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底辺が4㎝高さが3㎝の直角三角形の面積ですけど、斜辺の5㎝を下に書いてあるだけで半分近くの小学6年生が誤答したそうです。もちろん全部の寸法と直角は表示してあります。
困らないんでしょうね。

碌な学校生活を送ったことがないという芸能人やeスポーツで賞金を稼ぐんだと朝から晩までゲーム三昧の中学生、早いうちに進みたい道があるというスポーツ選手などを見ていると、学校に行く必要性があるということを理解することの方が難しいと思ってしまうのですがいかがでしょうか。
実際読み書きさえできればなんとかなりそうな気はしますね

さらには「個人の自由」だとか「自分の感情が第一」ということを耳元で囁かれた子供たちは壁にぶつかれば壁伝いに歩くか引き返してしまいます。髪型をちょっと茶化されればいじめ被害者です。
そう振舞うことが最上の選択という世の中になってしまっています。学校も行きたくなければいかなくてもいいよが当然になっている世の中なわけです。

子供も含めて人の狡さは誰でも知っているのに精査なしに全てを許容するのが「善良」であると、死に物狂いで訴えかける人々の正義漢面した厭らしさと言ったら虫唾が走りますが、でもそれにまんまとはまっているのが今の日本だと思うのです。

「行きたくなければ行かなくてもいいよ」が正解だとたとえ一人だけにでも言えるとするなら全ての学校の存在意義ってなくないですか?
この人には意味が有ってあの人には無いってことになっちゃいますよね?
こんなこと言うといろいろ言う人出てきそうですけど例えば抗えないいじめによる緊急避難などをミソクソ一緒に語るような人はハナからお呼びではないので悪しからず。

A 回答 (6件)

「芸能人やeスポーツで賞金を稼ぐ」人は極めてごく一部の人であり、それがふつうにある、と思うことが間違っているわけで、そのことを学校で教えないのが具合が悪いんです。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

学校で教えない?
学校でそのようなことを教えなければいけないのでしょうか?
まぁ教えていけなくもないでしょうけれども、親が示すべき見識なのでは?

お礼日時:2022/05/16 14:24

学校は必要ですか?


 ↑
必要です。
民主政治になって、国民全体の知的レベルが
国力を左右するようになったからです。
学校制度がないと、国際的生存競争に
負けます。



学校に行かなくてはならない理由って何ですか?
  ↑
1,国民一人一人に知力をつけさせる。

2,集団生活を送らせることにより
 人間関係のノウハウを学ばせる。



碌な学校生活を送ったことがないという芸能人やeスポーツで賞金を稼ぐんだと朝から晩までゲーム三昧の中学生、早いうちに進みたい道があるというスポーツ選手などを見ていると、学校に行く必要性があるということを理解することの方が難しいと思ってしまうのですがいかがでしょうか。
  ↑
そんな一部の特別な人にとって不要だからといって
皆が不要だ、ということにはなりません。
ほとんどの人間は、特別な才能など持って
いないからです。



実際読み書きさえできればなんとかなりそうな気はしますね
  ↑
生きてはいけるでしょう。
底辺で。

本当に能力がある人にとっては学校など
不要かもしれません。

でも、そんな人は例外です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

国民の最低学力レベルをある一定のところに維持しなければならないということには概ね賛成です。
ところで特別な人には教育は不要というのはどの段階で判断されるものなのでしょうか。
偶然にでも実績が出来てしまったら「特別枠」に入るのでしょうか。
「やりたい」と言い出したらですか?

なんであれかんであれ義務教育中はそこで一通り熱心に学ぶことを「絶対の正義」だと名分にしておかなければ好き勝手な理屈で教育を放棄したがる輩ばかりになってしまうと思うわけです。
「学校に行きなさい」「もう少し算数がんばらないとね」ということを言うための裏付けって何でしょうね。

現役の子供には責任はないでしょうけれども、その親、祖父母辺りから猫も杓子も大学に行くようになり、「先生」を「学校」を大したものではないと馬鹿にし始めたことと、甘やかすことを「育てる」ことだと日教組に教育され続けてきた悍ましい効果が今出始めているように思うのです。

お礼日時:2022/05/16 14:21

義務教育は親の義務ですから行くように勧めるのが原則なので,これは割愛します。


 高校と大学,これは何も役に立つから行くというだけではありません。保険みたいなもので,掛け捨ての「念のため」ということもあるのです。特に大学では,ある専門分野の勉強をしても,その分野の仕事に就けるとは限りません。しかし,高校・大学で触れる知識・情報というのは,人の幅・人柄などに大きく影響します。もちろん遊んでいてはダメで,特に大学で講義中の雑談等が大事なこともあります。ですから,行きたくない人が行く必要はありませんし,我々教員も,来たくない学生の面倒を見るのは負担だけがあって苦労の種になっていますから遠慮して欲しいというのも本音です。
 大学では情報を覚えるという勉強ではなく,眼の前の問題を解決する手法の基礎を伝授されるだけです。でも,それを経験しない中卒の人達にはその問題解決の方法すら思い浮かばないわけです。一方で,中卒・高卒で高度な技能を身に付けた人達は,ものづくりの現場では最も重要な人材です。というのも,大学ではそういう技能教育は一切しないからです。多くの場合,技能を身に付けるには時間が必要。だから若いときからそういう技術に触れる必要があるわけです。大卒ではもう頭も体も硬くなってて間に合わないというわけ。
 ただ,実際に仕事に就いてから大事なことを勉強しなおすことも可能です。ある番組に出てきた自動車工場のオーナーは,高校までろくに勉強もせず仕事を始めたそうです。経験と技能でなんとかなると思った。ところが,仕事をするとすぐに三角関数がわからないとマニュアルすら読めないことが判明。一生懸命高校の数学の勉強をし直したそうです。彼の場合は間に合ったし,その素地があったからうまくいきましたが,そうでない場合もあるということです。
 ともかく自分の可能性の広がりをできるだけ大きくするには,多くの情報や知恵に触れていることは損にはならないわけ。だから,もし余裕があるなら,ちょっとでもやる気があるなら,高校まで,大学まで進学したらどうですか?ということになるわけです。自分が将来,どんな問題・課題に直面するかは中学生・高校生じゃまだわからないわけですから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

どちらかと言えば義務教育中の子の「学校に行きなさい」「なんで?」に対しての方に重心がある話しであるとしたかったのですが、うまく伝えられず申し訳ないです。

義務教育終了後の高校については今では誰でも行くけれども、昔はやはり中学校に対して「高等」だったわけで、社会に出て尻込みすることのないような人間を育成することが目的です。今ではその段階が一段送られて高校と大学がそういう関係になっていますよね。

大学については社会人としての年齢と学生の身分、アルバイトなどによる収入、時間の使い方の自由度、社会的ストレスの少なさ、利害関係とは違う人間関係、設備や資料の豊富さ、周囲は似たものに関心がある人の存在の可能性が高い、その他多数の好条件が存在しています。
とりわけ人間関係では一生モノの関係が構築されることがざらなのですが、学問の追求と双璧を成す大学進学の重要な意味付けだと思っています。

現代ではパチンコ大学、凸凹大学校ほどの学校が林立し、既存の学校も生徒の確保が優先事項となってしまっています。
大卒の肩書自体は珍しいものではなくなったのはそこまで費用を払える人が増えたということでもあります。さらにすぐに働かなくても立ち行かなくなることが無いということです。

高校大学については行く理由も行かない理由も分かり易いのですが、小中学校については義務とされて行かなければいけないのに、行かなくてもいいという人がいたり、習ったことの大半を身につけていないのに億単位のお金を稼ぐ人がいたり、勉強より好きな道を行った方が効率がいいとか、学校に行かなくたって大丈夫なんじゃないのと思わされるようなことをまかり通させて、むしろ世間では煽るように擁護する傾向にあるのはなぜなんでしょうかね。

素直に学校に通っている子の方を自己の無い、飼い慣らされた家畜のように見るのって昔からあるけど、そうじゃないんだという理由はなんでしょう。

お礼日時:2022/05/08 12:20

日本では、義務教育を無償で受ける権利と、親が子に教育を受けさせる義務が有るからね。



いじめなど、様々な事情で学校に通いたくない人が増えてるから、質問者さんの気持ちは良く分かりますよ。

ただ、教育を義務じゃなく、希望者のみの権利にしてしまうデメリットも有ります。

それは、不幸にして毒親の下に生まれてしまった子供達が本人が希望しても学校に行かせてもらえない可能性大であること等が挙げられるんですよ。

義務教育で無くなれば、教育格差は間違いなく広がると思いますよ。

学校で習ったことの全てを完全に覚えていなかったとしても、学校に通うことを全否定するのは難しいと思います。

義務教育期間が有るからこそ、日本では、子供が不当に強制就労させられずに済んで、無償で教育を受けることができているのではないでしょうか?

それよりも、誰もが心身共に元気に学校へ通えるような仕組を作ることが、最も大事だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

読み書き、加減乗除、I live in Tokyo.くらいまでは日本人なら理解できるよという共通のラインを欲しいわけですよね。
識字率の高さが国を守ることに直結した時代があったわけですからね。
一般民衆に読み書きを奨励した時代や国は、そうしなかったものと比べるとその安定度や、自浄作用において雲泥の差が出ているのは事実ですからね。

お礼日時:2022/05/08 11:11

我が子たちの学校生活を振り返ると、必要だと思います。



上の子は、いじめに会っていた時期もあったので、学校に行きたくない日もあったようですが、下の男の子二人は毎日喜んで学校に行っていたし、中学になると、スポーツ部活やるために学校に行っていると豪語してました。この時期に部活が休みだったのは定期試験の時と年末年始ぐらいだったのではないかと思います。

妻は、子どもたちが学校に行っている時ぐらいしかゆっくりできなかったようです。妻にとっても学校は必要だったみたいです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

現代の生活スタイルからするとそういうことも言えるのでしょうね。
昔より子供に無駄に手をかけないと育児放棄だの虐待だの言われてしまう世の中ですからね。
今では幼稚園児の送り迎えをしないと言えば異常な親御さんだと無条件にフラグが立ちますが、実際のところ全部に必要だとは思えません。
距離など物理的問題は別ですけど、保険に勧誘されているのと同じような感じで、備えれば安心なのかもしれないですけれど保険の内容よりもっと極々わずかな可能性を憂いて毎日の負担が増えているわけです。

学校の存在が家庭の助けになったというのは健全な在り方でしょうね。
自分に都合よく勝手に解釈して学校に責任を転嫁する家庭の存在もあるんでしょうけど。

でも「お母さんが(お父さんが)一息付けるから」はインハイのギリストライクと言ったところではないでしょうか。

お礼日時:2022/05/08 10:50

学校に行く理由はいらないんじゃないでしょうか。



教育を受けたいと思う人が行くところが学校ではないでしょうか。

存在意義は、教育を受けたい人のための受け皿でいいのでは。

現に今の時代、行きたくない人は義務教育であろうが投稿していませんし。

教育を受けたい人がだれもいなくなった時、学校の存在価値はなくなるでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

高校以上の教育については概ねその通りだと思いますが、では中学以下の教育というものをやる・やらせるにあたっても理由はいらないということでしょうか。
「行きたくない」を理由にすれば済むようなことではないと思うのですが。
同じ三大義務でもニートや脱税については顔を赤くして忌み嫌うののに、こちらの方はなんなら「よく分かっている親」の評価が出てくるのはなぜなのでしょうか。

学校は本人たちに行きたい、やりたい意思があるからから存在するという考え方は義務教育の存在を説明できないし、行かない理由にはなっても行く理由にはなっていないと思います。

お礼日時:2022/05/08 10:10

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