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歴史の質問です。
前方後円墳は、大和政権が作った古墳なんですか?
前方後円墳がある場所は何かしら大和政権が関わってたということになりますか?

獲加多支鹵大王は大和政権のトップの王様ってことですか?
鉄剣が出てきたことによって大和政権の力が広まっていたの意味がいまいちピンときません。
教えてください。よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

君には関係ない

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大和政権が作った古墳  ヤマト王権の派遣した官人などの墳墓として作られた そういう考え方だとすると、


もともと土着の豪族が自分たちの首長のために作った墳墓の場合、ヤマト王権の作った古墳とは言わないのでしょうか。
そのような土着の豪族が自分たちの首長のために作った墳墓であるが、墳墓を作ったときには、ヤマト王権と親交があった(日本とアメリカのように)、墳墓を作ったときには、ヤマト王権からも服属国のような扱いも受けていた、あるいは、墳墓を作った後では、ヤマト王権と何らかの関係を持つようになったというような場合も、微妙です。

千葉県あたりには、古墳も多く、前方後円墳も多いです。
https://ameblo.jp/yaberogu/entry-12346305275.html
〈前方後円墳は全国で4700基(2000年時点)確認されているが、関東の千葉、茨城、群馬の合計は1576基(34%)と圧倒的に多い。 中でも千葉県は733基と断トツに多い。又大型の前方後円墳の総数も東国が近畿圏の3倍も多く、これらの被葬者群が東国運営の根幹を成し、中央の首長と親効関係にあったとみえる。〉
ここには「中央の首長と親効関係にあったとみえる」と書かれています。
千葉あたりで前方後円墳が作られた時期、木更津で大きな前方後円墳が作られ、いろいろなものが埋葬されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%88%B4 …
~~~~~~~~~~~  下は引用  ~~~~~~~~~~~~
これら前方後円墳の築造状況や副葬品の内容から、当時のヤマト王権内で関東地方が占める役割が増大していたことと、その中でも小櫃川流域の首長と見られる金鈴塚古墳の被葬者が占める地位の重要性が伺える。これはヤマトタケルの伝承にも伺えるように、古代、三浦半島から房総半島へ向かう海上交通路があり、その房総半島側の上陸点近くにある小櫃川流域の首長は、交通の要衝を押さえることによって重要な地位を占めるようになったと考えられている。
その一方、金鈴塚古墳から関東地方各地の首長との結びつきがわかることも注目される。金鈴塚古墳の組み合わせ式の石室は、埼玉県の長瀞付近に産出する緑泥片岩を用いており、荒川、東京湾の水運を用いて金鈴塚古墳まで運ばれたものと推定されている。その一方で、金鈴塚古墳の石室で用いられた千葉県富津市で産出される砂岩は、埼玉古墳群の後半期に造営されたとされる将軍山古墳でも横穴式石室に用いられている。このことからまず、金鈴塚古墳を造営した小櫃川流域の首長と、隣接する小糸川流域の現在の富津市に本拠地があった、内裏塚古墳群を造営した首長との間に連携があったことがわかる。その上、上総の首長と将軍山古墳を造営した武蔵北部の首長との間に交流があったこともわかり、これらの交流はヤマト王権の関与が及ばない、独自の交流であった可能性が高く、6世紀後半から7世紀にかけての関東地方の有力首長は、ヤマト王権内で重要性を増すばかりではなく、独自の動きも見せていたことがわかる。
~~~~~~~~~~~~~ 引用終わり ~~~~~~~~~~~~~~
このような記述唐想像できることは、千葉、茨城、こうしたあたりには、結構有力な地方豪族が何代も続いて勢力をふるっていて、近隣や近畿(機内・ヤマト)ともうまくやっていたらしいということです。
《何かしら大和政権が関わってた》とは言えるでしょう。 しかし、ヤマトの中央に完全に服属支配していたというのではなさそうです。

> 鉄剣が出てきたことによって大和政権の力が広まっていたの意味がいまいちピンときません。

単に海産物、昆布、石、服飾品、瓦などが出土し、その原産地が他の地域のものだと判明しても、その原産地の豪族の力が広まったという理解はしなくてもいいのだと思います。 しかし、戦闘機やミサイルなどをある国が他国から受け入れている場合、原産国の政権の力がその受け入れ国に広まっていたからという理解は、ほぼ妥当です。 
また昔は祭祀と政治はセットで分離が難しいものでしたから、祭祀に使う鏡などがある地域から他の地域に伝えられている場合は、服属、本末という関係をそこに想像するのも、ほぼ妥当です。 前方後円墳も、ただ墳墓という構造物であるだけでなくそこで祭祀が行われる場所でもあったので、服属や支配関係、本末関係の認識のようなのがあったという想像も可能です。 しかし、墳墓の築造時期にかなりずれがあるような場合、祭祀や墳墓の文化スタイルが地域と時間をずらして移ったという理解も可能です。 築造時に政治軍事的に直接の関係があったと想像する方がむしろおかしい可能性が高いです。
さて、鉄剣です。 戦闘機やミサイルと同様に考えて良いでしょうか。 ちょっと違うと思います。 日本刀にもいろいろのタイプがあって、日本刀の好きな人が見れば産地や時期、流派のようなものをすぐに見分けます。 それって、ただのタイプの好みというような面が大きくて、政治権力の主従服属関係とは別の理由でタイプを選ぶという要素が大きいです。 
ある古墳から、琥珀製の棗玉やガラス玉などの装身具、金銅製の冠、鏡、銅鋺、金銅製馬具、鉄矛、鉄鏃、飾大刀などが出てきたというだけで、その古墳の埋葬者や築造者が、出土品の産地などの政治権力に服属していたということにはならないです。 
https://www.travel.co.jp/guide/article/24390/
これだけの種類と数を集め、埋葬してしまえるというだけの勢力があったということでしょうし、6世紀、7世紀頃、8世紀の文献資料等にこの地方のことが出てこないというのは、ヤマト王権の中枢のヒトや資料を編纂するヒトにとっては、この地方に関して書くべきことをさして知らないという程度の関係にあったということでもあるのでしょう。

《ヤマト王権の力が広がった証拠としての鉄剣の出土》となるには、王権と出土地方とを結びつけるそれなりの記録のようなものが必要と思います。
私見も私見で、憶測のようなものですが、剣や太刀が《権力者の証》であるとしたら、それを埋葬してしまったら、後継権力者の《権力者の証》は別に用意してあるということでしょうか。大きな古墳を構築するのは権力者自身だとしても、《権力者の証》は後継権力者が大事にしまうとかするのではないでしょうか。埋葬してしまえるのは、太刀や剣がもう《権力者の証》ではなく、埋葬される人物の記録や好きな収集物であったというだけの価値になっていたからではないかと思います。 そのように想像すると、埋葬されていたのはもはや《権力者の証》ではなくなっていたということでしょう。 埋葬された者がその鉄剣や太刀を大事にしていたのは、その個人にとっての価値観の中に、鉄剣や太刀、それも豪華な飾りや由来のあるようなものを好むという面があったからなのでしょう。 その個人的想いの中には、ヤマトや朝鮮、中国などに対するあこがれとか権威付けのようなものもあった可能性はあって、それをヤマトや関東付近の豪族や首長が積極的に活用して、太刀や鉄剣を贈呈したということもあったろうとは思います。 鉄剣の出土だけでは、ヤマト王権の力が広がった証拠というには弱すぎると私は思います。
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>前方後円墳は、大和政権が作った古墳なんですか?


⇒いいえ。

>前方後円墳がある場所は何かしら大和政権が関わってたということになりますか?
⇒大和政権に反旗を翻した「筑紫君磐井」の墓とされる岩戸山古墳も前方後円墳です。

>獲加多支鹵大王は大和政権のトップの王様ってことですか?
⇒雄略天皇だと言われてますからトップと言われればトップですよね。ワカタケルとよめるもの(剣に書かれた文字)が色々なところから出土されていることから大和政権の力が全国に強まったと考えられる、という事です。
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