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デカルトがコギト命題に辿り着いた事情を説明できますか?

A 回答 (2件)

この世の中で自明なことは何でしょうか。



 私の感じている世界は、私が心の中に作り出した世界です。決して、心の外にある世界を直接に感じている訳ではありません。私の心の外に、実際に世界が広がっているか否か、私には知る術はありません。

このことを説明します。光が目に入り、網膜を刺激します。その刺激は、神経線維をインパルスとして伝わり脳に到達します。そして脳が映像を作るのです。
これは部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見せる訳ではありません。私達は、あくまでもテレビが作り出した場面を見ているだけです。

そして、部屋の中にいる限り、外の世界を直接見ることは出来ません。脳に居る私も頭蓋骨から出て、直接外の世界を見ることは出来ないのです。つまり、私は脳が作り出した映像・音・匂い・味・触感を感じているだけです。故に、私は脳が作り出した世界を感じているだけです。

ですから、私には今目が覚めているのか、或は夢を見ているのか、知る術はありません。後者であったなら、外界があるか否か判断することは出来なくなってしまいます。

 そうなると、私にとって、疑い得ない自明なことは一体何でしょうか。地球が本当にあるのでしょうか。私の妻や子は本当に居るのでしょうか。私の手は本当にあるのでしょうか。この様に疑い得るものを、本当に自明であるか否か疑うことを、方法的懐疑と言います。

 その結果、デカルトは、疑うことの出来ない自明のことを1つだけ発見しました。「我思う故に我あり。」です。疑っている自分の存在だけは疑い得ないことに気が付きました。目が覚めていようと夢を見ていようと、疑っている自分がなければこの疑いはあり得ないからです。
 それ以外のことは、本当なのかどうなのか人間には分からないのです。この様に、分からないことを分らないとすることが、「無知の知」です。

 しかし、自明のことしか信じないのであれば、それまでです。私の心は1+1=2に制約されています。心の中では、ものは消えたり生じたりします。従って、1+1=1でも、1+1=3でも構いません。しかし、物質は無から生じたり、消え去ったりすることはありません。従って、外界は1+1=2です。私の心が1+1=2であるのは、私の心の中の世界が外界に似せて作られているからです。外界に1+1=3を適用すると、誤った行動となり失敗します。私の心が1+1=2に制約されていること自体、外界の存在を示唆しています。

この様に外界では、①無から有は生じません。また、②有は無にはなりません。①が起これば1+1=3になります。また、②が起これば1+1=0になります。しかし、①も②も起こりません。ですから、1+1=2です。

私は外界の存在を信じ、それを支配する法則を研究します。

 詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/mutinoti.html
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フランス国内のあちこちの名門大学で学を修めたデカルトは、既存の学知に納得できなかった。

「本当に物事を知っているのだろうか?」と。だからこそ、既存の知に依存することはできなかった。この姿勢こそ、ユマニストの典型です。自分自身で、「本当に疑いきれない知とは何か?」問うなかで、どの知も疑わしい。疑って疑って疑いきれないのは、「疑っている自分」だけであった。「疑う自分」だけは、ここに確実に「いる」いる。「我考える、故に我あり」の発想は、ここにありますね。
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