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チンギスハンは、当時最強だったのに、なぜ今のモンゴルは発展途上国なのですか?
しかもなぜ、チンギスハンは最強になれたのでしょうか?
宜しくお願い致します。

A 回答 (8件)

ジンギスカンの正体は実は平家の大軍を破った


源義経が頼朝に追われて奥州衣川館で果てたはずが
実は生きていて藤原氏が芝居をして義経を逃がし、
北海道を経て、大陸に渡り、
義経がジンギスカンに化けたという伝説あり。
あくまで憶測で本当かどうかは定かならず。

衣川の館の戦いも実は義経主従全員全滅ではなく、当時、所用で館を留守にしていて、戦乱に参加せず、後で義経が死んだことを知り、
鎌倉に行き、見事頼朝が落馬したのを幸いに海中に沈めて絞め殺して、
見事主君の仇討ちをした者あると小説にあり。

嘘か本当かわからぬが、こういう謎解きも面白い。

平家の大軍を破り、鵯越の逆落としとか、通常人が考え及ばぬ戦略奇才を行うとすれば、その義経が化けたとすれば、ジンギスカンの最強な謎も納得いくのだろうか。

でもこういう推論は参考になるか、信じる者は信じる。
疑う者は疑う者は疑うだろうなあ。
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人間社会で起きること、起きたことには、"なぜ"に答えるものはないのだと思います。


単に結果とみえることが起きただけであって、そうならざるを得ない、そうではないことにならないというのに、まともな説明は無理だと思います。
2023/4/5の北緯36度東経138度の14:56の天候は"なぜ半曇り"であるかの理由を聞いているようなのと基本的に変わらないと思います。
ヒトは一人で生きているのではなくて、しがらみも偶然も絡み合って、たまたまそう生きているのです。
チンギスハンが生まれ、ハンに選出されたのも、戦闘に勝ち進んだのも、その勝利の後も遙か広範囲に征服行動に向かったのも、たまたまですし、その攻撃先に強力な軍事勢力のいなかったことなど、天候や疾病などで躓かなかったこと、など、偶然の総合の結果です。
朝青龍や白鵬翔は"なぜ"横綱になれたのでしょうかという問いと、"なぜ"チンギスハンは最強になれたのでしょうかという問い、"なぜ"ムハンマドはイスラム帝国を作れず、正統カリフ時代、ウマイヤ朝までかかったのかといっているようなものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B9 …

モンゴル帝国についてwikiでもそれなりに説明してくれています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3 …

経済発展や軍事力、工業や農業なの状況は、時代によって、地域によって、状況が変わるのが普通です。 中学、高校の歴史で出てくる地域名はその時代時代で勢力を強め、発展が著しいところです。 その変遷をみても、同じ地域が400年、500年と(世界で最もメジャー)であり続けることは、西暦紀元前のエジプト地域を別にすれば、ないです。神聖ローマ帝国は長い期間あるように見えますが、実態は違います。
「チンギスハンは、当時最強だったのに、なぜ」の回答画像7
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まあ今もジンギスカンとして北海道を制覇してる

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モンゴルは軍事的には当時最強の軍備と軍団を持っていました。

ただ基本的には遊牧民の生活で、自分たちはその生活を守りました。チンギスハンは、支配に従った国々に対しては、その地域の習慣や宗教を否定することなく、柔軟な支配を行いました。支配に従わなかった地域との戦いでの伝説によって、残忍なイメージがありますが、とても緩やかで自由な支配であったことが多く記録されています。大帝国をまとめるというより、分割して各帝国がその地に合った支配を行ったことで、モンゴル人は現地との混血交流も盛んになり、元々のモンゴル人はしだいに各地の帝国に吸収されていったように思います。遊牧生活を捨て定住する人たちも現れ、インドあたりでは「ティムール朝」などに影響を与えましたが、元々人口がっ少なかったことや、モンゴル高原での遊牧生活をつづけた人々と中央アジアやロシアなどに移住した人々との交流も薄くなったことで、モンゴルは、昔の勢いを失ったように思います。それでも200年近く中央アジアを中心としてヨーロッパにまで勢力を広げています。ちなみに「スペイン」「ポルトガル」の世界支配は100年続きませんでしたし、「アメリカが世界の覇権」をとってからまだ100年程度でしょう。そう思うとモンゴル帝国のすごさを感じます。
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チンギスハンは、当時最強だったのに、


なぜ今のモンゴルは発展途上国なのですか?
 ↑
そもそもですが、ああした非定住民族は
経済的にも、人的にも不安定です。
たまたまチンギスハンという英雄が出て
モンゴル人を統一出来たから、最強になれただけです。

チンギスハン亡き後は、勢いで勢力を
伸ばしましたが、結局永続きせず
内部分裂を起こし、弱体化しました。

戦いに勝ち続けて、それを制度化し
安定した国家にするには、非定住民族は
向いていないのです。





しかもなぜ、チンギスハンは最強になれたのでしょうか?
  ↑
1,チンギスハンは適材適所に優れていたと 
 言われています。
 
2,騎馬民族ですから、戦闘には強かった訳です。
 当時の戦闘は、騎兵と歩兵の組み合わせで
 やりましたが、モンゴルは騎馬専門です。

 騎馬民族ですから、日常生活で馬を乗り回し
 弓を射ていいます。
 つまり、毎日戦闘訓練をしているようなモノです。
 疾走する馬の上で寝て、喰いなどをして三日ぐらい
 ぶっ通しで駆けることが出来たと言います。
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アレキサンダー大王は、ギリシャ・エジプト征服後に西方の大先進国ペルシャも手に入れてインドに侵入し、帰国直後に死を迎えた。


そしてその大帝国は死後直ぐに解体・分割された。

モンゴルも、チンギス一代で大帝国を築き、その子孫は中国、そして中央アジアから中東、欧州へと突き進んで更なる大帝国御築いた。
しかし、遅れていた欧州は別にしても、先進地帯だった中国・中東に比べれば文化・文明は明らかの遅れていた。

両者とも、形の上では蛮族が文明人を急速に制圧し、文化・文明・物資の流通が促進された時代だった。
しかし、その反面、拡大が急すぎて政治的な統制が追い付かなかった。逆に云えば、あれだけ広大な領土を統制する文化・能力が伴っていなかったと言えるかもしれない。

以上のように、急すぎた拡大と大帝国の統治ノウハウの欠如。このふたつが主な原因だろう。

チンギスが強かったのは、騎馬隊を中心とした軍制だろう。
元々は軽騎兵だけだったが、それに欧州の重騎兵、そして中国などの攻城兵器&攻城戦術が加わっていた。
モンゴルは商業民族でもあり、それを通じて世界の優秀な戦術などの知識も得ていた。その世界的な情報力が大きかったと思われる。
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栄枯盛衰


盛者必衰
ギリシャ帝国だってトルコ帝国だってエジプトだって似た様なもの
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遊牧民という枠から抜け出せなかったので、国として発展しない。



チンギスカンという人物の器が大きく、点在していた遊牧民のグループを南下という目標の下、一つに集結することが出来た。
敵さんが弱かった。
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