準・究極の選択

中国の第一過渡期はいつですか

A 回答 (8件)

元王朝については、2度の元寇に着目したいと思います。

主な出来事は以下のとおりです。

1192年 源頼朝が征夷大将軍に就任(鎌倉幕府)
1271年 フビライ=ハンが国号を元とする。
1274年 文永の役(第1回蒙古襲来、900艘3万数千人)
1276年 南宋滅亡(無血開城)
1281年 弘安の役(第2回蒙古襲来、約4400艘14万人)
1338年 足利尊氏が征夷大将軍に就任(室町幕府)
1368年 明建国

2度の元寇については、「中国史」の238ページと「中国の歴史」65ページに同様の記述がありますが、1回目は日本と南宋の連携阻止が目的で、2回目は無血開城で余剰となった南宋軍人10万人の日本移住計画だったとのことです。かなり衝撃的な元寇理由でした。

 ここで疑問点は、元が南宋を滅ぼす際に南宋と日本の連携を脅威と考えていた点です。これは日本史にも記述がないようですので、モヤモヤ感が残ります。
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宋時代の人口は最盛期で1億人だったようですが、宋時代の文化については、触れておく必要があると思います。



中国史の214ページ、「宋の文化」の冒頭記述をそのままご紹介します。

「宋代の文化は、思想・文学・芸術・工芸・諸学問・科学技術等あらゆる方面に新しい展開がみられる。それは一言で言うと、唐宋間の社会変動、周辺民族の台頭によって、文化の担い手がかわり文化を貫く理念や形式がかわったためということができる、」

中国史の「宋の文化」に記述されている主なものを以下に列記します。

・新しい儒学である朱子学が起きています。朱子学は日本でも江戸時代に盛んになっていますが、気と理の考え方は面白いと思いました。

・絵画では唐代に流行した人物画にかわって山水画が主流となっています。

・陶磁器生産が発展しています。

・木版印刷が盛んになり、医学・薬学・数学等の科学書もつぎつぎに出版されています。

・鉄や銅の精錬技術の発達と産出量の増大、火薬の兵器への利用。


鉄塔の写真
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960年に、周の世宗の死後に周を奪い取った趙匡胤(ちょうきょういん)が北宋の太祖となりました。

それから10年以上かけて南方の各国(後蜀、南唐、楚、南漢など)を飲み込んで統一国家となり、北宋の内部崩壊と北部の金王朝の台頭により北宋滅亡し、1127年に南宋建国し、その後1276年に南宋は滅亡します。

 宋王朝の領土の広さという視点でみると、隋・唐の時代よりも小さく、古代中国時代から各統一王朝の中核地域だった領土に限定されており、北方地域は他国となっています。
また、北方地域も朝鮮半島に近接する遼、金と西域に隣接する中央アジアの西夏に分かれているようで、これらの地域は広大ではありますが居住できる地域が少ない過酷な自然環境の土地でもあります。これらの北方民族の国による宋への度重なる侵略は、後の宋の弱体化も招いているようです。

 中国中核地域と北方地域では自然環境が全く異なるため、生活環境が全く異なっています。中核地域の基幹産業は農業であり、それに付随して商業も発展しています。そのため、貨幣経済が浸透しています。北方地域は、遊牧が生活の糧であり、季節により居住区が移動するとともに主食も全く異なります。

宋の時代は約300年間続きますが、揚子江流域農業の発展と商業の発展とともに、北方民族国家の台頭により大きな変化があったように思います。そのため、この時期に元王朝を経て明王朝に続く礎が築かれたのではないかと思います。

さすがに、中国歴史教科書だけでは理解できないことだらけでしたので、以下の図書を参考にしています。
・新版 世界各国史3 中国史(山川出版社 1998年6月20日発行)
・中国の歴史(有斐閣アルマ 2015年3月30日発行)
・世界の教科書シリーズ42 東アジアの歴史-韓国高等学校歴史教科書(2015年9月10日発行)

・南宋時代の各国領土
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907年の唐の滅亡による五代十国時代を経て宋の建国、1276年の南宋の滅亡までの約360間を中国の教科書では、「封建社会の継続的発展と民族政権の並立-五代、遼、宋、夏、金」と位置付けています。

日本では、平安時代から鎌倉時代になります。
まずは、907年から960年までの五代十国時代について、軽く触れたいと思います。

時代の進化は平和な時ではなく、群雄割拠の不安定な時代に起きるものですので、中国教科書から五代十国時代の主なものを列記します。

・写真地図上の黄河流域にある後周は、後遼、後唐、後晋、後漢を経て後周となっているため、五代と言われています。
・後周の世宗(せいそう、在位954年~959年)が改革を断行したことで、次の統一国家である北宋の基礎を築いています。
・北方は不安定で南方の国々が比較的安定して発展しており、北方から南方への人民流動が起きています。
・南方の国々の発展とともに、関所や重複する商業税の障壁に対する不満が統一の機運を高めています。

統一国家が分裂した五代十国時代は戦争に明け暮れたわけではなく、比較的平和な時代だったようです。統一国家が分裂すると、貨幣や徴税方法が各国独自になったようですが、国家体制そのものは隋・唐時代に築いた律令体制を踏襲していたようです。

五代十国時代(後期)の領土
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それでは、中世中国の各王朝の特徴と変化した部分について整理していきたいと思います。


出典は全て「世界の教科書シリーズ11 中国の歴史-中国高等学校歴史教科書」(2004年5月31日初版第1刷発行)です。

第4章 封建社会の繁栄-隋唐 の冒頭の記述に全てが記されていると思いますので、一部削除したデッドコピーを紹介します。

西欧が国家の分裂、政局の混乱、工商業の衰退、文化の停滞という中世の暗黒時代のただなかにあったとき、アジアは活気に溢れ、それとは鮮明な対照をみせていた。7世紀、イスラム教の開祖ムハンマドとその後継者たちはアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがるアラブの大帝国を建設した。6世紀から10世紀にかけて、中国の地には東は太平洋に臨み、西は中央アジアに達する強大な隋唐王朝が相次いで建立された。隋唐は統一的多民族国家であり、強力な中央集権を実施し、多くの制度を確立して、経済は空前の繁栄をみせた。(少数民族の繁栄に関する記述削除)外国との交流や往来はこれまでになく頻繁になった。文化は燦然と輝いていた。隋唐の政治、経済・文化の発展はアジア、とりわけ東アジアの多くの国家に影響を与えた。

唐の滅亡の始まりは、安史の乱のようですが、その原因は、政治の腐敗、辺境地の軍事力と国内の軍事力の極端なアンバランス、すなわち外重内軽だったようです。

結論としては、過去から連綿と続いてきた中央集権体制の強化が特徴で、大きく変化した部分はないように感じます。
なお、「世界史リブレット 唐代の国際関係」(2009年4月30日発行)の25ページには「中国史にもっとも影響を与える外部勢力は、まず第一に北方の勢力であり、ついで西方からのエネルギー」と記入されているように、4章冒頭の文末にチョロッと東アジアの国々としてひとくくりで記入されている当時の日本は、全く相手にされていなかったことが良く分かります。
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中世中国の歴史について、日本史との関係を整理してみます。



630年 第1回遣唐使(朝鮮半島経由)
663年 白村江の戦い
754年 鑑真和尚が5回目の渡航で来日
894年 最後の遣唐使
1274年 文永の役(蒙古来襲)
1404年 勘合貿易(明は足利義満を日本のトップとして扱う)
1592年 文禄の役(豊臣秀吉の朝鮮侵略)
1634年 日光東照宮の大改築

長くなりますが、それぞれ解説します。
1.第1回遣唐使
 遣隋使から続いているもので、隋から唐に変わったため第1回遣唐使となっています。ポイントは航海ルートが遣隋使の時からずっと朝鮮半島経由ということです。安全な航海が保証され、経由地の朝鮮半島の国と深い親交関係にあったことが想像されます。

2.白村江の戦い
 なんのために朝鮮半島まで出兵して唐の軍隊と戦ったのかについて、理路整然と説明できている者がいないと思いますが、この後の遣唐使は朝鮮半島を経由せず東シナ海の航路をとり遭難続出となります。これ以降の遣唐使は、イチかバチかの博打の繰り返しとなりますが、造船技術や航海技術の改善で遭難を防ぐことに着目した日本人は皆無だったようです。

3.鑑真和尚が5回目の渡航で来日
 鑑真和尚が日本への渡航に執念を燃やした理由が不明ですが、興味深い内容ですので独自に調べると何かに気づくことがあるかもしれません。日本仏教や漢方医学などの祖でもありますが、鑑真和尚が口頭試問で認めた者が、あっさりと有資格者になっているというのも面白いと思います。

4.最後の遣唐使
 遣唐使船での渡航が危険極まりない、というのが遣唐使廃止の最大の理由だと思います。
ひらがな文字の定着とともに、日本がガラパゴス化して発展していくスタート地点になると思います。

5.文永の役(蒙古来襲)
 二度の蒙古襲来では、壱岐・対馬は全滅状態になっており、戦い方に明らかな差がみられますが、神風によって撃退できたことで、それなりの立場の者が本土防衛などに永続的に心を砕くことはなかったように思います。それよりも、軍功のあった者に褒美を与えることが出来ないという深刻な問題が鎌倉幕府の滅亡に繋がっているように感じます。

6.勘合貿易
 室町幕府の三代将軍 足利義満が始めたもので、体裁を重んじるだけで変化に鈍感な権力層の連中に言わせると屈辱的な朝貢貿易だったと思いますが、足利義満はこれによって莫大な利益を得て金閣寺を建立しています。南北朝合一など天皇家への貢献も計り知れないと思います。

7.文禄の役(豊臣秀吉の朝鮮侵略)
 表面事象については歴史教科書に記載されていますので記述不用だと思います。この類の歴史を調べる際には、対立する双方の視点で調査すると効率よく事実に近づけます。日本側の歴史書はいろいろとありますが、半分はでたらめな内容だと思った方が良いと思いますので、現場で起きた事実らしい記録にたどり着くのは結構しんどいと思います。韓国側の歴史書は、地元の図書館にある韓国の歴史教科書で十分だと思います。

8.日光東照宮の大改築
 日光東照宮を見学した人は、誰もが当時の日本ではなく中国を感じると思いますが、これは徳川家康を神格化するためには中国の権威が必要だったことを意味しています。なお、こういうことに気づかない連中が、偉そうに日光東照宮を語る姿は滑稽です。

以上、回答№3です。
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次に、時間切れで締切済となっている【「中国の歴史について 東洋史」の中世中国の特徴と変化した部分】の質問について回答しますが、私自身が勉強しながらの回答となりますので、何回かに分割して回答します。



 歴史学の特性ですが、「中世中国の定義は、誰もが好き勝手に定義できる」ということがわかりましたので、私は唐王朝から明王朝までとします。

 中世中国の特徴としては、以下のことが言えるのではないかと思います。
・宋王朝で中央集権国家体制や国家運営の仕組みが確立しています。
・元王朝で漢民族以外の王が出現するとともに、それ以前に積み上げられてきた支配の仕組みとは異なる方法も取り入れています。
・明王朝で進化した支配の仕組みが確立するとともに、鄭和の大航海で知られるように、シルクロードだけではなく外洋航海により他国と関わるようになりますが、ヨーロッパの大航海時代のような発展は遂げていません。

 変化した部分は、全ての王朝時代の中にあるような気がしますので、もう少し調べてから回答します。
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紀元前に統一中国国家が出現しましたが、その後に繰り返されることは同じで、新たに生まれる王朝は黎明期、発展期、衰退期、(混乱期)を繰り返しています。


古代の王朝は殷、周、春秋戦国時代、秦、漢と続きますが、支配地域の範囲から考えると最初の統一国家は、紀元前後に存在した漢王朝ではないかと思います。
 その後の代表的な王朝は、唐、元、明、清になると思います。

古代中国での重要な出来事は、まず、漢字・墨・筆・竹簡・紙による外部メモリの獲得、儒教に代表される春秋戦国時代の思想家の台頭があります。これが、今日の東洋というか東アジア諸国の思想や文化の源となっています。

 古代中国や元時代の技術には特筆すべきものがありますが、これらは西欧の歴史の陰に隠れがちです。私が知る主なものは以下のとおりです。

春秋戦国時代 瓦、製鉄や鋳鉄、様々な武器
前漢時代 体系的な東洋医学
2世紀 地震の震源方位計
3世紀 後の方位磁針の原型となる指南魚
6世紀 木版印刷
13世紀 火薬武器の考案

古代中国の過渡期は、春秋戦国時代ではないかと思います。群雄割拠の中で儒教が生まれ、天命による統一中国の思想が醸成されたように思います。また、この時代の技術の進展は顕著だったのではないかとも思います。
日本の戦国時代は、それから1000年後ですが、その規模などすべてにおいて、我々日本人の想像をはるかに超えたことが起きていたのではないかと思います。

質問者様は、たぶん、中国の歴史に興味はないと思いますが、今から150年前ぐらいの明治維新まで、日本は中国の思想や文化の影響を強く受けるとともに、数多くの恩恵も受けています。
中国の歴史など大学入試にはほとんど出ないと思いますが、中国を知ることは日本を知ることですので、非常に重要です。
それは、日光東照宮を見れば直ちにわかることですが、気づけないとしたら、バカで無知な専門家と同等レベルと考えていただいて良いと思います。
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