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562年任那が百済や新羅の南下によって滅びるじゃないですか。日本からしたら任那と百済はどちらも親交が深いですよね。任那滅ぼされたら、おい!百済!いくら仲良くても任那も俺の友達だぞ!みたいにならなかったんでしょうか?

朝鮮半島における前方後円墳の分布などは、加耶の衰退以降に百済と倭とのあいだで結ばれた、緊密な外交的連帯を象徴する、決定的な考古学的資料とされているらしいですが、なぜ百済と仲悪くならなかったんでしょうか。

A 回答 (2件)

あなたより通を弁えていたからでしょう。



>百済!いくら仲良くても任那も俺の友達だぞ!
言って何になるの?
滅びた国の見方をして友好国を失ってどの様な利益があるのでしょう。
「それじゃ、おまえも滅ぼそうか」になるのが理解できないようでは外交は出来ませんね。
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このあたりは文献が少ないので(特に日本側の)百済と日本の関係は、質問者の考えもあり得ます。

ただ日本は朝鮮半島南部とどのようなかかわりを持っていたのか、どのような支配をしていたのかは、はるか後に書かれた歴史書「記紀」などで想像するしかありません。大伴金村は百済に伽耶4県を割譲したため力を失ったと言われていますが、その地域は小国分立状況であったので、ヤマト政権にたよるより、百済を頼ったのだという立場の学者もいます。
ヤマト政権は朝鮮半島の鉄資源や精錬技術が欲しかったという視点で「百済」と深く結びついて、ヤマトー伽耶諸国-百済がまとまっていたのだという考え方もあります。そうなると「百済の伽耶諸国への侵略」は「ヤマト政権と蝦夷」の対立もしくは「地域間の騒乱」という見方もできます。
事実、ヤマト政権はこの時期にさかんに百済と交流しており、むしろその後「百済と伽耶」が「新羅」に滅ぼされて「高句麗好太王」以来の「朝鮮半島への大規模出兵」をおこなうのですから。「単なる地方の争いごと」と考えていたのではないかと思います。ヤマト政権にとって重要なことは「鉄資源」と「渡来人の技術」であり、それが断たれない限り「黙認」していたのだと思います
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この回答へのお礼

つまり

日本「まあしょーがない。任那は滅亡して欲しくなかったけど、百済から鉄資源と渡来人の技術を受けとる事ができるなら黙って見過ごそう。」
と言うわけですよね?

お礼日時:2020/12/14 18:03

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