先祖のルーツを調べているんですが、埼玉県北部(もっと広域でも構いません)の柴田氏について、何か知っている方、些細なことでも構いませんのでご教示願います。
ちなみに、先祖は藤原氏の出と聞いています。

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A 回答 (3件)

 モノの本によりますと、柴田氏はいろいろな出自があり、


 1.陸前国柴田郡より起こったものは、阿部氏の末。奥州一体の柴田氏はこの族で、「東鑑」の柴田次郎や伊達公重臣柴田氏が有名です。
 2.下野、常陸国に発生したものは、藤原秀郷の流。
 3.尾張国、三河国に広がる柴田氏は清和源氏から発生して、柴田勝家は族です。
 あなたの場合は、2とは思いますが、詳しいことはわかりません。図書館にある「姓氏家系辞書(秋田書店)」「姓氏家系大辞典(角川書店)」を参考にしてください。
 なお、HPでは、あなたの姓と同じ姓で家系に明るい柴田さんが
http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/yybbs/yybbs.cgi
に掲示板、ならびに「千葉氏の一族」という立派なHPをお持ちですので、そちらに質問すれば、かなり詳しい情報が入手できるかと思います。
(千葉氏の一族)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/index.htm

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。再度質問ですが、2の藤原秀郷っどんな人ですか?
詳細な説明等わかりましたらお教え願いたく。
また、その氏族が、どのようにして、関東に広がっていったのかわかりましたら、お教えください。

補足日時:2001/08/07 13:25
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藤原秀郷・・・俵藤太(たわらのとうた)の事です。



弓の達人でムカデ退治の伝説で有名
(弓も効かぬ大ムカデ・・最後は唾をやじりにつけて退治をする・・)

平安中期の下野(シモツケ)の豪族。左大臣魚名の子孫といわれる。
下野掾・押領使。九四○年(天慶三)平将門の乱を平らげ、功によって鎮守府将軍となります。

ちなみに,NHKの大河ドラマで平将門(加藤剛)のものがありましたが(番組名忘れました)このとき藤太はヤマさんこと露口茂が演じてました。
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柴田姓は日本で62番目に多い姓で


先祖が藤原からので出であれば藤原秀郷流であろうかと思います。

 鎮守府将軍秀郷に始まるこの流の後継は大きく千時流と千常流に分かれるます、直系は千常流の小山氏。
詳しい内容は以下のページで
http://star.endless.ne.jp/users/myj7000/clan/fcl …

参考URL:http://star.endless.ne.jp/users/myj7000/clan/fcl …
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中臣鎌足の子孫である藤原家と、義経をかくまったので有名な奥州藤原氏(三代目の藤原秀衡など)は、どういった関係なんでしょうか?

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その清衡ですが、もともとは藤原経清の息子で、
父親の死亡後に母親が再婚して清原氏に嫁いだため、
連れ後として清原氏に入った事情があります。

後三年の役で、清原氏の内紛を制した後で、
出自のために清原氏で冷遇されていたこともあり、
元々の姓である藤原を改めて名乗りました。
「藤原」と名前がつくのはこのためです。

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一番の祖先である藤原経清ですが、
これは鎌足以来の藤原氏の末裔である秀郷流藤原氏の流れを汲みます。
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その中には武家となったものもあり、
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というわけで、名前が示すと通り、
奥州藤原氏と藤原本家には一応の血縁関係があります。

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素朴な疑問なんですがファン層ってどんな方たちなんでしょう??

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Q織田信長は平氏?源氏?藤原氏?橘氏?忌部氏?

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藤原氏を中心とした物部連に連なる人です。
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そして、その剣を収め、祀ったのが熱田神宮です。
今でも熱田神宮の奥には「天叢雲剣」が御神体としてあるらしい。
このように熱田神宮は常に、尾張の物流の根幹を握っていたようです。」

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(信長が平氏を名乗ったのは知っています。)

Aベストアンサー

『織田系図』・『織田家譜』では平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とし、初めは近江国津田荘に、そして越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官へ養子となり織田氏を称したとあります。
 しかし、永正15年(1518)に守護代織田達勝が円福寺に出した禁制では「藤原達勝」とあり、信長も天文18年(1549)に出した禁札に「藤原信長」と署名しています。信長が平姓を名乗ったのはご承知の通り天下統一に向けて、源氏である足利家への抵抗からでしょう。そのため、平氏の落胤に結びつけた系図を作成したというのが妥当ですね。

 ですから織田氏は、藤原氏であり越前国丹生郡織田荘を本拠としていたというのが、通説となっています。ただ信長が途中から平と氏を変えたように、「織田は藤原氏だった」というよりも、「織田は藤原氏を名乗っていた」ぐらいに見るのが妥当ではないでしょうか。昔は地方ほど無姓の者は「藤原」を名乗って、ステータスとしていた時代もあったのですから。それが大量に藤原氏の流れを汲む一族が生まれる一因となります。

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 尾張氏(おわりうじ)は天火明命を祖神とし、本宗家は天武天皇13年(684)に姓(かばね:氏とともに朝廷より賜る称号)を連(むらじ)からより高いの宿彌(すくね)に改められます。

 熱田神宮は当初、尾張氏が奉斎していましたが、12世紀初頭からは藤原南家の熱田大宮司流が大宮司を勤めます。

『国史大辞典』吉川弘文館
『日本史諸氏諸家系図大辞典』講談社

『織田系図』・『織田家譜』では平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とし、初めは近江国津田荘に、そして越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官へ養子となり織田氏を称したとあります。
 しかし、永正15年(1518)に守護代織田達勝が円福寺に出した禁制では「藤原達勝」とあり、信長も天文18年(1549)に出した禁札に「藤原信長」と署名しています。信長が平姓を名乗ったのはご承知の通り天下統一に向けて、源氏である足利家への抵抗からでしょう。そのため、平氏の落胤に結びつけた系図を作成したというのが妥当で...続きを読む

Q柴田淳

柴田淳さんの曲で好きなものを教えて下さい。
ランキング形式ですとうれしいです。
よろしくお願い致します。

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一番すきなのは「ため息」ですね~
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Qアーティスト柴田淳。

歌手の柴田淳さんのライブDVD「SECRET」の中で「ちいさなぼくへ」
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最近聞き始めたので過去の成り行きは知りません、知っている方教えて下さい、あと柴田さんに関しての何でも情報があれば教えて下さい!!

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こんばんは。

私の周囲に知っている人があまりいないのが寂しく、つい貴方の質問を見て嬉しくなり回答してしまいますがご容赦ください。(肝心の回答がありません)
昔テレビをつけっぱなしで寝て夜中に起きた時、切々と隣の部屋を歌う彼女のアップが画面を占領していて、探すのに時間がかかりましたがシングルの写真を見てきっとこれだと買いました。

「何でも」ということなので公式HPのURLを貼っておきますがいまさらですよね。

参考URL:http://www.shibatajun.com/

Q藤原道長と奥州藤原氏?

はじめまして。ちょっと疑問があります。
奥州藤原氏は、東北らへんに住んでいたんですよね。でも、藤原道長は京都で摂政をしていたってことは、藤原一族は京都から東北地方まで移り住んだってことですか??徒歩で?!@@
それとも藤原道長と奥州藤原氏は親戚ではないんでしょうか,,,
教えてください。

Aベストアンサー

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、結構な数が藤原氏後裔を名乗っています。

理由は二つです。
1つ目は後裔を名乗っている家の独自改竄。
当時家系図といっても、あちこちに散逸している一族の家系図をすべてまとめてはいません。そういうわけで「自分たちのさかのぼれる先祖を、ここにくっつけてしまおう」というのが横行しました。
なお、架空の人物が家系図に入っているわけではないため、どこがどう改竄されたのかがわからないのです(そもそも改竄した家、つまり勝手に名乗っている家は、それより前の記録がない)。
2つ目は、藤原氏が売り渡したもの。藤原摂関家は没落して財政難となったのですが、そのため自分たちの戸籍を売り渡して、ばら撒いていたようです。
こちらもどう改竄されたのかはわからないのです。

奥州藤原氏は前者ですね。実際に本当の家系と認識されるのは清衡までです。それ以前は怪しい、というのが現状です。
でも、ある程度家系図がしっかりしていると、そうであると認められるのが世の常。奥州藤原氏もそうです。

なお、実際に藤原氏は日本中に散布しています。理由は律令官制の国主などのせいです。また、嫡男以外は別系列を作るしかないですから、子孫が別家系を作り、またその子孫が別家系を・・・という具合に、どんどん増えたのです。で、もちろん嫡男以外は中央からは遠ざかりますから、端のほうはどんどん遠ざかります。
その中には守、介を拝領してその地に赴いて、そこに土着した人もいました、中には罪人となり僻地に流された人もいました。中には敗戦したのちに落ち延びた人もいました。次男がそのまま土着した例も数多いです。
で、そういった人の実際の子孫か、それを利用して家系をくっつけた家が全国には大量にいるのです。奥州藤原氏もその一つです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/奥州藤原氏

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、...続きを読む

Q柴田淳のHPで

柴田淳のHPのなかに、
[MIKATA]とゆうのがあるのですが、その中に、仙台放送ってゆうHPがあるのですが、どこのことなんでしょうか?

また、「月と太陽」というfmラジオ番組は、西日本方面しかやってないみたいですが東日本のかたは、どうなさっているのでしょうか?

だれかしば漬けな方教えてください。

Aベストアンサー

 仙台放送とはよんで字のごとく
宮城の「仙台放送」です。
2002年~03年と少しの間、
「仙台放送音楽的広報キャンペーン‘OPEN’」
と銘打って大々的に「柴田淳」を応援、宣伝していました。

 担当者の名前が柴田ということもあって、
  「しばじゅん仙台移住計画」や
  「キャンペーン担当者の主張」コーナーなど、
しばじゅんが仙台に来た時の様子、話題、写真等、
細かく、面白くかいてありました。
当時、オフィシャルHPより、しばじゅんを深く知ることのできるところでした。
残念ながら、現在、もうそのページは無くなってしまったようです。


ちなみにラジオは、涙をのんでます。
方法があるなら私も知りたいです。

Q奥州藤原氏討伐のときに落ち延びた藤原一族はいますか?

奥州藤原氏のことを調べ始めたばかりなのですが、
鎌倉勢が攻めてきてた時や泰衡が討たれた後、
一族はどこかへ(酒田湊以外)落ち延びていったと言うことはあるのでしょうか。

Aベストアンサー

津軽藩の藩祖・津軽為信は
奥州藤原氏の末裔と称しているので、いたかも(^-^)/

・落ち延びたのではなく、鎌倉勢に臣従し、本領安堵された
藤原一族には、
藤原秀衡の四男・本吉四郎高(隆)衡
が、います。
現在の宮城県と岩手県の県境の「本吉郡」が、その領地です。

義経の首を鎌倉に運んだ人としても、有名です。
(梶原景時が、頼朝の時のように義侠心で
助命嘆願してくれたので、
景時死後、その一族を奥州に
招いたそうです。)

・藤原秀衡の従兄弟(2代、藤原基衡の子)で、
紫波の比爪に住んだ藤原俊衡の一族は、老齢のため不戦につき、
その後、源頼朝によって宇都宮の宮司に補され、現在も、栃木県に御子孫が在住である


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