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私の脳内の限界のようですね。
過去に同じ質問をやってました(^^;

宗教は人を救うためにあるのは知ってますが、排他的な一面もあるが故に
異端者や無宗教な人を見下す道具になりかねない側面もあります。

じゃあ、宗教というのは世界中の人達すべての救済では無くて、
その宗教(思想?)の信者だけが救われるものだとしたら、それはどうなんだろう?と思いました。


もっと引いて考えると、結局、救済とは各々の心の問題に寄るのでどんな物を信じようとも、解釈する側の心が汚れていれば救済されることは永遠にないのかな?と感じました。

 つまり、どんな方向であっても最終的には自身の魂の研磨なのかなと?

A 回答 (9件)

教えてgooで質問出してベストアンサーを選ぶようなものじゃないですか?宗教は自分の考えと合うから選ぶんです。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

よくわかりませんが、宗教を学ぶことで勉強になることもあるとは思います。

でなきゃ、数千年の歴史を持つ宗教はとっくに廃れていたはずです。
その教えには、太古の人から現代人までをも魅了する内容だからと思います。

ちなみに私のBAの決め方は、基本的に正解だったり、自分と同じような考えだったりもありますが、異論であっても筋が通ってればBAにしますし、
別角度からの視点は目から鱗なので、個人的には嬉しいです。

お礼日時:2021/10/16 18:43

はい。


宗教とは、救いを求める人のために有ります。

しかし、外部から見れば、逸脱しすぎた宗教に見える場合も有ります。
オウム真理教、イスラム原理主義、…
それでも、内部から見ると、救いなのかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

よくイスラム教徒の自爆テロはジハードの一種と言われてますが、
日本の特攻隊も含め、本当にその行為に「真」があるのだとしたら、
指導者自ら率先して、実行すべきだと思います(笑)

その行為自体が矛盾している訳です。

お礼日時:2021/10/17 19:39

信じるものは救われる。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。
でしょうね。

ただの石ころを幸運のお守りとして信じ続ければ、案外叶うかもしれません。

お礼日時:2021/10/17 19:40

>宗教は人を救いますか?



はい、救います。宗教でしか救われない人や感情が存在するからです。

>その宗教(思想?)の信者だけが救われるものだとしたら、それはどうなんだろう?と思いました。

それは「宗教」と言う言葉ではなく「教義」という言葉を使ったほうがいいと思います。

 たしかに、キリスト教にしてもイスラム教にしても、ある「教義」が世界中すべての人を救うわけではありません。
 ただ、そもそも、一つの教義が世界すべての人々の心に浸透するものでもありません。

じゃあ、なんで「その宗教(思想?)の信者だけが救われる」という事が起きるのか?というと、それは「宗教=教義」ということだけでなく「教義=価値観」になっているからです。

だから、たとえば「イスラム教は豚を不浄のものとする」というのは、年中暑い砂漠地帯で生きる人たちにとっては食中毒を避けるために重要な価値観です。
 でもドイツやイギリスなど比較的寒い地方では全く不要な価値観なので、元々イスラム教が浸透しにくいわけです。

そういう「人種や民族ごとのそれぞれの生活スタイルに合わせた価値観」が違うからこそ「「その宗教→価値観は、その価値観を必要とする地域の人たちだけが信者になり、だからこそ彼らだけが救われる」ことになるわけです。

なので世界中の人々の生活環境や周囲の自然環境が異なる以上「普遍的な宗教」というのは難しいといえます。
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> 過去に同じ質問をやってました(^^;



少し前までの質問を探しましたが、みあたりませんでした。
「宗教は人を救」でネット検索しても、見当たりませんでした。
どのような質問で、どのような回答を得ているのでしょうか。

> その宗教(思想?)の信者だけが救われるものだとしたら、それはどうなんだろう?と思いました。

信じるものだけ、信者だけが救われるというのでも、宗教というか、信仰は成り立つでしょう。 (だれであろうが、反対者、敵対者、無関心のものも救われる)という教説では、信仰や宗教にはなりにくいと思います。 「救い」「救われる」という概念は、その状態ではないものの存在を前提にして成り立つものでしょう。 「死ねばだれでも救われる」という教説の場合でも、「生きているうちから救われるor救われることを実感出来る」というような状況も起きうることを説くので、信仰や宗教が成立し、受け入れられるのでしょう。
「それはどうなんだろう?と思いました」という表現を、具体的にイメージしやすいものに変える工夫をされてはどうでしょうか。

> 解釈する側の心が汚れていれば救済されることは永遠にないのかな?と感じました。

「心が汚れている」って、どのような状況のことでしょう。 手が汚れている、シャツが汚れている、部屋が汚れている、街が汚れている、あるいは「汚い奴らだ」などでも、判定とか評価の基準や方法が不明、結果表示法が不明では、何もわかりません。
「救済される」に至っては、どうにも、共通理解の場を作ることが困難だとは思いませんか。
また、"永遠"の語は、かなりnow感覚的なことを表現していることが、良くあります。 現実に苦悩し不安や恐怖にさいなまれていたり、借金や生活に強くさいなまされていると感じる人が、「死んでしまえば、この苦しみから解かれ、救済される」と思ったり、希死念慮にとりつかれたりするのに、特定の宗教や信仰、教説はなくても済みそうに思います。 そのような希死念慮が浮かぶのは、「生きているから」というイメージがあるためです。 死後も永遠になどという発想はたぶんなく、"永遠"という語は、今現在のエンドレス感・終わりが感じられないという意味でしかないです。
 
過去に同じような思いにとりつかれたことがあり、時々再燃するようであれば、言葉が上滑りしているため、構築や積み上げ、検証、深化などが進まずに、「また同じ」になってくるといことかもしれません。

何かに触発されて、思考する、検討するのは面白いことなのでしょうが、築あげることが出来るように、ある程度は土台をしっかりさせた方がお得だと思います。 そうでないと、ただの時間つぶし、パチンコのようなのと変わりがなくなると思います。

> どんな方向であっても最終的には自身の魂の研磨なのかなと?

「自身の魂の研磨」って、どのような行為のイメージでしょうか。 研磨出来た魂と研磨前の魂と研磨途上の魂とか、判じる方法があるとお考えでしょうか。 
ただ、言葉を並べ、綴っても、そのような行為は何かの前進、土台強化にもならないように思います。 
宗教に限らず、みな似たようなものだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

そうですか。
見当たりませんでしたか。

私の質問を書く際に、タイトルを決めようとしたら
自動的にこのキーワードで出てきたことから、
以前、同じ質問をした可能性が高いのです。
(ただし、私も見つけられなかった)


色々とご意見ありがとうございました。

魂の研磨は今までだったらとっくに怒ってたり、
とっくに、駄目な選択をしてたのを改めるようなイメージですね。

本能に任せ、怒る、泣く、嫌がらせをする、嫉妬するのは簡単ですが、
それでは人は成長しないと思いました。

お礼日時:2021/10/20 20:19

排他的であり、信者のみしか救われない、という条件があるから救われている人が大勢います。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

そうですね。

お礼日時:2021/10/20 20:20

>宗教は人を救いますか?



もちろんです。

でも、『宗教』には正・邪がある事を知りましょう。
そして、そうした『宗教』が人間の幸不幸を決める大きな要因となっているのです。


>その宗教(思想?)の信者だけが救われるものだとしたら、それはどうなんだろう?

基本的には、『一切衆生』というからには、全ての人間を対象として『法』は説かれています。
しかしながら、人間の持つ『縁』というものは、目の前に『法』がある、あるいは『法』を説く人がいても、

①.法を素直に受け入れられる人。
②.法を拒絶する人。
③.全く法に縁できない人。

に分かれます。
これは、その人の“宿習”に依ります。


>どんな方向であっても最終的には自身の魂の研磨なのかなと?

違います。
というか、多くの人の間違いはそこにあります。
「魂の研磨」、、、と言っても、そこは「本(根本、基本)」を持つべきです。自分自身の姿を映し出せる鏡です。これこそが、本尊と呼ばれる信仰の対象であり『法』であるのです。
それくらい、人間の心というものは不確かで曖昧で、一瞬で変化してしまうものだからです。この事を表わしたのが、以前からお話しをしている『十(法)界』であり、『一念三千』であるのです。

日蓮大聖人は、「心の師とはなるとも心を師とすべからず」と言われています。これは、あなたのこの質問の核心を否定する言葉です。

『法に依って人に依らざれ』です。
これは、深く思案するすべきです。

所謂『法』とは、『南無妙法蓮華経』を指して言います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

いつも感謝です。
本当に人間の心は曖昧です。
自分自身すらコントロールできてないのに気づきます。

お礼日時:2021/10/20 20:21

じゃあ、宗教というのは世界中の人達すべての救済では無くて、


その宗教(思想?)の信者だけが救われるものだとしたら、
それはどうなんだろう?
  ↑
ユダヤ教がそうですね。
あれはユダヤ人の為だけの宗教です。
それを、世界の為の宗教にしたのが
キリスト教です。



もっと引いて考えると、結局、救済とは各々の心の問題に寄るので
どんな物を信じようとも、解釈する側の心が汚れていれば
救済されることは永遠にないのかな?と感じました。
 ↑
真っ白な人間も、真っ黒な人間も
おりません。

それに真っ黒な人間を救うことこそ
意味があるのではないですか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私はそろそろ半世紀近く生きてきたことになりますが、
振り返ってみると、一貫性が何も無い人生でした。

迷える子羊というか、駄目ですわ。

お礼日時:2021/10/20 20:22

No.2です。



> 指導者自ら率先して、実行すべきだと思います(笑)
正にその通りなのです。
しかし現実的には、
指導者は富と権力を目的にしている場合が多いです。
歴史が浅い宗教は特に。それが長くてもその一部も。

とある宗教の集団結婚式が話題になった時代がありました。
時のアイドルが会員だったことでも話題になりました。
そこに参加できる花嫁は、教祖の資格審査合格が条件、
なのだそうです。資格審査は床中ということです。
富と権力の他に、こんなことも欲しがる教祖も居るようです。
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます。

宗教のそういう駄目な部分も知ってるから、胡散臭く感じるのです。

とはいえ、結局は解釈する側の心の問題であるとは思います。

お礼日時:2021/10/20 20:23

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