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偶像崇拝はどうしていけないのですか?
いろんなHPを読みましたが理解ができませんでした。

「偶像崇拝はいけない」と言っているのは
キリスト教が言っているのでしょうか?
他の宗教が間違っていると言う意味でしょうか?

それとも一般的な意味でしょうか?
宗教がいけないと言っているのでしょうか?

あらゆる宗教は御本尊などの祈る対象がありますが、
その対象が「偶像」ではないでしょうか?

教えて下さい。
宜しくお願い致します。

A 回答 (15件中1~10件)

神は天にいるからでしょう。

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お父さんがそう言ってたからって、息子のイエスが言ってました。



んで、これじゃ多くの恵まれない人間を救うことができないってんで、カソリックではイエスの言葉を無視して、マリア様でもグアダルーペ様でも聖人たちでもなんでもいいから拝みなさいって決めました。

そしたら、恵まれない人間を救うことよりも論理的な無矛盾性の方が大切なことなんじゃねってプロテスタントが言い出して、世界中のキリスト教会が大混乱をきたしています。かわいそうに、カソリックじゃ、このプロテスタントの言いがかりが気になってしまい、でも、恵まれない人間は救すいたいもんだから、マリアの像も聖人たちの像も偶像じゃないなんて支離滅裂なことを言って、知的弱者の信者を洗脳しています。

まあ、これもカソリックが成熟した大人の態度なのかもしれませんね。だって、こんな支離滅裂な論理で説得されてしまう知的弱者でも救ってあげたいという、宗教の本来の目的を貫徹するために、宗教にとってはどうでも良い論理的生整合性を無視しているのですから。
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ぱっと思い浮かぶのはキリスト教でしょうね、モーゼの「十戒」のひとつです


とは言え彼らもキリスト像を作ったり十字架を立てたりしてるんだからなんかおかしな話ですけどw

神様は目に見えない、像は像でしかない、こういうことから始まったんでしょう
この教えはキリスト教の親戚であるイスラム教やユダヤ教でも似たような感じらしいので、アブラハムの宗教の特徴と言えるのかもしれません
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私も宗教に詳しいわけではありませんので、一般的な解釈を回答します。


日本には万物に神が宿るという考えがありますから一神教の理解はなかなか難しいですが、「神」は絵や像にできるようなものではなく存在自体が尊いという考えからでしょう。
世界一のベストセラーとして旧約聖書を是非読んでみて下さい。ユダヤ教、キリスト教、イスラームの何れも旧約聖書を経典としていますから、共通する「神」を知ることができます。

参考にリンクを貼っておきますね。
https://matome.naver.jp/m/odai/2136006597355623301
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一神教の場合はこんな感じです。


「神は絶対である。
 その心も姿も、人間の思考をはるかに上回るレベルのものである。
 人間ごときがその姿を具体的に想像して像として現わすなど、
 『崇高な存在への冒涜』以外のなにものでもない。」

とはいえ、具体的に「これに祈りなさい。神に届きます」と言われた方が、人間の心に届きます。
キリスト教はその辺の妥協の名手で、嘆きの叫びが「Oh! God!!」だったりします。
絵にするし像もバンバン刻みます。
だからこそユダヤ教と違い世界に広まったのだと思います。

あと、キリストは異端やイスラムとは激しく戦いましたが、それ以外の宗教とはあまり対立していません。

「異端」とは「神の教えをゆがめて伝えるもの」で神に対する冒涜以外の何物でもなく、一番許し難い行為だからです。
偶像禁止もその流れの上にあります。
イスラムと戦うのはイスラムが「ヤハウェのもっとも新しい予言」という立場を取っているからで、要するにこれも
「神の教えをゆがめて~」つまり異端なのです。
まあ、地理的な問題もありますが。

それに対して「異教」は「まだ神の教えを知らない、これから救われる可能性のあるもの」として扱われます。
それらに対しては弾圧でなく「では救おうではないか」ということになります。
宣教師の海外進出はこの流れの上にあります。
まあどう「救う」かということがあるので、これはこれでいろいろな問題が起きますが。

なので、他の宗教のどうこうはキリスト内部では意外と問題になりません。
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要するに、「神は可視化できない。

神を可視化してはいけない」ということです。
これは旧約聖書に記述されて「いかなる像も作ってはならない」という教えを元にした考え方ですので、その流れをくむユダヤ教、キリスト教、イスラム教で広まっている考え方です。
仏教にはそのような教えはありませんので、偶像崇拝は禁じられていません。

ただ、9世紀頃のヨーロッパでは識字率が低く、キリスト教を普及させようとしても庶民は字が読めず、経典だけでは布教できませんでした。
そこで「見ただけで神聖なものとわかるシンボル」として偶像が必要とされたのですが、「第2ニカイア公会議」という東ローマ帝国が開いた会議によって「偶像そのものを崇拝するのではない。その背後にある神とキリストを崇めるのだ」という理屈のもと偶像崇拝が解禁されます。以来現代に至るまでの様々な宗教芸術が生まれ、それらが信仰の対象になってきたのです。
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偶像崇拝はどうしていけないのですか?


 ↑
偶像を崇拝する、ということは偉大なる神
をバカにすることになるからです。

偶像なんてのは所詮は金属などの物質です。
神はそんなちっぽけなモノではない。

それを崇拝するなど言語道断、という考え方です。




「偶像崇拝はいけない」と言っているのは
キリスト教が言っているのでしょうか?
  ↑
キリスト教の一部の宗派が言っています。
イスラムなどはもっと厳しく禁止されて
います。
ロシア正教などは偶像禁止ですが、その代わりに
イコンがあります。



他の宗教が間違っていると言う意味でしょうか?
  ↑
一神教なら、他の神様は存在しません。
だから、その宗教そのものが間違っていることになります。
  


それとも一般的な意味でしょうか?
宗教がいけないと言っているのでしょうか?
  ↑
仏教などは仏像を拝んでいます。



あらゆる宗教は御本尊などの祈る対象がありますが、
その対象が「偶像」ではないでしょうか?
  ↑
祈るのは神のみだ、というのが偶像禁止の
理由です。
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偶像崇拝禁止の概念は主に、ユダヤ教です。


そして、ユダヤ教から派生したキリスト教とイスラム教です。

神道や仏教は、ユダヤ教とは関係ありませんので、偶像崇拝禁止と言う教えそのものがありません。




ユダヤ教、キリスト教、イスラム教でも、偶像崇拝禁止の事情はかなり異なります。

ユダヤ教はよく分かりませんが、キリスト教は、教皇と言う「神の声が聞こえる人」がいますので、時代によって「神の声が聞こえる人」がルール改正をしていく事で、マイルドになって行きます。イスラム教は、その様な存在はなく、コーランやハディースを解釈する宗教ですので、今でも厳格に偶像崇拝禁止ですが、「何が偶像で何が偶像ではないか」については異論があります。





>それとも一般的な意味でしょうか?
>宗教がいけないと言っているのでしょうか?

宗教が言っています。
その宗教の信者ではないならば関係ない話です。
(その信者に接する場合は、注意が必要でしょう。例えば、雑貨屋に売っていたものを買ってプレゼントしても、普通の人ならば問題なくても、問題になる場合があるという意味で。)







>あらゆる宗教は御本尊などの祈る対象がありますが、
>その対象が「偶像」ではないでしょうか?

確かに、キリスト教徒がシンボルに向かって礼拝する行為は「偶像崇拝」ではないのか。
イスラム教徒が、メッカという対象に向かって礼拝する行為は「偶像崇拝」ではないのか。

と言う疑問は、よく分かります。

結論だけ言うと、それは偶像崇拝にはなりません。
しかし、イスラム教ワッハーブ派などの一部の宗派は、メッカと言う対象に向けて祈る行為も「偶像崇拝だ」として禁止しています。

偶像崇拝禁止とする宗教でも、「何が偶像で何が偶像ではないか」については、その宗教や宗派によって異なります。





>偶像崇拝はどうしていけないのですか?

神が決めたからです。
(その宗教の信者ではなければ、関係ない話です。)
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旧約聖書、というと、語弊がありますが、旧約聖書の母体になったものは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教、全てに共通した聖典です。

私は、キリスト教の旧約聖書しか読んだことがないので、それをもとに回答します。

エジプトに移住したすべてのユダヤ人が、長い間奴隷として扱われたため、エジプト王の養子だったモーゼが預言者となり、ユダヤ人を率いて、出エジプトを試みます。紅海を渡り、砂漠をさまよった後、モーゼはシナイ山にのぼり、十戒を授けられます。刻まれた石版をもって、山を下りてきたところ、あろうことか、山のふもとで待っていたユダヤ人集団は、金の牡牛を祭って礼拝していた、という、愚かしさです。モーゼは怒って、石板を粉々に砕きます。気を取り直して、もう一度、十戒プロトコールのやり直しです。

キリスト教徒が偶像、というとき、この金の牡牛がひらめきます。

多神教、しかも、動物を神の顔に描く、エジプトに長く住んでいたわけですから、ユダヤ人たちが、エジプトの神々の影響から抜け出すのは容易ではなかったと想像できます。

もう一つは、無事、現在のイスラエルに建国を果たしたのちも、先住民が崇拝していた、豊穣の神・農業神である、バールという存在に悩まされます。土地の人々は、像をつくって農地に埋め、豊作を祈ったらしいですが、現世利益を与えてくれるバールに、またしても、ユダヤ人は靡いてしまいます。預言者を通して、バールに対する祭祀をやめるよう、再三、警告を受け取りますが、豊穣の神は強いです。バールも”偶像”に当たります。

そのうち、ユダヤ人が根こそぎバビロンに連れ去られる悲劇が起き、一旦、祖国に戻り、ローマ帝国の支配を受け、イエス・キリストが磔刑にかかったのち、すぐに、イスラエルは陥落して、ユダヤ人は世界中に散らばり、二千年後に、再び建国を果たします。(当たり前のようですが、落ち着いて考えてみると、どんな事象よりも、奇跡に近いです。ユダヤ人は、彼らの神への信仰をやめて、周りの住人たちと同じように暮らしてゆけば、激しいユダヤ人差別も起こらなかったかもしれません。でも、イスラエル建国もなかったでしょう。)

何千年経っても、ユダヤ人がユダヤ人としてのアイデンティティを保てたのは、この、”偶像禁止”、地元の神様に似た存在を”神”として認めない、という、神の言葉があったからだと思います。

キリスト教と偶像禁止について書き始めると、もっと長くなりますので、ここで筆を止めます。
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像を拝むと


神さまじゃなくて、その像そのものへの信仰に変わってしまう、からではないでしょうか

ユダヤ教キリスト教イスラム教で禁止されているのは
他の方もおっしゃってますが
聖書に書いてあるから

カトリックでは教会に像がありますけど
「でも別に像を崇拝してるわけではない」
という理屈ですね
「それはおかしい」としてるのがプロテスタントですけど
でも教会に十字架はあってそこに祈るので
これも偶像崇拝になっちゃうはずなんですけどね
イスラム教はその点厳格ですね


日本の神道なんか、偶像崇拝そのものだと思います
まずそこに何かモノがあって、それが御神体となる
鏡だったり剣だったり変な形の岩とかあるいは山そのものが御神体、って神社もありますけど
人々が祈ることでそこに
神の霊が宿るという感覚

だから日本人からしたら
「なんでいけないの?」
となりますよね…感覚的に
仏教では、禁止されてないのですが
お釈迦さまは
「だけど偶像に祈っても意味はないよ」
とは言っておられるそう

でも日本の浄土宗の開祖の法然は
「たしかに像に祈っても意味はないかもしれないが
何もないと祈るのも難しいでしょ」
ということを言っておられるようです
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