いちばん失敗した人決定戦

社会のテストで第二次護憲運動と答える問題がありました
護憲運動だけでは×だとおもいますか?

A 回答 (2件)

護憲運動に第一次・第二次があったのはNo.1の方の仰る通りです。


基本的に、桂太郎内閣を退陣に追い込んだのが第一次、政党政治の実現(結果として加藤高明内閣の成立)を目指したのが第二次と押さえておくと良いでしょう。

ただし、〇・×・△のいずれになるかに関しては、使っている教科書によって異なってくる可能性が高いです。
以降は、質問者さんが中3で中学校内の小テストあたりと仮定しての回答としておきます。
〇→帝国書院・日本文教出版・育鵬社のいずれかの教科書を使っている場合
△→その他の教科書を使っていて、先生がおまけしてくれる場合
×→〇以外の教科書会社を使っていて、先生が第一次・第二次の区別を厳しく付けている場合

なので、使っている教科書によっては〇としてもらえる可能性はあるかもしれません。
塾のテストであれば相当甘い採点で〇、そうでなければ×を覚悟しておきましょう。

ただし、今後のことを考えれば、第一次・第二次の区別は明確に付けて覚えておきたいところですね。
中3であれば、もう少し後で世界恐慌を習う(もう習ってるかな?)わけですが、アメリカのフランクリン・ルーズベルト(教科書によっては「ローズベルト」表記)大統領も今の教科書はルーズベルトが書ければ正解としてくれるでしょうけど、本来は「フランクリン・ルーズベルト」として覚えておきたいところです(アメリカの大統領にはもう一人、「セオドア・ルーズベルト」大統領がいたため)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
教科書は日本文教で〇でした!
ちょうど今日世界恐慌を習ったところです
とても参考になりました!!
受験に向けて細かく覚えれるように頑張ります

お礼日時:2018/05/17 21:22

第一次護憲運動・・・1912年


長州閥の桂太郎が組閣したため、これに反対する「尾崎行雄」「犬養毅」らが、
憲政擁護会を作り「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとして倒閣運動を起こしました。
全国各地では、憲政擁護大会が開かれるようになり、桂内閣に反対する
暴動が相次ぎ、最終的に、桂内閣は総辞職することに
なります。
これは、明治憲法の下で、国民によって内閣が倒された唯一の例です。


第二次護憲運動・・・1924年
清浦奎吾内閣(きようらけいごないかく)が貴族院を中心に成立すると、
憲政会・政友会・革新倶楽部の3派(ぱ)が政党政治を主張して対抗し、
加藤高明内閣を実現しました。


このように、第一次と第二次では、年代も
内容も違いますので、× になると
思います。

先生が優しければ△にしてくれるかも。
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この回答へのお礼

お答え頂きありがとうございました
それぞれの説明もあって分かりやすかったです!

△になることを願います…

お礼日時:2018/05/14 23:00

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