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伊都の国には女王がいたとあります。
自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之
常治伊都國               ← この部分
於國中有如刺史(※)

伊には「神を呼び寄せる聖職者」の意味があり、都はみやこ。
もし、卑弥呼がここにいたらぴったりの名前です。

そして、卑弥呼は伊都国にいたと書かれています。
つまり、神を呼び寄せる聖職者がいる都だから「伊都国」と
陳寿は記載したのではないでしょうか?


同じような疑問は、対海国~不彌国~邪馬壱国まで続きます。
対海国・・・・島の北と南に二つの海があるから
一大国・・・・一大卒を置いていたから
末盧国・・・・盧氏(つまり韓国人)の血が尽きるところだから
伊都国・・・・前出のとおり
       今の糸島市が発音も近いし伊都の国というのが定説ですが、
       糸島市が伊都の国なら、中国人が「イト、イト」というから
       それに合わせて倭人が漢字を充てた可能性を考えます。
奴国 ・・・・漢王から金印を賜っていたのでこれだけは動かせなかった
       又は、高句麗では奴とか那という地縁的政治集団があった(※)
       その流れである。あるいはその両方
不彌国・・・・彌には「続いているさま」という意味があるので、
       不彌国は倭国の末端だから
侏儒国、裸国、黒歯国
       国民の様子で間違いないでしょう
投馬国・・・・ツマと読み今の薩摩地方であるという説もありますが
       馬=馬韓=韓国人・渡来系弥生人を、投げる=追い出した
       という意味でつけたのでは
邪馬壱・・・・邪馬台が正しいという説もありますが、魏志の通り邪馬壱で考えます
       狗邪(倭人伝には狗邪韓国、韓伝には弁辰狗邪国とあり、狗邪は共通)
       から邪を、対馬から馬を、一大(今は壱岐という名前)から壱をとり
       (壱と一は同音同義)ベネルクス三国のように邪馬壱国と略した可能性

また、倭国には文字がありました。
傳送文書            ← 文書を伝送し、と書いてある
賜遣之物詣女王不得差錯(※)
と、魏志倭人伝に書いてあります。

従って「倭人の発音に魏の人間が適当な漢字を充てただけ」という通説には疑問があります。

魏志倭人伝に言う国の名前は、国や国民の様子からそう名付けた可能性はありますか?

参考資料
※ Wikipedia日本語版 魏志倭人伝 2024年2月14日閲覧

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    補足

    当時、中華思想があり、周辺国には悪字を使っています。
    狗邪韓国や狗奴国の狗など。

    邪馬台国にせよ邪馬壱国・邪馬嘉国にせよ、邪という悪字、馬という中間の字。
    邪と馬までは分かるのですが・・・
    臺(台)(画数が多く格が高い)や壹(壱)(宮中を意味し格が高い)
    嘉(良いという意味の良字)といういい意味の漢字を使ったのかが気になります。

    中華思想が始まる前から、倭人の国への入り口の意味で狗邪、対馬、壱岐の略で
    邪馬壱国という通称があったのだろうか? 
    広志の邪馬嘉国こそ何かの理由でこう書かれたのではないだろうか?
    こういう妄想は尽きません。

    それと、本来の疑問
    「倭人の発音に漢字を充てたのではなく、国や国民の様子からつけたのでは?」
    これも疑問は尽きません。

      補足日時:2024/02/15 20:21
  • うーん・・・

    補足2

    No2さんの御礼にも書いたのですが、伊都国は一般名詞的な地名で、複数の伊都国があったかも、
    という疑問を持っています。

    末盧国も、韓国人の血が尽きるところと解すると、複数の末盧国があったかもしれません。
    定説では、魏志倭人伝に言う末盧国は今の唐津付近ということですが、
    一大国(壱岐島)から千里(80km)というには近すぎます。
    また、距離的に丁度合うこと、いろいろ出土することなどから、
    今の宗像市を末盧国と比定する学者もいるとのこと。

    宗像が末盧なら、伊都国はみやこ郡みやこ町でしょうか。奴国は築城~豊後高田の大分平野。
    不彌国は国東(くにさき)半島でしょう。
    国の先ということは、倭国の終わりでしょう。不彌国の意味は「続かない。終わりの国」
    と考えますが、国東半島=不彌国なら正に同じ内容になります。

    唐津も宗像も、両方とも末盧国と言ってたのかも知れません。

      補足日時:2024/02/16 22:59

A 回答 (2件)

書いたのは陳寿じゃなくて帯方郡の文官だけどね、陳寿はその文書を魏志にコピペしただけw



質問の国の名ですが、特に伊都国は、倭人がこの漢字を充てた可能性が高いと考えられています。挙げられた文章の少し前に『刺史のごとき』などと大倭だっけ?のことを言っていますが、人を見ただけで刺史のようだなどと分かるわけがないので、これは倭人が『刺史のようなものです!』と説明したのを、そのまま書いているわけです。そのように、当時から中国の知識がある程度入ってきていますし、弥生遺跡からも書道の硯(すずり)が見つかっているように、文字(漢字)を書いていただろうことも伺えます。
だから伊都国の伊都も、倭人がこの漢字が良いとしてその字でイト国を表記するものと決めた可能性が高いです。

話はそれますが wiki の訳は腐っているので、弥生ミュージアムの訳の方がはるかに良いものなので、こちらを参考にされるのが良いですよ。
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この回答へのお礼

魏志とほぼ同時代の文献があります。纏まってる動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=twKwF-94sx8
魏略は4:10頃、末盧国の東南五百里で伊都国へ至る。戸数1万余戸 
広志は5:56頃 倭国の東南陸行五百里で伊都国に至る。
魏志倭人伝とは微妙に違います。
理由は、伊都国と言ってるけど中身が違う可能性を考えます。
本文に書きましたが、伊には「神を呼び寄せる聖職者」の意味があり
都はみやこ。
つまり、神主や巫女が統治している国の都は全部「伊都国」と言ってた。
という可能性を考えます。

以下例示であって、こう考えてるというものではありませんが。
広志の倭国は漢の王から戴いた金印が出た志賀島~博多とすると
(魏志倭人伝の奴国を、広志では倭国と言っている可能性)
東南陸行五百里は朝倉市あたりになります。
広志に言う伊都国は朝倉市、ここが魏略の通り人口1万戸であった。
魏志に言う伊都国は定説なら糸島市。人口1千戸。
例えばこういう具合に、別の場所を同じ呼称の「伊都国」と言ってた。
こういう可能性はないのだろうか、ということです。

時代が下りますが、山口という地名が全国各地にあります。
登山口、入山口を山口と付けたようです。
いまは山口県や山口市を指す固有名詞ですが、
そもそもは一般名詞的な地名だったと思います。
伊都国もそれと同じで、一般名詞的な地名だったのではないのか?
という疑問です。

もうちょっと一般化して言うと、倭人が自分らをこう言ってるという音に
漢字を充てた、ということではなく、
中国人が国や国民の様子から漢字を充てたのでは?という疑問です。



尚「常治伊都國於國中有如刺史」の部分を仰っていると解します。
末盧国の次に伊都国が出てくる部分に「郡使往來常所駐」とあります。
郡使が来たら常に足を止める(意訳)所である、と読みます。
女王は常に伊都国にいて治めていたと書いてあるので、郡使が来たら
足を止めるのは当然だと思います。
郡使が伊都国に来ているので、見たまんまを中国人が「刺史の如し」
と言ってると読みます。
それに刺史は古代中国の役職名です。
https://baike.baidu.com/item/%E5%88%BA%E5%8F%B2/ …

お礼日時:2024/02/16 00:29

>ベネルクス三国のように邪馬壱国と略した可能性



これはちょっと面白いですね。質問者様のオリジナルのアイデアですか?
邪馬台ではなく邪馬壱だと言うのは、古田武彦さんが主張してましたね。それに対して日本語学者の大野晋さんが、日本語の発音の特徴から考えると邪馬壱はあり得ないと反論してましたが、このアイデアはその弱点を克服しているので、なるほどと思いました。
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この回答へのお礼

魏の当時、台(旧字の臺)はəї(アイ)と発音されていたようです。
https://baike.baidu.com/item/%E5%8F%B0/84818
を参照ください。現在でもtaiとかyiとか発音します。

また、後漢書倭伝には
「其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)」
とあります。
邪はジャ、馬はラと読んでたらしいので、
https://baike.baidu.com/item/%E9%82%AA/2938
https://baike.baidu.com/item/%E9%A9%AC/34268
後漢書倭伝を表音交じりに読むと
「その大王?のいるところはジャラアイ国(今名前を案ずるにジャラユイ国の訛)」
ということになります。
邪馬壱国であれば、ジャライかジャライーという発音になる筈です。
後漢書倭伝のジャラユイが正しいなら、むしろ邪馬壱のジャライーが近い音です。
アルファベットのTのような音は出てきません。

大野先生は「日本語の発音の特徴から」と仰っているようですが、
魏志倭人伝は中国語で書かれた中国の書物です。
日本語の発音云々、という発想になることからわかりません。

魏志に先行する広志には、邪馬台国(邪馬臺國)でも邪馬壱国(邪馬壹國)
でもなく、邪馬嘉國とあります。
嘉を中国語で検索すると下記サイトがあります。
https://baike.baidu.com/item/%E5%98%89
ここに「故嘉从壴」「故に嘉は壴からきている」とあります。
つまりそもそもは邪馬嘉國で、それが邪馬壴國、となってて
それを元に?陳寿さんが陳寿アレンジ(※)を施して邪馬壱国にしたのでは?
と考えています。
(※)陳寿アレンジは私の呼称です。
 対馬国→対海国、一支国→一大国、のように元の名前を残しながら
 国の様子で名前を付けている感じがします。

狗邪韓国、対馬、壱岐をベネルクス三国のように略して邪馬壱と言った、
という考えは、私が地図を見て思ったことですが、先人も同じことは
絶対だれか考えている筈、と思います。
下関と門司の間の海峡を関門海峡、東京と横浜を東横とか京浜とか、
という略し方は、日本において枚挙にいとまがありませんから。

枚挙にいとまがないからこそ、邪馬壱は狗邪・対馬・壱岐の略称説も
あり得るかも知れません。

お礼日時:2024/02/14 23:24

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