「は」「が」論が、直近にも提起されていますが、何ら論理的な根拠もなく、個別の文としての意味が並べられているのが現状です。
その典型が、野田 尚史『「は」と「が」 (新日本語文法選;書 (1)』(くろしお出版 ; 1996/11/1)
http://www.9640.jp/book_view/?128
です。
なぜ、このような形式論/現象論が展開されるのかについて、下記に纏めましたので、是非参照いただき、ご意見を伺えれば幸いです。
ポイントは、助詞である「は」「が」の助詞とは何かが明かにされていないことです。
つまり、本質論が欠けています。
「言語学コミュの「は」「が」論の前提 : 何が欠けているのか。」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9085 …
■
A 回答 (13件中1~10件)
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No.13
- 回答日時:
★ (№12お礼欄) われわれには常識的に良心とよばれているところの
精神活動があって、さまざまな機会に心の中で「かくせよ」「かくすべから
ず」と命令してくるのを経験している。
☆ それも 筋が違う。
良心は まづヤマシサ反応として・あるいは恥ぢの意識として はたらくの
です。定言命法のごとく 当為論をぶつことはありません。
自然本性に背くことを思い続けてみたり さらにそのことを実行しようかと
思うときには 胸の動悸がはげしくなります。顔を赤らめたり 冷や汗が出
たりとなります。
そして いやぁ これは恥づかしいという感覚をおぼえる。
良心は 規範っぽくないゆえに はたらくのです。
★ ・・・これは認識の受けとる一つの社会的性格であり、われわれが社会
的な関係で規定されながらもさらに社会的な関係を発展させるためにつくり
出す、意志の特殊な形態である。
☆ 自然本性の《自然性》を忘れてしまったあたまの中に作り上げられる観
念論です。
★ 規範にはさまざまな形態があるが、誰でも毎日のようにつくり出してい
る約束と称するものもその一つである。
☆ いいえ。約束も 自主性・主体性の問題です。意志自由の自由の問題で
す。規範から最も遠いところで はたらくものです。
それを あくまで規範だと規定していること:
★ は、その人間の能力に、ひいてはその人間の現実の認識いかんに規定さ
れているものとして考えなければならなくなってくる。
☆ でしょう。
★ この、日常生活に欠くことのできない、実践的に非常に重要な役割を果
している約束といわれる認識
☆ いいえ。認識ではなく 意志行為です。いわゆる実存です。
★ それは約束が意志の一つの形態であって、意志の自由という難題がここ
にもつきまとってくるからである。
☆ 先にそう言いなさい。
>心の中で「かくせよ」「かくすべからず」と命令してくるのを
規範と呼ぶのですが。
>これは恥づかしいという感覚をおぼえる。良心は 規範っぽくないゆえに はたらくのです。
「ぽい」「ぽく」ではなく、心の中で「かくせよ」「かくすべからず」と命令してくるのを規範と呼びます。
>自然本性の《自然性》
こりゃあなんですか。絶対精神の一変形ですか?
>意志行為です。
こう‐い【行為】カウヰ
①おこない。しわざ。広義では、【人間のあらゆる動作】を指し、狭義では、明らかな目的観念または動機を有し、思慮・選択・決心を経て意識的に行われる意志的動作で、善悪の判断の対象となるもの。
ですが大丈夫ですか。
>いわゆる実存
なんでしょうか。
>意志の自由という難題
については、先の、
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?tag=%E8%AA%8D% …
の続きを参照下さい。■
No.12
- 回答日時:
▲ (シカゴ・ブルース :言語規範) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-category-8 …
(あ) 言語規範は法律や掟のような「固い」規範ではなく 道徳のような「柔ら
かい」規範である。
☆ 《道徳》は いまでこそ無いもひとしいものですが 学問としては《倫理学》
があるように 理論の中に一定の理論として捉えられています。
ということは 《やわらかい・硬い(固い)》の問題とは別であり 理念つま
り理想概念をも視野に入れているからには 当為論にまでも及ぶことがありま
す。
いづれにしましても 《道徳のような「柔らかい」規範》という表現は その
意味が取りにくいと言っておきます。
そして 文法を《規範》という術語でよぶことも かんばしくない。という批判
を ここで 予定しています。
(い) つまり言語規範は法律や掟とは異なってそれを守らなかったらといって罰せ
られるようなものではない。
☆ 法律や掟は 《処罰が 目的ではない》でしょう。歴史的な経過がどうであれ
そのことは すでにたとえ理念としてであっても 視野に持ちつつ推論をはこば
なくてはならない。
だから 文法を初めから《規範》という用語で規定したことが おかしかったの
だ。となりましょう。
(う) しかし言語規範に従わない表現では他の人間との意思疎通に不都合が生じる。
☆ そんなことはありません。たとえ稀なケースだとしても 文法というものは
進化することで おのづから成り立っているものなのです。いわゆる破格の事態
が自由に現われる自然史過程そのものだと見られましょう。
つまり 文法という規則から見て《不都合が生じる》ことは 何の問題でもない
のです。
文法規則をきびしく遵守する表現であっても 《意思疎通にさしさわりのある》
ケースは いくらでもあるぢゃないですか。
(え) 規範に従うことが意思疎通という目的にかなうわけである。
☆ そういう事態やそういう事態を単純によろこぶ思考のあり方は およそ生産性
ないしものごとの建設的な努力に欠けることが おそれられます。
(お) だからこそ人は何の抵抗も感じずに進んで言語規範に従うのである。
☆ そういうボンクラあたまだけの話でしょう。
(か) 言語表現をする際に従うべき約束事である言語規範は、ある一定の社会集団
に属する人々が互いの意思疎通のためにいわば自然成長的に創り出したものであるか
ら人々が積極的に言語規範に従うのは当然といえば当然のことである。
☆ コインの裏側だけのお話です。(う)に対するコメントのごとく 《従わない》
ことによる進化の側面をも ひとしく捉え評価したが よいでしょう。
(き) 言語規範に限らず規範というものはある特定の社会における共通の了解つま
り約束ごとや契約である。
☆ 自然史過程を言うのなら 《ナラハシ》というのが ふさわしいでしょう。
(く) 契約や約束は守られるべきことがらであり、
☆ こういう視点から自由になることが 大事なんです。
(け) 社会の構成員がきちんと認識できるように文書化されていることも多い。
☆ それは 大したことではありません。文書化されていなくても よき伝統とし
てのナラハシは おのづから守られていくでしょう。
(こ) しかし文書化された法律書や契約書、文法書などは規範そのものではない。
☆ 何を言おうとしているのだろう?
(さ) 規範は共通の了解なのであり、
☆ 規範は 科学性のあるものとして認められたものです。ナラハシは 社会の
あゆみとしてのごとく成り 成り立っていくものです。
(し) ある社会の構成員のあいだで共有されている認識(規範意識)なのである。
☆ 規則であるとは みとめられ共有されていましょう。よき伝統としてのもの
もあれば これこれは 窮屈な決まりだ なかなか修正されていかないなぁと
思われているものもあるでしょう。
(す) 分かりやすい言葉でいえば言語規範のような「柔らかい」規範は常識つま
り common sense(共通の意識・認識)に属するものなのである。
☆ ナラハシが よきナラハシとして・それゆえよき規則として認められたもの
は まづ共同主観(センスス・コムニス)と成りましょう。それゆえ 常識と
もされます。《規範》は ほとんど関係ないと考えられます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
早速の応答を有難うございます。
>文法を《規範》という術語でよぶことも かんばしくない。という批判をここで予定しています。
だちかんは!
《規範》という術語の内容が全く理解されていませんね。
>まづ共同主観(センスス・コムニス)と成りましょう。
ラネカーやトマセロ、廣松渉などのジャーゴンですね。
科学的認識論もなしに、哲学的発想の行き着く成れの果てです。
われわれには常識的に良心とよばれているところの精神活動があって、さまざまな機会に心の中で「かくせよ」「かくすべからず」と命令してくるのを経験している。心の中から出てくる命令であるから、現実の世界とはまったく別のところに由来するようにも思われるし、現に哲学者たちはこれを経験を超えた「価値の世界」から出てくるものだなどと説明している。このような心の中から自分自身になされる命令を規範とよぶのであるが、先験的だとか別世界だとかいう観念論的な解釈はすこしも必要ではない。これは認識の受けとる一つの社会的性格であり、われわれが社会的な関係で規定されながらもさらに社会的な関係を発展させるためにつくり出す、意志の特殊な形態である。
規範にはさまざまな形態があるが、誰でも毎日のようにつくり出している約束と称するものもその一つである。約束を守るとかそむくとかいうことは、時には生活のありかたを大きく変えてしまう。約束を立てるとか実行するとかいう問題は、その人間の能力に、ひいてはその人間の現実の認識いかんに規定されているものとして考えなければならなくなってくる。この、日常生活に欠くことのできない、実践的に非常に重要な役割を果している約束といわれる認識を、理論的に正しく解明した書物はどこをさがしても見当たらない。それは約束が意志の一つの形態であって、意志の自由という難題がここにもつきまとってくるからである。/
(三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』 p.149 )
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?tag=%E8%AA%8D% …
■
No.11
- 回答日時:
★ (№10お礼欄) でも、言語がラングではないこと位は理解
していますよね。
☆ だれが ソシュール派だと言ったんですか。
若いときに ナゾの音韻を予想して当たったようです。
統語論などについては 妥当なことを言っているようです。
例の言語記号の恣意性の説については 全面的に反対です。
ラングやパロルといった捉え方には 大した意味はありません。
>ラングやパロルといった捉え方には 大した意味はありません。
と、いうことはソシュール以前ということですね。
それでは、科学的な言語論など望むべくもありません。
ソシュールパパラダイムの超克が必要です。■
No.9
- 回答日時:
★ (№8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>▼ 矛盾が無く静的で完成したもの
☆ いわゆるお花畑史観ですな。
そうです。
その固定的な形而上学的認識の限界、誤りを正したのが唯物弁証法による科
学的世界観です。■
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ マルクシストなんですか?
〇 唯物論
☆ は 形而上学ですよ。神学です。そして 唯心論と同じことです。
神を――普遍神を――《有る神》と受け取るか 《無い神》としてしりぞけ
るか(こばむという意志行為において 絶対性なる神を受け容れている)か
の違いです。
弁証法なる過程――大きくは自然史過程――は ふつうの歴史観だと見てい
ます。
その――超自然かつ超経験の場ないしチカラを想定したそのナゾの何ものか
のもとにおける――経験世界の事象は けっきょく対立物が互いに互いを揚
棄してすすむ過程だとなるはずです。
ただし 天国を目指すという神学的史観は 何も語っていない――でしょう。
▲ あたらしい天とあたらしい地
☆ に到るというのは いま・ここなるわれの問題なんです。
《永遠なる現在》といった座標にある〔おそらく〕実存志向が 無難なふつ
うの思想なのだと考えます。
理想社会の実現したあかつきには・・・という翌檜指向は 何も語らないの
です。
早速の応答をありがとうございます。
>唯物論
☆ は 形而上学ですよ。神学です。そして 唯心論と同じことです。
唯物弁証法に基づく科学的世界観です。
スターリン,レーニンによる似非マルクス主義ではありません。
三浦つとむ『レーニンから疑え』(芳賀書店;1970)を参照下さい。■
No.8
- 回答日時:
№7です。
▲ 形而上学的視点
☆ とは 回答№2で取り上げた次の所論におけるものです。
▼ 池原悟:自然言語処理研究の考え方
☆ わたしは 次のように回答しています。
☆☆ (回答№2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
E
▼ (2)形而上学的認識
形而上学的認識によれば、世界は矛盾が無く静的で完成したものとして捉
えられる。
☆ 何のこっちゃ? 《矛盾がない》? 《静的》でも動的でもあるのと
ちゃうの?
それとも 《形而上学》というのは 《神論》であって 言わば神の目か
ら見たらという意味なのかいな?
けれども そんな見方は 人間のただの・神〔の心?〕についての忖度に
過ぎない。
それにしても:
▼ 完成した世界では一切の矛盾はなく、従って変化することは無い。
☆ なんて説は 初めて聞きましたよ。へっへっ。
つまり 神であるならその絶対性の視点〔があればの話ですが〕にあって
は 相対性の世界において繰り広げられる社会生活のいとなみ・つまり人
間の歴史過程における矛盾も またそれを人間がその知恵で〔ながら〕解
決に向けて努めるということ これらのすべてを包摂していることでしょ
う。
▼ 矛盾が無く静的で完成したもの
☆ いわゆるお花畑史観ですな。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この議論にかみ合わせてください。
早速の応答をありがとうございます。
>▼ 矛盾が無く静的で完成したもの
☆ いわゆるお花畑史観ですな。
そうです。
その固定的な形而上学的認識の限界、誤りを正したのが唯物弁証法による科学的世界観です。■
No.7
- 回答日時:
◆ hakobulu氏:【Q:「が」と「は」の違いについてーその8 番外編】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11275874.html
☆ へ投稿なさったところの:
★ その回答№13
☆ は いま問題にしているところの:
▲ 形而上学的視点
☆ とは基本的に食い違っています。
ふつうの哲学のひとつの視点でしょう。
早速の応答を有難うございます。
>▲ 形而上学的視点
☆ とは基本的に食い違っています。
当然です。
形而上学的視点の誤りを正した、唯物弁証法という科学的世界観に依拠しているということです。
「自然言語処理研究の考え方」が、
http://unicorn.ike.tottori-u.ac.jp/ikehara/paper …
◆従来の研究が形而上学的限界をもつこと、そしてそれを超える認識が言語の過程的構造に目を向けることである
◆(1)科学的認識
科学的認識の原則は、対立相互浸透の原則、量質転化の原則、二重否定の原則の3つの原則にまとめられる。これらの原則から自然に対する認識として、「自然は過程の複合体であり、矛盾の複合体である」とする科学的世界観が導かれる。
と述べているのを見落とされたのでしょうか。
>ふつうの哲学のひとつの視点でしょう。
「自然は過程の複合体であり、矛盾の複合体である」とする「ふつうの哲学」とは全く異なる科学的世界観です。
なを、哲学の終焉については、エンゲルス『フォイエルバッハ論』の「弁証法的唯物論と史的唯
物論」、『反デューリング論』他を参照下さい。
『フォイエルバッハ論』では、
今日では、自然哲学というものは最終的に片づけられてしまったのである。それを復活させようとするあらゆる企ては、たんに無用であるばかりか、【退歩】である。
と述べています。
「この問題点について エンゲルスが引き合いに出されるとは おどろきです。」などと寝ぼけたことを言っているようでは、
学問をする気があるんですか? ないんですか?
あすではなく きょう・いま成ってください。
と云わなければなりません。
無智が栄えたためしはありません。■
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