アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

以下の文章を読んで、何ゆうとんか分からんわ、と思った方はスルーして下さい。

一(いち)は何処にあるかを考えると、"世界は一つ"、とか、"たった一人の"、とか、極端に離れた二つのものが、一のものとして思い浮かびました。
前者はとても大きく、全体を包むものとしての一で、これは遍在に近いように思われます。「ギスギスするなよ、同じ人間じゃないか。」みたいな台詞を言うときに想起されるものに似てるだろうか?
後者は、唯一無二の、かけがけのないものであり、小さく、知れたものかも知れないが、他との絶対的な差異性を強調したもので、「お前しか居ないんだ。」みたいな台詞を言うときに想起されるものに近いだろうか。

で、人間って往々にして後者であることを望んでいる様に思いますが、前者の方が理想として語られることも少なくありません。

故郷はかけがえのないものだから、他の街では代わりにならない。故郷が傷付くと自分の心もひどく痛む。それ故に、他者の故郷を思う気持ちも推し量られ、共感し、他者の故郷も大事に思えるようになる。こう言う繋がりが真の、一つの世界を生むのであって、単に大きなものとしての世界は一つ、と理想を語るのは実は風船のように膨らんだだけで中身の無い考えなのでは無いか?と私には思われました。確かに私も若い頃は、地球市民と言う言葉に感化されましたが、実は(通り一遍の)普遍性ではなく、固有性こそが一つの世界に近いのでは無いかと今は思います。
一にまつわって、この様な事をつらつらと考えたのですが、皆さんは、

「一は何処にあるか?」

と考えたなら、何処にあると思われますか?
私の場合は、最も身近な他者とか、自分自身と言うものを想起しました。

質問者からの補足コメント

  • 皆様へ。
    ご回答ありがとうございます。お返事は水曜日くらいになると思います。ご回答、有意義に読ませていただいております。どうぞよろしくお願いします。

      補足日時:2019/10/19 23:45
  • ・普遍性と環境問題
    もし世界に形が無ければ流転する事すらないわけで、その形の生まれるワケ、自発的に生じる何か、そこらへんが、普遍性を持っているのかなとも考えたりします。
    アメリカも中国も、途上国時代だったかつての日本も、大量消費することで経済を拡大したので、そのツケを自然生態環境の破壊という形で表現してしまった。タンザニアは知りませんが、ギリシャは古代ギリシャ時代に森林を伐採しつくしたと聞きますし、ニュージーランドも大規模畜産で、自然環境を破壊しています。とかく、文明人は人間の本来あるべき生きる姿、自然の掟に逆らうことを旨としているようで、その原動力は生存に対する怒りであるように思います。自然は過酷なものですから、人間は原始時代よりずいぶんひどい目に合わされてきている。それについての行き場のない怒りと、冷静な分析が、今の文明の冷たい力の源なのではないでしょうか。

    No.32の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/10/22 15:45
  • NO.32 補足その2
    ・輪とアジアとアメリカと
    大人に成った日本人は、輪を守るのであって輪に守られているという感覚はあまり持たないのではないかと最近感じています。
    アメリカにおいては、アジア人というのはマイノリティに含まれるのでしょうか?私のアメリカのイメージは、白人というよりもむしろ黒人であり、チャイナタウンやメキシコ移民であり、インド人の活躍するシリコンバレーであり、左よりの白人という感じです。このような認識がある故に、右の白人が今憤っているのでしょう。アメリカを作ってきたのは俺たちだ!という尊厳を訴えているのだと。

      補足日時:2019/10/22 15:46
  • NO.32 補足その3

    私は日本育ち日本生まれですが、大陸的な人間と言われることもよく有ります。振る舞いがガイジンっぽいのだそうです。つまり、公共意識が低いという事です。町中を流れる川に、夏、寝転んだりしていました。夜の川辺でギターを弾いたり。よく言えば自由、悪く言えば自分勝手。日本人にはなかなか成れないです。外国旅行に行けば、言葉はあまり通じなくなりますが、安心します。それでも最近、日本人の良さを理解してきているんですよ。やさしいんですよね。一言で言うと。本物の日本人に成った人は。国とは、どの国もそうですが、そういう人たちが築いてきたものだと思っています。

      補足日時:2019/10/22 15:46
  • お礼文章末、

    位置・・・これは、位置(場所)という意味です。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/10/23 00:10

A 回答 (40件中1~10件)

私は単純なので、「一(いち)」、「ひとつ」と言う表現は、


「二、三、四、・・・」と言う数的発展を否定した概念のように
思います。

単純に「二つとない(唯一無二)」と言う意味合いを含ませた
表現のように思います。

そう言う概念は、「何を1つの塊として捉えるか?」であって、
結局は、「その個性の頭に中にある。」と感じます。

詰まり、そのものの大きさは関係無くて、その個性がその個、又は集合を
概念として「一つの塊と捉える。」(二つと無いものとして捉える。)だけの
事だと思います。

ですから、「一は何処にあるか?」と考えれば、
「その個性の頭に中にある。」と答えたくなります。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

その通りで、2.3.4...と言った数的なものでは無い一を想定しております。ありがとうございます。

で、、ふむ、塊ですか。そしてそれは頭の中の概念であると。イメージ。
案外そう言った単純な話かも知れません。意識的にせよ無意識的にせよ、それを一つの塊と捉え、固有性を認めた、自世界において固有性を与えた、と言う感じでしょうか。

ただこの判断をすると、汎なるもの、塊では無いものについてを一と呼ぶときに、困る気もします。
塊は自分が外部にあって、対象を捉えられますが、自分を内部に包含する汎なるものについては、塊感が捉えられないように思いました。
大変参考になるご回答でした。塊と言う表現が分かりやすかったです。

お礼日時:2019/10/18 13:30

通り一遍の普遍性ではなく、固有性こそが一つの世界の“基礎”となるのだと思います。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうですね。私も今回の徒然に思ったことの中で、同感に思います。人々が大事にしているものは何か?というような事が起点になっていると思います。

お礼日時:2019/10/23 19:01

人の心にある愛は、神・仏の博愛・慈悲心のお裾分け、だと思っています。



質問文に、故郷を思う心情から他者への思いやりに触れているので、先の回答?になりました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ふむ。
神仏とは、人々の思いやりの集合、のようなものという事でしょうか。

お礼日時:2019/10/23 17:53

基本的な考え方という意味での哲学とは、それが無意識的であっても人々に


受け入れられている場合、現実社会に大きな影響を及ぼすものであるという
ことを言いたかったと思ってください。

西部さんの亡くなる直前の動画をたまたま見つけたんですけれど、やはり
「こんな国で生きていたくない」と言っていましたね。
それで、様々な分野で「誤読」が多い、とも言っていました。大納得。

あまり、観念的な話は興味がなくなってきています、失礼しました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうでしたか。
dynさんの言う分かったつもり、深く考えたつもりになる、と言うのは私にも当てはまる事があると思っています。
現代は知識と一般大衆の認識との間の乖離が大きいのは事実で、それは未来になればなるほど大きくなると考えられます。
知識が、それぞれの分野における専門職達によって積み上げられるスピードが増しており、人工知能などの開発によって更にそのスピードは増すであろうからです。人類が獲得する知識は増えるが、それを知る人は限られるということです。誤読は、西部さんの言うような世相によって起きているのではく、時代と文明の加速によって生じているギャップによって起こっているのだと私は思います。それで、分かった気にならない事は、誤ちの少ない思索を進めるためには必要な事であると言えるでしょう。

お礼日時:2019/10/23 17:36

★ (№33お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


・・・
調和や調整と見るのか、
過酷な自然闘争と見るのか、

現実存在の人間としては後者と見えるのが自然かと思います。

理性的に見れば、観察者の眼で見れば、調和と見えるのかもしれませ
ん。

つまり理性的なものはむしろ妥当性からは離れており、当事者の不在
から導き出された観測結果に過ぎないかも知れない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆☆ (A№33) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〔理性的なるものが 歴史過程において 現実的なるものと時間的な
ズレをともなって一致するという意味内容における〕多様性の調和。

・・・
* きれいごと論ではないと思うんですけれど。

反感勢力が 共感層を自分たちの陣営に引き入れたなら アジャパ
ーとなります。言ってみれば つねにクリティカルな問題と情況な
のだとは思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    • good
    • 0

アダムスミスの「神の手」についてのある記事を引用します。



〘たとえひとりひとりの行動が利己的な動機によるものであっても、それが無数に集積されると、個々人の意図とはまったく関係なく、社会全体の利益となる。スミスが『国富論』 (1776年)で説いたこの理論は、その後ひとり歩きするようになり、今では市場経済システム全体が「神の見えざる手」によってコントロールされているという、いわば途方もないスミス解釈が主流になった。〙

ここでの指摘は、時代を否定する力強さと鋭さがあると思います。

「一→∞」と仰ることの私の解釈では、個々人の意志が「神」になってしまう可能性があると
いうことになります。

これは、「ホモデウス」での憂慮であり、多くの現代文明の危機を訴える人たちの最大に問題
にする点ではないかと思います。私もそうです。

それは、キリスト教とそこから連なる西洋哲学の「誤読」からの流れではないかと見当をつけ
ています。
正確には、聖書の哲学も、カントなどの哲学もまだまだ理解してはいませんので、「見当をつ
ける」くらいしか言えないわけです。まあ、理屈を作ろうと思えばできないことではないと思
いますがw

「∞→一」ならば、人間は支配されてしまう。

だから、「一=∞」がよかろう、と。ただし、このことの理解は難しいでしょう。
「一」とは何かが難しいからです。

d_y_nさんとは、相性が悪いようです。おそらく似ているところがあるからでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

皆さま、少しお礼順、前後します。
いや、dynさんの様に多くを語らないようにし過ぎたでしょうか。

無 → 一 → ∞ と記した内で、個々人の意志は無数(∞)の中の一つ、という意味です。例えば現在過去未来に及ぶ人の数を意味する∞であったりします。では一とは何か?語弊を恐れずに言えば、これは、分別によって認識される前の完全な世界という事になるでしょうか。

ともすれば大変に稚拙でしかも分かり難い話をすることになるのかもしれませんが、
何も無い立場から、まず第一に他を認識することで自らが認識され、次に自らを認識することで、無数の他者を認識する、と言う順序があるのではないかという意味で、0→1→∞という順序を提示させていただきました。

うーむ、説明が難しい。削ぎ落しすぎたかw

お礼日時:2019/10/23 00:09

一とは、人間が創り出した概念です。


言わば、人間の過去の対象物を有と判断したことによる、認識によるものです。

その認識の根源は何か?と考えるならば、
人間の存在そのものから来ています。
人間は自分一人の存在が有であることは、アプリオリな事として認識します。
自分を世界に投影すならば、世界は一つとなります。(自分の認識=世界は個々の集合)
自分に留めるならば、唯一無二のとなります。(自分の認識=他人、対象物)

この世界は空(有、無)からなっているので、本当は諸行無常なのです。
常に変化している世界で、自分の存在だけは有と認識できるのかも知れませんね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

なるほど、私の考えとは順序が逆ですね。
私の考えでは、アプリオリに近い場所で認識されるのは、まず他存在(人に限らず。世界。)です。その後に、自分の存在を認識するのではないかと思われました。そしてその後に、自他の多様な関係性が生まれるのではないかと(これはあくまで一つの考えであり、主張ではありません)
何故かと言うと、観測者が観測地点自身を観測するには、他存在によって自己を反射的に知るのが方法ではないかと思われたからです。従って、他者から跳ね返ってきたなんらかのリアクションこそが自分存在の姿の素要素になり、その集合が自分なのではないかと。(他の方法としては内側という概念を用いますが、内側を規定した時点で外側(他存在)が前提となります。)

自分を世界に投影するから、世界は無数となり、
投影しなければ、世界は一つという事になるのではないか。

この世界が無常であるならば、、、うーむ。難しい。
世界が流転する中で自分存在だけは変わらず有るのか?
私には、世界が流転する中だからこそ、自らもまた間違いなく流転しているであろうと思われるのです。何かを認識するというその事態さえも、容易ではないが動揺することがあると。

ありがとうございます。ご意見が聴けて良かったです。

お礼日時:2019/10/23 00:23

キサラギさんにとっての「一」はひとり、ひとりの心の内にある愛、ではないでしょうか?



愛は大きな「一」と繋がっています。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

愛ですか。
愛とは何か、という話で、これがアガペーや博愛ということになると、汎一的な存在に接近すると思われます。
一人一人の心に内在する愛が何かと考えると、それは一種、魂の充足のようなもので、汎一的な存在(人類全体)に対する愛という事になる。
のかな?

お礼日時:2019/10/23 00:26

№9に継いで もう一言です。

(ふたこと・みことです)。


★ (№9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
決定的な自他の差異と、多様性による個性の現出と、汎なるものと
しての一と。

中々、理路立てるのが難しい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《汎なるものとしての一》は 理論または理念(理想概念)の
問題だと思います。

例の《理性的なるものは 現実的であり 現実的なものは 理性的
である》という命題です。


言いかえると 《決定的な自他の差異と、多様性による個性の現出》
が 現実であり 《汎なるものとしての一》は 理性的なものだと
見ます。


つまり 両者が一致するのは 時間のずれをともなってであり 一
致するには 歴史過程が――人びとそれぞれの意志行為とそして世
の中は思うようにはならないという社会総体の自然史過程(成り行
き)において―― 必要だという見方です。





では 多様性の調和とは どういうことか?

単純に次のように捉えます。

社会が 考え方において次のような分布をしていることを目安とす
るものです。

同感と共感(一時的な同感つまり浮動層)と反感とに 三分されて
いるといった情況のことです。


民主制といったおおきな基本となる思想についても そして一つひ
とつ具体的な政策課題についても 大雑把な原則としてですが 三
つの見解に分かれている。ということです。

妥当性がある(汎なるもの)と思われる思想や政策が 同感陣営と
して主導するという社会 これがのぞましいものでしょう。

これが 多様性の調和だと考えます。





《一》は 多様性の調和という歴史の――大きくは社会的自然史と
しての――過程をあゆむ人それぞれの自由意志にあり。と考えます。




* きれいごと論ではないと思うんですけれど。

反感勢力が 共感層を自分たちの陣営に引き入れたなら アジャパ
ーとなります。言ってみれば つねにクリティカルな問題と情況な
のだとは思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ふむ、現実と理性ですか。整理するに良い着眼点だと思いました。スッキリしますね。
同感と共感と反感、これは、まったく同意、理解を示す、難色を示すという感じに解釈しました。

多様性の調波というのは、遠目に見た時にあくまで景色として調和するのであって、仔細をみれば、非常に過酷で活発な自然の生態システムの活動が見られるわけです。例えば、ジャガーがワニを捕食したりすることを、調和や調整と見るのか、過酷な自然闘争と見るのか、現実存在の人間としては後者と見えるのが自然かと思います。理性的に見れば、観察者の眼で見れば、調和と見えるのかもしれません。

つまり理性的なものはむしろ妥当性からは離れており、当事者の不在から導き出された観測結果に過ぎないかも知れない。

お礼日時:2019/10/23 00:34

世界が○○する日本の○○。

というのを、思い出しました。日本は、良くも悪くも、ひとつの輪の中にいるように、外側からは見えます。そして、その構成員として、空気を読んで生きてゆかなくてはならない。

社会通念と、個人の利害がぶつかった時に、社会通念を優先させるのが、日本人でした。最近は、変わってきたでしょうか。

だから、韓国や台湾を併合したときに、その国独自の言葉を取り上げ、日本語教育したことを、軽く考えているように思います。”日本の一部になったんだから、当たり前だよね”みたいな。でも、先祖代々話してきた言葉を取り上げられた人々の心には、深いトラウマが残りました。

私が若いころ、何人かの、台湾のお年寄りが、”私は、日本語を小学生の時に習ったんですよ。今でも話せますよ”とおっしゃったときの、皮肉で、やりきれないような笑顔を忘れられません。日本人の大切にする、”輪”を外された人々の悲惨な思い出です。

私は、普遍性というのは、物理の教科書と、人間の脳の中にしか存在しないと思っています。現実社会は、どこを見回しても、有為転変、諸行無常です。世界が一つというときに考えられるのは、地球温暖化やプラスチックごみ問題ですが、それは、米国や中国をはじめとした、先進国に責任があるのであって、例えば、ニュージーランドやタンザニアやギリシアのような国から見たら、世界は一つだから、環境汚染の責任をとれ、というのは、言いがかりにしか聞こえないんじゃないでしょうか。

私自身の”一”は、自分の属性なんでしょう。

たくさんの人種がまじりあって、経済的に恵まれた、しかも、貧富の差の激甚な米国という国に住んでいるので、日本とは対照的に、”輪に守られて生きている”感覚がないです。アメリカに住んで、白人と結婚しているけれど、自分自身はアジア人である、という、特異性が、私の第一歩であるように感じます。

日本語は話すけれど、アジア人であって、もはや日本人ではないような、そんな感覚があります。

ご参考まで。
この回答への補足あり
    • good
    • 2
この回答へのお礼

いや、今も個人よりも全体(他)を優先するのが日本流ですね。しかしそれを幸せと感じる日本人は減っているようです。他人のしあわせを願う、他人を幸せにしたい、他の人のしあわせを喜べない人が増えたという事だと思います。小泉時代に、労働市場の解放という名目で安遣い人材を大量に増やしたことで、社会への信頼が大きく損なわれてしまったせいだと思います。
amazon.comの偽レビューを量産する中国人曰く、日本人は他人の意見で動く、自分で自分の(購買)意志を決められない。と、豪語していました。愚かな奴だと私は思いました。中国と違って、日本は社会への信頼度が段違いに高いのだという事を、この悪人は自ら暴露したのですから。中国の事を悪く思っているわけではないですが、こういう小物が中国社会だけでなく世界を五月蠅くしているんだなと思いました。

・東アジアの日本時代について。
私の見聞きした限りでは、台湾、韓国の日本時代を知るお年寄りは、日本時代を良く思っている方が多いです。特にインテリ層の話は良いものばかりです。反日感情を持っているのは、反日教育を受けた当時を知らない世代という印象が強いですね。
フィリピンもインドも、英語の通じる国ですし、ヴェトナムもアルファベットを導入していますが、フィリピン人やインド人も、当時の宗主国を恨んでいるのでしょうか?ヴェトナムなんかはアルファベットを導入したせいで国の歴史の風化が極端に進んでいるそうです。また韓国は日本に組み入れられなければソヴィエトに占領されていたと聞きます。台湾だって戦後、日本が関わっていなければ共産主義になっていたでしょう。世界のパワーバランスの中で、韓国や台湾が一時的に日本であったことを、日本人は悪いことであったかのように情報を与えられてきましたが、それは偏った見方であるのではないかとも思います。

補足に続く。

お礼日時:2019/10/22 15:44
1  2  3  4 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!