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哲学も含む、思想の本質は”知”であると思いますが、
それは文脈(言辞の関係性)であると説かれることがあります。

画家ドラクロワは、「画家は灰色を使って色白の美女を描くことができる」「泥を持ってこい、それでヴィーナスの肌を描いてやろう」と言って色の関係性の大事を説きましたが。。
以下質問です。

知が、言葉そのものにあるのではなく言辞の関係性にある場合、それを成立する条件は何でしょうか。

よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • しかし、コンテナ(入れ物の配置)が意味を持つこともあると思えます。うーん。。

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/02 13:48

A 回答 (61件中1~10件)

>知が、言葉そのものにあるのではなく言辞の関係性にある場合、それを成立する条件は何でしょうか。



「普遍性」「解り易さ」「納得感」「寛容さ」という言葉がよぎりました

「リアクション」が前提なのかなとも思いました

無意識、又は意識的に「集合知」が目指されているのかなとも思いました



「知」とは知っている事ですよね

知は既に己の社会とのかかわりあいや経験を基に蓄積され
それを哲学や思想として文脈する動機は
社会のリアクションを期待するからだと思います

誰かの知への理解は、拒絶しようと迎合しようと十人十色ですが

「画家は灰色を使って色白の美女を描くことができる」
「泥を持ってこい、それでヴィーナスの肌を描いてやろう」
「スイカに塩をかけて食べると、甘さが引き立ちます」

どれも私的には納得感がありますし、多くの人が納得感を感じると思います
でも、納得感を感じない人もいると思います

「スイカに塩をかけて食べても、どう考えてもしょっぱいだけだろ」と。

なので、絶対的な条件は無いと思うのです
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この回答へのお礼

絶対条件は無い。ふむ。
集合知が目指されていると言うのは、なんとなく近いかも知れないと思いました。
昔から繰り返されてる典型で、中身だけは変わってても関係性は同じ、みたいな事もありそうです。
ちと具体に思いつかないのですが。

ありがとうございます。

お礼日時:2021/01/02 21:05

no21



質問への直接の回答ではなくてすみませんでした。

なんでもまるごとクオリアとして、あくまで今瞬間の判断を磨く、という軸を重視しています。

すると、そもそもの常識って何だっけと、崩壊する、現実、常識がゲシュタルト崩壊するような感覚になりますし、
実際、常に今にフォーカスして心と身体に耳を澄ますと、古典的な世界観、物理観も崩れそうになります。

参考として見て下さい。
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この回答へのお礼

判断については、私も今まで随分未熟だったと思い直していた所です。人生において、判断ってとても重要なんだと、気づいた。

> 古典的な世界観、物理観も崩れそうになります。

おっしゃる通りだと思います。私の場合、崩れると言うか、その影響が希薄になる、遠のく、その影響が除外されると言う感覚です。

お礼日時:2021/01/05 18:37

モノとコトは同じ種類の()だった。


実はそうだった。
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この回答へのお礼

dynさんは中々スピード感ありますね。

言わんとしてる事は分かるような分からんような、でも少し分かる気がします。

お礼日時:2021/01/05 18:38

#57


ありがとうございます。

今年、五十四歳になるのですが、特に何か、やりたいという思いもないです。

惨死したくないな、との思いのみかと、思われます。

精神症状も一進一退という、感じでして、三十年近く病んでいるものですから、すぐに体調が良くなるとは期待薄かもしれません。

キサラギXさんの人なりが窺われて嬉しかったです。
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この回答へのお礼

そうですか。
私もマジカルさんとこれだけ話したのは初めてですが、幾分かマジカルさんの事を知ることができて良かったです。マジカルさんの健やかである事を願っております。

お礼日時:2021/01/05 14:20

確かに!


科学的地検てな言葉のトリックに
ひっかかる発言ですね

Σ(゜Д゜)さすがキサラギさん

知識とは、そもそもなんぞや
個人的に認識してる事実を知識とよびならば
科学的地検てなことばも
認識したようなつもりになってしまいますもんね

なら、文脈とはなにか

その人、その人の知識を駆使して
自己表現の為に使われる
言葉の集団であって

その言葉の集団から
どのような知識を受け取れるのかは
受けとる人の知識に任されますもんね

学校なんかだと
個人で受けとる知識に対して
正解や間違えをつけて
点数をつけて

規格統一をはかるけど

大人の社会にでると

規格統一された知識よりも

独創的な発想や心を揺さぶる考え方なんかが
芸術として認められたりもしますもんね

芸術は爆発だぁ~
偉大なる人の言葉であって

何を爆発させてるのか
芸術作品を爆発させるのではないことだけは
たしかなんですせどね

なんか、スラスラ書いてしまって
相変わらずのまとまりのない文章だけど
御許しくださいね
(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

そう、さすがわしさんですよー^_^
たくさんヒントを貰えました。
文脈と言うと、その発言の前後関係には歴史的文脈が含まれている場合なんかもあって、一層難しいのですが、関係と言うものについて少しだけ深く意識出来るようになりそうです。

お礼日時:2021/01/05 14:18

水泳を巡っては、小学校二年生で、特級を取得しましたが、金子スイミングスクールで連日連夜の猛特訓を受けました。

私は自分の身体の倍以上はある、級取得者と共に泳いでいましたが、怖かったです。スイミングスクールも好きな方ではなく、父親に期待に応える機械人形といったところです。

読書感想文コンクールを巡っては、中一で、横浜市長賞、中二で、神奈川県知事賞、中三で、文部科学大臣賞だったか、取得しましたが、私の原文は学校の先生の指導に依って、半分は書き換えられているので、私の名誉というより、学校の名誉を背負わされたという、思いですね。

まぁ、やればできたのかもしれませんが、モー、四十年前以上、昔の話ですので、その時の感動というものが実情どうであったのかは、記憶に余り定かではないです。多分、それなり嬉しかったのでしょうが、プレッシャーでもあったような、記憶があります。

まぁ、そんなことんなで大学を卒業後、とある大企業に入社しましたが、入社一年目にして、重症の精神疾患を発症しました。後は、モー、生き地獄が三十年近く続いて、今に至っているという感じです。
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この回答へのお礼

そうですか。ご自身、自由であれた時間が少なかったのでしょうか。
それはつらいことです。
かけてあげられる言葉はなかなか見つからないですが、自分自身を取り戻されて、また新たに道を見出されることを願っております。

お礼日時:2021/01/04 22:25

#55



私の教育とは基本的にスパルタ教育で私の自由意志というものは殆ど尊重されませんでした。ですので、確かに成績はそれなりの結果を出したのかもしれませんが、あまり、青年期まで良い思い出もありません。私は無理強いされて創られた人間であるし、人の何倍以上の努力を重ねて、ようやく、一人前であるということが判明しただけでした。特に、私が潜在的に能力が優れた人間でもないし、天分を巡っては可もなく不可もないような人間であるとの自己評価です。
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この回答へのお礼

そうですか。水泳で一番になったとか、作文で賞を取ったとかの話を聞いて、その時の喜びはどのようなものであったのかなと思いまして。少なくとも勝利の喜びではなかったのかな。

お礼日時:2021/01/04 20:42

#54



私、知識とか、分析は出来ても、立身出世意欲は殆ど皆無です。人より、優れたいとか、勝りたいとか、余り勝負事にも拘らないです。負けなら負けてもいいよ、とのような思いですので、無理してまで勝とうする意識もないです。特に自然体で今後生きれれば、本望だし、死にざまも惨死にならなければ、まぁ、まぁの人生だったな、と思う次第です。
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この回答へのお礼

そうですか。
中高生までの話を聞くに、文武に渡り随分努力されたそうですが、そこにも競争心は無かったのかな。
まぁこの話は余談になりますが。。

お礼日時:2021/01/04 20:24

#52



まぁ、私の一生涯の最期が、餓死、凍死、野垂れ死にじゃなければ、合格点の自分の最期かと、思っていますが。

以上のような最期を遂げずに済めば、まぁ、私は幸福に対しても貪欲じゃないので、合格点な人生です・・・・。
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この回答へのお礼

マジカルさんの望みがそれならば、それでよいのでしょう。
元より、自身本当に望むことが何であるかを、知らない人は多いようです。

お礼日時:2021/01/04 19:59

私がイエスなんておかしいし、



私が全能者なんて全くおかしいですよ。

只の人です。只だったら、未だよかったですよ。

トホホ。
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この回答へのお礼

人が、分不相応に優れた境地を求めること、それを発心と言う。
発心した人が、自らに相応しい境地を見出し至ること、それは求道の終わり、道の完成と言われる。

何が本当に人に相応しいことなのか、考究する事は正しい道に通じる。

お礼日時:2021/01/04 19:36
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