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1. ヤマトの三輪山なる大神(おほみわ)神社に付属する摂社のひと
つに檜原(ひばら)神社があります。

2. そこは 祀る神が アマテラスオホミカミなんです。

3. むろん大神神社は 三輪山が神で 特にはオホモノヌシのカミを
祀ります。

4. 檜原神社は 元伊勢とも呼ばれていますが アマテラスは むろ
ん伊勢神宮(内宮のみ)の神です。


5. 史実と呼べるような文献等の資料が少ないようなんですが・それ
で勝手に飛躍して解釈しますが どちらもわれらがオホキミないしスメ
ラミコトないし天皇家の神であると思われます。


6. オホモノヌシは 300年ごろミワ市政を敷いた第十代崇神ミマ
キイリヒコイニヱにとっての神であり 檜原神社と伊勢神宮とのアマテ
ラスは その後400年ごろ思想(生活態度)を入れ替えた第十五代応
神ホムダワケによるカフチ(河内)政権にとっての神であると。


7. カフチ政権とその後継政権が 大神神社にアマテラスを祀れと言
ったとき かつてのミワ市政なる思想の神社は これを断りました。何
度も言ってくるので それではと摂社をつくりそこに祀るようにしたと
聞いています。



8. 推理としては ミワのイリ政権に代わるカフチのワケ(タラシ)
政権の登場では 日輪を目指し探索の旅に出るロケットが打ち上げられ
たようなんですが どう考えますか?

質問者からの補足コメント

  • №3お礼欄つづき1

    ★ ご存じのとおり、大神神社・・・原住民の原始宗教
    ☆ 原始心性は《つちぐも》らだったのではないかと思います。


    ★ 箸墓の被葬者であるお姫様も、神社経営に携わって、土地の人の
    信望を得ていったんでしょうか。・・・
    ☆ 卑弥呼は 《やまとととひももそヒめのミコと》ではないかとい
    う見方があります。崇神イリヒコ(300年ごろ)の少し前(=3世
    紀)でしょうか?

    ★ 当時は、死穢を恐れるためか、代替わりのたびに新しい家を作っ
    ていたように見えます。伊勢神宮の遷宮を思わせます。
    ☆ 当時は 湿地地帯で湿気の問題からだったとは聞きました。

    つづく

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/11 00:54
  • №3お礼欄つづき2

    ★ 応神天皇が、河内に宮を建てたのは、仰る通り、大和の原住民の
    勢力と、距離を置き、自分たちの権威を示したかったか、
    ☆ 母の神功オキナガタラシヒメは 近江の出身らしいですが 筑紫
    にいて半島との戦争をやっていたときに 子の応神ホムダワケが生ま
    れたと言います。そのあと東上しますが その道程が神武の東征に反
    映されたのではないかと。

    《自分たちの権威を示すため》 仁徳オホサザキを優遇します。イリ
    系と仲良くしています。巨大古墳も このふたり(応神と仁徳)のが
    際立っています。

    ★ 継体天皇は、即位後、二十年ほど、大和に宮を築くことができま
    せんでした。
    ☆ 応神ホムダワケ(400年ごろ)による全国制覇大作戦が 百年
    の計として雄略ワカタケルとこの継体ヲホド(500年ごろから)と
    によって 実現に向けて動いたのだと見ます。


    つづく

      補足日時:2019/07/11 00:56
  • №3お礼欄つづき3

    ★ ご質問の檜原神社の場所ですが、巻向というのは、崇神天皇の宮
    のあったところではないですか。・・・
    ☆ この《アマテラスを祀るやしろ》のための土地の選定については
    ▲ ヰキぺ:元伊勢
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E4%BC%8A …
    ☆ に見るように 伊勢の地に定まるまでの長い歴史がありました。




    ★ 私は・・・大学時代に山野辺の道を石上神宮から大神神社まで歩い
    たとき、崇神天皇陵と景行天皇陵が、隣同士でたたずんでいるのを見た
    ときに感じた、日本の歴史の重みを、忘れることができません。
    ☆ そうでしたか。わたしも一度ですが そこを歩いて 交通手段がな
    かった時代に生活と政治とがいとなまれたんだなぁと思って 当時をし
    のんでいました。

      補足日時:2019/07/11 00:58
  • №5お礼欄つづき1

    やがて――夫の仲哀をほっぽり出して《神を寄せる》神功オキナガタラ
    シヒメに この島国の統一の夢(?)が芽生えた。子である応神ホムダ
    ワケを押し立てて ヤマトに向かう。

    ヤマトでは かつては 仲間のなかのまとめ役である卑弥呼 そしてあ
    るいは 《イリ》なる思想(つまり 生活態度)を築いたミワ共同体の
    自治態勢が それなりに全国にうわさされていたのではないかと思いま
    す。

    当時 大阪湾はまだ海が広がっていて 神武とナガスネビコが戦った日
    下が玄関でした。《日の下(もと)の草香》と呼ばれたらしい。それが
    飛ぶ鳥の明日香から飛鳥(あすか)が出来たように 日下(くさか)と
    なった。

    つづく

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/17 12:16
  • №5お礼欄つづき2

    おそらくヤマトの纏向の地は 《ひかり》として仰ぎ見られていたかも
    知れない。そのヤマトの入り口が 日下であった。と。

    東上する別様の《ひかり》の候補は この地を目指した。経済よりも武
    力よりも 文化だったのだと。

    (スサノヲの治水や オホクニヌシの薬草による医療なども ふくめて
    きたい)。


    一介の市井人オホタタネコが かがやくムラであった。

    そこへ おれたちだって 天照らす日の御子であると名乗り出た一族。
    ひかりは ネコ(根子)つまり大地の子ではなく ヒコ(日子)つまり
    輝くイデアを体現した男系一系(それは ダビデの血筋という意味だけ
    では イエス・キリストのごとくでもある)の人間がになうのだと。


    (尻切れトンボですが)。

      補足日時:2019/07/17 12:19
gooドクター

A 回答 (5件)

続きです。



私自身、移民です。そして、夫も、欧州から流れ流れて、アメリカ中西部に居を構えた家族の一員で、子供たちが生まれたころから、モルモン教の教会に行き、自分の自出を探す旅に出ました。私も、祖父から託された家系図を巻物にしたものを大切にしています。でも、残念なことに、全員三太夫です。

で、一度ならず、夫から、私のほうの家系の歴史を、必ず書き留めておくように厳命されました。孫もできて、生活も安定してきたからだと思います。大和朝廷にも、同じような安定期が訪れ、それで、稗田阿礼が私と同じような役割を割り当てられたんでしょう。多少都合の悪いことは、オブラートに包んでも、古事記には、ある程度は真実が書かれているように思うのです。私も、ご先祖が、宮城や熊本からきて、横浜や京都で活動したことは、子々孫々、伝えてゆきたいので。古事記は、日本書紀と違って、もっと、プライベートな、デリケートな、しかも卑猥でユーモラスな一面もある、娯楽作品に見えます

ですから、高天原という、異国からやってきて、高千穂にいたのは、確かなんじゃないかなぁ、と。で、九州で勢力を伸ばそうとしたけれど、のちに、熊襲や磐井の強さを見てもわかるように、勢力が伸ばせなかったので、日向の美々津から、もっと、のほほんとした人の住む土地を探して、畿内にたどり着いた。海のある、例えば、息長氏の近江などは、難しかったんじゃないでしょうか。で、内陸の奈良に落ち着いた。。。どうして、奈良だったのか、というのが、長らく私の疑問でした。

それは、崇神天皇から、そんなに遠く遡らなかったんじゃないか。そうでなければ、渡来人の持つ優位性を、原住民にアピールすることが、難しかったんじゃないでしょうか。崇神天皇の時に、大田田根子をして、宗教の整備に取り掛かった、というのは、教えていただいた元伊勢の記事を見ても、明らかです。

その後の、日本統一の過程については、図の通りでしょう。と、言いますか、私は勉強不足で、なんとも、申し上げようがありません。

天皇家の”罪悪感”については、天武天皇は正当な後継者である弘文さんを滅亡させていますし、聖武天皇は、自分よりも”天皇家の血”をたくさん受け継いだ長屋王とその子供たちを、皆殺しにしています。

大仏さんを建てたくなる気持ちも、判るというものです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 私自身、移民です。そして、夫も、欧州から流れ流れて、・・・
でも、残念なことに、全員三太夫です。
☆ わが家系は 三代さかのぼればもう分かりません。
わたしは 世の中に対して挑戦者の立ち位置に立つことになったので
西行ではありませんが さまよえる人として見られていたと思います。
この間 イシグロの『日の名残り』をNHKで映画で見ました。


★ で、一度ならず、夫から、私のほうの家系の歴史を、必ず書き留
めておくように厳命されました。・・・古事記は、日本書紀と違って、
もっと、プライベートな、デリケートな、しかも卑猥でユーモラスな
一面もある、娯楽作品に見えます
☆ たとえば 柿本人麻呂は 次のうたをのこしました。

 おほきみは神にしませば 天雲のいかづちの上にいほらせるかも
 (万・ニ・235)

わたしのように周縁にいる地点から見ると 《かも》は 《そうなの
かな? そうかもね。》と言っているように読めます。感嘆する大王
賛歌〔のかたちを採ってそ〕の反対の意味をもふくみ持つかのように
映ります。

古事記は 全体として――歴史のまとめと各家筋のまとめの二重の意
味で――うまく一本の筋としてよくまとめたものだと思います。
そして 賛嘆ゆえに 批判をも交えたか おのづと批判の視点も浮か
び上がるかのようになったかなのだと。



★ ですから、高天原という、異国からやってきて、高千穂にいたのは、
確かなんじゃないかなぁ、と。
☆ そうですね。やって来た〔か または 国土を統一するというアマ
アガリの思想を元からの列島人が仕入れたか だ〕と思います。

ひとつ問題なのは いきなり高千穂の峰に降りたというのは どう解釈
すればよいかだとは思います。
どこか海沿いの土地に着いたと言って欲しいところです。

そして 神武イハレヒコより前に 或る種の《日の御子》としてニギハ
ヤヒがやはり天降りしています。天の磐舟で河内国の河上の哮(たける)
ヶ峯に降臨し、その後大和国の鳥見の白庭山に移ったと言います。




★ で、九州で勢力を伸ばそうとしたけれど、・・・
☆ 一案をぶつけるかたちになりますが。
筑紫では 土地の豪族たちとむしろ仲良くなったのではないか。

つづく

お礼日時:2019/07/17 12:12

卑弥呼がヤマトトトヒモモソヒメでなく、ヤマトトヒメという説は言いたいこと有る。


邪馬台国=大和朝廷はという説には賛成できるの。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 卑弥呼がヤマトトトヒモモソヒメでなく、ヤマトトヒメという説
☆ 説と言いますか 記紀のどちらかで記述が異なるんでしたっけ?


★ 邪馬台国=大和朝廷はという説には賛成できるの。
☆ いえ。ざっと次のように捉えています。

弥生時代(――世界とわれとの未分化なる原始心性がのこる――)

・ 3世紀半ば:邪馬台国:ヒめのミコと
    ――箸墓との関係はいかに?

古墳時代(――死を死として知った歴史知性の出現――)

・ 300:イリ市政:崇神ミマキイリヒコ+市民オホタタネコ

・ 400:ワケ(タラシ)政権:応神ホムダワケ
            +神功オキナガタラシヒメ(神を寄せた)
    ――全国制覇大作戦(アマアガリ):百年の計

・ 500少し前:雄略ワカタケル:後継者をほぼ全員ころした。

・ 500:継体ヲホド:アマアガリの成就(?)
    ――《もっぱらの公民》たるアマテラス人間像の誕生
    ――イリ系(たとえばオホケ・ヲケ兄弟らの筋)とあらそう。
    ――欽明天皇のころ 落ち着いたもよう。

・ 672年(壬申)の乱を経て 天武オホシアマが中央集権体制を敷く
   ――社会形態は スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建
    て構造となった。



☆ 大和朝廷は 天武体制においてか 欽明天皇のころか 継体ヲホドの
台頭によってか 築かれたものと思われます。

お礼日時:2019/07/11 12:44

古事記の物語を、現在の天皇家のご先祖様の物語として読む限り、高天原(大陸)からやってきて、高千穂(九州)で生活を始め、どういう経緯からか、現在の奈良県を目指したんでしょう。



そして、最初は、大和の原住民に懐柔政策をとってゆくようですが、その過程で、神武天皇と同一人物であるといわれる崇神天皇が、大神神社の建設に関わったんでしょうか。大神神社から見て、三輪山の反対側、東側には、出雲という地域があり、特に奈良の地名は、おろそかにできないので、出雲神社の出雲と関りがあるようにも思えます。

ご存じのとおり、大神神社のご神体は三輪山そして磐座で、動かすことができません。この土地でなければ、どうしようもない。これは、原住民の原始宗教だったんでしょうが、そこに、大陸の建築知識を持った崇神天皇が手を貸して、素晴らしい神社をつくる手助けをしたんじゃないか、と、楽しい想像が広がります。

箸墓の被葬者であるお姫様も、神社経営に携わって、土地の人の信望を得ていったんでしょうか。箸墓の場所柄もあります。

当時は、死穢を恐れるためか、代替わりのたびに新しい家を作っていたように見えます。伊勢神宮の遷宮を思わせます。景行天皇とヤマトタケルの活躍を経て、島国平定をほぼ完成させた大和朝廷(と呼んでいたか?)を次の段階に発展させようとしていた応神天皇が、河内に宮を建てたのは、仰る通り、大和の原住民の勢力と、距離を置き、自分たちの権威を示したかったか、あるいは、あまりにも勢力を持ちすぎた渡来民族を、原住民が嫌ったか、どちらかなのでしょう。継体天皇は、即位後、二十年ほど、大和に宮を築くことができませんでした。

ご質問の檜原神社の場所ですが、巻向というのは、崇神天皇の宮のあったところではないですか。大神神社がかなわないのなら、崇神天皇のゆかりの土地に、ということで。そして、便利なことに、伊勢神社系のご神体は、持ち運び可能の鏡であるようです。当時は、エキゾチックな輸入品であったことでしょう。

私は、日本書紀を呼んだことがなくて、古事記と万葉集だけです。ですから、景行天皇よりもヤマトタケル、仁徳天皇より菟道稚郎子なのです。でも、大学時代に山野辺の道を石上神宮から大神神社まで歩いたとき、崇神天皇陵と景行天皇陵が、隣同士でたたずんでいるのを見たときに感じた、日本の歴史の重みを、忘れることができません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 古事記の物語を、現在の天皇家のご先祖様の物語として読む限り、
高天原(大陸)からやってきて、高千穂(九州)で生活を始め、どういう
経緯からか、現在の奈良県を目指したんでしょう。
☆ 歴史学によって史実としての認定を得るには ほど遠いですが
この国にあって共同の観念として それなりの現実を成していると思
われ その限りで記紀神話が 現実に含まれます。


★ そして、最初は、大和の原住民に懐柔政策をとってゆくようです
が、その過程で、神武天皇と同一人物であるといわれる崇神天皇が、
大神神社の建設に関わったんでしょうか。大神神社から見て、三輪山
の反対側、東側には、出雲という地域があり、・・・
☆ なるほど。そういったご見解なんですね。

取りあえず別の仮説をしるします。
① 崇神ミマキイリヒコは 仮りに遠くは渡来系であったとしても 
弥生人からの日本人集団であった。

② スクナヒコナの時代の粟の栽培やそのあとオホクニヌシによる稲
の農耕を推し進めて来つつ ひとは時間的存在であること――死を死
として自覚した――を知って 世界に入りした。世界-内-存在。

③ 纏向(まきむく)の地つまり三輪山のふもとで その《イリ》思
想にもとづき 国造りに励んだ。

④ これが 第十代で実質の初代オホキミであった。

⑤ 神武カムヤマトイハレヒコの東征などの記事は 第十五代応神ホ
ムダワケの筑紫からの東上が投影されている。

⑥ このワケ(ないしタラシ)の勢力は ミワのイリ市政の人びとに
取り入った。われらを国の経営者とせよと拝み倒すかたちで迫った。

⑦ ミワのイリ系が クニユヅリに甘んじた。(非戦論を採った)。

⑧ これが イヅモという地とそこの人びとの話として伝えられた。

⑨ 二階建ての仕組みとして 次のようにタトへが決まった。

  天つ神       国つ神
 ________________
  ヤマト       イヅモ
  ワケ(タラシ)系  イリ系 



つづく

お礼日時:2019/07/11 00:51

チョウウアン元素ですね。


間違えました。
寝プチ有無とか
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この回答へのお礼

ふうむ。その昔には 水銀――丹――が 求められたとか。

お礼日時:2019/07/10 23:01

埴輪と難波は何かか縁狩るのでh層がk。


奈良県というのは水資源が豊富なのでh層化。
こぢあの文明が避けるには水が重要でしょうから。
川とか湖とか。

中ウラン原子
アクチノイドとか怖いですね。
人工物が自然を肥えるというお歯ヘーゲル的でウsね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 埴輪と難波は何かか縁狩るのでh層がk。
☆ 難波というより 堺あたりの河内の巨大古墳に 埴輪がずらりと
並べてあるようです。



★ 奈良県というのは水資源が豊富なのでh層化。
☆ トヨアシハラと言うくらいですから 葦の生える湿地地帯が多く
あったようです。


地盤がそういう状態でしっかりせず湿気で建物が湿りますから 平城
京以前の藤原京や飛鳥浄御原宮などは 短い期間で遷都しています。


さらにその以前は 山の中腹にまで上って住居をかまえていたとも言
います。湿地地帯には住めないからです。


★ ウラン
☆ などについては よく知らないですので。・・・

お礼日時:2019/07/10 22:59

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