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日本の仏教は中国・朝鮮を介してきたにもかかわらず、日本だけが肉食(4つ足)を避けたのはなぜでしょうか?

A 回答 (14件中1~10件)

No.5です。



>なぜ日本だけ<肉食を罪悪視>が強くなったのでしょう?

仏教が無益な殺生を禁じているため、人に近い獣を殺して食べることを良く思わないことは自然の流れです。かつ牧畜をやってない日本で戒律を守る→肉食を忌避することはたやすかったでしょう。

>(中国・朝鮮ともモンゴル人の征服され・仏教の殺生戒については目をつぶった、のでしょうか?)

中国や朝鮮では、仏教の殺生戒を守ったのは聖職者のみです。一般民衆には厳しい戒律は一般的ではありませんでした。また中国の仏教ですが、決してメジャーではありません。中国の三大宗教としてあげられるのは道教、儒教、仏教であり、その中の儒教には肉食を禁じる戒律はありません。そのバイブルともいえる論語、孟子なども普通に肉食に触れています。道教は仏教の様に肉食はいけないことになっていますが、それを守ったのは道士だけで、民衆には特に戒律はありません。

中国では普通に肉食をしていますので、それを厳しく禁じると布教にも悪影響があったかもしれません。道教でも同じです。朝鮮は歴史的に長く中国の属国だったので、大体中国の右に倣えでした。

また日本では天皇が肉食禁止令を出すこともありましたが、中国歴代皇帝がそのような禁止令を出したことはなく、王朝が一貫して仏教を信仰・保護することもありませんでした。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
中国は、肉食禁止を出すことは、他宗教との対抗上、難しかった、ということですね。日本は、食を忌避することはたやすかったので、教義どおり(馬鹿正直に)に禁止した、ということですね。

お礼日時:2021/11/05 17:28

> 日本だけが肉食(4つ足)を避けたのはなぜでしょうか?



日本で肉食が避けられる動きがあったのは、一部限定でしょう。
仏教の戒律や禁忌とは関係の少ないこと、例えば、期間中の影響がでて、臭い肉とか、遺体を避ける影響があったのでしょう。

山が多くて草地や田畑にできるところが少なくて、頻繁に飢饉も起こる日本列島では、「草や穀物を動物に食べさせて飼育してからして肉を食う」という食文化を作るのはむかなくて、周囲の海から捕ってくる貝・エビ・魚・タコを蛋白源としカロリーはともかく米粟稗蕎麦麦芋栗、それと野菜を人間が直接食べるのと、さほど草などなくても飼育出来る鶏や山野鳥を鳥追いが捕って食べるというようにならざるを得ないのでしょう。 豬や鹿、タヌキなどを捕って食べてはいたようですが、多くの人の食に供するほどの量はとれないので、街中に住む人にまでは回らなかったでしょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC …
日本では古来、食用の家畜を育てる習慣が少なく、主に狩猟で得たシカやイノシシの肉を食していた。仏教伝来以降は、獣肉全般が敬遠されるようになっていったが、日本人の間で全く食べられなくなったという時期は見られない。獣肉食に関する嫌悪感も時代とともに変わっていったが、おおむね、狩猟で得た獣肉は良いが家畜を殺した獣肉は駄目、そして足が多いほど駄目(哺乳類>鳥>魚)と考えられることが多かった(タコ・イカは例外)。獣肉消費量が魚肉を上回るのは第二次世界大戦後の高度成長期より後のことである。
延喜式には獣肉の記載がほとんどないが、一方で鹿醢(しししおびしお)、兎醢など獣肉の醤油漬けや、宍醤(ししびしお)という獣肉の塩漬けを発酵させた調味料に関する記載が現れる。乳製品もさらに多く摂られるようになっている。平安末期になると孔子に食肉を供えるはずの行事釈奠でも代わりに餅や乾燥棗などが用いられるようになったり、正月の歯固の膳でも鹿の代わりに鴫、猪の代わりにキジが出されるようになった。また、穢れを信じるあまりに馬肉は有毒とまで考えられ、『小右記』の1016年(長和5年)の条には犯罪を犯した男に馬肉を食べさせた旨が記されている。当時の医学書『医心方』にしし肉(獣肉)と魚肉の食い合わせが良くないと記されていたり、『今昔物語』には庶民がしし肉を買いに行く場面が出てきたりと、完全に食肉の習慣が無くなったわけではなかった。平安時代の古語拾遺には古代のこととして「大地主神、田を営るの日、牛の宍を田人に食はせ」とあり、御歳神に対する神事として農民に牛肉を食わせたことが書かれている。
鎌倉時代になると、武士が台頭し、再び獣肉に対する禁忌が薄まった。武士は狩で得たウサギ、猪、鹿、クマ、狸などの鳥獣を食べた。鎌倉時代の当初は公卿は禁忌を続けており、『百錬抄』の1236年(嘉禎2年)の条には武士が寺院で鹿肉を食べて公卿を怒らせる場面が出てくる。しかし時代が下ると公卿も密かに獣肉を食べるようになり、『明月記』の1227年(安貞元年)の条には公卿が兎やイノシシを食べたとの噂話が載せられている。
法然は自身の肉食は忌避してはいたものの、肉食をしても念仏を唱えれば救われると説いた。法然の弟子の親鸞は「肉食妻帯」伝説で知られ、『口伝鈔』よると、幼少期の北条時頼の前で僧の象徴である袈裟を着たまま魚を食べたと記されている。日蓮は自身が肉食した記録は乏しいが、「末法無戒」を唱えた。対して禅宗の影響で、動物性の材料を一切用いない精進料理も発達した。精進料理は単なる植物食ではなく、「猪羹」など獣食に見立てた料理もあった。
南北朝時代の『異制庭訓往来』には、珍味として熊掌、狸沢渡、猿木取などの獣掌や、豕焼皮(脂肪付きのイノシシの皮)を焼いたものなどが掲載されており、『尺素往来』には武士がイノシシ、シカ、カモシカ、クマ、ウサギ、タヌキ、カワウソなどを食べていたことが記されている。医学も進歩して『拾芥抄』には2月のウサギ、9月の猪肉を食べないように記載されている。僧侶もひそかに肉食をするようになり、特にウサギは鳥と同様の扱いになって、『嘉元記』の1361年(南朝:正平16年、北朝:康安元年)の饗宴記録にもウサギ肉について記載されている。
たぬき汁が登場する「かちかち山」が成立したのは室町時代後期といわれるが、その時代の料理書「大草家料理書」にはタヌキを蒸し焼きにした後に鍋で煮る「むじな汁」のレシピが記されている。
江戸時代には建前としては獣肉食の禁忌が守られた。特に上流階級はこの禁忌を守った。例えば狸汁は戦国時代には狸を使っていたが、江戸時代にはコンニャク、ごぼう、大根や豆腐を調理した精進料理に変わっている。
1613年(慶長18年)、平戸島に商館を開設したイギリスのジョン・セーリスは陸路で大阪 (osaca) から駿河 (Surunga) に向かう行程で書かれたとみられる日本人の食習慣に関する記述の中で、豚が多く飼育されていることに言及している。1643年(寛永20年)の刊行とされる『料理物語』には、鹿、狸、猪、兎、川獺、熊、犬を具とした汁料理や貝焼き、鶏卵料理等が紹介されている。1669年(寛文9年)に刊行された料理書『料理食道記』にも獣肉料理が登場する。1686年(貞享3年)に刊行された山城国の地理書『雍州府志』には、京都市中に獣肉店があったことが記されている。

18世紀には、なぜ獣肉食が駄目なのか、獣肉食の歴史はどのようなものだったかについての研究も行われた。儒者熊沢蕃山は没後の1709年(宝永6年)に刊行された著書『集義外書』の中で、牛肉を食べてはいけないのは神を穢すからではなく、農耕に支障が出るから、鹿が駄目なのはこれを許せば牛に及ぶからなのだ、との見解を示している。藤井懶斎は儒者の立場から、没後の1715年(正徳5年)に刊行された『和漢太平広記』の中で、孔子に食肉を供えるはずの行事釈奠で肉を供えないのでは儒礼とは言えないとの見解を示している。香川修庵は1731年(享保16年)、著書『一本堂薬選』の中で、日本書紀や続日本紀の中に肉食が行われていた記録があることに言及した。本居宣長も1798年(寛政10年)に完成した『古事記伝』の中で、古代の日本人が肉食をしていたことに言及している。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
ご回答の中身にかなりずれてきましたが、私のただいま今の見解を書きます。
1.日本人は(いわゆるくそ真面目に)書物とおりに、<仏教の戒律や禁忌>を守った、と思います。
2.<農耕に支障が出るから>については、日本は牧畜狩猟より稲作に適しており、それに支障が出ることは避けた、のだと思います。
ただし、ご回答にありますように、完全にに肉食を回避はしないし、できなかった、ですね。イスラム教における豚肉のタブーほどではないですね。

お礼日時:2021/11/11 16:05

その土地、その土地にあった


考え方が主流になるからじゃないかなぁ~
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この回答へのお礼

御尤も

お礼日時:2021/11/06 10:06

他の回答者さんが仰る宗教そのものの教義の問題以外に、


日本には仏教と、仏教の教えに相反しない八百万の神々に対する信仰で、民衆の生活に仏教の教えが自然に根付いた。
中国や朝鮮では、道教や儒教など、仏教以外の思想が強くて、仏教の教えが民衆に広く根付く機会が少なかった

ということもありそうですね。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
いわゆる神道の教えが、仏教の教えを陰ながら支えたこともあるのですね。

お礼日時:2021/11/06 10:06

No10です。


他の方の回答で気になったことを追記します。

中国では仏教を厚く保護した王朝はいくらでもあります。
一方、仏教を弾圧した王朝も数多くあります。

仏教が弾圧された(特に北周の武帝の仏教・道教二教の廃毀)ことにより「末法思想」が中国で盛んになり浄土教の隆盛につながるんですよ。

中国の仏教(wiki)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD …
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
<仏教が弾圧され><「末法思想」が中国で盛んになり浄土教の隆盛>なのですか。

お礼日時:2021/11/05 17:43

仏教には「不殺生戒」という戒律があります。


「無駄な殺生は行ってはいけない」というものです。
でもね、原始仏教では肉食を禁じる規定はなかったのですよ。

出家にとって信者から提供された食事はいただくことが義務だったのです。
釈迦の最後の食事である「スーカラ・マッダヴァ」は「柔らかい豚肉」という有力な説があります。

ですが、中国に渡った段階で肉食禁止という考えが導入されたようですね。また中国から仏教が伝来した際に朝鮮にも日本にも肉食禁止の考えが持ち込まれたようです。

ただ中国では遊牧民族が王朝の時代が何度も訪れています。また朝鮮も遊牧民族の占領されています。遊牧民族にとって「肉食禁止」というのはナンセンスも甚だしいですよね。こうして中国や朝鮮では「肉食禁止」という文化は途絶えました。

こうして日本だけが肉食禁止という文化がのこりました。もっとも完全に肉食がされなかったということではなく、「兎は鳥」とこじつけて一羽二羽と勘定したり、「肉は薬だ」といって薬食いと称して食べたこともありました。どのため「サクラ」「ボタン」などの隠語を使われました。

なお、仏教について確認されているのは朝鮮半島を経由して伝わったということです。すくなくとも東南アジアで盛んだった部派仏教(小乗仏教という表現は大乗仏教を称する人たちからの蔑称です)が日本に伝わった形跡はありません。日本に伝わった経典はすべて中国の言葉である「漢文」で書かれています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<遊牧民族にとって「肉食禁止」というのはナンセンス>ですね。
中国も朝鮮も遊牧民族の占領などでその影響が大きかったのですね。

お礼日時:2021/11/05 17:34

そもそも、仏教とは関係ないのでは?


仏教の殺生禁止と日本の生活文化が、偶々整合したので後付けとして、その様に流布されたと思います。
仮に、仏教の影響であれば、漁師は成仏できないと言う問題が起きていますから、牛馬でもその様な問題が惹起される筈ですが在りません。
日本は稲作文化であるため主食は米。牛馬は食するものでは無く、一緒に働くものです。一緒に苦労して米を作って、終わったら食べる様な事は、感情的に許さない文化があったと思われます。各地に馬捨て場があった事から食べなかった事は確かです。
また、鶏は食していますから、仏教が食生活に与えた影響は限定的と思われます。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<偶々整合したので後付け>で禁止になった・禁止ができた、ということですね。

お礼日時:2021/11/05 17:30

> ただし、気になるのは、中国・朝鮮でも<独自に解釈している>と思いますが、なぜ日本だけなのか?、です。



残念ですがそれはあなたの思い込みです
中国朝鮮の仏教も宗派の解釈によって違います
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この回答へのお礼

御尤も

お礼日時:2021/11/05 17:23

№2です。

「気になることは、中国・朝鮮でも<様々な流派>があると思いますが、なぜ日本だけなのか?、が依然疑問として残ります。」
№5様の回答が詳しいですね。
狩猟民族→牧畜民族=肉食、採集民族→農耕民族→菜食民族という単純図式ですが。
大雑把に言って、大陸伝来の仏教(主に大乗仏教)はインド中国モンゴル朝鮮半島経由で肉食が主食、海洋伝来の仏教(主に小乗仏教)は東南アジア台湾琉球経由で菜食魚食が主食、といった感じでしょうか。
 大乗仏教は、一人で悟りを開くことは困難なので、みんなで頑張りましょうという理念で、小乗仏教は、自分の努力を怠ってみんなの努力に依存してはいけないという理念です。大乗仏教は、中国・ネパール・朝鮮などに多く、日本も大乗仏教が多いようです。小乗仏教は、スリランカ・タイ・カンボジアなどです。インドネシアはイスラム教徒が多く、フィリピンはキリスト教徒が多く、台湾は道教が多いようです。
 大乗仏教と肉食民族、小乗仏教と菜食民族の関係はわかりませんが、大陸文化=肉食民族、海洋民族=菜食民族(肉食禁忌)という図式ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

再海洋伝来の仏教(主に小乗仏教)は東南アジア台湾琉球経由で菜食魚食が主食>なのですね。
日本の仏教は、主に小乗仏教で、東南アジア台湾琉球経由なのですね。

お礼日時:2021/11/05 13:41

インド起源で中国・朝鮮から入った大乗仏教の殺生戒では肉のみならず魚をも食用にすることを禁じています。

ただ中国・朝鮮でこれを守ったのは聖職者のみで、一般民衆は肉も魚も食べており。それを禁じる動きもありませんでした。肉食・魚食が一般的すぎて禁じる動機もなかったからと考えられます。ちなみに2500年前の孟子にも鶏、豚、犬を食用のため飼っていたことが記されています。

朝鮮では10世紀に朝鮮半島を統一した高麗王朝のもとで仏教が隆盛をきわめ、民衆も動物の肉を食べなくなりましたが、モンゴル(元)に征服されるとモンゴル人による牧場開発もなされるなど、肉食文化は復活しました。

日本の場合、もともと肉食のために家畜を飼うことは一般的でなく、食べても野生の鹿やイノシシなどを捕食する程度でしたが、仏教伝来とともに肉食を忌避する動きが出ます。まず7世紀に天武天皇が最初の肉食禁止令を制定しましたがそれは期間を限定し、特定の獣肉の食用や特定の狩猟法・漁獲法を禁止したもので、仏教イデオロギー以外の理由もあって制定された法令と推定されます。

8 世紀になって仏教理念にもとづく国家の統治体制が確立すると、王権と宗教が合体した政治形態が形成されましたが、その後何度も肉食禁止令が出されています。ということは、一般民衆は肉の味を忘れようとしなかったからでしょう。

それでも10世紀にはいると貴族・僧侶・都市部の民衆のあいだでは肉食を罪悪視する風習が一般的となり、日本古来の宗教である神道でも肉食を忌避するようになることで、地方の民衆も肉を食べない習慣が根付き、江戸時代まで引き継がれます。

本来の仏教では肉だけでなく魚も禁止していますが、魚まで禁止すると民衆に受け入れられなかったからであろうと思われます。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<貴族・僧侶・都市部の民衆のあいだでは肉食を罪悪視する風習が一般的となり>ですね。
質問の核心ですが、なぜ日本だけ<肉食を罪悪視>が強くなったのでしょう?(中国・朝鮮ともモンゴル人の征服され・仏教の殺生戒については目をつぶった、のでしょうか?)

お礼日時:2021/11/05 11:44

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