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コペルニクス的転回
またコペルニクス的転回で言われる「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」という意味がよく分かりません。
具体例を交えながら教えていただけないでしょうか?

A 回答 (10件)

《錯覚》を 認識主体の主体性だって?





錯覚などはなく ふつうに間違いなく事実を認識したとするとき
そこには アプリオリに主体にそなわった認識形式が 普遍的に
はたらいている。というのです。

その時間も空間もあるいは因果の関係も 認識主体にそなわって
いるものなのだから 認識が対象に従うということではない――
こう言っているのです。




けれども アプリオリにそなわっているのだとしたら けっきょ
くカントが否定したイデアやその関係でそなわった知性のチカラ
というものをみとめていることになる。

物自体が分からないものだとしたとしても 生まれつきそなわっ
た何かけっきょく霊性のハタラキがあると認めたも同然だ。

その問題は措いておくとしても 認識形式が われわれ主体にそ
なわっていると言っても 対象世界にも たとえば時間や空間が
――主体にそなわると同時に 互いに対等に――組み込まれてい
ると考えるのが ふつうではないか?




時間・空間という認識形式が 人間にアプリオリにそなわってい
るゆえ 世界を認識するときに はじめてそこに時間として・空
間として捉えることが出来るのだと言っている。

人間の認識が 世界に時間や空間を捉えることによって それら
が対象としてやっと出現するということになる――それでよいの
か?
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カントの気付きは間違ってないと思います。



精神の能力には理性や感性、そして意思などがあるとされていますが、そうした事柄を意識し認識できるのも精神の働きですね。

自身の周囲で起きる出来事は、心を持って認識します。
云い換えると、心がなければ何も認識する事は出来ない、と云えます。
心があればこそ、ですね。

問題なのは、なぜ対象は認識に従うのかですが、一つには心というものが一人一人違う、からなんです。顔が違うように心も人それぞれなんです。
でも、これではあまり理由にはなりません。

実は、心はカメラの印画紙のような役目をしているようなんです。一旦、心の印画紙に受け止めた対象、その“像”を認識しているんですね。
自身の“心の相”を我々は見てるんです。

あたかも遠くに山や川があるように見るのも、実は自身の心の相を向こうに見ているのだ、という事を、あるお坊さんが云っています。

だから、人それぞれの心が歪んでいたり、汚れて曇っていれば、外界の対象物はその様な“映像”として認識する事になるので、その事をカントは「対象は認識に従う」と表現したのだと思います。
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川辺の柳は、ある時は木として認識され、ある時はオバケとして認識されるって事や。

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№6に批判です。



認識とそれの意味付けとは別ではないか?

矛盾・乱雑・散逸に秩序をも見るというのは 事実認識のあとの
解釈ではないか?

その《散逸なる事実を秩序と認識する》のなら 余計にそれは
《発明・創作》ではなく 《あたらしい事実の発見》であるに過
ぎなくなる。

いかに?





カントの《認識形式》は――《時間・空間あるいは様態や因果関
係など》であって――
◆ 認識の枠組み
☆ ではありません。意味づけ(解釈)以前の・一般性を持つ要
素・要因のことです。
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大分前に、ワインバーグとプリゴジンの二人のノーベル賞受賞者も参加したパネル・ディスカッション(壇上議論)を聴いた際の話です。



先ずワインバーグ曰く、
「自然科学には発見があるのみで、発明すなわち創作はない。それは、誰も見たことがなくてもそこにすでにあった大海の孤島を発見するのと同じだ。」

それに対してプリゴジン曰く、
 「単純な現象に対してはワインバーグの言うことも正しい。しかし物理学の対象といえども複雑な現象がある。その場合、それを研究する研究者の手に入れてきた世界観や文化の違いによって、その現象に対しする意味づけが全く違ったものになる。一方の研究者にはそれがこの宇宙のあり方を理解する上で重要な現象であるとされ、他方の研究者にはそれが取るに足らない現象だとされるように。一見客観的とされている現在の物理学でも、その認識の仕方にユダヤ・キリスト教の影響を受けた西洋文化の偏見に多大に影響されていることを忘れてはならない。だから、自然科学も文化による創作の営みである。」

ワインバーグは伝統的な物理学の延長上で語り、プリゴジンは「散逸構造の理論」に基づいた今までの西欧科学では意識されなかった認識の枠組みで語っていました。
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量子力学では月を見ていない時は月は存在していない。


月を見た時に現れるとか言いますが、正にこの言葉を反映しています。
それは置いといて。

赤信号になったら止まる。これが認識が対象に従うだと思います。
止まったら赤信号になる。これが対象が認識に従うだと思います。

実際信号機は交通状況に応じてコントロールされてるので、
半分当たってるかもしれません。
つまり、車が走ってきたら青信号に変わると言う事です。
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カントが言いたかったのは 人間の認識に従って対象は認知されるのだから



我思う故に我ありからすると 認識の方が主体だと・・・では?

でも実際にはそう言う一面もあり認識が対象に従ってる面も幾らでもあります。

互いに影響し合っているのです。
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同じ疑問を持つ者です。



しかもこの疑問をつらぬきたい・またつらぬくことが出来ると思って
います。つまりカントは 考え違いをしていると見ます。


◆(№2) 対象から離れたトータルの認識手段(教養みたいなもの)
によって対象を見る
☆ この《認識手段(教養みたいなもの)》あるいは要するに 時間
や空間そして因果関係などなどの《認識形式》というもの これらも

これらも じつは 《対象・つまり自然界や社会といった環境として
の世界》とわれわれとの関係として人間が知覚し認識したものである
・・・はずです。

感性による知覚にしろ知性による認識にしろ それらの行為は 対象
とわれとの――そのかぎりで――対等な関係の中で得られたものであ
る・・・のではないか?

別に対象べったりなのでもなく また認識主体たる人間の何か優越性
のもとに成されるということでもない・・・はずではないのか?


コペルニクス的転回などは成っていないし 成す必要はないし もと
もと《人間が対象にしたがうひとつの側面のみを主張する見解》など
はなかったのではないか?

《世界とわれ》という世界にあって われは われ自身をもふくめて
世界をふつうに自然に予断などはなく 知覚し認識する・・・という
のみではないか? と考えます。
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対象に従って認識するだけだと表面(見えている範囲)しかわからない。


対象から離れたトータルの認識手段(教養みたいなもの)によって対象を見ることで
表面からだけでは見えない深層まで理解できる。
つまり表面だけの対象という存在から
見えない深層に関する認識を伴った表面以上の存在として認識される。
ということだと思います。

認識手段の進歩というのは人間の世の中で大事なものです。
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これ、カントの言葉ですよね?


Yahoo知恵袋に同様の質問がありました。
うまく回答されていると思いますよ。

カントの「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」ってどういうことですか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
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