アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

日米共に、ほぼ同時期に原子爆弾の開発プロジェクトをスタートさせたのに何故日本は開発出来なかったのですか?

最先端技術である、原子力や半導体などのエレクトロニクス産業に関しての、基礎となる原子物理学は、

江戸末期に生まれた長岡半太郎からはじまり、湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈などの日本人科学者と、ヨーロッパの科学者達によって、確立された物です。

やはり天皇陛下が反対してたのが失敗の原因だったのですか?

A 回答 (7件)

NHKでやってましたが


イギリスの物理学者が協力してたようですね。
資金と頭脳ではあの時代では
日本が先を越すのは無理でしょうね。
    • good
    • 0

>江戸末期に生まれた長岡半太郎からはじまり、湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈などの日本人科学者と、



・・・重要人物が抜けてますね。
 戦時中、日本で原子爆弾を研究していたのは、理化学研究所の仁科芳雄博士です。
 仁科は、量子力学を確立した理論物理学者の一人であるデンマークのニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアの弟子で、日本に量子力学を持ち込んだ研究者です。

※1938年のハーンとマイトナーによる原子核分裂の発見を知り、仁科はサイクロトロンを用いた放射性物質の分離の独自研究を始めます。
 同時期、核爆弾の可能性について検討していた陸軍航空研究所が理研の大河内所長(←日本の物理・化学研究で重要な役割を果たした造兵学の博士)に相談し、大河内が仁科の研究(1939年から40年にかけて行った研究で、仁科は対称核分裂を発見しました)に目を付け、1941年、原爆の研究が始まります。(この極秘研究は『ニ号研究』と命名されましたが、二号のニは仁科の『に』です。)

※天然ウランの大部分を占めるウラン238は核分裂し難く、原爆を作るには天然ウラン中に0.7%しか含まれていないウラン235を取り出さなければなりません。
 当時ウラン235を取り出す方法は4種類が知られていましたが、仁科は、当時入手可能な物資で実施出来る熱拡散法を採用しました。
 一方、米国のマンハッタン計画では4種類全てを実施し、結果、原爆の燃料に使える高濃度のウラン235が取り出せるのは、電磁法だけという結論に達していました。
 つまり仁科は、予算や研究規模から選択した『濃縮ウランの作り方』で、最初からつまづいていた、というワケです。

※実際の仁科の研究は、常に研究費と物資不足の問題が大きかったと思われます。
 理研がウラン235を圧縮出来ず、熱拡散法の可否すら結論が出ていない時に、マンハッタン計画ではウラン235の製造に成功し、起爆方法の研究を行っていました。(原爆では、ウラン235を加速・衝突させる必要があり、この方法も研究が必要でした。もし仁科が濃縮ウラン235を製造出来たとしても、原爆完成までは長い『道のり』が待っていたと言えるでしょう。)
 そのマンハッタン計画さえ、電磁法の装置に使う銅は『戦略物資』として十分な量が確保出来ず、財務省から銀を借りて銅の代わりに使ったほどです。米国でさえ戦争末期には物資不足があったということです。
 資金も資源も無い日本では、例え最初に電磁法を選択したとしても、やはり濃縮されたウラン235を生産するところまでは行かなかったかもしれません。

・・・っというワケで。
 二号研究が未達のまま終戦を迎えることになったのは、勿論政治的な理由もあったでしょうが、最大の理由は『資金不足』『物資不足』だったと思われます。
    • good
    • 2

ウラン235分離濃縮するための電力不足。

濃縮用電力として原子力発電所を作るのが一般的だけど、減速材も持ち込めなかった。

ちなみにウラン235分離手法も、実現不可能なものを選んでしまったのだけど、選択肢が無かったのも原因は電力不足。
    • good
    • 2

ドイツからUボートで輸送されてた実験用の核物質が、未着になったのが大きいでしょう。


紙と鉛筆だけで、かなりのところまで進んてたのが、逆にすごい。
    • good
    • 0

予算も人材も桁違いです。



予算は当時で21億9100万ドル、今の価値で言うと1兆円を超えるでしょう。
労働者数もマンハッタン計画で働いた労働者は最大時で75,000名です。

科学者もロバート・オッペンハイマー、ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、スタニスワフ・ウラム、リチャード・ファインマンなど当時の優秀な科学者が一堂に会したのです。

湯川秀樹は当時として先進的な研究をしていますが、だからといって湯川秀樹だけが優れていたわけではありません。朝永振一郎の「くりこみ理論」、江崎玲於奈の「江崎ダイオード」はいずれも戦後の研究です。

核分裂の理論はわかっていましたが、それを実行することは当時の日本の国力や技術力では無理だったでしょう。

なおこのことについて天皇陛下の御意思があったという記録はありません。実現する見込みがないものにつては裁可を仰ぐこともできませんよ。
    • good
    • 0

>何故地下で開発行わなかったのですか?


東大と理化学研究所で研究してて1945年4月11日の東京大空襲で消失しているんだから、地下でやってたところで無駄ですし、地下でやる実験じゃないですから。
そもそも原爆開発じゃなくて、ウラン濃縮の開発段階ですから、爆弾開発まで到達しませんでした。地下でやるのは核爆発実験のことでしょ?
    • good
    • 0

カルトロンが独自開発できず、実験濃縮塔が空襲で消失し、ウラン濃縮ができなかったから。


基礎研究があろうと、生産機械ができなきゃ製造できません。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

何故地下で開発行わなかったのですか?

お礼日時:2022/01/01 20:41

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!