ギリギリ行けるお一人様のライン

【なぜ昔の人は語彙力が高かったのでしょうか?】
昔の軍歌の歌詞を見ると語彙力の高さに驚かされます。作詞する人は語彙力が高くても不思議ではありませんが、それを若者達が理解出来るということは当時は相当語彙力が高かったのだと思います。

A 回答 (7件)

道徳教育や教育時間が長い。


その中で漢文など素読は今の小学生くらいでしていたそうです、朝から晩まで。
さらに、少し大きくなると、夜にはみんなで集まり、朱子学関連の協議。

道徳教育は、現代の場当たり的な教育ではなく、非常に重視しており、
多くの難しい言葉もあったと思います。

いい大人の私が朱子学など読むと、難しすぎます。

ポイントはこのあたりにあるのかもしれませんね。
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軍歌とは違うが與謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)が(内容は反戦的ですが)軍歌のハシリのような内容でしょう。


本邦軍歌第一号と言われるのは明治15年「抜刀隊」(我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ)で、これは東京帝国大学の教授たちが作ったとされています。
太平洋戦争の開戦とともに軍歌の必要は高まりました。「海行かば」(海行かば水漬く屍 山ゆかば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ)「敵は幾万」(敵(てき)は幾万(いくまん)ありとてもすべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ)「愛馬進軍歌」「月月火水木金金」などが歌われました。
語彙は普通の兵士が歌ったわけですから、特に高度だったというわけではなく、日本人の識字率のなせる技でしょう。私も中学生の頃に森鴎外の歴史小説を読みましたが特に難解ではありませんでした。言葉(識字)は時代とともに変わるのではないでしょうか。
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それは「教養がすべての世代で同じもの」だったから、です。


基本的には「四書五経を読め」ということで、他にも歴代天皇の名前とか、徴兵時に必要な知識とか、全世代で共通した「教養=身に着けるべき知識」が一致していたのです。

現代日本は時代によって「教養」のレベルに差がありますが、それ以上に「教養と呼ばれる内容」にも大きな差があります。

たとえば私はアラフィフなので、割と古めの「教養」を覚えた世代です。当時はまだ文学を読んでおく、というのは教養の一つで、ドフトエスキーのようなやたらに難解なものを読む人も多くいました。とはいえ「これを読んでおくべき」という基準はだんだん無くなっていた時代なので、知らない人は知らない、読まない人は読まないと「教養の共通性が失わ始めた時代」でもありました。

今は、自分の子供たちを見ても「何を身に着ければ教養と言えるのか?」が分かりません。たとえば英語が話せれば「教養がある人=頭がいい人」という認識がありますので、英語=教養と言う時代でもあるといえるでしょう。
 またIT知識などやサブカルチャーなど、知識体系として一人の人間の限界を超えない程度にしようと思えば、人によって様々な知識を持っているのが当たり前の時代でもあります。

なので、今の日本では「英語が話せ、外国に対する知識がある人」と「IT世界に精通している人」と「サブカルチャーに精通している人」などはそれぞれ重要で必要なのですが「共通した教養を持っている」とは言えないわけです。

だから、現代人は東大卒で頭が良いとされる人でも、必ずしも「語彙力が高い」とはいえません。そういう時代といえば時代なのです。
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テレビに代表される動画文化が発達していなかった文章だけで読者に動画イメージを想像させる語彙力・表現力が求められたからです。

読者の方もそういうものを楽しむ為には語彙力が高くなければなりません。そんなだから文学が大衆文化だったとはいえない。誰もが語彙力が高かったとはいえません。比較的教養が高い階層がそうだったというだけです。そうでない大衆は、田舎劇団の芝居に興じていました。
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>昔の人は語彙力が高かったのでしょうか?


と言うより現代人がアホに”なり過ぎた”という
ところかも知れません。

既に#1さんの回答にもありますが、
メディア自体が低俗で短絡的な結果重視な
傾向なんでしょうか。

読書をしない(面倒くさい)、
議論しない(迎合した方が楽)、
考えない(思考停止に気付いてない)、

まあ、挙げればキリがありませんが、
要するにモノを知らなさ過ぎるってことですが、
生徒・学生の文学や思想や哲学的な議論をしない
戦後教育も影響していると思いますね。
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文字を読んで理解するということは、情景を自分の脳の中で映像化しなければなりません。


マンガやテレビですでに視覚化映像化されたものを観るときは、「自分で文字を映像化する」というプロセスがありません。

テレビがなくマンガは子供がみるものだった時代には、大人には文字文化しかありません。
ラジオはありますが、これも、文字が音声になっているだけなので、映像化はやはり自分の頭でしなければなりません。

こういう文化環境では語彙力がないと楽しめません。
文字でいかに楽しめるかが大人の証拠であり、教養知性の証拠だったわけです。
語彙力がないと楽しめなければ、誰だって語彙力は高めようとします。
目で見ればわかることが増えれば、語彙力無くても楽しめるので語彙力は不要になります。

それと、文科省が、小学校で古語を使用しないこと(禁止かどうかは分かりません)にした影響も大きいでしょう。

音楽教師の人が、「どこかで春が生まれ出る」という歌詞の「生れ出る」は難しいからと「生まれてる」に変えたといっていました。
「生まれ出る」には豊かな動的な躍動感がありますが、「生まれてる」は平べったい感想でしかないです。
そういう例がたくさんあるそうです。

昔は難しい言葉、言い回しを知っていることが自慢になったけど、今は出来上がっているアプリを使いこなすことが自慢になる時代です。
ほとんどは意味理解なしに、ボタン操作を覚えればいいだけなので、語彙力は不要です。
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TVが普及し、スマホまで出て、それを見ながら面白おかしくヘラヘラと笑う人が大半になってしまったので、自分でしっかりと考え、表現する力が養われなくなりました。



社会評論家の大宅壮一は、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味を込めて、TVの普及で「一億総白痴化(いちおくそうはくちか)の時代」になった、と言っています。つまり国民がみなアホになった、と。
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この回答へのお礼

ありがとう

人気の動画サイトのYouTubeもテレビとあまり変わらないものばかりですしね。、、

お礼日時:2020/06/28 10:44

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