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色々と上手く行かずに癇癪を起したのか?

痺れが切れたと言うか

人間謙虚でなければなりませんね。

驕り持たずに最後まで責務を通した人は偉いと思いませんか?

驕らず最後まで偉人で在った人、哲学者、思想家等誰が居るでしょうか?

ごめんなさい(申し訳ないです)

A 回答 (4件)

最期まで。

。。ソクラテス。
見事。
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相変わらず哲学的回答じゃないけど回答します



哲学者擬きなら仕方ないんじゃない?
私は哲学には対話が必要だと思います
回答と返答繰り返しながら昇華していく、、、

多くの場合「私は正しい」を書いて互いに否定しあうだけだからね
疑問投げ掛けた側が「私は正しい」する意味が解らないですが
正しいなら質問するなっちゅ~ねん

対話してる質問見ると
「はぇ~よく解らんが哲学してるな~」って思うし
持論垂れ流してるだけなら
「アフォちゃうかな」って思います

謙虚である事も必要ですが
結局は拒絶しないことでしょうね
それが出来るだけで偉大って事なんでしょう
それゆえ一般的に人は互いに「私は正しい」
を垂れ流す存在なのでしょうね
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この回答へのお礼

Thank you

人間は自信を無くすと落ち込んでしまうので 或る程度自分を信じるようになって来ますね

年が行くともう新しい発想はなかなか出来ないから、その頃の先端の考えを頼りにしたりします

ある程度主張しないと自分の考えさえどんな考えなのか分からなくなります

「自信を持って頑張って来なさい」と言う 自信と言う言葉はそんな言葉のでしょうね。

お礼日時:2018/12/13 14:35

こういう時は、楽しい音楽でも聴きましょう。



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この回答へのお礼

Thank you

軽快な音楽ですねえ。青春の様な、人生の様な

これが人間なんでしょうねえ。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2018/12/13 14:25

ディオゲネス。

犬儒派の。
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この回答へのお礼

ありがとう

Wiki:ディオゲネスは、アンティステネスの弟子になった。師の「徳」に対する思想を受け継ぎ、物質的快楽をまったく求めず、粗末な上着のみを着て、頭陀袋ひとつを持って乞食のような生活をした。

徳に対する思想を受け継ぎたいですねえ。頭陀袋ってこう書くんですね。

お礼日時:2018/12/13 14:20

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Q素朴な質問シリーズなんですが お知恵を貸して貰えると助かります 続、善悪の定義 (  ̄▽ ̄)ニャリ

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが


集団の教えから離れ
個人的な善悪の判断を迫られた時に
どうやって定義付するのでしょうか?

( ̄~ ̄;)個人的には、どうあっても
善であると、思い込んで生きているが
その、大前提に疑問を抱いた時に

もしも、この世の中に善悪なんて存在しないかも?
でも、自分自身は善であるはずなんだが・・・

そんな状況はまずおこらないでしょうが
おきたとしたら

他人と比較して、他人を悪にしてしまう
悪を造り上げてしまうのかな?
あれは、間違えてるから、悪であって
自分自身は間違えてないから、善である
と、なるのかな?

今ここに居るわたしは、善か悪か解らないが、それで良いじゃないか
と、定義付を辞めるのかな?


誰しも、自分自身が善でありたいとは思われますが

はたして・・・

ほんまに突拍子もない
素朴な疑問なんですが、お時間のあるかた
貴重な回答をお待ちしてますm(._.)m

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが

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Aベストアンサー

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 " も
同じに なるであろう

行動で 云えば 宮﨑駿 の
『もののけ姫』が 語っている
他方から みれば 善 であり
また 他方からは 悪 に なる
それは
一方からは " 生きる為に必要な もの" であり
もう 一方では " 生きる為に取り除きたい もの " なのである
利便 快適 を 相対するもの からみれば 搾取であり
また 同時に 糧である(対する位置に 居るものに取れば)

パンドラの匣に 残った
総ての悪 災 禍 が 去った後に残った 希望
そのひとつは
忘れ去る能力なのだ と思う

ただ 総ての 欲を 葬り去れば
無 に しかならない
待つのは 死 (無)である


と こんな事 考えてみました

浅かったら ごめんね

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 ...続きを読む

Q驕りとは何ぞや

頭の良い方(できれば東大、京大生)、視野が広い方、(くだらないことかもしれないけど)思索をよくする方にお尋ねします。

驕りってなんなんでしょう?そしてどうすればよいでしょう?

私は自意識過剰で人に見せることばかりを考え、自分のやりたいこともわからないし、(謙虚になって)自分をちゃんともっていないので色々矛盾したり混乱し、気もそぞろに生きています。

私は驕っていないときはしっかりした人間だし、頭脳明晰で、とても魅力があり人気者になるのです。というのは過去にそうだったし、今も瞬間的に驕りが消えたときそうなのだとわかります。

しかしいつからか驕りがひどくなり、自分を保っていられなくなりました。私は外見においても才能においても昔から人より優れて尊敬されていて、驕ってしまうだけの正当な理由があったと思います。しかし苦しめられています。驕ると浅薄になって才能も失います。

ゴーゴリの小説に「肖像画」という小説がありますが、今の私はあんな感じです。今後目を開くときがあったら、たぶんこれまでの人生にとても怒りを覚えることでしょう。でも人生ずっとこのままよりはいいかと思います。

驕りについて感じるところ、教えてください。
驕りってなんなんでしょうね?とても不思議じゃないですか?

頭の良い方(できれば東大、京大生)、視野が広い方、(くだらないことかもしれないけど)思索をよくする方にお尋ねします。

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私は自意識過剰で人に見せることばかりを考え、自分のやりたいこともわからないし、(謙虚になって)自分をちゃんともっていないので色々矛盾したり混乱し、気もそぞろに生きています。

私は驕っていないときはしっかりした人間だし、頭脳明晰で、とても魅力があり人気者になるのです。というのは過去にそうだったし...続きを読む

Aベストアンサー

>頭の良い方(できれば東大、京大生)

たったこれだけの言葉で貴方の未熟さがにじみ出ています。その未熟さに驕りが重なったら目も当てられず、刹那的な錯覚はいざ知らず、深みのある幸福感は一生味わえないでしょう。ですから、

>たぶんこれまでの人生にとても怒りを覚えることでしょう。でも人生ずっとこのままよりはいいかと思います。

という言葉に同感です。

でもご心配無く、貴方が余程業の深い方でない限り、成長と共に目から鱗が落ちる経験をして、今あなたのいる未熟な段階から抜け出せるものです。そんなときに自然と驕りも消えて、それに悩まされなくなりますから。

蛇足ですが、東大生や京大生が他の方と違う一番大きな点は彼等がそこの学生になってみて、そうなったからと言って自分が他の人達と比べてみて特別に異なった人間になったわけではないと言うことを知っていることなのです。博士然り、政治家然り、授賞経験のある学者然り、事業の成功者然りです。その方たちがそうならなかった方と違う一番大きな点は、上の東大生や京大生の例と同じで、彼等がそうなったからと言って、自分が他の人達と特別に異なった人間になったわけではない、実は皆と同じレベルにいる人間だと言うことを知っていることなのです。別な言い方をすると、所謂成功者達とは、自分の実力にではなく、自分の幸運さに素直に感謝できる人間になれた人達のことです。

>頭の良い方(できれば東大、京大生)

たったこれだけの言葉で貴方の未熟さがにじみ出ています。その未熟さに驕りが重なったら目も当てられず、刹那的な錯覚はいざ知らず、深みのある幸福感は一生味わえないでしょう。ですから、

>たぶんこれまでの人生にとても怒りを覚えることでしょう。でも人生ずっとこのままよりはいいかと思います。

という言葉に同感です。

でもご心配無く、貴方が余程業の深い方でない限り、成長と共に目から鱗が落ちる経験をして、今あなたのいる未熟な段階から抜け出せる...続きを読む

Q絶対的に正しいことを定義してみました。

絶対的に正しいことを演繹的に定義してみました。

私たちは「大切なものを守ることは正しい」と感じます。(うん、そりゃみんなそう思うね)
では「最も何よりも大切なものを守ることは最も何よりも正しいとなる(まあ、当然そうなるな)

では「群れにとって最も何よりも抜群に大切なものは群れの命でしょう」(まあ、そりゃ~、そうだろうな)
それでは「最も何よりも大切な群れの命を守ることは最も何よりも正しい」となります。(そうなるね)
逆から言えば「何よりも抜群に最高に正しいことは群れの命を守ることである」となる。(そりゃ~そうだろう)

つまりその群れにとって、「絶対的に、何よりも最高に正しいことは群れの保存、存続である」と言うことが導かれる。
結論、その群れにとって、何よりも、絶対的に、最高に正しいことは群れの存続、群れ社会の安寧秩序を守ることである、となった。

私は哲学は素人なもので、どこか間違っていないでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>詳しくは下記のリンクを覗いてください。絶対善を定義していますから。読まれましたら、コメントください。

読みました。

例えばイギリス人が、物事の正しさを問う時は、「何が正しいかは、歴史に答えがある。」として、歴史の知見で正しさを考えます。(半分ステレオタイプです。)

例えばムスリムが、物事の正しさを問う時は、「何が正しいかは、コーランやハディースに答えがある。」として、コーランやハディースを出典にして正しさを考えます。(意外とステレオタイプではありません。)



私がミスリードしたのかもしれませんが、あなたの文章は、「僕の考えた絶対に正しい事」を主張しているだけにしか思えませんでした。また、「絶対」と言う言葉は、他人からは胡散臭く聞こえるので私はあまり使いません。

Q存在理由=レゾンデートルの味

人は、それぞれ(仕事や近親者への情愛など)何かしらの具体的な存在理由を実感して生きているものだと思います。しかもそれは一つではなく数えれば限り無くあるでょう。言葉にはし尽くせない程に。

ところが、自分一つのシワの少ない頭を過信して、それだけであーだこーだ考え、しょぼい人生の言い訳作りをする事が哲学だと思っている様な人は、レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている様です。

その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。
たとえばそれは喪失感でしょうか、失って初めて気付く様な大切なことなど。

Aベストアンサー

存在理由など考えないで生きている人が大半なのではないでしょうか。考える暇もないというか、時間に忙殺されてる人も多いし、逆に何も考えずに時間に流されている人も多い。ただ、その前提には個人的なゆるぎない背景というものがあるはずです。家族への愛情、仕事に対する情熱など。
存在理由、立ち止まって考えることができる時って、きっと出会いや別離、深い喜びや悲しみに遭遇したときなんでしょうね。そう思います。

Q現代、哲学で解けている問題は何でしょうか?

現代、哲学で解けている問題は何でしょうか?
また、解けている問題は何でしょうか?
代表的、主要な問題とその解とを教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

問:答えのない問いを立てることは可能か?
答:可能である。

一例として、観察できないものが存在すると言えるか?という問い。
「神は観察できないけれど存在する」という命題に真偽の答えはないので、答えのない問いを立てる事が可能である。

Q人間の主体は精神であり、精神性質で出来ている。存在性によって存在する 是か非か?

形而上学とか霊とか魂とか心とか言葉とか色々科学が扱わない世界がありますが

それらは皆、性質で出来ている(クオリアも性質で出来ている)

性質とは何か 辞書を見れば 物事の「本来の特徴」と書いてあります

私はこの語感に異議を唱えます。性質とはもっと作用、相互作用のあるものです。

質だけならそれ程ではありませんが性と言うのはもっと(特徴より)動的あものです。

何故ならば時間が止まらないからです。時間が止まらない以上全ては動的であり変化します。

性質も作用するものであり ただの特徴ではありません。

特徴を辞書で引くと「他と異なって、特に目立つしるし、特色」とあります。

精神を説明するとき脳の性質、ニューロン・シナプスの性質、脳内物質の性質等々

性質が精神を実現してる事は明らかです。

霊や魂も 心や自然等の性質が現れたものだと考えます。異議がありますか?

この事は重大な問題なのです。人間の根本的な問題なのです。是か非か!?

Aベストアンサー

造語すべきですよ。

「性質」では一般的な意味があるから、紛れてしまいます。

その言葉が磨かれていったときに初めて、主観と主観の合意を超えて
客観性が生まれてくるのでしょう。

Q素朴な質問でm(._.)m とかく善悪にこだわる、わしやけどなんですが、 また妄想染みた質問にお付き

素朴な質問でm(._.)m

とかく善悪にこだわる、わしやけどなんですが、
また妄想染みた質問にお付き合いや、お力添え頂けると助かります

旧約聖書では
神様は、人間を分身として創造された
なんて話がありますが
人間は神様との約束事を破り
楽園を追放された
なんて話しになってますね
知識の実だけは食するな
なんて言われてたのに
食べてしまったそうですね

いっぽう、仏教では
煩悩を捨て去り、解脱やら無の境地なるものに悟りをなんたら、かんたら!

ここからが、私の妄想的な疑問でして
知識=善悪の定義としたならば
( ̄▽ ̄;)暴論やね

追放された楽園に、帰る事は許されるのでしょうか?
はたまた、そうなるとね

人としてではなく、獣として彷徨い歩くのでしょうか?

元々は神様の分身として創られたけど
余計な知識の為の追放やから
余計な知識を取り払えば
神様の分身に戻るのかな?

( ̄▽ ̄;)ここまで言い切るとね

神様への冒涜なんて言われ兼ねないんやけど
あくまでも、妄想的な素朴な疑問なんでお許しくださいね

それか、!Σ( ̄□ ̄;)
善悪の定義=煩悩の元なんて捉えたら!なんて事も考えてしまうので

煩悩の三大元で三毒なるものが
言われてるのは、承知してますが、理解までには遠く及ばないもので


学術的な答えだけではなく
あくまでも、個人的な経験や想像から
何かしらの答えをお持ちの方や、

何となくやねんけど、こんなん?
見たいな御言葉をお持ちの方々

御時間に余裕が御座ましたら
軽い気持ちでのお助けを
よろしくお願いします
(  ̄▽ ̄)にっこり

素朴な質問でm(._.)m

とかく善悪にこだわる、わしやけどなんですが、
また妄想染みた質問にお付き合いや、お力添え頂けると助かります

旧約聖書では
神様は、人間を分身として創造された
なんて話がありますが
人間は神様との約束事を破り
楽園を追放された
なんて話しになってますね
知識の実だけは食するな
なんて言われてたのに
食べてしまったそうですね

いっぽう、仏教では
煩悩を捨て去り、解脱やら無の境地なるものに悟りをなんたら、かんたら!

ここからが、私の妄想的な疑問でして
知識=善悪の定義...続きを読む

Aベストアンサー

今、世界は調和のとれたものではありません。創世記にはこうあります。神はまた、彼らを祝福しこのように神は彼らに仰せられた。「生めよ、ふえよ、地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ。」ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは全地の上にあって、種を持つすべての草と種をもって実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもので、命の息のあるもののために、食物をしてすべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。(創世記1:28-31)
神さまは人間を造り、この世界を治めることを人間にゆだねられた。創世記のこの箇所から読み取れることは、人間も自然界も共に祝福された始まりです。しかし、今はどうでしょうか。地球温暖化、環境汚染、さまざまな生物の絶滅危惧。神さまからゆだねられた人間の支配が実を結んでいるとは思えない状況です。それはなぜでしょうか。同じく創世記に、質問文にある「知識の実」の記述があります。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」創世記2:16-17 
善悪の知識の実を食べる、私はそれは人間の貪欲の始まりだと思います。同じく創世記3:7に、「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。」とあります。善悪の知識の実を食べ、目が開かれて見えるようになったことで欲望が貪欲へと常軌を逸していったのだと思います。
ウナギを大量に捕獲して加工し、売れなければそのまま廃棄する人間、飼育している豚にホースで大量の水を注入して重量を水増しして稼ごうとする人間。これこそがまさに善悪の知識の実を食べた人間の行き着いた末かと思います。
私は思います。世界に息あるもの、そのすべてが息あるものとして尊重される世界が最も良い世界です。良き管理者としての任務を放棄しつつある人間は、このままではもうすぐ何かによって滅ぼされるのではないかと危惧しています。

今、世界は調和のとれたものではありません。創世記にはこうあります。神はまた、彼らを祝福しこのように神は彼らに仰せられた。「生めよ、ふえよ、地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ。」ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは全地の上にあって、種を持つすべての草と種をもって実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもので、命の息のあるもののために、食物をしてすべての...続きを読む

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Q何故私は「反・知性主義」なのか?

こんばんは。

例によって、「ヘン」な質問ですので、お暇で、何か感想を持たれた方の書き込みを希望します。

むかしから、「読書家」と言われる人、更には「利口者」「賢い人」「博識」「才気煥発」といった人たちに、ほとんど「憎悪」と言っていいほどの生理的嫌悪感を抱いています。

それが単に「持たざる者」の「持てる者」への羨望、嫉妬、やっかみに過ぎないというのならそれはそれで構わないのです。

わたしは精神障害者ですが、知的障害者でもある可能性も高いと感じています。

さて、わたしがこのような「反知性主義者」である理由は何に起因すると考えられますか?

上に述べたように、出来ない者が出来る者へ感じる至極単純な劣等感、情けない妬み・嫉みであるというお答えでももちろん結構です。
ただ、そのようにお答えになられた場合、何故あなたはそのような結論を出されたのか?
その理由を教えてください。

このような質問をするくらいですので、精神状態はあまりよくありません。お礼が遅れることもあると思いますがご理解ください。

Aベストアンサー

質問者さん自身が、「お礼」で「『自信ありげな態度』というのはどうしても好きになれません」などと書かれてますので。
それがそのまま「理由」じゃないですかね?

すなわち、知性が嫌いなのではなくて、「知性をひけらかす」などの行為や態度が、嫌いなのでは?
もしそうなら、質問者さんに限らず、そんなのが好きな人は、少数派ですよ。(^^;)

私も、哲学やその精神や本質(知を愛す)は好きなのですが・・。
言葉遊びとか、知(智)を弄ぶ様な、一部の「哲学ゴッコ」などには反吐が出ます。
他人を論破して喜んでいる様な哲学者気取りは、哲学を語る資格さえ無いと思います。

逆に哲学の原点は、「無知の知」であって。
「知」に対しては、常に謙虚であるべきですから、謙虚さのない知性に嫌悪する質問者さんは、真に哲学的なんでしょう。


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