dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

長男相続の風習自体は室町から存在していたようですが
やはり主流となってくるのは江戸時代からなの
でしょうか?婿養子という風習も室町には
既にあったようですが。まあ長男相続を確立したのは
家康でしょうけど。鎌倉時代までは女子相続も
一般的だったようですね。江戸以前ならば
誰を跡継ぎにするかは夫に決定権があり
長男以外の優秀な子供が家督を継ぐのも珍しく
ありませんでしたが。まあ武家は家名存続が最も大事
なので家さえ継がれていればなんでも良いの
でしょうけど。上杉家は養子だらけですね。

A 回答 (4件)

日本の相続は、天皇家の相続という見本がある。


長男とは限らないが、男系の一人が相続を固守するという方法だ。
皇族が多くなりすぎると臣籍降下で分家していく。これも臣籍降下という言葉ができるかなり前から実態として生じている。

そこに雄略天皇即位前の皇位継承権争いで多くの皇子が殺されたり、地方に逃亡・失踪したために、武烈天皇死後に直系男子がいなくなるという大事件が起こる。都にいる直系は皇女しかいなくなったのだ。

それで困った当時の朝廷の第一人者である大伴金村は、田舎に潜む元皇族の子孫で男系を維持している人を天皇継承候補として探し始める。他の朝廷の有力派閥も探していたことだろう。
候補者は色々いただろうが、多くの皇位継承権保有者が殺されていた時代だ。下手をしたら自分も殺されかねない。しかも天皇の血筋とはいっても何代も前の話だ。事実上天皇家とは縁が切れている。多くのものが「火中の栗を拾うなかれ」と誘いに応ぜず、中にはさらに逃げ出すものまで出る始末だ。

そんな中で一人だけ、大伴金村の誘いに応じるものが現れた。応神天皇五世孫?と云われる継体天皇だ。
今でも親類縁者と云えば、精々2代目くらいまでで、3代も遡るとなればあったことなければ名前や消息すら知らないのが普通だ。つまり事実上、赤の他人だ。5代も遡らなくてはいけないとなれば、赤の他人どころの話じゃない。

これを現代の話に置き換えると、感覚的には、江戸時代に枝分かれした分家の子孫が「私は分家ですが男系の子孫です。本家の男系が途絶えてお困りでしたら、私が本家の跡取りになって本家の事業や莫大な資産のすべてを相続します」と名乗り出るようなものだ。本家の娘や親類筋が納得するわけはないだろう。

継体天皇の場合もすさまじく紛糾した。一説には何十年も畿内に入ることすらできなかったという。
結局、継体天皇と仁賢天皇の皇女(雄略天皇の孫娘)が結婚することで折り合いがつけられた。つまり継体天皇とは、天皇家に婿養子として入った人物なのだ。ちなみに、この二人から生まれたのが仏教伝来時の天皇である欽明天皇だ。

長々と書いてしまったが、何が云いたいのかと云えば、天皇家は男子直系相続の典型的サンプルだが、この継体天皇のケースで、男子直系でなくても、「婿養子を取ることで御家を存続できる」という事例ができたことだ。

このように日本では「男子直系を原則としつつも、婿養子も問題ない」という相続スタイルが、継体天皇の時代から、天皇家自体が模範となることで、確立していたことになる。
これは、どう取り繕っても、100%完全な形で天皇家も男子直系を維持しているとは言えない。しかし、日本では昔から天皇家は「男子直系の万世一系」が守られていると多くの人が主張している。

これはおそらくだが、平将門の乱が影響しているのだろう。将門は「新皇」を名乗り、天皇と日本を分割統治できると主張しているが、その根拠として「俺は桓武天皇の五世孫だ。応神天皇五世孫の継体が天皇になれるのなら、俺だって日本の半分を統治してもいいだろう」と主張しているのだ。
第二第三の将門が現れては、そのたびにこの国の安定が損なわれてしまう。それを許さないためにも尚更、天皇家については「男子直系の万世一系」が守られていると多くの人が声高に主張せざるを得ない、ということなのだろうか。
    • good
    • 0

「回答順に表示」を推奨。



このような内容の質問では、言葉を捻り回した長文で知識のない者を騙そうとする輩が湧きますね。

江戸時代までの婿養子制度については、継体天皇のケースによって、
【男子直系ではない婿養子さえ取れば家を継がせられるようになった】
という意見があるようです。


確かに、継体天皇の素性については様々な説があります。
しかし、彼が天皇になれたのは「男系である」と見做されたからです。
男子直径(男系)でなくてもよい なら、そもそも継体天皇のような者を探す必要もありません。

以上から、継体天皇の即位によって、後世の人が「男系でなくても天皇になれる」と思ってはいません。

平将門が桓武天皇の血統を主張したのも、それが理由だと思います。
(→男系であるなら、天皇「候補」になる資格はある)



Aの「直系」の定義についても疑問があります。
私の中の男系とは、父親を遡ると男性天皇に行きつくという事であって、父親が天皇であることや、天皇の長男である事ではありません。(この問題では、これを故意に悪用している意見が多いように思います)

仁賢天皇の皇女との結婚は、それによって、血統や他の後続との関係を強固にするためのものに過ぎません。


そもそも、皇統と他の「御家」は以下のような全く違うものなので、一方の基準で他を語るのは間違いです。

皇統:日本の統治を神々に認められた天照大御神の子孫(重要なのは血統)
御家:天皇の家臣として氏(姓)や屋号を賜った家族の集団。(重要なのは家名や職能の継承)

以上の事(皇室や氏や姓の詳細)については。質問の主旨ではないので、ここではお話ししません。



征夷大将軍の初代は多治比県守(たじひ の あがたもり)ですが、彼が任命されたのは720年です。
それに当時のその職は臨時の「令外官」で、世襲は前提とはしていません。
そもそも、征夷という軍事行動は長期ですることではありません。



質問の主旨はタイトルの↓でしょうか。
(質問文は無駄な思い付きを垂れ流しているだけですね。)


>長男相続の風習自体は室町から存在していたようですが
>やはり主流となってくるのは江戸時代からなのでしょうか?

回答はしますが、あなたの文章は読点(、)が無く改行がいい加減な上に、言葉使いが不快なので、非常に読みにくいです。(初対面や目上の人に対して使う文体ではない)


回答:そうだと思います。
それが定着したのは、家康が家光を三代将軍に決めたことからだと思います。

実力が重視されていた戦国時代までは、長子相続という習慣はありません。
(バ○な長男に継がせたら国が滅びます)
しかし、それによる家督争いも起きていました。

しかし、江戸時代になって、子供さえいれば家は続くという平和な時代になりました。
長子相続は、そのような時代で家督相続で問題を起こさないようにする為に決められたものです。
(長男が激しくアレな場合には廃嫡という例外はありました)


財産についてですが、少なくとも鎌倉時代までは夫婦でも財産はそれぞれが所有していましたし、女子にも相続権がありました。(女子のみが引き継ぐものではない)
「長男相続の風習自体は室町から存在していた」の回答画像4
    • good
    • 0

武家は長子相続が原則だったけど



商家は、江戸の頃も能力主義でした
まぁ長子は芸事に進んだりするための支援を得たりして尊厳は保つ
    • good
    • 0

元々 日本は男性が 女性の家に通う事で


結婚が成立していた 通い婚です。

家や財産は その家で子を産み育てる女性が引き継いで行くものでした。

主様の仰るように 武家社会が日本ででき始める事に
長子 若しくは 男性が家督を引き継ぐ様に 様変わりしていきます。
征夷大将軍という位を 天皇が授けたのは男性のみですから
そこを線引きに使うと良いかも知れませんね。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!