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江戸時代、農民は白米が食べれなかったというデマは、誰が広めたのですか?

江戸時代の農家の一戸当たり耕作面積が平均10反。
10反から取れる米俵は100俵。
仮に年貢や地代等で4割(米の価値が上がれば、%は上がります)引かれたとしても、60俵が年収。
家族10人を養う場合でも余裕で米が余りませんか?
(ちなみに、下級武士の年収は5俵となります。)

よく時代劇や小説などで、農民は貧しく白い飯が食べられずアワやヒエを食べて苦しんでいたよう演出されてますが、農民には大飢饉の時なども蓄えがあったため困らなかったと思います。
アワやヒエを食べていたというのは、小作農や自作農に雇われていた「水呑み百姓」のことではないでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 本百姓の家の敷地内には、どこの家でも基本的に米を貯蓄するための米蔵がありました。因みに、地主(庄屋)は、蔵屋敷となりますので米蔵はもとより醸造蔵など数種類の蔵を所有しており、土地を貸して小作の生活の面倒を見ていたため、小作が飢饉時に苦しむこともありません。一般的な農民が、飢饉により飢餓死をすることは到底、考えられません。
    ※本百姓や小作人により雇われていた日雇い労働者の水呑み百姓については、この限りではありません。

      補足日時:2022/03/08 12:18
  • しかし日雇い労働者の水呑み百姓は、租税の義務を負っていないばかりか、他に仕事を掛け持ちをしていたため、農業収入だけで生活していたわけではありません。身分制度とは言えそこの部分は厳格には決まっておらず、土地を所有なり借りていない彼らは働き方を自由に選択出来ました。

      補足日時:2022/03/08 12:28
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A 回答 (7件)

>江戸時代、農民は白米が食べれなかったというデマは、誰が広めた


のですか?

明治新政府です。
明治になり新政府は何かにつけて徳川幕府政権を批判していました。
我々が学校の教科書で習った「江戸時代は士農工商という厳格な身分
制度があった」というのも明治政府のデマです。
実際は武士という支配階級とそれ以外の庶民という程度の身分制だっ
たようです。

明治政府は徳川政権を徹底的に悪者扱いにして、自分たちはその悪者
を成敗した正義なのだと印象操作したのです。
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>本百姓の家の敷地内には、どこの家でも基本的に米を貯蓄するための米蔵がありました。

因みに、地主(庄屋)は、蔵屋敷となりますので米蔵はもとより醸造蔵など数種類の蔵を所有しており、土地を貸して小作の生活の面倒を見ていたため、小作が飢饉時に苦しむこともありません。一般的な農民が、飢饉により飢餓死をすることは到底、考えられません。
※本百姓や小作人により雇われていた日雇い労働者の水呑み百姓については、この限りではありません。

そういう事例もあるが、全国一律にそうだった訳ではない。
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農地=水田じゃないから。

天災や天候不順で収量は安定しないし、現在と違って共済制度や国の補償なんてものないから、不作だとあっという間に没落する。今と同じで、米を作らずに換金作物ばかり育てていた農家もある。
多くの藩が年貢は米で納めさせていたので、稲作できない地域の農民は米買って年貢として納めたりもしていた。
あなたの論だと、飢饉でそんなに餓死者が出ないはずになるけど、現実問題として飢饉のたびに多くの餓死者も出ているし、農家経営できなくなって農地を手放して没落した農民も多い。
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広めたのは維新政府でしょう。

前政権の悪口を広めるのはよくあることです。

それにアワやヒエだけを食べていたのではなく、コメに混ぜていたのなら、今時で云えば五穀米を食べていたような話です。却って健康的な食生活を送っていたことになりますね。
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それは違う。

江戸時代は、農機具も農薬も発達してない。米の品種改良もないし土木技術もない。地球温暖化もない。そういう時代のことを一括に語るのは不可能だ。蝦夷地だけでなく信州・甲州・飛騨・対馬・天草など米作りに適さない土地などそこら中にあったのだ。南部藩でどうしてあれほど百姓一揆が頻発したのか一度でも考えてもらいたい。1670年に鯨油を使った注油法という防除技術が発見されたが全国に広まるのに何年かかったか知っているのか?
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小生と同じことを考えておられますね。

以下、愚考を

「高」という数値がありますね。「知行高」とか「村高」とか。百姓が所有していた田畑の量が「持高」です。
一般には持高がその百姓の収入量を示していて、持高(つまり収入)の4~5割が年貢だったと言われます。でも大ウソです。
小生、百姓の年間の総収入は持高の4~5倍、家族1人あたりでは4~5石あったと思っています。(いずれも玄米に換算して。芋や大根はどのように換算するのかと仰るでしょうが、まぁ「上手く換算した」と考えてください)
年貢は持高の4~5割ですが年間総収入から見れば1割程度に過ぎません。

百姓は年中米が食えたのです。でもなるべく現金収入を増やしたいのでくず米や雑穀などカネになり難いものを食べて米や麦はできる限り売っていました。アワやヒエを食べていたのは米が作れない地域です。水が少ないとか気温が上がらないとか。甲信越地域が代表的。ここは古来から畑作地域です。

当時の人は俗に1年に米1石食べていたと言われますがこれでは不足です。年1石は1日にすると2合7勺(410g)です。米のカロリーは100gで350Kcalなので1400Kcalしかありません。現代人でも2000Kcalは必要なのでとても足りませんね。1.5石で計算してみると1日が4合、2100Kcal程度になります。副食も必要ですから1人2石程度食べていたと思います。
衣類など生活雑貨がどの程度必要だったか、ドンブリ勘定で1人2石と推定しました。これでエンゲル係数は50になります。

田畑の高のことですが、この数値は江戸初期の米の生産量をかなり正しく示していると思います。
ここで、田畑の面積の問題があります。検地の際の面積測量では測定した数値をそのまま検地帳に書くのではなく大きく補正しています。実面積の5~7割を検地面積にしています。逆に言えば田畑の実面積は検地帳の1.5~2倍あったことになります。当然生産量も1.5~2倍ということになります。
このことは『県治要略』という文書に書いてあり国会図書館からnetに公開されているので見てください。大正時代に活字化したものがあります。

時代と共に灌漑設備などインフラが整備されて生産量が増えますね。生産技術も進歩します。江戸初期から幕末までに1.5倍程度に増えたと推定。
そして江戸中期には二毛作が普及、綿など商品作物も普及しますね。合わせて2倍に増えたと推定。
この3つを考えれば高の5倍ぐらいの生産があったと思えるのです。

愚考にお付き合いいただきありがとうございました。
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YES。

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