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最近小泉内閣の進める『三位一体改革』の方針の中に
義務教育費国家負担制度の見直し、という言葉を耳にします。
財政学を学んでいる際に聞いた記憶がするのです。
確か大正時代に成立したモノがいくつかの改正を経て成立した法だったと思うのですが、
もともとは教育費負担が賄え切れなく国家と共に共同で負担する
という制度だったと思うのです。

形は不完全かもしれませんが、
これを日本で初めての税源移譲の政策だったととらえても良いのでしょうか?

A 回答 (2件)

 義務教育国庫負担金は、税源移譲の源流というよりは、


地方交付税交付金の源流という風に意識されています。

 大正時代に入ると、第一次世界大戦による好況が終わり
、日本中が不況となりました。特に、米騒動に象徴される
消費者物価の上昇は貧困層を増大させ、地方財政の人件
費や社会政策費や急増させます。にも拘わらず不況下で
歳入が伸びないため、地方財政は破綻していきます。

 これに対処するために、何らかの形で資金を地方へ
還流させる必要があり、それには二つの手段が考え
られました。

 その一つが税源移譲(国の税金を地方の税金にする
こと)であり、いま一つが分布税・配付税方式(国の
税金を国の責任で地方に配分すること)です。

 前者の議論として両税委譲論というものがありました。
 これは、地租と営業税という、当時の国税の基幹税を
地方へ移管させよ、という議論です。大正時代は立憲
君主制下の二大政党制が機能していた時代(いわゆる
「大正デモクラシー」)なので、政友会といった政党も
両税委譲を実現させよと政府に迫っていました。

 しかし、両税委譲を実現すると、地方財政間の格差が
広がってしまいます。両税委譲論は、財政力格差の問題
にあまり関心を払わなかったことが禍して、財政力の弱
い地方団体が熱烈に両税委譲案を支持する、という事は
ありませんでした。

 一方、両税委譲論は阻止したいが、地方財政の破綻を
見過ごすわけには行かない内務省は、当時地方財政(
特に市町村財政)の大宗を占めていた、義務教育費の
負担を国が併せ持つことで、負担に苦しむ地方財政の
窮乏を緩和しつつ、地方財政間の負担力を平準化させる
政策を、一貫して取ります。このため、義務教育国庫
負担金は、財政調整機能を併せ持つことが常態化します。

 しかし、昭和10年代に入り義務教育の国庫負担
の調整が98%を超える自治体が登場し、義務教育の
国庫負担だけでは財政調整が行えなくなった時に、
義務教育費以外の、地方財政全体の負担の平準化を
はかろうとする地方分与税制度が成立します。これが、
現在の地方交付税交付金制度の母体とされています。

 逆に、この時実現しなかった「両税委譲論」が税源
移譲の源流と捉えられています。
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若干の補足ですが、#1の方もおっしゃるように、義務教育費国庫負担制度は税源移譲のはしりというよりは、自治体間の財政調整制度=地方交付税のはしりというべきものでした。



もともと義務教育費国庫負担制度は、一定額を国が拠出し、それを地方が分け合うという制度でしたが、分け合う際には財政力が弱い市町村に対しより多く分配するというしくみでした。定額制から定率制に移行した(じれが大正年間だったと記憶するのですが……)結果、こうした調整的な機能はなくなったのですが、小さな市町村にとっては、引き続き、財政負担の大きな部分を占める教員給与(固定費)から解放してくれるという意味で、多少の財政調整機能を果たしていました。戦後すぐにシャウプ勧告により国庫負担制度の廃止が事実上決まった際にも、文部省(当時)は「使用目的を教育に限った交付金制度を、平衡交付金(今の地方交付税交付金の前身)とは別に作り、その際には財政力の弱い地域により熱く配分する」という教育交付金的な仕組みを創案し、国会提出の直前までいったほどですから、昔から、こうした財政調整機能ということが意識されてきた証左といえるでしょう。
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