ちょっと変わったマニアな作品が集結

いろいろ調べましたが独我論や懐疑論を否定するのは難しいようです。ということは多くの哲学者は独我論や懐疑論以外のことを論じているときは(独我論や懐疑論があるゆえに)自分の言っていることが間違っているかもしれないということを覚悟の上で論じているのでしょうか?
変な質問でしょうが宜しくお願いいたします。

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A 回答 (4件)

まず、最初に言葉の使い方から。


「独我論」というのは、主観的認識論に属する思想を、批判的にとらえるときに使う言葉なんです。

「わたしの意識」ということを「確実なもの」として、認識のしくみを考えていった認識論が、不可避的に陥っていくアポリア(行き詰まり)として「独我論」がある。
それを乗り越えていくためには……、という文脈で使われるものなんです。

>哲学者は独我論や懐疑論以外のことを論じているときは

というように、自分は「独我論」として人間の認識のもんだいを立てるぞ、と、宣言して使っているわけではない。
そこを、最初に押さえておいてください。

あくまでも、人間の認識のありようを考えるとき、「自己の意識とその意識がとらえた像のみが確かなものであって、他者はこころに現れた現象として認識するしかない」と考えるのが独我論であって、世界には自分しかいない、とか、そんなことを言っているわけでは全然ないんです。全然そういうのとちがいます。ここ、ほんとにまちがえないでください。お願いします。

たとえば「強い独我論」とされるバークリー、この人は、懐疑主義を乗り越える方法を考えます。

懐疑主義というのはなにかというと、人間の主観的な知覚から離れた、ものごとの「実在」(現象として存在するのではなく、その普遍的な、絶対的なありよう)は人間には知ることができない、とする考え方です。つまり、人間に可能な認識の範囲をもんだいにしているわけです。つまり認識哲学として分類される人は、大なり小なり懐疑論者であるわけです。

バークリーは、人間が物体をどのように認識するか考えていきます。
わたしたちは、自分の感覚で「物体」というものをとらえている。
たとえば目の前のコップ、これを眼で見、手にとって、手触りや重さを知る。落とすと割れる、中に飲み物を入れることができる、そういったことの一切は、経験によって知っている。
けれども、このコップから、自分の感覚によって与えられた要素を、ことごとく取り去ったら何が残るか?
何も残らない。
ここから有名な「存在とは知覚されることである」ということが出てきます。
こうして、バークリーは「物体」という「実体」(デカルトは「存在するために、他のいかなるものも必要とせずに存在するもの」として、神・精神・物体の三実体を考えます)を否定するのです。

そうして、ここから世界をつねに知覚しているはずの「神」の存在を証明しようとするのですが、そこはここでは触れません。

つまり、理解してほしいのは、世界も他者も、自己の意識の像にすぎない、と考えたバークリーも、「独我論」をうち立てることを目的として、こうしたことを考えたわけではない、ということです。事実、バークリーは物体を「神の観念」と見ることで、独我論を免れようとしているのです(みんなこの部分はあんまり触れないけどね)。

独我論が「アポリア」とされるのは、そこへ向かおうとしなくても、そこへ落っこっちゃうから「アポリア」なんです。
さて、この回答は
>独我論や懐疑論以外のことを論じているときは(独我論や懐疑論があるゆえに)自分の言っていることが間違っているかもしれないということを覚悟の上で論じているのでしょうか?

という問題の答えになっているでしょうか。
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>「独我論や懐疑論以外のことを論じているとき」の「以外」を飛ばして読んでしまいましたか?


?いいえ。
少なくとも(独我論や懐疑論があるゆえに)間違っているとはこれっぽっちも思わないんじゃないでしょうか。そういう意味で答えたのですが。つまり独我論や懐疑論はそもそも議論する以上問題外なのですから。(議論するということ自体が実践的には独我論や懐疑論の否定だと思います)。
だからそんな覚悟などしないし覚悟してもしようがない。

そうじゃなくて独我論者でない者にとって学問(哲学に限らない)はそもそも自分が正しいと思うことを主張すると同時に反論をこそまっているわけで。
最終的に相互批判を通じて「より真実に近い」結果を得ようとするのが学問だと思っていますから。
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独我論や懐疑論を否定するのも難しいと思いますが、肯定することも難しいことだと思います。


それはさておき、哲学者は常に間違っているかもしれないことを言っているのだと思います。いやむしろ誰にもできなかった間違いを”好んで”するのが哲学者のありかたではないでしょうか?過去の自分の考えにも猛烈に批判すると思います。正しいか間違っているかも重要かもしれませんが、どのようにして間違っているのかを考えるのも面白いと思います。
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独我論って極論すると「俺はこう思う、文句あるか」になります。

この場合そもそも自我以外の存在を認めないのだから議論の余地もありません。だとすれば論じてもしょうがないんです。覚悟も何もいりませんしね。だってすべては自分の意識のなかの出来事なんですから。

こういうこともできるかと。
ほんとに他人が存在しているかどうかはともかく、存在しているとすれば以下のメッセージが届くかもしれない。
逆に存在してないとしても、こうすることが何か害になるわけではないので、まあやっておいたほうがいいんじゃないか、と。

この回答への補足

私の勘違いだとするととても失礼なことになるのですが、私の質問文の「独我論や懐疑論以外のことを論じているとき」の「以外」を飛ばして読んでしまいましたか?
どうか返答をお願いします。

補足日時:2005/04/25 13:03
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Q独我論が正しいのでは?世界は自分が創っている?

>vitaさん
>我々人間は、光や音、匂いや触感などの外部刺激を受容することで、自我、心を形成しています。その受容には僅かとはいえ、有限の時間がかかります。つまり我々は過去しか受容できないのです。そして我々はその外部刺激に反応し世界に働きかけるのです。その方向性は一方通行で過去から未来への方向なのです。ところが独我論は、そもそも受容する外部刺激そのものを自分自らが作り出し、それを可逆的に自ら受容し反応していくということなのです。つまり未来から過去を形成するという全く非常識な方向性を持っているのです。自ら外部刺激を作ることなど本来できないのですから、独我論など全くの妄想であり、議題にすること自体無意味なのです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1389656183

↑ これの意味がよくわかりませんが・・・。。。確かに過去を受信?して、現実を自分の脳で理解している。


>独我論とは、客観的世界など存在しない、すべては自分の意識のみ存在している。
他人や椅子や机などのものは脳が見せている幻影であり、そのものの存在はあり得ない。

>つまり、世界の中に自分がいる のではなく、
自分がいて、世界は自分が創っている。という考えです。
~~~~~~~
 そんなわけで、独我論が正しいのではないかな~?っと、思ったわけです。

しかし、どうも、仮に、「世界は自分が創っている」としても、そのヒントは世界にほとんど存在しません。
誰1人、「あなたが創造している」とはしません。(しかしネット上にはいくつかそういう説も出される)


1,唯物論?のように、全ての人に意識がある=常識論、当たり前とされている考え
2,独我論のように、1人1人が独立した世界を持っている?というオカルト説。1人1宇宙。

の2種類がほとんどです。
しかし、私は、

3,実は、世界、宇宙には、「私という自分しか存在しない」という独自に近い考え。。を持ったりもします。
しかし、これは、まさに、「有り得ない話」でもある。
というのも、1人1宇宙で、60億人分の自分だけの現実(アニメとある魔術の禁書目録・超電磁砲)を持つ、という、2番目の説ならまだしも、

3、の、私しかこの世に存在しない、というのは、無茶苦茶でしょう。やはり・・・。
それはつまり、「一切の他人に、意識が存在しない人形のようなモノ」だと、してしまうからです。
これは、怖い話。。。 また、これを他人に聞いたら、どう答えられるでしょう?
他人は、「いや、それは違う。私には意識がちゃんとある。だから、貴方は間違っている。考えすぎだ。頭冷やせ。病院行ったら?」と、なります。

2,3番目の考えは、神=自分=私、わたし、だという考えにも、近く、「私が神だ!」と主張する
=馬鹿で頭イカれた精神異常者、だと、他人からは映ります。。。

・・・さて、何が言いたいのかよくわからなくなってきましたが・・・思うことが、多々あるってことです。


とあるサイトで、2番目?の「1人1宇宙説」を唱えている人がいました。
観測についての記述ありました。
「あなたの真後ろ、遠い駅、地球の裏側」は、見えていないから、観測されず、存在しない、真っ暗な何か、というような説明がありました。
なるほど、と思います。

というのも、それならば、「エネルギーの節約になる」からです。
最近はよく、「この世はスーパーコンピューターの世界だ。」という話を見かけます。
それならば、この世界を描写するのならば、「私だけ」描写すれば良いわけです。
私のパソコン画面、と、その周辺だけ、描写すると。それも、完全にリアルに。。。

(また、私の幻覚体験で、建物幻覚=中に入れた、熱いシャワーが出た、という謎や、廊下に過去の記憶のミルクティーこぼれていた事件や、携帯電話が11日間だけ最新ニュースが流れていた、や、Gigazineに明らかに私と関係ある記事が載っていた(←これは完全に幻覚でしょう。)といったことなどなどが、ありました。)

これは、私の脳が壊れかかっている?wのか、それとも・・・・・?
世界が壊れかかっているwのか、、、・・・・?・・・・・。

個人的には、「世界が壊れかかっていた」という方が、2010年3月の色々な幻覚体験は、説明が付きます。その直前は、一週間家から出なかった?忘れた、とかあったので、明らかに、私の脳が異常を出して、幻覚になってしまった、とも、言えるのですが。

何れにしても、世界=宇宙=自分の脳みそ、というのは、正そうです。。。。

Aという世界、Aという宇宙は、Aという私の脳が創りだす、Aという、Aだけの現実・・・だとも言えそうです。
そしてまた、B,CDEFG・・・・という世界が、他人にもあると。まぁ、5感で生まれてからの経験の積み重ね=現実世界のようなので・・・・。(これはまさに2番目の話)


さて・・・そう考えていくと・・・・・・・・・・・・?
結局、最低でも、「1人1宇宙」であり、それとも、
「私の宇宙だけしか、この世に存在しない。宇宙は1つしか存在しない。唯一。」という、
無茶苦茶な考えが出てきます。

また、この考えについて、他人のほとんどが否定する理由は・・・・・・・・・・・
「宇宙にたった1人しかいない、私・・・・・・。。。」というのを、信じていかないとならない点です。
1人1宇宙ならば、60億人分の現実があり、現実世界が無数に存在し、人間もまた、60億人、別々の世界でも、確かにそれぞれが、存在する。だから、「この世には1人じゃなく、60億人は確かに存在する。」と、できます。

しかし、宇宙が1つ、意識を持つのも、私1人・・・・・・だとすると?・・・・・・・・・・・・
もしも、それが真実ならば、、、、とても、「虚しい」気がしてきます。

全ての他人は、所詮、意識がなく、人形のようであり、また、<私の無意識>が創造した他人である、と。。。。

宇宙がどうやって出来たのか?わかりません。しかし、「一番初めには、確かに私1人しかいなかった。それじゃぁ、虚しい。だったら、私の分身を、完全に他人に思えるように、創造していこう。」っと、神である私。。。が、、、、、、、、、考えて、創造していった、としたら?・・・・・・・・・。。。
確かに、辻褄は合うと思います。

結局、人形劇、自作自演ということです。それが真実かは不明ですが・・・。。。
さて。自作自演と言えば、911テロです。これは陰謀論ですが、、、、。。。
また、2chでも、自作自演という単語は出てきます。笑い話でもあります。

しかし、「他人は、自分が創造していて、、、、自分=他人だとしたら? 鏡だとしたら?」
んーーーーーーーーー、、、、。。。これまた、虚しいと。。。。
自作自演、ってやつですね。こんにちは。ありがとう。さようなら・・・・・。。。

そして、「これらが真実だと仮定すると、これらが公にならない理由は・・・・・・・・・」
やはり・・・・・・「自分1人だけの世界は虚しいから・・・・・・・・・・・・・・・。。。。」ということだと思います。

超超超超・・・・・・・・・・・・超超超・・・・・・・強力な・・・・・・・・・「ロック=鍵=Key」がかかっている、ということでしょう。Key=ゲーム会社でもありますが。
パンドラの箱・・・・・・・かもしれません。
超強力なロックだからこそ・・・・・・・・・・・・・。。。。。。。。他人は、ネット上でも、現実世界でも、
誰1人、他人は、「あなたが創造している」というようなことを、言わないのだと思えてきます。
他人は、嘘を付いている?・・・・・ような感じです。
結局、自分しか信じられない、ということに、尽きるかもしれません。

・・・・・・・あとは。
この世がスパコンで出来ているとして、幻覚は、私が、
「実はこの現実は、自分が創造しているのではないか?」 っと、「潜在意識がここに来て顕在化(これはOVA超電磁砲黒子の台詞)、した」ということのような気もします。

ずっとずっとずっと、、、、自分が全てを創造しているとしたら?・・・・・・・・
ずっとずっと、「自分で自分に嘘をつき続けている」ということになります。
これまた、しっくり来るのですが・・・。。。

http://www1.ttcn.ne.jp/turu/30souzousyuhe.htm
これなんかも、あなたが創造している、としているサイトの1つですが。1人1宇宙論かもしれません。

また、さっきの911ですが、CG説があり、これも、「変だな?」と思わせます。
311も何故、911+311=1222=2012年12月22日人類滅亡?説になるのか?っと。
福知山線脱線事故だって、何故、運転手がスピードを出してしまったのか?謎です。
最近では、全てのニュースが、自分が創造したようにも思えてきます。。。


さて・・・・・・観測ですが・・・・・・・・。
自分の目で、観測しています。問題は・・・・・・・・・・・「自分も、他人も、同じように、5感を持っている」ということでしょう。
「自分も他人も、同じ体を持っている。だから、自分も他人も、同じ存在だ。だから、独我論は間違っている。」とも、仮定できます。
これは質問ですが、これを否定することはできるのでしょうか?

もしも、自分だけしか、意識が無いとすれば、自分=他人の体、という事実は、何故か否定され、観測しているのも、自分1人だけ、だということになります。

ここで字数制限・・・。。。

>vitaさん
>我々人間は、光や音、匂いや触感などの外部刺激を受容することで、自我、心を形成しています。その受容には僅かとはいえ、有限の時間がかかります。つまり我々は過去しか受容できないのです。そして我々はその外部刺激に反応し世界に働きかけるのです。その方向性は一方通行で過去から未来への方向なのです。ところが独我論は、そもそも受容する外部刺激そのものを自分自らが作り出し、それを可逆的に自ら受容し反応していくということなのです。つまり未来から過去を形成するという全く非常識な方向...続きを読む

Aベストアンサー

1,唯物論?のように、全ての人に意識がある=常識論、当たり前とされている考え
から全力で逃亡している感じだと思いました。

「自分=唯一神 ならば 自分=唯一神 である」 (まさかね… でもまじで? けどひょっとすると… もし自分=神 なら…たしかに あれやこれを思い合わせると 自分=神 …となる けど まさかね… でもまじで?)
を繰り返しているようにみえました。前提と結論が一緒というか、循環論法というのでしょうか、はじめから答えが決まっていてその答えに合うような材料をつい拾い集めているというか。

もし自分がそういう堂々巡りの状態になるとしたら、どういう場合かと考え、自分もすぐひとつの結論に飛びますが、心の問題かと思いました。劣等感や運動不足が原因で、他者との交流・交感の不足からくる寂しさもあるように思います。

アニメやカルトが提供する世界観にすがるのは、現実をそのままでは受け入れられないくらい心や体や感覚が弱くなっているためかと思います。
「自分≠唯一神」や「すべての人≠神」である世界では、心がなんだかつらいので「自分=神」かつ「他者≠神」という世界、「自分=唯一神」の世界、ようするに自分のみがずば抜けて優越している世界を空想したり妄想したりして、人々独自の存在を暗に否むことで、現世的な生活に伴う恨めしさや劣等感を晴らしているのではないでしょうか。
空想世界に不安を感じつつ、そうした世界にある優越的状況を期待してもいるのではないでしょうか。
自分の世界観を変えることは簡単で座ったままでできるので楽です、空想の世界に多少おかしい点があってもそれを生々しい現実らしさとして妄想の補強に用い、「自分=唯一神」という世界を築いて、しばしばその異常さに自ら疑い、そこから少し出てみると実際の世界もまた異常というか不本意で、よく見れば他者たちのいきいきとしている世界にあって、その活気が自分にはまぶしく、見ないことにして、また「自分=唯一神」の世界に舞い戻り、そこで人すべてに優越していようとする、そこにはつよい劣等感や無力感がひそんでいて、現実で負けがこんでつらいから自分に都合のよい世界観に入り、圧倒的に勝っていようという、一発逆転の発想かと思い、よくあることなので共感しますが

現実や他者にたいする手ごたえがないのは、自身がふだん生々しい手ごたえのない、あまり五感を使っていない暮らしをしているせいではないですか。
ディスプレイで映像ばかり見ていると身体感覚が鈍り、感覚や感性が低下すると現実感も薄まり、五感をいきいきと使う感じがどんなものか分からなくなり、忘れて、まるで他者たちも感覚や感性に乏しいもののように思われてくるかも。
自分にだけ感覚や思考があり他者たちにはそれがない、という世界観を質問文で提示していますが、むしろ実際には他者たちの方が五感や肉体や思考力をいきいきともちいて生活していて、自身の方があまり五感その他をよく使わずに暮らしているのではないですか、よく分かりませんが。
自然の多いところで土だか樹だか水とか山とか、生き物やら人やらと触れ合うといいような気がしました。肉体のエネルギーは節約するより使うほうが生の手ごたえ得られますし健康的です。体を動かしてスポーツとかほどよい喧嘩だとか、泳ぐとか、おもいきり走るとか、筋肉痛になるとかして自分の感覚を自分なりに味わい、それを他者にじかに伝え、他者にも自分の五感が得る内容を打ち明けてなるべく分かってもらい、また他者が他者なりに味わっている感覚をこちらからもなるべく分かろうとするとか、生身の思いやりというか。首や胸より下の部分もよく使うと良いと思います。
ごちゃごちゃと意味不明かも知れませんが、質問文を読んでいて現実感・世界観を得る際に、肉体感覚が乏しいような印象を持ったのでこんなことを書きました。

1,唯物論?のように、全ての人に意識がある=常識論、当たり前とされている考え
から全力で逃亡している感じだと思いました。

「自分=唯一神 ならば 自分=唯一神 である」 (まさかね… でもまじで? けどひょっとすると… もし自分=神 なら…たしかに あれやこれを思い合わせると 自分=神 …となる けど まさかね… でもまじで?)
を繰り返しているようにみえました。前提と結論が一緒というか、循環論法というのでしょうか、はじめから答えが決まっていてその答えに合うような材料をつい拾い集...続きを読む

Q自分以外の人間は、存在するのでしょうか?

 幼いころからこの疑問を常に抱いています。
 
言葉で表現するのは、難しいですが自分の顔は、自分で見ることができません。このことから自分の目は、自分のものであり内側から見ているイコール自分は、存在すると認識できるのですが、自分以外の人は、本当に存在するのでしょうか?
 
 たとえば、それは青いというのは自分の脳が青色に見せているものだと聞いたことがあります。実際に、自分以外の他人は、人間のようにみえるように脳が映し出しているのかとも思います。また、こうして質問を書き込んでいる最中に後ろを見ることはできません。自分の後ろには、本当に世界は存在しているのでしょうか?
 
 このことに対する答えは、ないと思います。ですが、少しでも私が楽に考えることができるヒントを教えてくださるかたがいらしましたら教えてください。

Aベストアンサー

他者が存在するかどうかということは、(1)自分以外に存在一般は成り立つのか、(2)自分以外に精神は存在しえるのかという二つの問いに分けてアプローチできます。これに関して何がしか示唆できるかもしれないことを他の質問に関して書きましたので、ここにほぼそのまま写し、私の提案する一つの可能性とさせていただきます。

 「ものそれ自体」というのは存在するのかというのは、哲学史上何度も論じられてきた古い問題ですが、私はこれに、「証明は不可能」とやや折衷的に回答します。
 存在について語るには存在をいかに認識するかという問題を避けるわけにはいきません。そこで考えてみたところ、私たちは五感をなしにものの存在は認識できません。仮に私が神経が極度に衰退する病気になり、五感すべてを失ったとします。このとき自分の外に存在を認識できるかというと、恐らく不可能でしょう。ゆえに存在の認識には五感が不可欠だと考えられます。
 次に五感によっていかに存在を把握するかですが、直接的に最初の経験で把握することは出来ないと思われます。私の目に映る風景は、それ自体で考えるなら、無数の色が散りばめられた一つの絵に過ぎません。ゆえに視覚による経験はリアルタイムに変更はなされていくものの、その一瞬においては単一な経験だと捉えられます。この事情は他の感覚においても同様であることは、日常の経験を反省してみても確かめられると思います。
 ではいかにそこに個物としての存在を認めているかといえば、差異を頼りにした分化によると思われます。例えば色がまったく同一か、いかなる飛躍もなく連続的に変化している面は、私たちには一つの面だと思われる、ということを考えるとわかりやすいかと思われます。そしてそのような差異の分布から、私たちは各々の感覚による地図のようなものを組み立てます。私とどのような位置関係にどのような差異があるかを把握するわけです。差異は一つでも存在を推定する根拠たりえますが、経験上結びつきえるいくつかの感覚による差異が同一の場所に現れたとき(このような地図の重なり合ったもの、あるいは総体的な地図群を私はその主体にとっての世界と呼びます)、その存在可能性はいっそう高まります。けれども最終的には存在していて欲しいという私たちの願いが、私たちにとって存在を存在たらしめます。
 このように考えれば、ものそれ自体があるから私たちはそれを見たりするというより、むしろ逆の順に存在の認識はなされているものと考えられ、最も高いレベルの存在の明証性は私たちの信仰にのみ存すると考えられます。
 こうした立場からすると、自分が持っている「心」以外の「心」を想定することは困難に思われます。それは感知し得ないからです。けれど、「心」の定義を少し変更したのなら、それは上の信仰を持つ者にとっては明確に存在する原理になります。
 単に存在の認識を考えただけでは、認識されたものがなぜそのように認識されたのかがわからず、そうであったからそうなのだとしか言えません。けれど存在を信仰する立場からは、ある存在がそのようであり、そのように差異を統合し、私の世界に差異を作り、変更していく原理は、その存在そのものに求められます。それを私は「心」と呼びます。
 一般的な「心」も「目は口ほどにものを言う」などといわれてるほど、他者に語りかけるものであったことを考えると、私の「心」もさほど食い違う考えではありませんが、私は私が私の姿を今こうであるように他者に認識させている働きも「心」に含める、という意味で、いくらかその範囲を拡大しています。
 上記のような考え方に立てば、心も物質も、私の言う信仰によるという留保はありながら、同程度に存在し、同程度に確実であると思われます。ここから、私の信仰によるならば、他者は存在します。
 折衷的な考えで、何の答えにもなっていないかもしれませんが。

他者が存在するかどうかということは、(1)自分以外に存在一般は成り立つのか、(2)自分以外に精神は存在しえるのかという二つの問いに分けてアプローチできます。これに関して何がしか示唆できるかもしれないことを他の質問に関して書きましたので、ここにほぼそのまま写し、私の提案する一つの可能性とさせていただきます。

 「ものそれ自体」というのは存在するのかというのは、哲学史上何度も論じられてきた古い問題ですが、私はこれに、「証明は不可能」とやや折衷的に回答します。
 存在について語るに...続きを読む

Qデカルトが「すべては夢である可能性」を乗り越えた手法

こんにちは。お世話になります。

デカルトは方法的懐疑により「全ては夢である可能性」を疑ったとのことですが、デカルトは「全ては夢である可能性」を、どのような手法により乗り越えたのでしょうか。

「明晰かつ判明なものは確実に存在する」
「誠実な神が私を騙す訳がない」
「コギト・エルゴ・スム」
等までは理解できるのですが、これらの論拠から「夢説」を乗り越えるに至る過程が理解できません。

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

デカルトは最初にあらゆるものを疑います。
「考えている自分」も疑ってみる。
夢のなかで考えているんじゃないか、と。
この部分、『省察』にはこんなふうに出てきます。

わたしたちが目覚めているときに持つ思考は、すべて夢のなかでも現れうる。その夢のなかの思考は真であるとはいえない。
けれども、夢のなかでの感覚が偽であるとしても、感覚をもたらすわたしたちの身体は確かに存在しているではないか。
画家が想像力にまかせて頭のなかに絵を描いたとする。
確かにその絵はほんとうには存在しない。それでも彼が使用した「色」だけは現実のものでなければならない。
それと同じように「考えているわたし」がたとえ夢のなかの存在であったとしても、「そう考えているわたし」は確かに存在している。
だからやはり「考える」ということにおいて、わたしは存在しているのだ。
と、デカルトの論理の流れはこうなっていきます。

『方法序説』ではこの部分、すっ飛んでるから、ちょっと「え?」という感じがすると思うのですが、『省察』には上記のようになっています。

ここはすごくおもしろいところです。
デカルトは最初、あきらかに存在論(わたしがある、ということは、どういうことなのか)として、もんだいを立てている。
けれども、いつのまにか認識論(わたしが考える、ということは、どういうことなのか)にもんだいは移ってるんです。
事実、デカルト以降、近世の哲学は存在論から認識論に移っていくんですね。

回答はここまで。あとはちょっと余談です。

ところで「夢」、なんでここで出てくるか、ちょっと不思議な気がしません?
わたしはしたんです。その昔、『方法序説』を初めて読んだときに、夢なんて話がいきなり出てくるのがすごく奇妙な気がした。
で、家にあったブリタニカを調べてみたんです(家にあったのはカナーリ昔の版なんで、いまのは変わってるかもしれない)。
そしたらこんなことが書いてあった(細かい記憶は全然なくて、日付や地名はこの文章を書くために確認をとってあります)。

デカルトは1619年、ドイツのウルムというところに宿泊してたんです。デカルトが23歳のときです。そのころデカルトは「自然を数量化すること」について、思索を重ねながら、数学の勉強をしていた。11月10日、昼間から霊感にとらわれていたデカルトは、夜、寝てから、三つの夢を見たという。
これで、自分が数学者・哲学者になる、という啓示を得た。

へえー、夢でお告げかぁ、と思って、このことはずっと記憶に残ってました。
ご質問をきっかけに、その夢の中味が気になって、ちょっと調べてみました。
原文は英語なんですが
http://www.urantiabook.org/archive/science/binion1.htm
ここのなかに夢の内容が詳しく出てきます。

ひとつは、突風に煽られて教会と、風にまったく影響を受けていないような人々のほうに押しやられる、という怖ろしい夢。
ふたつめは、落雷のような大きな音が聞こえて、たくさんの火花を部屋の中に見た夢。
みっつめは、非常に心地の良い夢で、自分が一冊の「辞書」と紙の束を持っている。そのひとつは詩で「人生ではどのような道に従ったら良いだろうか?」ということばで始まっていた。見知らぬ男が詩の断片を渡してくれる。それには「然りと否」と書いてあった。

デカルトはこの夢を解釈して、「辞書」というのは、雑多な知識を意味する。自分がその知識というものを改革し、科学のもとに統合するよう運命づけられている、と思うようになるんです。

ここらへんはデカルトの夢問題として、いろいろ研究されてるみたいですが、ともかく、デカルトはこの夢を「啓示」ととらえるんです。
啓示というのは、デカルトも学んだスコラ学にとっては、「神の直接の教え」として大変重く受けとめられるものだったようです。
デカルトにとって、夢というのは、自分の出発点をなす重要なものだったんですね。

ところでデカルトが始祖とされるこの合理主義によって、のちに宗教の根本原理はだれにとっても自明のものであるから「啓示」というものは必要ないと見なされるようになっていきます。

こんなところを見ても、みずからは前の時代に属しながら、新しい時代への転換の礎石を築いたデカルトという哲学者の存在のおもしろさがよくわかりますね。

参考URL:http://www.urantiabook.org/archive/science/binion1.htm

デカルトは最初にあらゆるものを疑います。
「考えている自分」も疑ってみる。
夢のなかで考えているんじゃないか、と。
この部分、『省察』にはこんなふうに出てきます。

わたしたちが目覚めているときに持つ思考は、すべて夢のなかでも現れうる。その夢のなかの思考は真であるとはいえない。
けれども、夢のなかでの感覚が偽であるとしても、感覚をもたらすわたしたちの身体は確かに存在しているではないか。
画家が想像力にまかせて頭のなかに絵を描いたとする。
確かにその絵はほんとうには存在しな...続きを読む

Q唯我論を否定することはできるか

唯我論を否定することはできますか?
最近意識を持っているのは自分だけなのでは?などと考えてしまい
夜も眠れません…
死んだら世界がなくなってしまうのでは?などと考えると目が回ってきてしまいます…

誰か否定できる人はいますか?

Aベストアンサー

こんな思考実験を考えてみました。
あなたAと、あなた以外の誰かBさんを連れてきて
未来の医療技術で脳細胞を一個づつ交換移植してゆくのです。
未来の技術ですので出血もないし、細胞をまったく傷つける事のなく
細胞同士の接合も完璧です。しいて言うなら脳細胞の瞬間移動みたいなもんです。
もちろん、免疫問題も完全にクリア、

ちょうどお互いの脳細胞を100%交換した時あなたの意識が
Bにあり、その手術中あなたの意識が連続していたのであれば
意識のある人は自分だけでは無いといえるのではないでしょうか?
なにせその間最大で他人の脳が50%の状態があってその時でも
(50%の時あなたの意識はA、Bどちらにあるのでしょうね)
意識があるのですから、きっと他人の脳100%の人も意識があるのでは
ないかと思えるのではないでしょうか?
ちなみに100%脳細胞を交換した時、あなたの意識がAにったとすれば
自分の意識に自分の脳は関係ないと言えるかもしれませんね。

50%でははまだ不満なら100人で脳細胞を交換しあえばそれぞれの人の脳細胞が
99/100が他人の脳という状態になる時があります。それでもあなたの意識がどこかに
あるとすれば、きっと自分と違う脳をもった人もそれぞれ自我があるのではと
思えるのではないでしょうか?

まぁ実際実験する事は今の技術ではできませんでしょうけど・・

こんな思考実験を考えてみました。
あなたAと、あなた以外の誰かBさんを連れてきて
未来の医療技術で脳細胞を一個づつ交換移植してゆくのです。
未来の技術ですので出血もないし、細胞をまったく傷つける事のなく
細胞同士の接合も完璧です。しいて言うなら脳細胞の瞬間移動みたいなもんです。
もちろん、免疫問題も完全にクリア、

ちょうどお互いの脳細胞を100%交換した時あなたの意識が
Bにあり、その手術中あなたの意識が連続していたのであれば
意識のある人は自分だけでは無いといえるので...続きを読む

Q他人に意識があり、他人が生きている証拠

他人に意識があり、他人が生きている証拠は、ありますか?

また、独我論は否定できないというのも、よくわかりません。



例えば、私に5感がある。寒い・熱い、触る、音を聞く、見る。

そして、他人にも、「5感があるように思える」。

他人は、笑い、悲しむ表情があり、、、、「完全に生きているように見える」。

わけですよね?




そして、全世界の99.999999999999999%ぐらいの人達は、

「他人は自分と同じような存在であり、自分が生きているから、他人も同じように生きている。他人に感情や、意識はある。それは、確かだ。」

っと、思っています。私も、基本的にそのスタンスです。


他人に意識・感情があると思うのですが、合っていますよね?

しかし、オカルトサイトでは、「他人はいない」とか、書かれています。大本は一体どこなのか?

「他人は自分の鏡」という話もありますが。


でも、他人に意識や、感情がなく、他人がただの人形だとしたら、非常に不気味な世界だな、と思えます。

それに何より、この世界で生きているのが、「自分1人ぽっち」だということになってしまいます。


例えで、映画を自分が見ているのが、現実だ、という話もあります。

自分の内側が投影されて、外の世界が映し出されているだけだと。



それに、自分が全てを創造しているとしても、自分の思い通りになっていない世界なんて、
存在価値があるのか?と思えるし、馬鹿らしいと思えます。

しかし、自分の思い通りにならない世界は、自分と違う考えの世界であり、
自分と、他人は異なる考えを持つように見えます。=自分と他人は別々に存在する。

それはまさに、「現実そのもの」に思えます。


例えば、今日なんか、デパートへ行きましたが、他人は、笑ったり、話したりしています。

明らかに、「他人に意識があり、他人は自分同様に生きている」と、思えます。

そして、これは世界の常識となっていて、疑う必要なんて、あるのか?
独我論なんて、考えすぎの嘘の論じゃないか?と、思えます。


それは、確固たる現実として、目の前に開かれています。

ただし、ネット上の書き込みは、他人に意識がないように見えてしまいます。

つまり、目=視覚の現実のウェイトが大きいことを意味します。


ドラマや、映画などの、「演技」ってのもありますが、
現実の他人の容姿は、まさに、「演技じゃなく、真実」に見えます。

よって、独我論は嘘であり、他人にも意識があり、考えがあり、生きている、
自分と同じような存在だと思えるのですが、どうでしょうか?


別の話として、1人1人が宇宙を創造しているという話もありますが、これもよくわかってません。
それは別に、他人も自分同様に、生きているだけ、と思える。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、、、逆に考えます。
他人がいない、世界に1人ぼっちだけ、だとする。自分1人だけ、と。
そんな虚しい世界に、存在価値はあるのでしょうか?
全て、自作自演です。
自分が他人をも創造して、自作自演していると。
ネット上のカキコすらも、自分のただの創造だと。

そんな自作自演劇に、意味はあるのでしょうか?

他人に意識があり、他人が生きている証拠は、ありますか?

また、独我論は否定できないというのも、よくわかりません。



例えば、私に5感がある。寒い・熱い、触る、音を聞く、見る。

そして、他人にも、「5感があるように思える」。

他人は、笑い、悲しむ表情があり、、、、「完全に生きているように見える」。

わけですよね?




そして、全世界の99.999999999999999%ぐらいの人達は、

「他人は自分と同じような存在であり、自分が生きているから、他人も同じように生きている。他人...続きを読む

Aベストアンサー

自作自演であっても、意味は在りますよ。
みかんを食べておいしいと感じたことには、世界が自作自演であるかないかは、関係ないです。
世界が自作自演であってもなくても、みかんを食べるとおいしいと感じるでしょう。


後は、前にvanticeさんがした「自分が現実を作っているのなら、他人とは?・・・」という質問に俺がNo.5でした回答を引用します。

「幻覚がなくても、他者っていうのは、完全には確かめられない存在であって、結局は、自分が他者に生命感や現実感や自律性や意志や整合性などを感じているだけだと思います。自分が感じているそれらだけが、自分にとっての現実です。
また、気付きにくいですけど、自分についても、そうです。つまり、自分が自分に生命感や現実感などを感じてもいます。
結局は、そのように感じたり判断したりする機能が在るだけであるとも考えられます。

vanticeさんの例で大切なことは、やはり、現実との様々な整合性を積極的に確かめていくことだと思います。そうしないと、どうとも結論できないままだと思います。

もちろん、そんなvanticeさんもが、誰かに創造された存在であるとも考えられますけど、結局、vanticeさんにとっては、vanticeさんという基点や材料から創造された物事や現実をvanticeさんが満足に制御できることが大切ですからね。」


後、確かめたいんですけど、vanticeさんは同じことを何回も質問していますけど、過去の記憶を忘れて、1人エンドレスエイト状態なのでしょうか?(もしそうなら、8回目は何か特別なことをお願いします。w)
また、出来れば、お礼を書いたらすぐに質問を締め切るのでなくて、みなさんの回答の分からない部分をお礼欄や補足欄でさらに質問したりすると、より良いと思いますけど、どうでしょうか?

自作自演であっても、意味は在りますよ。
みかんを食べておいしいと感じたことには、世界が自作自演であるかないかは、関係ないです。
世界が自作自演であってもなくても、みかんを食べるとおいしいと感じるでしょう。


後は、前にvanticeさんがした「自分が現実を作っているのなら、他人とは?・・・」という質問に俺がNo.5でした回答を引用します。

「幻覚がなくても、他者っていうのは、完全には確かめられない存在であって、結局は、自分が他者に生命感や現実感や自律性や意志や整合性などを感じているだけ...続きを読む

Q独我論本当では?他人は意識がないロボット人間では?

独我論本当では?他人は意識がないロボット人間では?

私しか、意識がない。
そして、外の世界は私の潜在意識が創っているのでは?

だから、スーパーで、「万引き監視員」が突如現れた。
だから、ゲームセンターで、「不良男」が突如現れた。

Aベストアンサー

独我論は本当って言いますか、仕方ない考え方です。あの世を証明できないのと同じく、他人の意識も証明できません。無駄に馬鹿らしい、神さまという物を相手にしなければ話が続かなくなります。

ただ、自分ではない人の総意と自己との相違性で、自分と他者との区別をすべきです。でなければ、みんなが思うような、自己のみしか証明できない世界に行き着きます。

あの世の証明が無意味なように、独我論の証明も意味がありません。自分を証明したところで、総意としては100年程度しか、その存在が保証されていないのですから、その世界での自己主張は、実存として存在しないのと同じです。

「私たちは、独我論で保証された自己のみの存在、それすら与えられてはいないのだ」 それで良いと思います。時間の永遠性の中では、むしろ自己といった物が永遠であることの方が残酷です。

結論
この世界には、他人だけではなく、自分さえも存在してはいない。これが独我論のすべてです。

Q永井均のいう「独在性」について

永井均の<私>論は、哲学を勉強し始めた僕にとってとても
魅力的で、かつ実感的な説得力があるように感じていました。

でも理屈としては腑に落ちないところがあります。
永井は『<こども>のための哲学』の中で、
「(自我と他我の)問題を、最初から、認識論的にではなく、存在論的に考えようとした。」(96頁)
と書いていますが、そんなことが可能なのでしょうか?

他人の世界の実在を認めたうえで、<この私>の世界の独自性を認めようとする思考を「独在性の思考」と永井は呼んでいますが、そもそもそんなことは不可能ではないかと僕は感じるのです。

だって、「実在が認められる」ということこそが、<私>の独自性じゃないんでしょうか? その特徴を他人にも認めてしまうのなら、その時点で<私>の独自性なんて無くなってしまうのではないでしょうか?

細かい質問で申し訳ありませんが、ここを解決しないと先へ進めません。
どうか御指導をお願いします。

また、独我論を論駁する試みにはどのようなものがあるのか、参考文献だけでも教えて頂ければとても嬉しいです。
謙遜ではなく本当に知識が無いので、ごく基本的なものでも構いません。
お願いします。

永井均の<私>論は、哲学を勉強し始めた僕にとってとても
魅力的で、かつ実感的な説得力があるように感じていました。

でも理屈としては腑に落ちないところがあります。
永井は『<こども>のための哲学』の中で、
「(自我と他我の)問題を、最初から、認識論的にではなく、存在論的に考えようとした。」(96頁)
と書いていますが、そんなことが可能なのでしょうか?

他人の世界の実在を認めたうえで、<この私>の世界の独自性を認めようとする思考を「独在性の思考」と永井は呼んでいますが、そもそも...続きを読む

Aベストアンサー

すみません。参考文献だけになってしまいますが、柄谷行人(からたにこうじん)さんの「探求1」「探求2」はきっと参考になると思います。講談社の学術文庫から出ていて、とても刺激的な本です。永井均さんの本は「マンガは哲学する」とかもシンプルかつ深くて好きです。

Q存在と認識

大学で哲学の授業を取っています。
「存在」と「認識」の問題がよく取り上げられているのですが、
私は哲学が専門ではないため、
いまいち理解が出来ません。
専門用語で話されるので、より一層です。

なので、哲学が専門ではない私でも分かるような言葉で
「存在」と「認識」の問題について
教えてもらえないでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「存在」を言い換えれば、「ある」と言えます。
しかし、ただ「ある」と言っても非常に一般的です。
存在を決定付けるものはたくさんあります。たとえば時間、場所、存在を認識する主体の側の欲求や知覚…などです。
言い換えると、「いつ・どこで」「ある」のか? 主体の側が「ある」と感じたからあるのか?などなど。
つまり、存在は様々なものに規定されることによってはじめて、形を与えられるものだと考えられます。
なお、「存在」する世界は何から成り立っていて、何が根本なのか?といったことなどを考察するのが存在論という学問です。

認識は要するに「知る」ことです。
ただ、「認識」と言った場合には知覚や感覚などよりももう少し突っ込んだところまで進んでいきます。
与えられた材料をそのまま感じるのが知覚や感覚だとすれば、認識は記憶や知識、思考などを働かせながら、窮極的にはそのものの本質を捉えようとする働きだと思われます。
例えば、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を見つけたというエピソード(もちろんこれは作り話なのですが)から考えましょう。リンゴが落ちるのを見て、ただ「あ、落ちた」と思うのにとどまらず、どのような高さまでならリンゴは落ちるのかと考え、さらには彼より前の科学者が明らかにしたことを踏まえて考察した結果が「万有引力」だと言えるでしょう。
そして、人間はこの世界をどの範囲で、どのようにして正しく知ることができるのかを追求するのが「認識論」です。

「存在」を言い換えれば、「ある」と言えます。
しかし、ただ「ある」と言っても非常に一般的です。
存在を決定付けるものはたくさんあります。たとえば時間、場所、存在を認識する主体の側の欲求や知覚…などです。
言い換えると、「いつ・どこで」「ある」のか? 主体の側が「ある」と感じたからあるのか?などなど。
つまり、存在は様々なものに規定されることによってはじめて、形を与えられるものだと考えられます。
なお、「存在」する世界は何から成り立っていて、何が根本なのか?といったことなどを...続きを読む

Q他者の意識の存在を確かめることはできないのでは?

心の哲学の議論を見ていると、他者には意識があることが前提として語られています。
自分の意識が存在すること、これは確実です。しかし、他人に意識があることを確かめることはそもそも不可能です。そんな不確実な「他人の意識」というものを前提として議論が進められる「心の哲学」に、私は疑問を持っています。皆さんはどうお考えでしょうか。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 傘寿に突進している老齢のせいかすぐ忘れますので、他のご回答を読む前に書かせて頂いております。投稿を終了してから拝読いたします。

○ 屁理屈みたいですが、補足をお願い申しあげます。
 1. 他者の意識の有無の確認ですが、その仕方や内容において、自己の意識の有無の確認と同じでなければならないでしょうか?
 2. 自己の意識の有無の確認はどのように行い、どんな確認ができているのでしょうか?
 3. 他者の意識の有無が不確実であるということは、具体的ご経験でしょうか?それとも思索による気づきとしての、普遍的経験や理論でしょうか?
 4. ご質問では哲学の議論としておられます。哲学の議論についてのみに問題になることなのでしょうか?
 4-2. 他者の意識の存否は哲学の議論の他は、問題にする必要はないのでしょうか?或いは他の面においては存否が確認されているのでしょうか?
 5. 哲学の議論において、他者の意識の存否に疑念を持もたれたご経験やご認識をされたことがあるので質問されているのでしょうか?
  それとも理論的に、或いは思考により疑念がおきた、ということでしょうか
 6. ご質問者さんは、哲学の問題や投稿においては、他者の意識の存否を意識的に念頭においておられるのですか?
  同時にご自分の内面としての思索・思惟に自己をおいておられるのですか?
  (その念頭に置くこと、自己の内面思索に置くこと、その仕方は自己性において大きな意味があるかも知れませんね。)

○ 私見
 生理や肉体で個別になっている、私たちの各個の意識って、以外に共有的であると存じております。意識の共有がないところでの議論は成立しないでしょうね。
 そういう中での自己と他者だと存じております。時にはその共有性や存否についての確認と、創成は必要とされることですね。
 私は一端的ヒンドゥの哲学の片端をかじっています。意識は個々の生体よりも創成している意識の中にあり、そこから、多数の個別意識が樹木の葉やガス管に繋がるガスレンジのように噴いてきているのであると、存じます。
 以上のように思っておりまして、上記の補足のお願いを致しました。どうか勉強させてくださるようお願い申しあげます。

 傘寿に突進している老齢のせいかすぐ忘れますので、他のご回答を読む前に書かせて頂いております。投稿を終了してから拝読いたします。

○ 屁理屈みたいですが、補足をお願い申しあげます。
 1. 他者の意識の有無の確認ですが、その仕方や内容において、自己の意識の有無の確認と同じでなければならないでしょうか?
 2. 自己の意識の有無の確認はどのように行い、どんな確認ができているのでしょうか?
 3. 他者の意識の有無が不確実であるということは、具体的ご経験でしょうか?それとも思索によ...続きを読む

Q【哲学】世界の中に自分がいるのではなく、自分の中に世界が存在している。自分が死んだ時点で世界が終

【哲学】世界の中に自分がいるのではなく、自分の中に世界が存在している。

自分が死んだ時点で世界が終わる。

世界は己自身の中にあり、世界は内と外に存在する。

これらの言葉の解釈を発見した者は死を経験しないだろう

やっと気付いた「自分が世界に存在する」ではなく「世界の正体が自分」な件
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4900063.html

どう思いますか?

Aベストアンサー

自分が死んだ時点で世界が終わる。

この考えだと死を悟った者の中に不届き者がいて、運悪く核兵器のボタンを握っていたとしたら他の皆も運命共同体であの世行き。

それに近い人は過去に居たはずですが、今のところそこまでの愚か者は居ない。死ぬ間際は案外「自分が世界に存在する」に寄って亡くなる方が多いと考えます。


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