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聖書を読み飽きた私はキリスト教に向かないのでしょうか。近所のプロテスタント教会にて求道中のものです。暇にまかせて聖書を10回ほど通読しました。読みましたが特別な感慨は起きませんでした。聖書を繰り返し読めば何か悟りでも開けるのかと思っていましたが、ぜんぜんそんなことはありません。聖書を読むのにすっかり飽きてしまいました。こんな私はキリスト教に向かないのでしょうか。もう教会へ通うのはやめようかと思っています。

A 回答 (9件)

>読みましたが特別な感慨は起きませんでした。



平穏に暮らしてるときは、聖書を読んでも特別な感慨はない
そんなものでしょうね
神さまでしかいやせないような痛みとか苦しみにあるときは
どこか心に響く言葉が見つかると思います

>もう教会へ通うのはやめようかと思っています。

聖書を読んでピンとこないくらいは、まだ幸せなほうですよ
教会にはなんていうかくそ爺みたいな爺さんや
めんどくさいヒトもいっぱいいますので
そっちのほうがよっぽど大変です

「これが教会だというなら、こんなところ来ないほうがまし」と
思う日がくるでしょう
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使徒行伝で、馬車に乗って聖書を読んでいた偉い人に、弟子の一人が問いかけ、誰かが教えない限り本当に理解することはできない。

という会話をしています。
暇なときに読むのではなく、内容を理解するために読みましょう。
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私はキリスト教徒ではありませんが、 聖書を読んだり、お祈り(これが大嫌いだったけど)をしたりはしました。


聖書も英語版と日本語では違っていて 英語版では おちんちん のことが それとなく書いてある(ただし旧約聖書)のに、日本語版では その部分がバッサリとなくなっていて、話の前後がつながらないところがあるとか...
まぁ ツッコミどころはいろいろあります。 

その経験から言うと
どんな宗教でも 悪い面がある 「悪い面があるからその宗教はいやだ」というなら どの宗教にも組みしないのがいい。 心のよりどころに宗教を選ぶなら、いいところだけをみてればいい。 
ということになります。
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まず、イエスも人。

ならば、ヨセフ以外に実父がいるでしょう。

磔で死んだ人が生き返る、これらは絶対嘘です。

奇跡には絶対種があります。当時は科学未発達。だから、数々の手品・魔術・妖術などをして、知識の乏しい民衆を惑わし操ったと思います。多くは洗脳ですね。
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言葉の使い方が、もしかすると、私とは相当に違っているのかもしれないのですが、「求道中」というのは、どのようなことをしている状態を言うのでしょうか、あるいは、その目的とか目標とかは、どのようなものでしょうか。


辞書には、  ぐ‐どう【▽求道】 の解説 ① 仏語。仏の教えを求めること。求法 (ぐほう) 。 ② 真理を求めること。きゅうどう。 の2つの例があるようです。 「近所のプロテスタント教会にて求道中」ですから、①ではないとすると、②なのでしょうか。

②だとすると、「近所のプロテスタント教会にて求道中」というのは、「恐れや不安を感じることがあって、不安や恐れを乗り越えようと、近所のプロテスタント教会に通い、聖書を読もう」としている、あるいはしていたということでしょうか。
それって、普通は、求道、求道中とはいわないように思います。

もちろん、牧師さんの説教を聴いて強いインパクトを受ける、あるいは聖書を読んで強いインパクトを受けて、それを契機に恐れや不安が薄らいでいくということもあったりすることはあるのでしょうが、プロテスタント教会でも、カトリック教会でも、その他の宗教の教会や道場などでも、信者・信徒・教徒さんが恒常的に何年も何年間も通い続けるのは、そうした繰り返しての生活が、次第に心を安定させるということがあるからだと思います。 毎日の食事や睡眠、運動、仕事などを規則正しく適度にすることで健康が保てるのと似ていて、「懸命に一週間、一ヶ月、半年何かしたら、それですっかり良くなって、これからは、もう大丈夫!」とは、ならないと思います。

プロテスタント向けではないかもしれませんが、プロテスタント教会にも通っていたことのある倉田百三という方が「女性の諸問題」という中で、次のようなことを書かれています。
https://books.google.co.jp/books?id=nbwnYnUNaWIC …

どのように信仰し、求道に邁進しても、「迷い、不安に駆られ、恐怖におののいて、自分を見失いそうになる」のは、人間である以上、どうしても起きるんだということを、理解して、その理解をした上で、「迷い、不安に駆られ、恐怖におののいて、自分を見失うような自分でも、イエスは導いて、真理の方向に戻してくれるんだ、「戻してあげるよ、私が、道であり、真理であり、いのちなのです」と、ヨハネによる福音書14章1-6節「心を騒がしてはならない」には書いてあったでしょう。

> 暇にまかせて聖書を10回ほど通読しました

No.3さんが10回も通読したことを感心してますが、普通のキリスト教は通読しません。全文読む教徒も少ないです。 牧師さんが説教してくださるのを聴くだけ+ちょっとだけ気になるところを自分でも読む という方も多いです。 歴史や理科の教科書でも、数学の本でも通読することにさほど意味はないです。 物語や小説とは違います。 ただ、自分の日課として聖書を読み続ける生活をするというのであれば、それも一つのやり方です。
https://www.bible.or.jp/read/read03.html 暇だから読むとか、20回読むとか、要約を考えるとかではなく、ひたすら日課として読むのならば、とても良いと思います。
でも、さらさらと通読、読み進めるのではなく、章や節を何度も行きつ戻りつ、前後を考え、自分に向けられた言葉として理解できるのはないのかと考えながら読む方がいいという話しはあります。 https://www.adventist-annaka.org/%E8%81%96%E6%9B …
それは、ただ文章の正確な理解にやくだつということではなくて、心を注意深く聖書に向けるということが、自分へのメッセージに気付くために大事だからだと思います。 よほど感性が鋭いか、スタンバイ状態になっていなければ、さらさら前に読み進んで感慨を強く受けるということは、なかなかないでしょう。

> 聖書を読むのにすっかり飽きてしまいました。

私には、「10回も通読して、すっかり飽きた」という方が不思議です。 だいたい、ストーリーというか、展開は、うまくできてません。いくつもの福音書やその他の聖書がバラバラのままバインドしてあるような書籍です。 2回、3回と通読できる方が驚異的だと思います。 飽きるようならば、新約のマタイ、マルコ、ルカのせいぜい100ページくらいで飽きると思います。 集中力や求道の気が相当に強くなければとても持ちません。
それだけ克己心や集中力があるのならば、恐れや不安を感じることがあっても、自分を抑え、それを乗り越えることができそうに思います。

不安や恐怖を抑え込んで、嫉妬心や、驕慢、恨みなどを抑え込んで、その場を凌ぐことができるのであれば、それで充分だと思います。
不安、恐怖、嫉妬心、驕慢、恨み、高ぶり、イラつきなどを一切起こさないなどの境地は、ないと思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97 …
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ご自由に。

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日本語訳を少し見たことある程度ですけど何を書いてる何を言いたいのか説明がないとまったくわからなかたアレを10回も通読した事に感心し

ました
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それで


OKです!(-o-)/
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聖書は悟りを開く為の指南書ではないですよね?イエス様が到来するまでのイスラエルの歴史とイエス様のことが書かれた書物です。

感慨が起きなくても何ら問題はないと思いますが。
へ〜、そうなんだ。で良いと思うのです。
イエス様も、聖書を読んで感慨を覚えなさいとは言っておられませんしね?
而もあなたは求道中であるにも関わらず10回も聖書を読まれたんでしょう?
向いていなければそこまでしないと思いますよ。
私はプロテスタントの信者ですが、心からそう感じます。
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