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江戸時代中期の近江国の領地図を添付します。
現在の草津市湖岸地区です。
いくつもの藩や公家等の領地が集落単位で点在しています。

ある程度の飛び地はなんとなくわかるのですが、ここまで細かく点在しているのが不思議です。

どのような経緯でこのようになっているのか?
また、全国みれば一般的なのか、近江国が特別なのか、

上記二点、解説希望します。

「江戸時代の領地について」の質問画像

A 回答 (3件)

琵琶湖周辺だと大坂・京都あたりで奉公している旗本や公家の領地でしょう。

幕府の旗本は一般に領地を持ちますが遠隔地では年貢米を運ぶだけでも大変なので奉公地の近くに領地を与えられたと考えられます。
江戸周辺でも小領主が多いですね。上野国、武蔵国あたりは数百石程度の領地が数多くあります。それも十数石ずつ何か所にも分かれていることが多いですね。恐らく加増や改易で領主が変わるたびに細かくなっていったと思われます。領地は一般に村単位で与えられますが小規模になると1つの村に複数の領主が存在するようになります。これを相給(あいきゅう)と言うのはご存知と思います。江戸周辺では10相給、20相給というのは珍しくなかったようです。
関西では近江、大和、播磨、備中、美作がコマ切れ状態でした。
飛地ができたもうひとつの理由として江戸時代以前の事情もあったようです。例えば備中浅尾藩は河内国太平寺村104石を幕末まで領有していましたがここは秀吉から与えられた所です。
美作は国外からの飛地が多く、常陸土浦藩、下総古河藩、三河挙母藩、播磨明石藩などの飛地がありました。備中にも一橋家、伊勢亀山藩、丹波亀山藩、備前岡山藩、それに旗本の飛地もありました。
ご存知と思いますが廃藩置県直前の状況である旧高旧領取調帳がデータベースとして国立歴史民俗博物館からnetに公開されています。領主名や村名で検索できるので重宝しています。
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この回答へのお礼

判りやすい回答ありがとうございました。
大変、参考になりました。

お礼日時:2018/12/19 11:57

律令政治の時代の日本国人口は、現在と違い非常に少なく、土木技術も未熟であるため、扇状地から耕作地となったと考えられます。

耕作に適したところが荘園となり、軍隊の無くなった平安時代には、安定した治世により人口が徐々に増加始めたと考えられます。

大陸からの土木技術の伝来により、平野部も耕作地となり始めると、人口は増加しますが、河川の氾濫も増えます。この為荘園の境界争いが発生し”一所懸命”のならず者が集団を組み荘園に加勢します。雇われれば色々な荘園に出かけ、時には暴力も振るい、境界を確定して行くと同時に荘園からその報酬として荘園の一部を与えられるようになったのは、ご存知の通りです。

この為ならず者は、後に”侍”として荘園主に認められ、更に朝廷とも結びついた事は、歴史上の事実です。そして常駐しない荘園主の荘園を我が物にして行き、武士が地頭となり、事実上の領主となって行くのは自然の流れでもあります。武士と言えども権力を持てば、領土を増やすのに”名分”が必要となります。名分を無理やりにも作り手あたり次第に領地を増やしていけば、飛び地も何のその、図の様になります。

これが幾多の戦乱により境界が徐々に整理されていきますが、土地に対する”一所懸命”が武士の本分である以上、このようになる地方がの残るのも当然です。そして領土の整理に失敗した代表例が、佐々成正が領主となった肥後です。土佐の山内家の様に、長宗我部時代の家来を郷士として一定の身分を保証して置けば成功したでしょう。しかし地侍である”隈部一族”を中心にまとまった武士団に敵わず、加藤清正にその地位を奪われます。清正も地侍には手ひどい反撃を受けますが、最終的には隈部一族の郷士化を認め、やっと領主の地位を固めます。

土地こそ武士の生命線であった江戸時代までは、飛び地と言えども命を懸ける武士の本分だったのです。「一生懸命」とは似ても似つかない”一所懸命”の結果だったのです。国定忠治が逃げ回れたのも、こんなに領地が入り組んでいた為なのです。
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この回答へのお礼

いろんな話ありがとうございました。
参考になりました。

お礼日時:2018/12/19 11:58

1国全体が 1つの藩に支配されているところもあれば, 1つの国が複数の藩に支配されていることもあるので, 「点在する」こと自体はそれほど特別ではありません.



一般に幕府から加増を受けるときには「幕府領から切り出す」必要があるのですが, 既存の領地に隣接するところから常に切り出せるわけではありません. その結果, 遠隔地の領地をもらうことも (特に小さな領主であれば) めずらしくありません. 逆にいうと, 加増によって渡すことのできる領地は幕府領であることが多いので, もともと幕府領が多かったところではこのようにばらばらになることもあります.

逆にいうと, それぞれの大名や旗本はさまざまなところに領地を持つ (可能性があった) ということでもあります. 例えば大岡忠相が初代藩主となる西大平藩の場合は本貫である相模の他に武蔵や上総など各地で加増され, 最終的には最も石高の大きくなった三河の藩という扱いになっています.
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この回答へのお礼

早々と回答ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2018/12/19 11:56

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