、熊本藩の細川家は徳川側であってもカソリックには理解のある家系だったわけですから、オランダとしても危機感は強かったでしょう。

ですから、オランダは幕府に最大の協力をして独占的な地位を維持したのです。

>これがイギリスだったら、阿片を売りつけたり長崎・平戸あたりを武力により占領し租界にしてしまいそうなものですが。
江戸初期であれば無理だったでしょう。平和になったとはいえ、まだ戦国の気風の残る時代でしたし、そもそも当時の軍艦でやってこれる兵隊の数などたかが知れています。アヘンについても幕府なり藩なりの統制が非常に厳しく行き渡っていましたから、それも不可能だったはずです。

中国のアヘンは「中央から遠い、規律の緩んだ地方政府」だったからできたのです。
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オランダは当時の覇権国家と言いながら、


徳川幕府との関係において尻尾を振っていたのはなぜでしょうか?
   ↑
当時の日本は、他のアジア諸国に比較して
武力に優れていた、ということが上げられます。

それに、中国のような大国は魅力的だが、
日本のような小さな国は、武力を行使してまで
強奪する利益に乏しい。

無理矢理奪い取るよりも、貿易関係を築いた方が
安上がりだ。

そういう計算があったのだと思われます。

こうした関係は、第二次大戦後にも顕れて
います。

第二次大戦で、西欧は国力を落とした反面、
植民地は反植民地活動が活発になります。

このような状況では、軍隊を使って支配する
よりも、貿易した方が儲けが大きい。

そういう計算のもと、植民地政策が
下火になったわけです。
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日本がたった今まで戦争をしていた精強あふれる国だということが大きいでしょうね。


その中に踏み込んでいくことは、まさに飛んで火に入る・・・です。

幕末はそういう支えが失われた時代でした。
だから薩摩は討幕を決意し、勝は血みどろの内戦に陥ることの無いよう尽力したのだと思います。
内戦で消耗し合ったらそのすきに外国勢の侵入を許してしまいますから。

江戸幕府初期はまだ欧州勢は東南アジアの支配に力を注ぎ、
幕末はアヘン戦争で眠れる獅子の実態が暴かれたばかりだった。
このへん、日本には「時の運」もあったと思います。
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