性格悪い人が優勝

1. もしカントの言うように ひとの悟性には 時間・空間や因果関係と
いったカテゴリがアプリオリにそなわっているとするのならば それらのカ
テゴリによる世界のものごとの認識が どうして間違ったりするのか?


2. 認識を間違ったと知るのは どのようにして起きるのか? カテゴリ
が おいおい それは 間違っているぞ! と注意してくれるのか?


3. あるいは 間違いだと知っていながら 偽証するということが 人間
には起きる。これは 偽証だと分かればよいのだが 長いあいだ・または容
易には分からないこともある。
――カテゴリにもとづいて知覚し認識しているはずなのに どうしてそこに
ウソ・イツハリの入る余地があって これが容易には発覚しないのか?

A 回答 (3件)

認識の形式と云う事に付いて。



人は人体としての構造は、同じですが体型などは、一人として同じ人はいません。
カントの云う認識の形式とは、人体の構造に当たるのではないでしょうか。

構造は同じ造りでも、人体としては差異が生じる。
形式は共通でも、認識には差異が生じる。

この解釈はどうでしょうか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 人は人体としての構造は、同じですが体型などは、一人として同じ
人はいません。
☆ という個人差を捨象して 認識形式なるカテゴリがヒトには埋め込
まれている。という理論なはずです。その標準モデルを前提とします。

またそこで そうすると個人差は考えなくてもよいことになります。
モデルとしては 最小限必要なこと(認識)は その形式をとおして得
られることになっているわけです。

あたまの中でそういう操作を――誰もが――するわけです。


★ カントの云う認識の形式とは、人体の構造に当たるのではないでし
ょうか。
☆ その構造に埋め込まれているハタラキです。

世界に相い対するなら 自分の中に座標のようなものがあってそれによ
って空間を認識し 腹時計か気持ち時計かによって時間の経過を認識す
るわけです。モデルとしては 個人差は考えなくてよいわけです。

その時空間にものごとが起こっている。それについても 人体の構造に
アプリオリにそなわった因果関係形式といった何か物指しのような機能
をとおして その歴史過程を認識することになる。・・・らしい。

だったら このモデルに関するかぎり ふつうに妥当な認識が得られる
はずです。《間違い》が起きる気遣いはないはずです。

個人差というのは このモデルによる必要最小限の認識内容をもとにし
て そのあと ああぢゃこうぢゃといろんな意見を出すというものです。



つまり 必要最小限の誰もが共有することのできる認識を モデル人間
は得ることができる。
そしてそのあとです。次のように 個人差が現われるのは。:
★ 構造は同じ造りでも、人体としては差異が生じる。
形式は共通でも、認識には差異が生じる。



さもなければ カテゴリとしてアプリオリに備わっていると説く意味が
ない。となるはずです。

つまり 初めっから個人差があるのなら もともとヒトなら誰にもカテ
ゴリがそなわっていると説く意味がありません。個人差のあるカテゴリ
なら アポステリオリに経験的に身に着ける認識能力だけの場合と何も
変わりないはずです。

ちがいますか?

お礼日時:2019/01/31 12:58

1.“人間”の心が誰も彼も同じ、とは云えません。


働き、としては同じと云えても、能力に於いては個体差があります。
これだけ見ても、悟性なるものにも個体差があると云えます。

均一でない心の認識には、個体差が生じます。
そうした個体差を持つ“認識”に普遍性?があるとは思えません。

2.多分、正・負の正の力・流れ、がアプリオリ的に備わっているから。

3.やっぱり心の曇り、に依るのでしょう。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 1. “人間”の心が誰も彼も同じ、とは云えません。
働き、としては同じと云えても、能力に於いては個体差があります。
これだけ見ても、悟性なるものにも個体差があると云えます。
☆ こういう場合は カントの説くところに従って ふつうのモデル
としての人間を想定するわけです。

カテゴリとして埋め込まれている時間空間や因果関係の形式――認識
形式――これが ふつうにはたらくとしてみるわけです。

ならば どうして 認識に間違いが出てくるのか? 

認識形式に欠陥があったとは 見ないわけです。そういうモデルの話
として。

そして №1のお礼欄にコメントしたように考えられるわけです。
カントよ おかしいではないか? と。

つまり:
★ 均一でない心の認識には、個体差が生じます。
そうした個体差を持つ“認識”に普遍性?があるとは思えません。
☆ ということがあり得ても カントのモデルとしては 最低限の妥
当な認識が得られるカテゴリ作用であるはずなんです。




★ 2. 多分、正・負の正の力・流れ、がアプリオリ的に備わってい
るから。
☆ この問いは まづかったかも知れません。問題は むしろ(1)
のように どうして認識に間違いが生じるのか? という問いをもっ
て批判したほうがよい。はず。



★ 3. やっぱり心の曇り、に依るのでしょう。
☆ これも そうだとしても どうしてその認識形式のハタラキがそ
の心の曇りによって凌駕されてしまうほど よわいのか? 

アプリオリにそなわっているカテゴリのチカラが そんなに弱いのな
ら アポステリオリに築いた認識のチカラだけで――間違いを許容し
つつでも―― じゅうぶんやって行ける。はず。

つまり カテゴリなる認識形式など 要らない。となります。
カントくん どうしてくれる?

お礼日時:2019/01/30 16:49

1.心と云う鏡が曇っているから。



2.心は神と同質だから。

3.自己は自我と云う垢で覆われているから。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 1. 心と云う鏡が曇っているから。
☆ けれども 心や身を超えたところで――アプリオリに――認識の
形式としてのカテゴリがそなわっている。というわけです。カントに
よればです。

この――時間や空間についての・あるいは因果関係をめぐる認識にか
んする――カテゴリなるハタラキは 《曇る》ことはない・・・ので
はないか?



もっと言えば 心や意志が よからぬことを考えてカテゴリの機能を
捻じ曲げる・・・といったことがある。とすれば: 

とすれば それなら そのカテゴリは 人間のアポステリオリに(後
天的に・経験行為を経て)得た意志やその認識行為によって 凌駕さ
れてしまう。・・・ということになります。

そんなものであるのなら 何もわざわざアプリオリに身と心とに埋め
込まれた作用なのだと言う必要はないでしょう。

アポステリオリなかたちとしても カテゴリのハタラキは 得られる
ことになるのですから。



つまり 世界(環境)からも人間に 認識をせまる刺激がやって来る
のであって 人間からのみ――カテゴリのちからによって 地動説の
ごとく――認識をおこなう。・・・という一面的な捉え方をする気遣
いはないとなります。




★ 2. 心は神と同質だから。
☆ つまり
☆☆ 2.・・・カテゴリが おいおい それは 間違っているぞ! 
と注意してくれる
☆ ということですか?

あまり聞いたことがないのですが。




★ 3. 自己は自我と云う垢で覆われているから。
☆ つまりすでに(1)項で述べたと思いますが そのような《垢や
曇り》が付く前に――そして 付いたとしても―― アプリオリな機
能としてのカテゴリが それらの夾雑物を上回ってはたらく・・・と
いうものではないのですかねぇ?

お礼日時:2019/01/29 11:31

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!