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1.▲ (ヰキぺ:認識論) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E8%AD%98 …

§ 2 哲学的認識論の歴史
§ 2.3 認識の起源
§ 2.3.3 批判主義

2. イマヌエル・カントは、〔このように〕合理主義と経験主義が激しく対立
する時代に、観念の発生が経験と共にあることは明らかであるとして合理主義を
批判し、逆に、すべての観念が経験に由来するわけでないとして経験主義を批判
し、二派の対立を統合したとする見方が今日広く受け入れられている。

3. カントの立場は、このように経験的実在論から出発し、超越論的観念論に
至るというパラドキシカルなものである。

4. デカルトは、外界にある対象を知覚することによって得る内的な対象を意
味する語として 仏 : idée の語を充てていたが、このような構造に関しては経験
主義に立つロックも同様の見解をとっていた。

5. カントは、これらの受動的に与えられる内的対象と観念ないし概念を短絡
させる見方を批判し、表象(独: Vorstellung)を自己の認識論体系の中心に置い
た。

6. カントは、表象それ自体は説明不能な概念であるとした上で、表象一般は
その下位カテゴリーに意識を伴う表象があり、その下位には二種の知覚、主観的
知覚=感覚と、客観的知覚=認識があるとした。

7. 人間の認識能力には感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリにそなわっ
ているが、これが主観的知覚と客観的知覚にそれぞれ対応する。

8. 感覚は直感によりいわば受動的に与えられるものであるが、認識は悟性の
作用によって自発的に思考する。

9. 意識は感性と悟性の綜合により初めて「ある対象」を表象するが、これが
現象を構成するのである。

10. このような考え方を彼は自ら「コペルニクス的転回」と呼んだ。

11. カントによれば、「時間」と「空間」、「因果関係」など限られた少数
の概念は人間の思考にあらかじめ備わったものであり、そうした概念を用いつつ、
経験を通じて与えられた認識内容を処理して更に概念や知識を獲得していくのが
人間の思考のあり方だということになる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

12. けれども 8項が カギである。
▲ 8. 感覚は直感によりいわば受動的に与えられる
☆ という感性による知覚の段階が 悟性による認識の先に来る。 

13. したがって コペルニクス的転回は必ずしも成ってはいない。

14. つまり 認識行為の順序は 次のようであるのではないか?:
 大前提:世界に含まれるわれ と 世界:これらすべてが対象となる。

 認識行為の順序:
  ① 認識されていない対象の存在:(何か或るもの)
 →② われが対象と相い対する:(或るものが地に立っている)
 →③ わが感性が対象を知覚する:(そのものを見る)
 →④ 知覚(:たとえば視覚)を得る:(縦に長いものだというイメージ)
 →⑤ 見た結果としての知覚イメージを悟性が 言葉≒概念へと翻訳する
 →⑥ 理性が それは《木》だと認識する

 ☆ ⑥は ただし カントによればすでに⑤の悟性のハタラキであるらしい。
 ⑤と⑥は まとめて理性のハタラキでじゅうぶんではないか? 《知解》行
 為である。




15. カントはこう見る。つまり:
(あ) 表象あるいは概念認識は 空間・時間や因果性といった認識の形式を
生まれつき備えた悟性によってこそおこなわれる。

(い) 時空間の中に育った(あるいは人間が植えて育てた)という内容をと
もなった認識として 対象は 木なら木だと知るのだ。

(う) 認識つまり⑤⑥の段階にかんするかぎりで 対象が木であると知るの
は 生得のハタラキである認識によるのだと。

16. すなわち 対象や広く世界が われの周りをまわっているかのごとく
わが認識にはたらきかけるというよりも わが認識が対象の周りをまわってわ
が精神の能力によってそれを認識するのだと。



17. これは 世界についての認識行為について 単にその一面(部分的段
階)を捉えて言ったに過ぎない。のではないか?

18. それとも 感性による知覚は 悟性による認識に劣る。と見た。つま
り 悟性による認識こそが およそ認識について決定的なハタラキをするのだ
から 《認識が知覚としては対象に従う》という先行の段階は 軽く見ておい
てよく 《対象が認識に従う》段階を主要な内容であると言いたかったのだろ
うか?

19. だけれども 《地に立つ長いもの》というイメージが得られていなけ
れば 認識は成らない。のではないか?

A 回答 (3件)

こんにちは


これから書くものは、質問者への直接の回答にはなっていない。
私はカントの批判哲学を自身の哲学の出発点として、
彼の批判に耐え得る新しい認識論を考察して行こうという立場である。
よって、私にとってカントの認識論は新哲学の出発点にしか過ぎない。
そのため、カントの認識論より新しい概念を取り入れており、
その新しい概念を使って、回答しようとしている。
まず指摘しておきたいのは用語論である。
質問者において、私もそうだが、「認識」という用語を2つの意味で使っている。
1つは広義の「認識」で、(日本語ではまだ定まっていないが)
1.感じる   feel (感じる)
2.感受する aware (気付く)       感性 feeling
3.知覚する understand (理解する)  悟性 understanding
4.認知する know (知る)         理性 reason
という一連の過程を「認識」と呼ぶ。()は別の日本語訳。
もう1つは狭義の「認識」で、理性による「認知」を「認識」とする。
つまり、認識過程全般の「認識」と理性の認知としての「認識」を区別して
使わないと、議論の筋がおかしくなる。
カントの認識論の「認識」はほとんどの場合狭義の意味であり
(「認識過程」と使えば、広義の意味)、理性による働きに限定される。
(ごめんなさい。ドイツ語では読んでいない。
私はカントの研究者ではないので、読むつもりは今のところない。)
つまり、感性や悟性における働きを論ずる時に、
狭義の「認識」という用語は使うべきでない。
次に私の考えるカントの批判に耐え得る新しい哲学とは、
1.認識のあり方または形式を明示すること
2.認識形式の限界を明示すること
という2つの要求を満たすものでなければならない。
この要求を簡素に表現したのが、
「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」
ではないのか?
私にとってカント的転回とは(ごめん、コペルニクス的転回を勝手に換えてます)、
旧哲学のように認識を当然のこととし何の批判も無く使うのではなく、
認識には形式があり、限界があるという自覚とその定義のもとに哲学を論じる、
ことであると考えている。
この意味で、カントの認識論は、認識の形式と限界の一部しか明らかにしていない。
私にとっては、彼の認識論は「水槽の中の脳」の認識論である。
すなわち、さらなる言語論的転回が必要とされる。
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この回答へのお礼

こんにちは。ご回答をありがとうございます。

★ これから書くものは、質問者への直接の回答にはなっていない。
☆ かまいません。こちらは 独断を交えてお応えすることになるかと
思いますが。

★ 私はカントの批判哲学を自身の哲学の出発点として、
彼の批判に耐え得る新しい認識論を考察して行こうという立場である。
☆ なるほど。理論理性の限界を指摘して こんどは実践理性(≒意志)
によるむしろ道徳のほうへと《逸れて(?)》行ってしまったかも知れ
ず 課題が残っていると思われます。



★ よって・・・新哲学
★ まず・・・用語論
★ 「認識」という用語を2つの意味で使っている。

★ 1つは広義の「認識」・・・もう1つは狭義の「認識」
つまり、認識過程全般の「認識」と理性の認知としての「認識」を区別

★ カントの認識論の「認識」はほとんどの場合狭義の意味
つまり、感性や悟性における働きを論ずる時に、
狭義の「認識」という用語は使うべきでない。
☆ 微妙ですね。悟性は すでにたとえば因果性を《認識の形式》とし
て用いると言っていますので 認識行為に入っているとは思うのです。
《これは〈木〉だ》という理解は 悟性で得られるらしい。




★ カントの認識論は、認識の形式と限界の一部しか明らかにしていな
い。
☆ そうですね。感性にとっての形式は 空間と時間とであり 悟性に
とっての形式は 因果性などとして質・量・関係・様態の四種12項目
に区分されているようです。

【Q:“認識”は“認識形式”により行われる、の、“認識形式”とは?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10739513.html
での回答№8・11・13をごらんください。




★ 私にとっては、彼の認識論は「水槽の中の脳」の認識論である。
すなわち、さらなる言語論的転回が必要とされる。
☆ その方向で問い求めが成されるのではないでしょうか。

わたしは 悟性と理性とを分ける必要はないと思っています。
あるいは 悟性の12種類の認識形式は すでに認識し〔判断し〕た内
容であると考えています。

お礼日時:2018/10/04 11:55

匂い、の場合。


対象物に嗅覚が反応すれば、その対象物には匂いがある、と云う事になります。それがすでに知っている匂いであれば、対象物が何であるかを想像できます。
例えばコーヒーの立てた香りだと。

さて、嗅覚が“認識”した“物”はコーヒーの香りだと“理解(理性)”した。《これを全部ひっくるめて(理解まで)認識したと云えるとも思います。》

それが、知らない匂いだったら?
嗅覚が“認識”した“物”は何だろうと“疑問(理性)”に思う。

と、まあこんな感じで考えると、私の“認識”という言葉の使い方から、認識の意味が分かってもらえると思います。低次元の認識能力ですが、認識が先、理解(理性)が後、ですね。

高次の事柄に関しては、私には無理でしょう。でも挑んでみていますよ。

※ 疑問も理解と解釈しての考えです。

また、この《 》の中の文章を入力しながら、認識に段階があるのかな?何てことも思いました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 匂い、の場合。
対象物に嗅覚が反応すれば、その対象物には匂いがある、と云う事になります。
☆ はい。

★ それがすでに知っている匂いであれば、対象物が何であるかを想像できま
す。例えばコーヒーの立てた香りだと。
☆ ええ。そうだと思います。

★ さて、嗅覚が“認識”した“物”はコーヒーの香りだと“理解(理性)”した。
☆ カントによれば 中間に悟性が来るようです。のちに:
★ また、この《 》の中の文章を入力しながら、認識に段階があるのかな?何
てことも思いました。
☆ というように。つまり:

〇 匂い(知覚:嗅覚)→コーヒーの香りのようなもの(悟性)→コーヒーの
香りだ(理性)
☆ または この場合は 悟性と理性とは同じように《コーヒーの香りだ》と
理解するのかも分かりません。。


★ 《これを全部ひっくるめて(理解まで)認識したと云えるとも思います。》
☆ ええ。まったくそのとおりに思います。

★ それが、知らない匂いだったら?
嗅覚が“認識”した“物”は何だろうと“疑問(理性)”に思う。
☆ いや カントによる限り 感性は嗅覚も 知覚とも呼ぶ《直観》なんです。

そして 広義にはこの知覚も 《認識》に入ります。


★ と、まあこんな感じで考えると、私の“認識”という言葉の使い方から、認
識の意味が分かってもらえると思います。低次元の認識能力ですが、認識が先、
理解(理性)が後、ですね。
☆ いや あとの《理解(理性)》とあるのは これも《認識》なんです。そ
れが ふつう一般の認識です。

最初の《広義の認識に入る知覚・直観》は 時空間という生得の形式をとおし
て大きく認識が主導する認識になりますが やはり《感性:知覚:直観》なの
だと思います。

なぜなら 時空間というかたちは すでに匂いという現象にそのまま組み込ま
れていると考えられるからです。つまり 主体の認識が主導するのではなく
対象が 認識にはたらきかけている。と考えざるを得ないのだと思われるから
です。

《対象が――先に鼻の嗅覚器官を刺激しているからには――人の為す認識に従
う》とは 言い切れないはずです。



★ 高次の事柄に関しては、私には無理でしょう。でも挑んでみていますよ。
★ ※ 疑問も理解と解釈しての考えです。
☆ 承りました。

お礼日時:2018/10/09 17:08

何で対象が認識に従わなければならないの?



これって、認識した者が「正しく」なければ対象も歪んでくる、と云うことでしょ?

もしそうだとしたら、人間の思考は言葉に左右される、と云う事になりそうですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 何で対象が認識に従わなければならないの?
☆ わたしの物言いでもあります。

カントによれば:まづ感性による知覚(直観)を別として 悟性による認識におい
ては 世界の内にものごとの《関係》というカテゴリを見出し そこからたとえば
《因果関係》という要素をさらに取り出す。

そのとき 《コーヒーの匂いがする》と認識するのは コーヒーを淹れたからであ
るという因果関係を捉えることにもとづいている。

この因果性は 人間に《生得的》だと見るわけです。もともと自然本性に生まれつ
きそなわっている《認識の形式》であり そうであるならば それによって認識が
成ると見るからには 《対象を この人間の認識能力が主導して捉えたのだ》と解
釈するわけです。因果性は 天与のものだから 確かなことなのだと。



わたしの物言いは この因果性にしても なるほど人間に生得的なものかも知れな
いが そうだとしても じつに世界――この場合は コーヒーを淹れて飲むといっ
た人間の現象のことですが――においても もともと組み込まれている・・・では
ないか? と言っています。

世界における対象にも それを認識する人間の生得的な能力にも 《因果性》とい
う形式は 言わば共通の――天与の――要素なのではないか? です。

どっちかが――つまり 認識行為か 対象のほうかのどちらか一つが―― 一方的に
先に立って主導するといったものではないであろうと。




★ これって、認識した者が「正しく」なければ対象も歪んでくる、と云うことで
しょ?
☆ 《ゆがむ》というより 《確かなものにはならない》と言うことらしい。つま
り 《生得的な認識形式》があるなら その普遍性にもとづき 認識した内容も
普遍的であり得る。ということらしい。


★ もしそうだとしたら、人間の思考は言葉に左右される、と云う事になりそうで
すね。
☆ 表現のあり方によって 《認識つまりその行為および結果》は 必ずしも一定
するものではない・・・というようなことでしょうか?

お礼日時:2018/10/09 17:27

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