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人があらゆる束縛から開放され、完全に自由の身になったとき、そのよーな状況においてもなおかつ求める神があるのではないか?
しかしそのよーな神は何かを願ったり拝んだりするための神ではない。
なぜならそのよーな状況では人は神に願ったり拝んだりする必要は更々ないからである。
またそのよーな神に対しては人は如何なるパフォーマンスを演じる必要もないのである。
それゆえ教会に出向いて賛美歌を歌ったり、十字架をきったりする必要はないのである。
もちろん坊主たちがやるよーにお経を唱えたりする必要も一切ないのである。
そのよーな神に対して人が求めるものは唯一つこの世界の真実を教えてくれる神である。
真実の神とはそのよーな神ではあるまいか?

A 回答 (11件中1~10件)

宗教的な神様だと


諸外国を観察して

内政不安や内乱
他国からの侵略や内政干渉
経済的な不安などなど

そういった環境化だからこそ

カトリックみたいたに
食事の時に祈りを捧げたり

イスラム教徒みたいに
拝礼を欠かさなかったりするから

日本人の語る宗教的な話って

安全や平和が
アメリカの軍事力に支えられてるから

宗教的な神様がとくに不必要になってるのかと
思いますよ


人種対立や宗教対立の
醜さや惨たらしさ

アフリカ諸国の近代史なんかを調べるとね

衣食足りて礼節を知る

この言葉の凄みが違いますよ

真実の神

想像するにしても
どこの国の情勢基準で考えたら良いのか?

北朝鮮なんかだと

神様より、将軍様のほうが
偉大なのかも知れないですね
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カンに 触る、


所も あるが。


もし、

人族の 進歩が、
進み、
 達や、人所謂神々、
詰まり 君所謂神と、

肩を 組み合い、
さかづきを 交わし、
共に 笑い、
共に 泣き、
友に 分かち合うように、
なって 尚。


勿論、

 達や、人所謂神々、
詰まり 君所謂神を、
上回っても。


其れでも、

尚 崇めるか、
此の 視点を、
加味された 上では。


まぁ、

信仰と パフォーマンスとの、
差を 棚に、
挙げるなら、

そうした 事が、
いえる 事も、
あるだろうが。


たがらといって、

大恩ある 柱を、
虚仮威し 馬鹿にして、
いい 訳は、
ないでしょ?
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少なくの私が見ている世界・私にとって私が存在している世界において「真実の神」も含めて如何なる神も完全に存在しません

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ノーベル物理学賞を見ていたのですウ証してたのでスネ。

が、
長短パルス、超は超ですね。
フェ無と秒化学
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真実の神とは貴方の言うと通りと思います。

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なかなか善いところまで来ているね。

哲学とは本質を探究する学問だ。真実の、間違いのない、絶対的なものを探究することだ。

真実の神とは神が何か知らないが真実とは絶対に正しいことだ。絶対に正しい事は「みんなの為」だ。だからみんなの為になる、適う神が本当の、真実の神だ。これが善についての真実だ。だがこれは真実のひとつだ。

真実を教えてくれる、と言うが真実の真実である絶対真理はなかなか分からないよ。だからね善に対する真実を私たちは知ればいいのさ。

何故私たち生命は種族保存することを運命づけられているのか?そんなことを考えても絶対に分からない。それは大自然の法則と言うしかないのだ。だから真実の中の真実、真実の本質、真実のイデア、絶対真実、真理は絶対に分からないよ。
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神とは求めるものなんですか?


ふーん。

神は存在する/しない、という話ではなくて?

---
神とは{全体集合から自分を除いたもの}とも考えられるので、
「自分が神ではない」ならば「神は存在する」
と最初回答しようとしましたが、これは回答にはならなかったですか。

---
質問末尾みて。。。
「真実の神」って何ですか?
「真実の神」以外の神もいるということですか。
何でもありの雑談カテ(=いわゆる哲学)で質問者を楽しませるのは難しい。
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何ものにも依存することなく ひとり満ち足りている存在が 神です。



その神の――霊性における――ハタラキカケを享けて わたしたちはそれぞれ あたかも満ち足りている境位にあることが出来る。

ほかには 何もありません。つまり その余は うつろいゆかざるを得ないものごとです。


讃美歌・お経等々朽ちるべきものごとを 神だと言い張る思想があとを絶ちません。
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〉人があらゆる束縛から開放され、



そうした 状態は、
既に あるよ。


君が、

知らない 振りを、
している だけだ。


例示しよう、

科学は 自由だ、
ルールは あるが、
縛りはない。


そして、

科学の 本質は、
好奇心で、

信仰対象は、
見得ざる 御手だ。


其れは、

見得ざる 御手の、
挙動を 解き明かし、

共に あろうと、
する、
アプローチであり、

信仰 其のものだ。
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完全に自由というのは、自分が何者でも無くなったときに訪れます。


それと同時に、何者にでもなれます。
なぜ何者にでもなれるかと言うと、自他の境界がなくなるからです。
過去も未来も幻想だと気付き、ただ、思考も及ばない、思考の始まる前の「今ここ」に存在しています。

讃美歌を歌う必要もなければお経を唱える必要もありません。
神様に何かを求める必要もなければ、神様が教える必要もありません。

ただ、したいからするだけです。
生きている行為になりきっているだけです。

そこに意味をつければ自由でなくなりますが、意味をつけてもいいし、意味をつけなくてもいいです。

それを体現したとき、虚しくなる人とならない人に分かれます。

それもどちらでもいいです。

自分がどちらになりたいかで感じる世界が変わるだけです。

真実の神は求めるものを既に与えてくれています。
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