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以前類似の質問をしたことがある気がしますが、見つからないので質問します。
 テレビ番組などで、「東京は浅草にやってまいりました」のようの表現を聞くことがあります。
 この「ハ」はどういう用法なのでしょうか。「ノ」のほうが素直な気がします。「ハ」にするとどのような効果があるのでしょうか。

 一部の辞書には下記のような記述があるとも聞きましたが……。
「時や場所など、場面をあらわす語について、後のさらに細かな場面設定を導く」
「地名に関して、それを含むさらに広い地域を先に提示する特殊な用法。『東京は神田の生まれ』」

質問者からの補足コメント

  • 資料ブログを書き直しました。
     辞書の引用なども書き直しました。
     問題は続きをどうするか……。
    【「ハ」の用法 男は度胸 春は、あけぼの 東京は浅草にやってまいりました〈1〉〈2〉】改 辞書
    https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12509493897.html

      補足日時:2019/08/20 21:18

A 回答 (18件中1~10件)

東京なんだということが少し強調されるかなぁ

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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
「東京」を少し強調しているのですね。

 No.2のかたのご意見と正反対の気がします。

お礼日時:2019/08/17 12:47

浅草という地名をより強調するときに使用します。


数々の名所がある中で下町として最も人気のある、と言う言葉が省略されています。
『東京は神田の生まれ』と同じです。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
「浅草」をより強調しているのですね。

 No.1のかたのご意見と正反対の気がします。

お礼日時:2019/08/17 12:20

係助詞とか副助詞とかに分類されるようです。

その語を抜いて印象・受け取りがどう変わるか調べてみると分かります。
「東京浅草にやってまいりました」。地名が2つ並ぶだけです。これを「東京は」とすると、東京の話だな、と言うことがまず心に強く印象されます。近い表現としては「東京だよおっかさん」。
この印象の強さを、さらに細かく分析すると、その「一部の辞書」みたいな説明も出るのかも知れません。好きな方はメスでも持って腑分けなさるのもよいかと思います。
で、このご質問の場合、そこまでの分析や他の使用例を挙げて重箱の隅をつつくような解説が必要でしょうか。
辞書を引用して説明なさる方も多いですが、熊本ラーメンと博多ラーメンの違いを、グルメ雑誌の多量引用で説明するのと大して変わらない気がします。食べて心の中で何が起こっているか、飢餓時代の胃袋と飽食の時代の胃袋を発信元にする脳みそでは、起こる感覚も異なりましょうしね。

とにもかくにも、「は」は印象深く話題を提出する、です。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>「東京浅草にやってまいりました」。地名が2つ並ぶだけです。これを「東京は」とすると、東京の話だな、と言うことがまず心に強く印象されます。
 それは「東京の」でも同じなのでは。

お礼日時:2019/08/17 16:22

「特殊性」の認識といいましょうか、



(1)には地名に関して、それを含むさらに広い地域を先に提示する特殊な用法もある。「肥前の国は唐津の住人多々良三平君が」〔吾輩は猫である〈夏目漱石〉五〕など。
[日本国語大辞典]

ヤクザが好んで使ったそうですが、「葛飾は柴又」(映画「寅さん」シリーズ)
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

〈「特殊性」の認識〉ですか。
OKATさんまで、異端の徒になりますか。
 辞書にあるとおりハの特殊用法だと思いますが、それは〈「特殊性」の認識〉とはかなり違うと思います。
 
>好んで使ったそうです
 そのようです。
【「ハ」の用法 男は度胸、女は愛嬌 春は、あけぼの 東京は浅草にやってまいりました〈1〉〈2〉】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12507818116.html
===========引用開始
 たしかに「○○は△△にやってまいりました」をよく耳にするのは、テレビのグルメ番組なんかのレポート。なんで「ノ」にしないんだろうと疑問に思うけどさ。博徒や香具師の口上なんかでも近いのがあったような……「東京と言ってもいささか広うござんす。東京は神田……」とか「葛飾は柴又で産湯につかり……」とか。ほかではあまり聞かない。だからと言って方言にされては困る。  
===========引用終了

お礼日時:2019/08/17 16:21

「は」は一言で言うなら「主題提示」という用法と言ってよいと思いますが、


「東京は浅草にやってまいりました」
などの場合は、たしかに『特殊な用法』と言えそうです。
従って解釈も複雑になりますが、
「東京について語る場合の浅草」といった構図にすることで、浅草に来たのは来たのだが、その浅草は東京に属している点を強調しておきたいという効果があるのではないですかね。

「東京の浅草にやってまいりました」の場合、「東京の」は連体修飾語なので所属関係を淡々と述べているだけであり、東京に属している点を【強調】する効果は無いかと。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>浅草は東京に属している点を強調しておきたいという効果
 ですか。
 ユニークなご意見をありがとうございます。
 この問題に関していろいろな意見を見てきましたが、そういう着眼点は初めて見た気がします。
 詳しくはNo.4のかたへのお礼のリンク先をご参照ください。

お礼日時:2019/08/17 16:53

>それは「東京の」でも同じなのでは。



そう感じないから質問なさっているのであろうと思いましたが、残念です。
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この回答へのお礼

申し訳ない。意味がわかりません。
 当方が言葉足らずでしたかね。
 当方は質問で〈「ノ」のほうが素直な気がします。「ハ」にするとどのような効果があるのでしょうか。〉と書きました。
 同じようなものだと思っています。何が違うのかわかっていません。

お礼日時:2019/08/17 16:43

この「は」は、



我は海の子。
吾輩は猫である。
箱根の山は天下の嶮。
アメリカはニューヨークのマンハッタンに来ております。

のように使用される普遍性の認識を表す係助詞です。

科学は普遍的な法則の表現なので、普遍性を表す「は」が使われます。

月【は】地球の衛星である。
水【は】水素と酸素の化合物である。
物体【は】力によって状態を変えられない限り静止または直線上の等速運動を続ける。

のように、普遍性を表す「は」が使われます。

「東京は浅草にやってまいりました」の場合、皆さんご存じの普遍としての「東京」という「東京」の普遍性の認識を表し、「東京」という場所を強調した表現です。

「東京の浅草にやってまいりました」」というのは、単に「東京」と「浅草」の所属認識の事実表現でしかなく、「東京」に対する思い入れが表現されていません。

この普遍性を表わす係助詞の「は」は、憲法、法律などにも多用されます。

天皇【は】、日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴であって、この地位【は】、主権の存する日本国民の総意に基く。(第一条)
日本国民【は】、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使【は】、国際際紛争を解決する手段として【は】これを放棄する。(第九条)

その理由は次の通り極めて簡単なことです。
支配者たちは、「かれらの意志に、国家的意志としての、すなわち法律としての普遍的な表現を与えなければならない。(allgemaine Ausdruck als Staatswillen geben als Gesetz)」(マルクス, エンゲルス『ドイツイデオロギー』)のです。それは、国民全体が従わなければならない普遍的な規範として公布されます。それで、普遍性を扱う「は」が使用されるわけです。

昔の軍人勅諭にしても、現在の政党にしても、あるいは会社の社規にしても、憲法や法律と違って国民全体が従わねばならない規範ではないので、その点では特殊な集団のための特殊的な規範でしかありません。しかしながら、それらの集団として見れば、そこに属する人間全体が従わねばならない規範であって、それなりに普遍的な規範でもあります。それゆえ、「一つ軍人【は】……」「第二条 党員の義務【は】……」「一つ社員【は】……」のように、いずれも普遍性の「は」が使用されています。これらにしても別に憲法や法律の表現を意識的に模倣したわけではなく、無自覚的に使われたものであり、人間の無自覚的な行為がそれなりに合理的なことの一例といえます。

この他に、「は」には特殊性の認識を表わす副助詞の「は」があります。

梅は咲いたか、桜はまだかいな。

の場合、梅と桜という花の特殊性の認識を表わしています。また、

このテーブルにはハンドルがついてて持ち運びやすい。

では、格助詞「に」が「このテーブル」の空間的な位置付けの認識を表わし、さらに副助詞「は」で、この位置付けの特殊性の認識を表わし、「このテーブル」の位置付けを強調しています。

このような、特殊性の認識を表す「は」は、

君がいくら探してもそこに【は】ない。
あの男だけ【は】信用できる。
博多まで【は】新幹線で行くことにする。

のようにも使用されます。

「は」が主題を表わすというのは、「水は酸素と水素の化合物である。」「月は地球の衛星である。」のような普遍性を表わす係助詞の「は」の場合、そのように解釈される文があるというに過ぎませんが、これらは主題ではなく直観的に現実を捉えただけのもので、主題とは何かが明らかにされなければなりませんが、それはなされておらず、同義反復の循環論に陥る他ありません。

このように、「は」には、特殊性の認識を表わす副助詞の「は」と、普遍性の認識を表わす係助詞の「は」の二種類があります。これを一纏めにして混同し、主題を表わす、新情報を表わす、取立てを表わすなどと個別の文での機能を取り上げても混乱するばかりです。

この普遍性を表す係助詞の「は」と特殊性の認識を表す「は」の違いと区別をきちんと捉えないとこのような的確な分析はできません。

また、

「は」の普遍と特殊の関係については、

日本舞踊 長唄《京鹿子娘道成寺》の歌詞に次のような文があります。

鐘に恨み【は】数々ござる、初夜の鐘を撞く時【は】諸行無常と響くなり、後夜の鐘を撞く時【は】是生滅法と響くなり、晨朝の響き【は】生滅滅巳、入相【は】寂滅為楽と響くなり聞て驚く人もなし………

この、最初の「は」は普遍性の判断を表わすものであり、つぎの四つの「は」はそれぞれの鐘の響きの特殊性を意識したもので、この区別を明確に理解しないと内容に即した理解はできません。

最初の普遍性の認識があとの文の特殊性の把握をつらぬくような認識構造の文章なら、次の次の次の文にも関係付けられても何の不思議もありません。■
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
 あげていただいたたくさんの例文の中で、ハをノにかえられるのは

アメリカはニューヨークのマンハッタンに来ております。

 だけだと思いますが、ほかにもありますか?

お礼日時:2019/08/17 18:13

#5です。


リンク先拝見。
膨大な情報量ですね。
>「東京は浅草に来ています」これは「主題のハ」の一種だと逃げているけれど、

という記述が目に留まりました。
ほとんど同じ考え方のように思います。
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この回答へのお礼

何と何が「ほとんど同じ」なのでしょうか。

お礼日時:2019/08/18 09:15

適切な質問をありがとうございます。



>>あげていただいたたくさんの例文の中で、ハをノにかえられるのは
アメリカはニューヨークのマンハッタンに来ております。
 だけだと思いますが、ほかにもありますか?

「は」を「の」に換えるということは、対象の捉え方が異なり、意味が異なるということです。

格助詞「の」は所属・所有の関係認識を表わし、対象がそのような関係にあれば換えても意味が成立すると云うことで、意味が同じということではありません。

浅草は東京に所属し、この関係を表わすのであれば、「東京の浅草」という表現が意味を持ちます。

その他、「AはB」のAとBがそのような関係にあれば、「の」に換えることができますが意味が異なります。

物体【は】力によって→物体【の】力によって
天皇【は】、日本国→天皇【の】日本国

また、

象【は】鼻が長い。 → 象【の】鼻が長い。

のようになります。「この象【は】鼻が長い。」の「は」特殊性の認識を表わし、「が」は個別性の認識を表わすもので、対象はまずその特殊性において、さらに特殊性の側面の個別性において、二重に捉えられながら一つの文に統一して表現され、立体的な認識が「は」と「が」の使い分けで区別し示されています。

水を飲みたい。
水が飲みたい。

もまた、対象の捉え方が異なり意味が異なります。同じであるのは、対象自体の在り方です。

係助詞、副助詞「は」の普遍と特殊の判断と、否定判断は全く異なる判断なので、「ハの後ろは否定形になりやすい傾向」など全く無いことになります。■
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この回答へのお礼

>「は」を「の」に換えるということは、対象の捉え方が異なり、意味が異なる
 当然でしょう。
 フツー文なら「ハ」を「ノ」んいかえることはできません。だから質問しているのです。
 No.7とNo.9の回答の大半は、何度も目にしている毎度の主張で、本題と無関係なのでは。

お礼日時:2019/08/18 09:19

No.7回答者アスナロウさんの回答は、面白かったです。

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No.5回答者hakobuluさんの回答も、まあ自然だなと感じました。 

私は、つぎのように感じました。
① 東京は浅草にやってまいりました
② 東京の浅草にやってまいりました

②は「浅草」という名で場所を想起出来ないヒトのための補足説明として「東京の」という修飾・形容・限定をしているのでしょう。
①は「東京に来ました、そんで、なんと浅草に来ました」という感じが私はします。「東京は浅草にやってまいりました」「東京は原宿にやってまいりました」「奈良は斑鳩にやってきました」などはいいのですが、「東京は町田にやって参りました」「東京は虎ノ門にやってまいりました」「奈良は五條にやってきました」と言われると、私は「ええ?」と感じます。 「東京の町田にやって参りました」「東京の虎ノ門にやってまいりました」「奈良の五條にやってきました」ならば、「ああ、そうですか」と単純に理解します。

私のみた辞書にも「地名に関して、それを含むさらに広い地域を先に提示する特殊な用法」という記載がありますが、私の感じでは、「説明目的にする地名をあえて二番手に表明し、別のイメージを想起する可能性のあるより広域の地名を一番手に表明する修辞技法」ではないかと思います。 二番手に挙げる説明目的の地名を聞いた人が、説明者と同じようなイメージを想起出来ない場合には、修辞技法が無効になって、ただ単に「(広域地名A)の(中の一部である狭域地名a)」というように受け取られてしまうだけだろうと思います。

浅草という名前を聞いただけで、観音参り、仲見世通り、雷門の大きな提灯、人形焼、近くのスカイツリーなどのいくつかを頭に浮かべる聞き手なのだという大前提があって、わざわざ「東京は浅草に」という修辞が効いてくるのだろうと思います。 「東京の浅草に」は、浅草がどこにあるのかも知らないかもしれない聞き手が多いだろうという前提で語られる言い方だと思います。 
例えば、「東京にやってきました」「ロンドンにやってきました」「香港にやってきました」などでテレビ番組の中で紹介を始めたって問題はないようなケースでも、「東京は秋葉原にやってきました」(中国人向け番組か?AKB好き番組か)「ロンドンはキングス・クロス・セント・パンクラス駅にやってきました」「香港はシンフォニー・オブ・ライツにやってきました」となると、聞く人、テレビを見る人によっては、効果がでます。 「東京の秋葉原にやってきました」「ロンドンのキングス・クロス・セント・パンクラス駅にやってきました」「香港のシンフォニー・オブ・ライツを見にやってきました」では、ただの説明文でしかないと思います。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
 
>「東京に来ました、そんで、なんと浅草に来ました」という感じ
 ということは、どちらかと言うと「浅草」を強調しているのでしょうか。

>私のみた辞書
 せっかく辞書から引用するのなら、辞書名の記載をお願いします。
 No.4のかたが引用している『日本国語大辞典』ですね。

>「東京の浅草に」は、浅草がどこにあるのかも知らないかもしれない聞き手が多いだろうという前提で語られる言い方
 このあたりが微妙です。
 No.4のかたへのお礼のリンク先からひきます。
===========引用開始
2)知名度の低い場所で、「~のどこかと言えばの〈ハ〉」を使えるか

(略)

「東京ハ銀座」と「東京・銀座」の共通点は、「ハ」や「・」の前後に来るのがソコソコ有名な地名であること。「ソコソコ」がどの程度か、という線引きはむずかしい。『朝日新聞の用語の手びき』は「全国的に有名な地名」なんて書いているが、何を基準にするのだろう。  
===========引用終了

お礼日時:2019/08/18 09:30

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