最速怪談選手権

1. 神は 神の言葉にさからうことも出来る自由意志を人にあたえた。

2. 意志による選択の自由であり その自由度は ウソをつくという自由をもふくむ。
 
3. ウソによっておのれの腹をこやすことも 自由。ウソによって人びとのかなしみを癒し元気を取り戻させるのも 自由。

4. すべてのことはあなたたち次第だと言えるほどの自由である。

5. ゆえに 神はいない。と言うのも同然なのだ。


☆ 自由な――もっと自由な もっともっと自由な もっともっともっと自由な――コメントをどうぞ。

質問者からの補足コメント

A 回答 (12件中1~10件)

>>4.すべてのことはあなたたち次第だと言えるほどの自由である。


>>5.ゆえに 神はいない。と言うのも同然なのだ
と言う質問の仮説から
>完全自由が神の否定であり、不自由の存在が神の肯定であるならば。
と再定義を設定しただけです。

その後に、これを基準として、人に完全自由でない部分が見つかるならば、神が存在すると言う結論へと導びきます。

bragellone様の、質問指摘内容が正しいと言う仮の前提での回答でした。
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この回答へのお礼

★ bragellone様の、質問指摘内容が正しいと言う仮の前提での回答でした。

★★ (№11) ~~~
(お) 完全自由が神の否定であり、
(か) 不自由の存在が神の肯定であるならば。
(き) 貴方は自由な意思で生まれた訳ではない。
(く) 不自由にして生まれたのです。
(け) つまり神は存在する。
~~~

☆ としますと 次のように表現しなおすとよいように思います。

(お a ) 人間の意志にかんする完全自由のばあいには もうそこには神を持ち出す必要は ない。神は わざわざ否定することをしなくても そのハタラキを見せない。

(か a ) 意志の行使についてそれが不自由である場合には ちょうどその不自由の部分をおぎなうかのように 神のハタラキを必要とすると言えるかも知れない。

(か b ) ただし 初めから信教の自由において神は無いとする場合には 意志の不自由をそのまま前提として 人間は社会にあって互いのマジハリをとおして生きてゆくことになると見ている。



(き a ) 人間の意志自由という想定は 実際には 相対的な自由であり その意味で自由には限界がある。


(く a ) ひとはその意志にかんして相対的な自由を享受するまでであり じっさい不自由のもとに生きている。


(け a ) これらすべての場合に関して 相対世界を超えた絶対性としての神は 人間が泣こうが笑おうが 初めから無条件で――人間にとって――存在が想定されている。

(け b ) 念のために言えば 神の存在は 絶対性としての――想定じょうの――ものであるから 経験的相対性の世界での《有るか無いか》の規定を超えており《因果関係》から完全に自由なのである。

(け c ) だから そういう神は 経験事象をあつかう人間の言葉で 《有る》と言っても《無い》と言ってもどちらの規定をも超えている。

(け d ) だから逆に言って 絶対性なる神については 人間としてその表現を 《神は有る》と言っても《神は無い》と言っても どちらも同等・対等かつ平等である。好きなほうをえらべばよい。

お礼日時:2021/05/18 18:20

完全自由が神の否定であり、不自由の存在が神の肯定であるならば。


貴方は自由な意思で生まれた訳ではない。
不自由にして生まれたのです。
つまり神は存在する。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

えっとですね。

★ 完全自由が神の否定であり、不自由の存在が神の肯定であるならば。
☆ という前提についてですが まだその条件づけが あいまいなのではないか?


(あ) 人間の意志〔の行使〕の完全自由は それでも相対性の世界を出得ず 有限の思惟や行動としての完全自由であるしかない。

☆ ――なんです。つまり:

(い) 完全自由が 絶対性なる神を否定することは かなわない。

☆ ――となるはずです。

(う) 神は 人間が肯定したから 神として存在することができる・・・というものではない。

(え) 人間の意志やその存在に関係なく 神は 神である。

☆ ――というようになるはずなので 再考を要請いたしたいと思いますが。

お礼日時:2021/05/18 10:55

かみわざ・奇跡・技能・技術で行い人あり。


やって見せる者もある。
手品もそうだが、種のあるもの、ないもの、分かれば、成るほどで、分からぬものもある。
一枚の紙でできるもの。折紙とかもある。
あれもいろいろなものを1枚紙で作り、折れるはずないと思えるものも見ると
驚くものあり。
忍術・妖術・魔術・魔法・魔教もあるでしょうね。
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この回答へのお礼

★ かみわざ・奇跡・技能・技術で行い人あり。
やって見せる者もある。
☆ これも基本は タトへとしての神でしょうね。


★ 手品もそうだが、種のあるもの、ないもの、分かれば、成るほどで、分からぬものもある。
☆ これらは 人為的なわざでしょう。


★ 一枚の紙でできるもの。折紙とかもある。
あれもいろいろなものを1枚紙で作り、折れるはずないと思えるものも見ると
驚くものあり。
☆ たしかに驚きではあります。



★ 忍術・妖術・魔術・魔法・魔教もあるでしょうね。
☆ 一般に《呪術の園》と言われています。そのよきものを保持しつつも すでにわれわれはその園から解放されています。エントツァウバルング。

お礼日時:2021/05/17 10:07

妻や主人・上役・利益をもたらす人を神・上と呼ぶ場合もあるね。


電気や惠も神と言えば神。
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この回答へのお礼

確かに そういう呼び名があります。

それは タトへとしての用法だと思われます。


神本体の問題として 何が言えるか? どう捉えるか?

《有る神》も《無い神》も 同じではないか? といった主題です。

お礼日時:2021/05/17 09:05

猫は最も神に近い存在である。


猫は他の一切にかかわらない。自分の楽しみのときは別として
神は自分の姿に似せて猫を作った。
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この回答へのお礼

★ 猫は最も神に近い存在である。
☆ ですが それもあなたの主観としての真実にとどまります。

誰かがその命題を否定することができるか? と言えば 出来ないでしょう。けれども それを肯定し証明することも やはりできません。



★ 猫は他の一切にかかわらない。
☆ そういう感じを受けるときがあります。


★ 自分の楽しみのときは別として
神は自分の姿に似せて猫を作った。
☆ 虚構作品としては おもしろいのですが 哲学の議論としては いまひとつ一般性がないでしょうね。

お礼日時:2021/05/17 08:56

神は過去に信仰しても、やがて当たらぬとか、役立たぬと分かると、


捨てられる。
地上に様々な生物がいることも神の創造と思う。
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この回答へのお礼

★ 神は過去に信仰しても、やがて当たらぬとか、役立たぬと分かると、
捨てられる。
☆ むろん捨てるのは 自由ですが その《役に立たない》かどうかは あくまでその人の主観としての判断です。ほかの人なら 役に立たなかったそのことが 別の方面で意義があった・・・となるかも知れません。

ですから 主観〔だけ〕の真実というのは 一般性がないのです。



★ 地上に様々な生物がいることも神の創造と思う。
☆ そうは思わぬという別の主観と まったく同等・対等なんです。その種の議論は 理論追究にはならないんです。よ。

お礼日時:2021/05/17 08:44

神は仏壇(先祖のを守り神)・神棚・心の中・夢の中・神体にいる。


時々、想像もつかぬ珍事起こる。神の摂理や仕業と思う。
教会とか・神社・寺・遺跡・遺物にもいる。
教祖は自分で神と名乗り、信者が集まる。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 神は仏壇(先祖のを守り神)・神棚・心の中・夢の中・神体にいる。
☆ この認識は まだなお主観真実の域を出ないのと違いますか。

★ 神体
☆ は 神そのものです。

★ 仏壇・神棚
☆ は 特定の神のことを言っています。やはり主観にとっての真実にとどまります。

★ 心の中・夢の中
☆ は そこに現われる神について いかようにも想像し得ます。つまり おれはそうは思わないよと別の人に言われたら 一般性がなくなります。(真実でなくなるのではないとしても)。



★ 時々、想像もつかぬ珍事起こる。神の摂理や仕業と思う。
☆ その主観真実も 個人としては あり得ますが 一般性にとぼしいと言わざるを得ないでしょう。


★ 教会とか・神社・寺・遺跡・遺物にもいる。
☆ 以上の話と同じですね。


★ 教祖は自分で神と名乗り、信者が集まる。
☆ これは 神の分身のことを 自然現象やそれの社会への影響といった事象にではなく 人間についてたとえたものですね。

自分の主観としては 真実かも知れませんが 一般性がありません。

お礼日時:2021/05/17 08:32

神は心の中「だけ」にいます


従って何でも自由
思考は自由です
心の中だけなので、存在の有無も自由
いでもいなくてもいい
心に正解はありません
あるのは多数決だけ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 神は心の中「だけ」にいます
☆ その議論は――主観の自由およびそのみづからにとっての真実として どこから見ても 間違いではないですが それにしてもその主観の域を出ず―― 他者をまじえた議論としては 役に立ちません。

心の中あるいはあたまの中 こういった思いや想像を根拠にする思考は 発展性がないんです。


★ 従って何でも自由
思考は自由です
☆ と言えますが それが独り善がりでないと証明することも出来ません。


★ 心の中だけなので、存在の有無も自由
いでもいなくてもいい
心に正解はありません
あるのは多数決だけ
☆ 通用すると思いますか? 無理だと思うのですがねぇ。

つまり わたしゃ そうは思わないよ そしてこの心とあたまの中の思いは 真実であり 間違いないんだよ・・・と言って来たらどうします?

お礼日時:2021/05/17 07:39

批判ではないよ?


自由意志ということすら信仰の一つでしかないという指摘です。
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この回答へのお礼

すみません。ささやかな紹介記事を読んだだけですので お尋ねしました。


★ 自由意志ということすら信仰の一つでしかない
☆ ううーん。と言いますか ふむふむと言いますか。

そうですね。禁断の果実を口にしたというコトには 約束をやぶる・あるいは要するに 禁断をまもるという心に対してさからいウソ・イツハリを為すことが含まれます。


ということは 自然のふつうの心にしたがうか それともさからうか。ふたつに一つの選択があります。そしてそれは 自由です。

自由意志は 事実なのではないですか?


自由だとただだまされているに過ぎないよ。と言われたら そのだまされたかたちにおいて 選択肢から選択するのは だれもが 自由ですよね? 例外はなく。

つまり 信仰の問題ではなく 現実なのではないですか? 《だまされている》という視点は 神のものなような気がします。

お礼日時:2021/05/17 07:18

神は死んだ。

居なくなった。

頭の中に居る人は居る。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 神は死んだ。
☆ それは 阿呆のフリッツくんが言ったに過ぎない。

いつ死んだの? それをあなたは見たんかいな?


★ 居なくなった。
☆ と言ったって 居るところをその前には見たんかいな?



★ 頭の中に居る人は居る。
☆ そんなことは――あたまの中の想像の問題は―― どうにでもなることです。そんなことを持ち出すとは いやはや。

お礼日時:2021/05/17 06:59

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