忙しい現代人の腰&肩のお悩み対策!

1.▲ (ヰキぺ:認識論) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E8%AD%98 …

§ 2 哲学的認識論の歴史
§ 2.3 認識の起源
§ 2.3.3 批判主義

2. イマヌエル・カントは、〔このように〕合理主義と経験主義が激しく対立
する時代に、観念の発生が経験と共にあることは明らかであるとして合理主義を
批判し、逆に、すべての観念が経験に由来するわけでないとして経験主義を批判
し、二派の対立を統合したとする見方が今日広く受け入れられている。

3. カントの立場は、このように経験的実在論から出発し、超越論的観念論に
至るというパラドキシカルなものである。

4. デカルトは、外界にある対象を知覚することによって得る内的な対象を意
味する語として 仏 : idée の語を充てていたが、このような構造に関しては経験
主義に立つロックも同様の見解をとっていた。

5. カントは、これらの受動的に与えられる内的対象と観念ないし概念を短絡
させる見方を批判し、表象(独: Vorstellung)を自己の認識論体系の中心に置い
た。

6. カントは、表象それ自体は説明不能な概念であるとした上で、表象一般は
その下位カテゴリーに意識を伴う表象があり、その下位には二種の知覚、主観的
知覚=感覚と、客観的知覚=認識があるとした。

7. 人間の認識能力には感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリにそなわっ
ているが、これが主観的知覚と客観的知覚にそれぞれ対応する。

8. 感覚は直感によりいわば受動的に与えられるものであるが、認識は悟性の
作用によって自発的に思考する。

9. 意識は感性と悟性の綜合により初めて「ある対象」を表象するが、これが
現象を構成するのである。

10. このような考え方を彼は自ら「コペルニクス的転回」と呼んだ。

11. カントによれば、「時間」と「空間」、「因果関係」など限られた少数
の概念は人間の思考にあらかじめ備わったものであり、そうした概念を用いつつ、
経験を通じて与えられた認識内容を処理して更に概念や知識を獲得していくのが
人間の思考のあり方だということになる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

12. けれども 8項が カギである。
▲ 8. 感覚は直感によりいわば受動的に与えられる
☆ という感性による知覚の段階が 悟性による認識の先に来る。 

13. したがって コペルニクス的転回は必ずしも成ってはいない。

14. つまり 認識行為の順序は 次のようであるのではないか?:
 大前提:世界に含まれるわれ と 世界:これらすべてが対象となる。

 認識行為の順序:
  ① 認識されていない対象の存在:(何か或るもの)
 →② われが対象と相い対する:(或るものが地に立っている)
 →③ わが感性が対象を知覚する:(そのものを見る)
 →④ 知覚(:たとえば視覚)を得る:(縦に長いものだというイメージ)
 →⑤ 見た結果としての知覚イメージを悟性が 言葉≒概念へと翻訳する
 →⑥ 理性が それは《木》だと認識する

 ☆ ⑥は ただし カントによればすでに⑤の悟性のハタラキであるらしい。
 ⑤と⑥は まとめて理性のハタラキでじゅうぶんではないか? 《知解》行
 為である。




15. カントはこう見る。つまり:
(あ) 表象あるいは概念認識は 空間・時間や因果性といった認識の形式を
生まれつき備えた悟性によってこそおこなわれる。

(い) 時空間の中に育った(あるいは人間が植えて育てた)という内容をと
もなった認識として 対象は 木なら木だと知るのだ。

(う) 認識つまり⑤⑥の段階にかんするかぎりで 対象が木であると知るの
は 生得のハタラキである認識によるのだと。

16. すなわち 対象や広く世界が われの周りをまわっているかのごとく
わが認識にはたらきかけるというよりも わが認識が対象の周りをまわってわ
が精神の能力によってそれを認識するのだと。



17. これは 世界についての認識行為について 単にその一面(部分的段
階)を捉えて言ったに過ぎない。のではないか?

18. それとも 感性による知覚は 悟性による認識に劣る。と見た。つま
り 悟性による認識こそが およそ認識について決定的なハタラキをするのだ
から 《認識が知覚としては対象に従う》という先行の段階は 軽く見ておい
てよく 《対象が認識に従う》段階を主要な内容であると言いたかったのだろ
うか?

19. だけれども 《地に立つ長いもの》というイメージが得られていなけ
れば 認識は成らない。のではないか?

A 回答 (3件)

何で対象が認識に従わなければならないの?



これって、認識した者が「正しく」なければ対象も歪んでくる、と云うことでしょ?

もしそうだとしたら、人間の思考は言葉に左右される、と云う事になりそうですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 何で対象が認識に従わなければならないの?
☆ わたしの物言いでもあります。

カントによれば:まづ感性による知覚(直観)を別として 悟性による認識におい
ては 世界の内にものごとの《関係》というカテゴリを見出し そこからたとえば
《因果関係》という要素をさらに取り出す。

そのとき 《コーヒーの匂いがする》と認識するのは コーヒーを淹れたからであ
るという因果関係を捉えることにもとづいている。

この因果性は 人間に《生得的》だと見るわけです。もともと自然本性に生まれつ
きそなわっている《認識の形式》であり そうであるならば それによって認識が
成ると見るからには 《対象を この人間の認識能力が主導して捉えたのだ》と解
釈するわけです。因果性は 天与のものだから 確かなことなのだと。



わたしの物言いは この因果性にしても なるほど人間に生得的なものかも知れな
いが そうだとしても じつに世界――この場合は コーヒーを淹れて飲むといっ
た人間の現象のことですが――においても もともと組み込まれている・・・では
ないか? と言っています。

世界における対象にも それを認識する人間の生得的な能力にも 《因果性》とい
う形式は 言わば共通の――天与の――要素なのではないか? です。

どっちかが――つまり 認識行為か 対象のほうかのどちらか一つが―― 一方的に
先に立って主導するといったものではないであろうと。




★ これって、認識した者が「正しく」なければ対象も歪んでくる、と云うことで
しょ?
☆ 《ゆがむ》というより 《確かなものにはならない》と言うことらしい。つま
り 《生得的な認識形式》があるなら その普遍性にもとづき 認識した内容も
普遍的であり得る。ということらしい。


★ もしそうだとしたら、人間の思考は言葉に左右される、と云う事になりそうで
すね。
☆ 表現のあり方によって 《認識つまりその行為および結果》は 必ずしも一定
するものではない・・・というようなことでしょうか?

お礼日時:2018/10/09 17:27

匂い、の場合。


対象物に嗅覚が反応すれば、その対象物には匂いがある、と云う事になります。それがすでに知っている匂いであれば、対象物が何であるかを想像できます。
例えばコーヒーの立てた香りだと。

さて、嗅覚が“認識”した“物”はコーヒーの香りだと“理解(理性)”した。《これを全部ひっくるめて(理解まで)認識したと云えるとも思います。》

それが、知らない匂いだったら?
嗅覚が“認識”した“物”は何だろうと“疑問(理性)”に思う。

と、まあこんな感じで考えると、私の“認識”という言葉の使い方から、認識の意味が分かってもらえると思います。低次元の認識能力ですが、認識が先、理解(理性)が後、ですね。

高次の事柄に関しては、私には無理でしょう。でも挑んでみていますよ。

※ 疑問も理解と解釈しての考えです。

また、この《 》の中の文章を入力しながら、認識に段階があるのかな?何てことも思いました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 匂い、の場合。
対象物に嗅覚が反応すれば、その対象物には匂いがある、と云う事になります。
☆ はい。

★ それがすでに知っている匂いであれば、対象物が何であるかを想像できま
す。例えばコーヒーの立てた香りだと。
☆ ええ。そうだと思います。

★ さて、嗅覚が“認識”した“物”はコーヒーの香りだと“理解(理性)”した。
☆ カントによれば 中間に悟性が来るようです。のちに:
★ また、この《 》の中の文章を入力しながら、認識に段階があるのかな?何
てことも思いました。
☆ というように。つまり:

〇 匂い(知覚:嗅覚)→コーヒーの香りのようなもの(悟性)→コーヒーの
香りだ(理性)
☆ または この場合は 悟性と理性とは同じように《コーヒーの香りだ》と
理解するのかも分かりません。。


★ 《これを全部ひっくるめて(理解まで)認識したと云えるとも思います。》
☆ ええ。まったくそのとおりに思います。

★ それが、知らない匂いだったら?
嗅覚が“認識”した“物”は何だろうと“疑問(理性)”に思う。
☆ いや カントによる限り 感性は嗅覚も 知覚とも呼ぶ《直観》なんです。

そして 広義にはこの知覚も 《認識》に入ります。


★ と、まあこんな感じで考えると、私の“認識”という言葉の使い方から、認
識の意味が分かってもらえると思います。低次元の認識能力ですが、認識が先、
理解(理性)が後、ですね。
☆ いや あとの《理解(理性)》とあるのは これも《認識》なんです。そ
れが ふつう一般の認識です。

最初の《広義の認識に入る知覚・直観》は 時空間という生得の形式をとおし
て大きく認識が主導する認識になりますが やはり《感性:知覚:直観》なの
だと思います。

なぜなら 時空間というかたちは すでに匂いという現象にそのまま組み込ま
れていると考えられるからです。つまり 主体の認識が主導するのではなく
対象が 認識にはたらきかけている。と考えざるを得ないのだと思われるから
です。

《対象が――先に鼻の嗅覚器官を刺激しているからには――人の為す認識に従
う》とは 言い切れないはずです。



★ 高次の事柄に関しては、私には無理でしょう。でも挑んでみていますよ。
★ ※ 疑問も理解と解釈しての考えです。
☆ 承りました。

お礼日時:2018/10/09 17:08

こんにちは


これから書くものは、質問者への直接の回答にはなっていない。
私はカントの批判哲学を自身の哲学の出発点として、
彼の批判に耐え得る新しい認識論を考察して行こうという立場である。
よって、私にとってカントの認識論は新哲学の出発点にしか過ぎない。
そのため、カントの認識論より新しい概念を取り入れており、
その新しい概念を使って、回答しようとしている。
まず指摘しておきたいのは用語論である。
質問者において、私もそうだが、「認識」という用語を2つの意味で使っている。
1つは広義の「認識」で、(日本語ではまだ定まっていないが)
1.感じる   feel (感じる)
2.感受する aware (気付く)       感性 feeling
3.知覚する understand (理解する)  悟性 understanding
4.認知する know (知る)         理性 reason
という一連の過程を「認識」と呼ぶ。()は別の日本語訳。
もう1つは狭義の「認識」で、理性による「認知」を「認識」とする。
つまり、認識過程全般の「認識」と理性の認知としての「認識」を区別して
使わないと、議論の筋がおかしくなる。
カントの認識論の「認識」はほとんどの場合狭義の意味であり
(「認識過程」と使えば、広義の意味)、理性による働きに限定される。
(ごめんなさい。ドイツ語では読んでいない。
私はカントの研究者ではないので、読むつもりは今のところない。)
つまり、感性や悟性における働きを論ずる時に、
狭義の「認識」という用語は使うべきでない。
次に私の考えるカントの批判に耐え得る新しい哲学とは、
1.認識のあり方または形式を明示すること
2.認識形式の限界を明示すること
という2つの要求を満たすものでなければならない。
この要求を簡素に表現したのが、
「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」
ではないのか?
私にとってカント的転回とは(ごめん、コペルニクス的転回を勝手に換えてます)、
旧哲学のように認識を当然のこととし何の批判も無く使うのではなく、
認識には形式があり、限界があるという自覚とその定義のもとに哲学を論じる、
ことであると考えている。
この意味で、カントの認識論は、認識の形式と限界の一部しか明らかにしていない。
私にとっては、彼の認識論は「水槽の中の脳」の認識論である。
すなわち、さらなる言語論的転回が必要とされる。
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    • 2
この回答へのお礼

こんにちは。ご回答をありがとうございます。

★ これから書くものは、質問者への直接の回答にはなっていない。
☆ かまいません。こちらは 独断を交えてお応えすることになるかと
思いますが。

★ 私はカントの批判哲学を自身の哲学の出発点として、
彼の批判に耐え得る新しい認識論を考察して行こうという立場である。
☆ なるほど。理論理性の限界を指摘して こんどは実践理性(≒意志)
によるむしろ道徳のほうへと《逸れて(?)》行ってしまったかも知れ
ず 課題が残っていると思われます。



★ よって・・・新哲学
★ まず・・・用語論
★ 「認識」という用語を2つの意味で使っている。

★ 1つは広義の「認識」・・・もう1つは狭義の「認識」
つまり、認識過程全般の「認識」と理性の認知としての「認識」を区別

★ カントの認識論の「認識」はほとんどの場合狭義の意味
つまり、感性や悟性における働きを論ずる時に、
狭義の「認識」という用語は使うべきでない。
☆ 微妙ですね。悟性は すでにたとえば因果性を《認識の形式》とし
て用いると言っていますので 認識行為に入っているとは思うのです。
《これは〈木〉だ》という理解は 悟性で得られるらしい。




★ カントの認識論は、認識の形式と限界の一部しか明らかにしていな
い。
☆ そうですね。感性にとっての形式は 空間と時間とであり 悟性に
とっての形式は 因果性などとして質・量・関係・様態の四種12項目
に区分されているようです。

【Q:“認識”は“認識形式”により行われる、の、“認識形式”とは?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10739513.html
での回答№8・11・13をごらんください。




★ 私にとっては、彼の認識論は「水槽の中の脳」の認識論である。
すなわち、さらなる言語論的転回が必要とされる。
☆ その方向で問い求めが成されるのではないでしょうか。

わたしは 悟性と理性とを分ける必要はないと思っています。
あるいは 悟性の12種類の認識形式は すでに認識し〔判断し〕た内
容であると考えています。

お礼日時:2018/10/04 11:55

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Q"アホはほっとけ"は正しいか

どうなんでしょう。

Aベストアンサー

相手の立場に立つ、は一般的に正しい行為みたいです。

その人の立場って何?
ほっとけない行為が相手を理解しているか?
アホに限らず、
他者である存在に、自分が一人よがりでなかったか?とか、伝わらなさに虚しさを感じるときがあるから、このような問いが生まれるのかなと思ったのですが。
ほっとくにしろ、ほっとけないにしろ、往々にして自分の欲望が勝った、後付けや正当化だとも思うんです。
でもやった後で言うのと、やらないで言うだけでは全然価値が違います。


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相手の立場に立ったつもりで言い、その人をよく知らない第三者からすると正論のようですが、肝心のアホにとってありがた迷惑であったりします。

気遣いができるアホは、無理解な正論にお礼を言うかもしれません。
でも、ほっとけない人が、アホを理解しているとは限りません。
ボランティアと同じです。
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その時を穏便に済ませるのですが、そういうときは、後から自分に違和感が出るものなのです。

相手の立場に立つ、は一般的に正しい行為みたいです。

その人の立場って何?
ほっとけない行為が相手を理解しているか?
アホに限らず、
他者である存在に、自分が一人よがりでなかったか?とか、伝わらなさに虚しさを感じるときがあるから、このような問いが生まれるのかなと思ったのですが。
ほっとくにしろ、ほっとけないにしろ、往々にして自分の欲望が勝った、後付けや正当化だとも思うんです。
でもやった後で言うのと、やらないで言うだけでは全然価値が違います。


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Q身近な洗脳を見たことありますか?

洗脳というと、カルト新興宗教のイメージが、強いですが、
私は、身近に、あるいは社会でよく行われている気がします。
政府が国民を、メーカーが消費者を、経営者が従業員を、教師が生徒を、親が子供を、
洗脳していることは多々あると思います。意図的に、あるいは無意識に。
そのような事例を経験、あるいは目撃したことはありますか?

Aベストアンサー

「洗脳は身近なものである」という視点はとても良い事だと思います。

「それが普通、〇〇に決まってる」と口癖のように言う人がたまにいます。
しかし普通の定義は個人によって違いますし、決まってると言っても公的に法的に定められているものではない。
その人が勝手に思い込んでいるだけなんです。

特に世間など周囲の目を気にする我々日本人は、個が弱い為に自分の考えや価値観を社会常識と混同してしまう悪い癖があります。
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私たちは個人の発言を全体の発言のように感じてしまい日々それに踊らされているのです。

誰が言ったのかもわからない考えや価値観がふわふわとそこらに漂い、それを何の疑いもなく受け入れているのはとても恐ろしいと思います。

Qなんで《物自体》なんていうものを言いだしたのか?

1.▲(コトバンク:物自体) ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93-142650
[武村泰男]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

2. 物自体(ものじたい)
thing in itself 英語
Ding an sich ドイツ語
chose en soi フランス語

3. カントの用語。カントによれば、われわれの周辺に広がる世界は、従来
思われてきたように物のあるがままに現れているものではなくて、感性の先天
的形式(空間・時間)を通して外から与えられた物が、悟性の先天的形式(範
疇)によって総合的に構成されたものである。

4. したがって、われわれのもっとも素朴な感覚与件でさえ、すでに空間・
時間という主観の形式を経由したものであるから、われわれは感覚を刺激する
外なるものをそのあるがままに認識することができない。

5. それをカントは物自体とよぶ。

6. のち『実践理性批判』においては、物自体の世界を自由の概念と結び付
けて、現象界に対して叡智界(えいちかい)と名づけた。

7. 物自体概念は、カント哲学の要石(かなめいし)であると同時に、批判が
集中した概念であり、その後のドイツ観念論の発展――フィヒテの自我概念に
始まる絶対者概念の成熟――はそのままこの概念に対する批判的発展であった
ともいえる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


8. 解説〔に依拠しその内容〕をめぐって問うといういささか邪道の質問で
すが 次のように問い求めます。


9. もし:
▲(3) ・・・世界は、従来思われてきたように物のあるがままに現れてい
るものではなくて
☆ という条件を前提するのなら すでにそこから帰結する内容は敷かれてい
るのではないか?


10. つまり 《物のあるがまま》〔の姿〕は:

(あ) 人間の能力では認識しがたい。または し得ない。――かまたは:

(い) 認識し得るのだが それは 部分的な内容とならざるを得ない。そし
て 認識そのこともあやまち得る。――さらにあるいは:

(う) 《物》は 《人間が認識しうる言わばその仮象》とそして《認識し得
ない本体》とに分かれる。

☆ といった可能性がすでに孕まれている。はずだ。

11. つまり 前項の(う)から 《物自体》を想定することがあり得たと
しても ただそれだけのことに過ぎない。のではないか?

12. つまり 物自体を想定しようがしまいが 《人間の認識能力には限界
がある》という命題を言ったまでである。と捉えなくてはならない。はずだ。


13. なんでこの物自体が《現象界に対する叡知界》のことに成るのか?

14. 叡知界たる物自体に就くならば 《実践理性》としての《自由意志》
が実現し得て ひとは自由であると成るといった議論に発展するのか?

15. 無茶である。それなら 形而上学的実体なる神を据えている議論と違
わないのではないか?

16. カントは阿呆ではないか?

1.▲(コトバンク:物自体) ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93-142650
[武村泰男]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

2. 物自体(ものじたい)
thing in itself 英語
Ding an sich ドイツ語
chose en soi フランス語

3. カントの用語。カントによれば、われわれの周辺に広がる世界は、従来
思われてきたように物のあるがままに現れているものではなくて、感性の先天
的形式(空間・時間)を通して外から与えられた物が、悟性の...続きを読む

Aベストアンサー

カントはついに神の心を感じる事が出来なかったか、或いは感じようとしなかった、なのでしょう。
それ故に、叡知界を無理やりに理的に解釈したのだと思います。

これでは埒は開かないと思います。

もっと素直に、私のように、人の心は宇宙の本体・霊体の心と本質は同じなんだと、受け止めるべきでした。
霊体に慈悲の涙があるからこそ、我々の心にも思いやりの涙を流せる働きがあるのだと。

Q閲覧ありがとうございます。唯物主義に生きがいはありますか? 人間は物質からできているので精神活動も物

閲覧ありがとうございます。唯物主義に生きがいはありますか?

人間は物質からできているので精神活動も物質の化学反応によるものです。
水素が燃えて水ができる。それと何が違うのでしょう?
尊いとされる生命(その起源も偶然の長時間におよぶ化学反応によるものでしょう)や豊かとされる精神活動も自動的な物質のふるまいによる虚無の世界です。
科学の観点から自由意志は錯覚とされています。世界は物理の法則に従って動いているため、自由意志は錯覚と考えるのが普通でしょう。
また意識は傍観者で、自分は人生という映画を観ているだけでしかない。
クオリアも錯覚という説もあります。

また、人間のすべての行動は利己的です。(利己的遺伝子論) 母親が子どもを愛するために取る自己犠牲の行動、助け合うこと、またそれらを美しいと感じること…すべてに関して利己的。遺伝子の思うがままになっていると思うと、やや恐ろしくも感じるし、行動が遺伝子にコントロールされていると思うと、虚無感も感じてしまいます。

何をしても楽しくないです。例えば、奇麗な夜景を見てホッとしますが、
すぐさまこれも遺伝子にプログラミングされた自動的な感情(錯覚)だ気づき絶望します。

しかし、生命及び精神活動が科学的に解明されても、その仕組みが分かっただけで本質(中身?)は分からないと言いますが、中身(主観?)なんてないんじゃないでしょうか?
精神活動などあみだくじのようなもので、ある入力がされたらある出力がされるだけで
自分とか主観とかそんなものはなく、今こうしてこう思った!考えた!も自動的な計算による出力にすぎない。機械と大して変わりはない。

いろいろ考えた結果、自殺ということが頭に浮かびます。
しかし、世の中の唯物論者(この定義がそもそも間違ってるのかもしれませんが、スピリチュアルなことを信じない科学的な人です)の方が全員自殺されてるわけではないですよね?どうしてでしょう?何に生きがいを持ってるのでしょうか?
虚無感に襲われて辛いです。生命、精神、存在などの素晴らしさについて教えてください。
哲学や科学について素人なので簡単な言葉で教えてくださると嬉しいです。
どうかよろしくお願いします。

閲覧ありがとうございます。唯物主義に生きがいはありますか?

人間は物質からできているので精神活動も物質の化学反応によるものです。
水素が燃えて水ができる。それと何が違うのでしょう?
尊いとされる生命(その起源も偶然の長時間におよぶ化学反応によるものでしょう)や豊かとされる精神活動も自動的な物質のふるまいによる虚無の世界です。
科学の観点から自由意志は錯覚とされています。世界は物理の法則に従って動いているため、自由意志は錯覚と考えるのが普通でしょう。
また意識は傍観者で、...続きを読む

Aベストアンサー

酸素と水素が「化学反応すると」、水になる。

では、何故、空気中に、酸素があり、水素があるんですかね?

地球上、何故、水だらけにならないんですかね?

確かに、化学的には、そうかも知れませんが、二酸化炭素も硫酸も
実際に存在していますよね。

結局、人生なんて、無限に近い組み合わせのなかで、その時々で、
「化学反応」を起こしているので、それほど真剣に考える必要はないのでは?

「人間のすべての行動は利己的です。」といっても、「種の保存」の本能から
言えば、当然でしょう。

「遺伝子」だ、「ミトコンドリア」だ、と言ったところで、これらは「複製」を
求めているだけで、「誰を好きになれ」とか「誰を嫌いになれ」なんて言っていません。

外国人と結婚しても、同郷の人と結婚しても、構わないのです。
それこそ「自由」です。
自由すぎて最近うるさい「同性愛者」なんてのも居ますが、
「遺伝子」が反対した、なんて話は聞いたことが無い。

実は、私も若い頃、同じような考え方を持ってましたが、ズボラなので、
3年ほどで、すっかり忘れてしまったようです。

選択肢は、極端ですが、無限にあります。

下らない「極論」に振り回されないことです。
「極論」とは、その論を成立させるために、多くの有用な実体を、
無視し、捨て去って成立しています。

大抵は、全く役に立たない。

酸素と水素が「化学反応すると」、水になる。

では、何故、空気中に、酸素があり、水素があるんですかね?

地球上、何故、水だらけにならないんですかね?

確かに、化学的には、そうかも知れませんが、二酸化炭素も硫酸も
実際に存在していますよね。

結局、人生なんて、無限に近い組み合わせのなかで、その時々で、
「化学反応」を起こしているので、それほど真剣に考える必要はないのでは?

「人間のすべての行動は利己的です。」といっても、「種の保存」の本能から
言えば、当然でしょう。

「遺伝子」だ...続きを読む

Q認識とは何か?

認識論というものの存在を知ったのは実は数か月前のことで、その概要を
知って尋常でない興味を持ち勉強を少しづつやっていた矢先に、認識形式
とかカントのコペルニクス的転回等の質問がありました。
そして、私なりに順を追って理解したいと思い、質問をさせていただきま
した。

1.合理論と経験論の欠陥について。

2.1に対するカントの哲学の優位性について。

3.ニコライ・ハルトマンの認識形而上学の概要を教えて下さい。

4.主観と客観が一致するという仏教の依正不二について概要を教えて下さい。

5.認識とは何ぞや?

どれか一つでも結構ですし、学問の枠に収まらない持論でも結構です。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

1.合理論の欠点→合理性を保証する存在が必要になる。(もしくは、合理性を確証する原理が必要になる)
  経験論の欠点→経験のみで、全ての現象が把握できる理由がわからない。(経験を現象として、無条件に承認する必要がある。
2.カントの優位性
  現象の把握は、感性と悟性によりなされ、それはアプリオリに与えられていると判断。(合理性と現象(経験)は、無条件に保証される)
  現象(経験)により、純粋理性が、その合理的判断を行う事が可能になる。
  つまり、合理論と経験論の欠点を解消できる。
  ただし、純粋理性だけでは、判断不可能な問題は残る。
3.ニコライ・ハルトマンの認識形而上学
  ニコライ・ハルトマンは、認識を、心理学的、論理学的、存在論的、認識論的の4種類に分類し、それを階層的に分析しています。 認識に関して、知覚レベルまで含めるとすれば、カント的な受動的感性が要求する「物自体」の存在の知覚による情動が、その実在性の根拠となると考えています。 また、最終的な認識論において、存在論は、分離不可能なので、形而上学として、認識論を考えるしかないと判断します。
  つまり、カントが「純粋理性批判」において、純粋理性では判断不可能と考えた、形而上の問題を解決しなければ、認識論は成り立たないと言う事になります。
4.これは、他の回答者の回答のとおり、主観と客観の問題では無いと思います。(仏教的な縁起の問題でしょう)
5.認識とは、ある対象に対する、合理的な解釈が結果となる、過程と言えます。 カントにおいては、現象の純粋理性による解釈と、実践理性による解釈があります。
  どちらにしろ、我々が、現象をどのように解釈するかと言う問題になります。(形而上学的問題と考えれば、現象を与える、人間の認識の外の存在への解釈も含む事になります)

多少、誤解されている人もいるかもしれませんが、哲学者のほとんどは、人間が把握する「現象」は、ほとんどの人で同じと考えています。(カントが、悟性と理性を分けたのは、その為です)
後は、現象の理解が、人によって変わると言う事です。
良くないたとえですが、ある映画を、複数の人が見た場合、現象(あらすじ)は、同じでも、現象の関連性の解釈は異なる場合があります。
また、その映画の製作者が意図した理解を観客が得ない場合も多いでしょう。(これは、観客に与える現象が適切で無かったり、曖昧である場合によくあります)
この場合は、はたして、「真理」や「真実」とは、何でしょうか?
製作者の意図でしょうか?、それとも観客が受けた印象でしょうか?
どちらでも、変わらない「真実」とは、映像だけとしか言えないでしょう。
つまり、我々にとっては、「現象」のみしか「真実」と言えないと言う事です。(その裏に隠された意図があったとしても、わかりません)
物理学者が、物理的法則が、宇宙全般で一般的に成り立つと考える根拠は、宇宙が均一であり、特別な局所性は無いと言う概念に基づいています。(宗教の場合は、地球や、太陽、人間、その他の惑星などを特別な存在と考える場合があります)
これも、一つの観念にしか過ぎませんが、実験や観測により、成り立つ範囲を検証しようとします。(これが、科学と言う事です)

1.合理論の欠点→合理性を保証する存在が必要になる。(もしくは、合理性を確証する原理が必要になる)
  経験論の欠点→経験のみで、全ての現象が把握できる理由がわからない。(経験を現象として、無条件に承認する必要がある。
2.カントの優位性
  現象の把握は、感性と悟性によりなされ、それはアプリオリに与えられていると判断。(合理性と現象(経験)は、無条件に保証される)
  現象(経験)により、純粋理性が、その合理的判断を行う事が可能になる。
  つまり、合理論と経験論の欠点を解消で...続きを読む

Q科学には、万人(ほとんどの)が認める「法則」が輝いています。一方、哲学にはそれに相当するものは何でし

科学には、万人(ほとんどの)が認める「法則」が輝いています。
一方、哲学にはそれに相当するものは何でしょうか?
(主張?かな)

Aベストアンサー

科学は物理、医学も物理、ですよね?
心理学は少し物理があるのかな?

哲学の分野は心の世界でしょ?
だったら釈尊が心の「法則」を発見していますね。

四諦・八正道です。

心の「法則」で、これを超える或いは覆へす“発見”は未だ無いようですね。
証明は釈尊御自身です。

我々はこの「法則」に接すると、成る程と合点するのです。
そして良き人々は、それじゃあ私も頑張ろう、となるのです。

Q哲学って簡単に言うとなんですか?

哲学って簡単に言うとなんですか?

Aベストアンサー

人間とは何か、人間が考えるとは何か、という学問です。
例えば、アリの生態や行動を解析して、アリは何を考えて生きているのか、
をまとめれば、「アリの哲学」として出版できます。
犬や猫のほうが大衆受けするかもしれません。

Q“認識”は“認識形式”により行われる、の、“認識形式”とは?

その“認識正式”は人それぞれ、七十億人の人の“形式”があると云う事!

或る質問への回答を見て、このようなことを思いつきました。

ご意見、いただきたく思います。

宜しく!

Aベストアンサー

№11をおぎないます。

対象はそれを認識するとき 《物自体》と《ともかく認識した内容》とに分かれる。
これらは:
☆☆(№11) 6-1.☆ おそらく《認識し得ない本体》と《その仮象〔とし
て認識し得たその内容〕》とに分けて捉えられるであろうか。

この《仮象》のようなものでも その認識は 普遍性を持ち得るということを そ
の認識内容がつねに共通の《形式》を帯びているということに カントは 捉えた。



たとえば 貴乃花の年寄り引退についての記者会見を見た。これを認識の《対象》
として考えてみよう。

(あ) まづ《感性 と 〈空間〉および〈時間〉という知覚(認識)形式》

(い) 意外と余裕のある姿に見えた。

(う) 《姿》は テレビ画面では二次元だが 空間は一般に三次元だと知ってい
る。つまり そのような空間という形式をとおして その姿は われわれと同じ人
間だと知る。

(え) 《意外と》というのは 遠くない過去に《急に卒倒した》という事件があ
ったからです。つまりこれは 《時間》という認識の形式をとおして知ることだ。

(お) このような空間と時間とは 誰にとっても同じ認識の形式として作用して
いる。




(か) カテゴリー表の《③ 関係》の内の《因果性》なる形式を当てはめてみるな
ら 卒倒事件の前には 弟子の暴行被害事件がありその告訴があり またその取り
下げといった一連の経過があった。

(き) 一般に時間というのは 過去は現在の記憶にあり 未来は現在の期待(予
想)にあり そして現在は現在の直観としてあると言われるので もし現在におい
て余裕を持っているとしたら 過去からの因果の関係はこれを超えて来ているとも
見られる。
――といった認識を得る。

(く) 認識内容がつねに普遍性を持つというのでなくても 普遍性を持ち得るよ
ように《③ 関係 その因果性》なる形式が はたらいている。



(け) このこと――カテゴリー表の一例――は すでに《判断》にもかかわって
いる。貴乃花の現在の状態を 推測によってでありながら 判断している。

(こ) つまり 《判断表》のやはり《③ 判断の関係 / 仮言判断 「AはBであれ
ば、CはDである」》と相応している。すなわち 《現在の姿として余裕があるよう
なら 過去の・世の中を大きく騒がせた事件の影響は あまり見えないようである》。

(さ) この一例の認識や判断がそのまま《ただしい》というのではなく そうで
はなく 知覚と認識とのそれぞれ形式は 認識の偏頗なあり方をまぬかれさせ普遍
性を保障するようなハタラキをしている。






☆ さて 全体として見て どうであろう? 何が言えるか?

(し) 《物自体》は 要らないのではないか? 人間の知覚や認識の能力が つ
ねにただしいということは――相対性の世界に生きているからには――あり得ない。
・・・と言えば済むことではないか?

(す) 知覚や認識の形式は 認識の普遍性をあたかも担保しており 有効なハタ
ラキを持つと見られる。見られるのだが それは 《形式》が保証しているという
よりは 実際には 認識の内容について いわゆる自同律や因果律に則っているな
ら 妥当性を持つということでしかない。のではないか?


(せ) 物自体と仮象としての認識(特にその形式)とに分けて 認識行為を分析
する意義は どこにあるか?

(そ) 感性の形式としての《時空間》や 認識および判断の形式としての《関係
性かつその内の因果性》は けっきょく大きく広く《認識という行為》をするにあ
たってそれぞれ認識の対象でもある。に過ぎぬ。

(た) 過去とそれをつなぐ因果性というのは そもそも貴乃花という人物を認識
するにあたって その認識の――必ずしも形式としてではなく――ふつうに対象と
して現われて来るものなのだ。

(ち) あらかじめ《形式》として取り出しておいてもよいが けっきょくつねに
対象と一体となっている。はずなのだ。

(つ) 《時空間》という形式ないし枠組みあるいは物指しをあらかじめ用意して
おいて これを道具として認識を始める・・・のであろうか? 

(て) その場やその情況としての時空間は 人物を見て把握しようとするときに 
すべてが一体であり したがって対象の全体となって われわれ認識の主体に飛び
込んで来る・・・のではないだろうか?

(と) 額の皺は 歳を取るという時間性と 対象の全体を構成する・・・と見た
ほうが 自然でふつうであるように思う。

№11をおぎないます。

対象はそれを認識するとき 《物自体》と《ともかく認識した内容》とに分かれる。
これらは:
☆☆(№11) 6-1.☆ おそらく《認識し得ない本体》と《その仮象〔とし
て認識し得たその内容〕》とに分けて捉えられるであろうか。

この《仮象》のようなものでも その認識は 普遍性を持ち得るということを そ
の認識内容がつねに共通の《形式》を帯びているということに カントは 捉えた。



たとえば 貴乃花の年寄り引退についての記者会見を見た。これを認識の《対象》
として...続きを読む

Q哲学の面白さって?

哲学などの概論を読んでいて、ひっかかる疑問があります。

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。特にカントなどが現れた頃からです。

この人たちが問題にするのは理性とか、存在とかそういうものですが、自分はどうしても科学的な気持ちが邪魔してしまいます。例えば存在するみたいな主題があると、自分は科学的にそれを捉えてしまいます。

存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先祖、つまり人類が生まれた時にまで行きつきます。これを哲学においては、やや抽象的な解釈をする。ここがどうしてもつかめない。それを言えばおしまいじゃないかと思っても、どうしても科学的に考えてしまうのです。

理性とか経験とかもそうですよね。心理学や科学、物理が発展した世の中ではどうしてもそっちで解釈したほうが早くないか?って思ってしまう。でも哲学には哲学の見方がある。これはどうすれば身につくのでしょう?哲学の見方が出来ればもっと哲学を楽しめるのにと思ってしまいます。

Aベストアンサー

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、
だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。
 ↑
この世には色々不可思議なことがあります。
人間は、知性があるので、不可思議な事を説明
しようとします。

最初は神話で説明しました。
しかし、次第に神話では飽き足らなくなり、哲学と
なりました。

その哲学もキリスト教と結びついたので、一神教との
整合性を保つため、やたら理窟っぽくなったのです。




存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先祖、
つまり人類が生まれた時にまで行きつきます。これを哲学においては、
やや抽象的な解釈をする。ここがどうしてもつかめない。
  ↑
人間存在だけではなく、もっと広く普遍化
一般化するのです。



心理学や科学、物理が発展した世の中ではどうしてもそっちで
解釈したほうが早くないか?って思ってしまう。
でも哲学には哲学の見方がある。
これはどうすれば身につくのでしょう?
哲学の見方が出来ればもっと哲学を楽しめるのにと思ってしまいます。
  ↑
哲学の意義は、本来は真理発見にあります。
しかし、真理の発見なら科学の方がはるかに
優れています。

哲学と科学の違いは実証にあります。

科学は実証しますが、哲学はしません。

つまり、実証出来ないモノは科学の対象になりませんが、
哲学の対象にはなります。

そこが哲学の弱点であり、かつ魅力でもあると
考えています。

実証にこだわらなくてよいのですから、自由な発想、
思考が可能です。

その結論が正しいかは、後生になって科学が
実証してくれます。

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、
だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。
 ↑
この世には色々不可思議なことがあります。
人間は、知性があるので、不可思議な事を説明
しようとします。

最初は神話で説明しました。
しかし、次第に神話では飽き足らなくなり、哲学と
なりました。

その哲学もキリスト教と結びついたので、一神教との
整合性を保つため、やたら理窟っぽくなったのです。




存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先...続きを読む

Q死後の世界

「自分が死んでも自分がそれまで生きてきた世界は存在しつづける。」
という科学的根拠が示せない理由および原因について。

a)理由
b)原因

それぞれを説明して下さい。




IOI
HXH
NSZ

Aベストアンサー

科学的根拠は示せますよ。

科学が科学的である最も基本的な根拠は、それが思索に基づいて論じられているのでなくて、経験に基づいて世界を把握しているからです。そして経験によると、この世界は時空によって把握できる。さらに経験によると時空の一部を占めている存在にはその広がりに不連続なものは存在していない。一つ二つと数えられる粒子といえども、各粒子は連続場の衣をまとって、粒子の縁は連続的に空間に広がっています。だから、貴方が死んだからといって、その時に不連続的に世界がなくなるという仮説は、経験から得られた科学的な仮説ではありません。

たとえ世界が消滅する場合にも、その消滅速度が速かろうが遅かろうが連続的に消滅するというのが、貴方が生きていた経験から得られる科学的事実です。ですから、貴方が死んでも貴方がそれまで生きてきた世界はしばく存在しつづけるというのが科学から得られる結論です。

また、ある事象の時間的長さが長いか短いかは相対的な概念であり、何か基準になる時間の長さと比べて初めて意味のある概念です。たとえば、地球の公転数が1000回たった場合の時間、すなわち1千地球年は貴方の寿命からみて長いと思えるでしょう。それに比べて、原子内で励起原子が光を放出して基底状態に落ち着きまでの時間は10のマイナス8乗秒程度です。ですが、この時間で電子は原子核の周りを百万回ほど回っています。すなわち百万電子年経ったといえます。さて、この百万電子年というとてつもない回転の数と、1千地球年というたった千回の回転数と、どちらが長い間の出来事だったのでしょう。だから、たとえ貴方にとって瞬時になくなったように見えても、連続的に消滅する事象でも、別な基準から見るととてつもなく長い間にゆっくりと消滅している事象であるとも言えるのです。

科学的根拠は示せますよ。

科学が科学的である最も基本的な根拠は、それが思索に基づいて論じられているのでなくて、経験に基づいて世界を把握しているからです。そして経験によると、この世界は時空によって把握できる。さらに経験によると時空の一部を占めている存在にはその広がりに不連続なものは存在していない。一つ二つと数えられる粒子といえども、各粒子は連続場の衣をまとって、粒子の縁は連続的に空間に広がっています。だから、貴方が死んだからといって、その時に不連続的に世界がなくなるという仮...続きを読む


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