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下記の続きです。
【「近い」と「遠い」の前の「に」と「から」は両方正しいでしょうか】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12176856.html
 おもしろいコメントがあったので考えているうちに、早々と締め切られてしまいました。

 当方を含め何人かの人が、下記の4つのうち「(私の家は)駅△ニ遠い」だけは不自然としました。
(私の家は)駅ニ近い
(私の家は)駅カラ近い
(私の家は)駅△ニ遠い
(私の家は)駅カラ遠い

 No.12で見たことのない説明が出て、質問者の疑問は解決したようです。
 一瞬感心したのですが、2つの疑問が出てきました。

 まず、〈「に」が「近づく要素」であるのに「遠い」という逆の要素が混在しているため、基本的には不自然な表現になる場合が多い〉とします。
 もしそうなら、「(私の家は)駅マデ遠い」も同様に「基本的には不自然な表現になる場合が多い」のでしょうか。
 こういう考え方をしている辞典や書籍をご存じのかたはいらっしゃいますか。

 次の疑問は、〈「私の家は駅ニハ遠いが、市役所ニハ近い」〉がおかしくない理由です。
 当方は、「ニ」と「ニハ」は↑に書いたとおり〈ほとんど別の語としての用法〉だと思います。「ハ」の働きは「対比」のような気がします。
「私の家は駅ニハ遠い」は〈私の家は駅ニ(行くに)ハ遠い〉の省略形、なのでしょうか。
 そうなると、「私の家は駅ニハ近い」は〈私の家は駅ニ(行くに)ハ近い〉の省略形なのでしょうか。
 こういう考え方をしている辞典や書籍をご存じのかたはいらっしゃいますか。

質問者からの補足コメント

  • リンク先の「庭 三郎『現代日本語文法概説』に見る非論理性―機能主義文法論の迷妄」には〈こうした基本的な認識、区分がないので注意しましょう〉ということですね。読む価値なしか。だったらリンクなんて貼らないでください。迷惑です。

    No.24の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/12 21:26
  • 現段階の考えです。
    【(私の家は)駅{ニ/カラ/マデ}近い (私の家は)駅{△ニ/カラ/マデ}遠い goo〈2〉杉村氏の論文をめぐって】
    https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12656676692.html

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/14 21:41
  • 〈なぜ無理やり〈着点〉にするのか〉当方には理解できません。
    〈着点〉とは考えにくいこともある……それだけのことでは。
     例外として「起点」になることもある、ではなぜダメなのでしょう。
     当方は、すでに書いたように長年日本語教師をしているかたの
    〈授受動詞〉と〈準授受動詞とも言える動詞〉の場合は〈帰着点だけでなく、物や恩恵の「起点」が「に」でマークされる場合がある〉
     というコメントを信用します。そのとおりだと思いますし、そう考えるのがわかりやすいからです。
    〈ただ、なぜ、そうなるのか?〉
     そんなことを考えて何かいいことがあるのでしょうか。
     そういうものだからなのでは。
     ほかの助詞だって、複数の意味をもっているほうが多いはずです。すべて「(本質的)意義」はひとつなのですか?

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/17 20:58

A 回答 (49件中31~40件)

>>根拠も示さずにムヤミに辞書の記述を断定的に否定する人はホニャララでしょう。



ムヤミに辞書の記述を断定的に否定はしていません。正しい内容については回答に示した通り、辞書の内容を引用、参照しています。否定する場合には当然ながら、根拠と論理を提示しています。何の根拠、論理も無く信仰する質問者の態度こそが問題です。

質問者が依拠される橋本文法や庭 三郎『現代日本語文法概説』の誤りについては、

橋本文法の形式主義的性格について
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=8720 …

庭 三郎『現代日本語文法概説』
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9466 …

で論理的根拠、論点を提示しております。誤り等があればご指摘いただきたく。それなしに、「ムヤミに辞書の記述を断定的に否定」という決付けは誤断という他なく、論理的に矛盾していませんか?

>>「存在すべくもありません」「そんな馬鹿げた説明をする辞典や書籍がある訳がありません」
 なぜそんなことが断定できるのでしょう。おそらく「悪魔が存在しないこと」も断定できるんでしょうね。すごいなぁ。

上記のような論理の赴くところを提示、説明したもので、根拠のない非難やピント外れの感嘆をされても困惑する他ありません。

感情的な反発ではなく論理的な応答を期待しております。■
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この回答へのお礼

>すいません。
 ノースモーカーですか? 

>訂正致します。
 そんなことイチイチ訂正しないでください。ほかに間違いが山ほどあるのに。
 誰も読んでいないトピのことはどうでもいいです。当方も興味がありません。本題にも無関係ですし。
 しかもまたひとつそういう●●トピを増やしましたね。本当に迷惑です。

〈次に本題と無関係と思えるコメントを入れたら、コメントをブロックします。〉と書いたのですが、日本語が読めないのでしょうか。

お礼日時:2021/02/06 18:39

#3です。



>「あそこまでたどりつけば安心だ」
 だと「到達点」ではない?

申し上げたように「まで」は、あくまで距離的な限度・範囲を表わすのが本質的意義。
例文の場合は、「あそこ=距離的な限度」なので結果的に「あそこ=到達点」になります。
しかし、「に」のような「着点」を表わす意図が【基本的には】無い。
ということです。

「あそこまでたどりつけば安心だ」
「あそこにたどりつけば安心だ」
を比較していただくと、その違いが浮かび上がってくるかと。

> ほかの例文を考えればわかることでは。
 文ごとに、「ニ(  )ハ」の(  )の中がその都度かわるのですか?

質問の意図がよくわかりませんでした。

>「個人的な感覚」を「私なりに分析解釈」した結果ですよね。
 でしたらムヤミに断定するのはいかがなものでしょう。
 他者に押し付けるのもいかがなものでしょう。

ムヤミに断定とおっしゃいますが、個人的な見解を述べたにすぎませんけど?
断定すれば『他者に押し付ける』ことになるのですか?
押し付けられたと感じるほうの感覚に問題があるのではないですかね。

あなたは、「個人的な感覚」を「自分なりに分析解釈」した結果を述べるということはやったことがないのですか???
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この回答へのお礼

たとえば、No.2のかたが「まで」を『広辞苑』でひいています。
〈➊(副助詞)時間・距離・状態・動作が継続し、次第に進み、至る地点・時点を表す。〉らしいです。
 これって、〈「近づく要素」が皆無とは言いませんが、特に重視されて〉いないのでしょうか。
〈「着点」を表わす意図が基本的に無い〉のでしょうか。
 まあ、どうせ違法辞書でしょうから、ちゃんとした辞書を精査しないと正確なことはわかりませんが。

>あなたは、「個人的な感覚」を「自分なりに分析解釈」した結果を述べるということはやったことがないのですか???
 なぜこのような質問が出るのか理解できませんが……。
「一度もない」などと書く気はありません。でも、たぶん平均よりかなり少ないと思います。
 根拠もなく主観だけで断言するのはは傲慢でホニャララだと思うので、できるだけ裏をとるようにしていますから。

お礼日時:2021/02/08 21:34

#15です。


ご要望に応じることにしましょう。下記でご回答ください。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12189564.html

ただ、くれぐれも申し上げておきますが、この質問はアスナロウさんの発言内容の整合性を検証させていただくものです。
つまり「に」の意義云々ということよりも、あなたの発言内容の論理的整合性について問うていますので、その点お間違いなきよう、論点を外さず端的に(=イエスノーを明記の上で)ご回答くださいますよう、くれぐれもお願いいたします。
そこを明確にしないと私の理解にはつながらず、次のステップに進むことも一切できません。

「格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷」については、そののち、ゆっくりと伺いますが、上記の疑問が解決されないまま吟味しても無意味ですので、よろしくお願いいたします。
ひとつづつ片付けさせてください。
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No.15 にお応えして



大変良い質問ですが、本来の質問の主旨から外れるので良心が痛みます。

ここは、別途質問を建てていただいた方が適切かと判断致します。

格助詞「に」については、
「格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9186 …

を提起しておりますので、この内容を吟味の上、続けてコメントいただければ幸いです。■
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この回答へのお礼

その〝認識〟があるなら、いい加減にしていただけませんか。
 次に本題と無関係と思えるコメントを入れたら、コメントをブロックします。

お礼日時:2021/02/05 21:19

#13です。


ご返答ありがとうございます。


><「動作の着点」が「5時」>は<「動作の対象としての時刻」が「5時」であること>とは異なります。

了解しました。

c.「会議は5時に始まります。」

この文を解釈する場合に、

(ア)格助詞「に」は【「始まる」という動作の「対象としての時刻」】を「5時」と位置づける認識を表わしている。

(イー2)『時刻の着点ではなく、「始まる」という「動作の対象としての時刻」が「5時」であることを「に」で表しているのです。』

という解釈はどちらも正しいが、

(イ)『時刻の着点ではなく、「始まる」という「動作の着点」が「5時」であることを「に」で表しているのです。』

という解釈は間違いである、というご見解であるということですね?
(もし違っているなら、具体的箇所をあげてご指摘いただければ助かります)
いずれにせよ、おかげさまで、やっと一歩前進することができます。


そこで本題です。
先にも質問しましたが、アスナロウさんのおっしゃった下記の箇所(◆ーーー◆)について再度確認させてください。

◆ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
客体的な時刻を表すのが「5時」であり、「あげる」「もらう」という動作の客体としての対象が「先生」などです。これらの、時刻、対象の位置付けの認識を表すのが格助詞「に」です。対象自体や対象としての時刻自体を表しているのが「先生」や「5時」です。

この相違が理解できないために、客体自体を表す「着点」という語を使用し時刻を「動作の着点」などと言い換えて誤魔化しているに過ぎません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◆
頭が悪くて、アスナロウさんがおっしゃった、この内容をよく理解できていないのでいくつか質問させてください。

【質問1】
『客体的な時刻を表すのが「5時」であり』とおっしゃっていますので、
《5時=客体的な時刻》である、とおっしゃっていることになりますよね?

次に、
【質問2】
『客体自体を表す「着点」という語を使用し』とおっしゃっていますので、
《着点=客体自体》というご見解なのですよね?

以上のことから、
【質問3】
「5時」が客体的な時刻であるならば、
「5時」を「着点」という客体自体である、と認識することは可能ですよね?

頭が悪くてお手数をおかけしますが、質問ひとつひとつについてお答えいただけると有難いです。
よろしくお願いします。
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No.13 に応えて



先にNo.9 で下記の通り回答しており、「どうも歯に物が挟まったような言い方で」はなく明快に回答しておりますが?

【質問1】
(ア)と(イー2)は、どこが違うのですか?

(イ)『時刻の着点ではなく、「始まる」という「動作の着点」が「5時」であることを「に」で表しているのです。』
と、
(イー2)『時刻の着点ではなく、「始まる」という「動作の対象としての時刻」が「5時」であることを「に」で表しているのです。』

は同じではありません。<「動作の着点」が「5時」>は<「動作の対象としての時刻」が「5時」であること>とは異なります。ここに言い換えによる誤魔化し、恣意的な非論理的解釈の誤りがあります。本質的にはこの相異が質問者には理解できていないということです。■
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#11です。



>そうですね。この次が誤りと指摘していますが、理解できませんか?

どうも歯に物が挟まったような言い方ですねえ。
まあ、よろしいでしょう。
つまり、アスナロウさんは、

(ア)と(イー2)は同じだが、(イ)と(イー2)は同じではない。
とおっしゃってますか?

イエスノーで端的にお答え願います。
それを受けて先に進みますので。
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No.11 にお答えして



No.9 で【質問1】【質問2】を質問されたので、それにお答えした通りです。

>>(ア)格助詞「に」は【「始まる」という動作の「対象としての時刻」】を「5時」と位置づける認識を表わしている。
とおっしゃっていることになります。
ここまでは間違いありませんか?

そうですね。この次が誤りと指摘していますが、理解できませんか?

>>>本質的にはこの相異が質問者には理解できていないということです。

そのようですね。

この点を理解いただけば問題ないと思いますが?■
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#8です。



>本質的にはこの相異が質問者には理解できていないということです。

そのようですね。
だからこそ質問しているのですが。
であるのに、なぜ、最も聞きたかったことにお答えにならないのでしょうか???
なぜですか???
以下に再掲しますのでよろしく頼みます。

(ア)格助詞「に」は【「始まる」という動作の「対象としての時刻」】を「5時」と位置づける認識を表わしている。

とおっしゃっていることになります。
ここまでは間違いありませんか?
合っていると思うのですが、もし、わたしの解釈が間違っているようなら、どこが間違っているかを明確にするため、可能な限り(ア)の原文に沿って添削してください。
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No.9 の補足です。



No.8の質問者は『日本語はどういう言語か』(三浦つとむ)をお持ちのことと思います。この本では、最初に直接感性的な表現である絵と、概念、規範を媒介とする言語表現の相違を取り上げ論じています。

第一章 絵画・映画・言語のありかたをくらべてみる
 1 絵画と言語の共通点

ここで、共通点と相違が第1から第5の問題として取り上げられています。この第1の問題は次のように記されています。

【絵画や写真は客体的表現と主体的表現という対立した二つの表現のきりはなすことのできない統一体】として考えるべきものであり、主体的表現の中にはさらに位置の表現と見かたや感情などの表現とが区別される、ということになります。
 では、言語ではこの二種類の表現はどういう形をとってあらわれるか?
どう結びついていくか? これが第一の問題です。

結論は次のように記されています。

絵画や映画では客体的表現と主体的表現とが切りはなせないものとして存在したのに、言語では分離され個々に独立したものとして存在する結果となるのです。いいかえると、【言語が対象の感性的な面からの制約をのがれたということは、一方では表現のための社会的な約束を必要とする結果を、また他方では客体的表現と主体的表現とを分離させる結果をうみだした】わけで、ここに言語の本質的な特徴を求めなければなりません。(81p)

まず、この点をしっかり理解しましょう。■
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