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詳説日本史には
(日蓮は)『鎌倉を中心に、他宗を激しく攻撃しながら国難の到来を予言するなどして布教を進めたため、幕府の迫害を受けたが、日蓮宗は関東の武士層や商工業者を中心に広まっていった。』
とあります。

疑問点は

①信仰によって国難が防げるということなのか。それとも国難が到来した世界においても幸せになれるように信仰すべきということなのか。

②武士層が受け入れたのはどうしてか。社会が混乱すれば武士の活躍の場が増えるのでむしろ「国難」を歓迎するようなイメージが私にはあったが実際にはそんなことはなかったのか。

です。

片方だけでも答えていただけると嬉しいです。

A 回答 (3件)

>①信仰によって国難が防げるということなのか。

それとも国難が到来した世界においても幸せになれるように信仰すべきということなのか。

 日本は、浄土教など釈迦を軽視、無視する邪教が蔓延したために、日本を守るべき神々(諸天善神)が
日本を去ってしまった。そのため、日本に天災・地異が起き戦乱がおきる。だからそのようなことをなく
すためには法華経の敵である邪宗を禁じなければならない。こういうものです。 信仰によって国難が防
げるというだけではなく、他宗教の禁圧ということも条件の中にないってます。

日蓮の書簡というのが残っていますが、この中で次のように述べています。
 
例せば父母を殺す人は何なる大善根をなせども天・是を受け給う事なし、又法華経のかたきとなる人をば 
父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となり候、設い十方三世の諸仏の怨敵なれども法華経の一句を
信じぬれば諸仏捨て給う事なし(治部房御書)

不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり・・是くの如き重戒なれども法華経の敵に成れば此れを害す
る(殺すこと)は第一の功徳と説き給うなり(秋元御書)

建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頚(首)
をゆひのはま(由比ガ浜の処刑場)にて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ(選時抄)

>②武士層が受け入れたのはどうしてか。社会が混乱すれば武士の活躍の場が増えるのでむしろ「国難」を歓迎するようなイメージが私にはあったが実際にはそんなことはなかったのか。

武士層の中でも日蓮宗は一定受け入れられました。しかし武士層がいちばん受け入たのは禅宗ですね。
日蓮宗が一番受け入れられたのは商工業者でしょう。

なぜ、そうなったのか、一番大きいのは敵(邪宗教等、法華経の敵)をはっきりさせたことでしょう。
社会的に不安な時期はYESかNOを明確にする、すなわち仮想敵がある方が気持ちがすっきりするからでしょうか。
このネットの中でも、全ての原因を仮想敵におしつけて悦にはいっている人も多いように思います。
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①法華経によって「国難は去る」といっているので、


「国難」が始まった後で、「法華経」の力で「国難」を取り除けると考えていたようです。
つまり、法華経によって「国難」を防ぐというより法華経の力で「国難」となる事項が収まると考えていたようで、
実際「元寇」の時には「国難」の予想が当たったものの、侵略まで至らなかったことで、
「元寇の国難」についてあまり触れていません。言ってみれば狙いが外れたのです
「神風思想」についても、日蓮宗は否定的です。

②日蓮宗は、武士というより商人層に受け入れられたと思います。
これは貴族層が「旧仏教」、武士層が「禅宗」、農民層が「浄土宗系」を信仰していたために
新興の「商人層」は、それまでの「如来信仰」「阿弥陀信仰」に代わるものとして
「法華経」信仰が受け入れられたものだと思います。
つまり、新しく勃興した人たちが、自分たちのの信仰を見つけたいと思って「法華経」信じただけで、
「国難」を歓迎したわけではないと思います。ただ、信者たちの多くは、身の回りに何か事件が起こると、
「国難」に結び付けてはいたようです。
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現在も言われることだが


「国民のモラルが低下し、このままではいずれ国が滅びる」
これが動機である。

鎌倉期も同じことが言われた。
いつの世も同じことは叫ばれた。
しかし鎌倉期はちょうど末法の世に突入するとされた時期でもあり、このことは一層切実であった。

「為政者はこのように仏法を実践して世を立て直せ」
「民はこのように仏法に基づく生活や生産を実践し、国力を上げよ」
つまりはそういうことなのである。

仏教を江戸期に現れた葬式仏教と混同すると真の姿は見えてこない。
仏教徒は本来「この人間社会の中でどうよりよく生きるか」という教えなのである。

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武士と言えど人間である。
戦はやはり怖い。
自分の立場と他人の目があるから言えないだけである。
信長は桶狭間の前何度も『敦盛』を舞い、必死に心を鎮めた。
茶の湯が武士の間に流行したのは、たしなみもあっただろうがそれ以上に戦で昂ぶる心を鎮めるためだった。

第一世が乱れればそれまでの社会秩序も崩壊し、自分の地位すら危うくなる。

武士でもやはり平穏の方が望ましかったのである。
ただより上に行こうと思えばどうしても誰かを蹴落とさなければならなかった、それだけの話である。
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