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カンボジアのアンコールワットの遺跡はもともと何の施設だったのですか?

王様の宮殿だったのですか?

アンコールワット自体が1つの町だった?

アンコールワットは何年前に作られたもので、どういう歴史的経緯で作られたのか教えて下さい。

A 回答 (5件)

宮殿(と城壁都市)だったのはアンコール・トムの方で、アンコールワットは寺院でした。


なお、カンボジアには未調査の遺跡がたくさんあります。考古学者によれば多くの遺跡はジャングルにのみ個あれて調査が困難だそうです。
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>カンボジアのアンコールワットの遺跡はもともと何の施設だったのですか?



あの辺りの遺跡は、カンボジアにおける当時の先進国であるインドからもたらされたヒンドゥ教に関するもので、アンコールワットもヒンドゥ寺院。
東南アジアの上座部仏教国は仏教の導入にあたり、当時の先進国であるクメール(=カンボジア)のヒンドゥの要素を取り入れた。神とその守護者(=王族)と平民という三階層の発想は統治に都合がよかったから。クメールも徐々にインドの影響力から脱して仏教を主にしたけど、やはりヒンドゥの要素は都合がよかったとみえて、同じ統治方法とした。最終的にはアンコールワットも仏教寺院として転用された。

>アンコールワット自体が1つの町だった?
>アンコールワットは何年前に作られたもので、どういう歴史的経緯で作られたのか教えて下さい。

アンコールワットは町の周囲に作られた寺院。だけど王の権勢を示すために強い王は大きな寺院を作った。ちなみに、アンコールワットはバンテアイチュモールの習作だった可能性がある。
町としてはバイヨンとかがある、アンコールトムが相当する。臣下の住居は木造だったので今は残ってもいない。
アンコールワットを構築したのは12世紀ごろでクメールの勢力も強かったころで、回廊にはヒンドゥ神話の乳海撹拌とか、近隣の大国であるイスラム教のチャンパ(今の南部ベトナム地域だが、キン族とは別)との戦いの浮き彫りがある。

建築学的には、錯視や視覚効果、音響効果をふんだんにつかっていて、興味深い。反面、クメール人は飽きっぽいのか、見えないところはかなり手を抜いている。作りかけで放置しているようなところもある。

実際の話、歴史を知りたいのか、宗教人種言語の移動や遷移を知りたいのか、建築学としてみたいのか、どれをとってもライフワークになるぐらいの物量はある。当時の碑文も発見されているけどそれを読める人も世界で数人しかいない。石澤良昭先生なんかはまだ存命だから、本気で知りたいのであれば訪ねてみることをお勧めするが、生半可な学習レベルだとがっかりさせるだけなので、まずは上智大学アジア人材養成研究センターにコンタクトを取ることからお勧めする。
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仏教寺院でしたが住居では無く最初から遺跡でした。

更に大きいアンコールトムが隣にあることはご存じでしょう。インドネシアにも類似の建造物がありますが名前を忘れました。
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寺院でしたから、そこに住居があったわけではありません。


周囲には池が掘りめぐらされていて貯水場の役割もしていたようです。
12世紀頃の建造といわれ、
もとはヒンズー教の寺院だったものが仏教の寺院へと変わったらしいです。
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元はヒンドゥー教の寺院ですが、中に入って見てみても、日本人の感覚でいうと、


お濠で仕切られた巨大なお墓(仁徳天皇陵のような)のように見えます。
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