人生のプチ美学を教えてください!!

浜辺であなたとスイカを食べた。この
文の「で」を「に」に置き換えて ⇒
浜辺にあなたとスイカを食べた。とするのは文法的に
間違いですか?

質問者からの補足コメント

  • トーマスマンの「ベニスに死す」という小説がありますが、「ベニスで死す」と表現することも文法上は問題ないと考えます。「ベニスにあなたと二人で死す」も間違いとは思えません。「浜辺で~」はごく普通の表現です。詩的表現を追及すると、この「で」が気にかかります。その結果としての「に」ということです。

      補足日時:2022/07/21 18:57
  • No.12のhakobuluさんのご解説に対して。「ベニスで死す」だと、単にベニスで死んだ、たいう印象です。ベニスに特別な思いは感じとれません。死んだ場所がたまたまベニスだった、そんな風な感じもします。他方、「ベニスに死す」のベニスは特別な意味を湛えてる感があります。なにか思い深きベニスという場所で死んだのだ、そんな印象です。これは筆者の個人的感覚に過ぎないということかも。

      補足日時:2022/07/22 14:18

A 回答 (22件中11~20件)

#6です。


補足拝見。

ベニスを、「死す」という動作の『動的領域』として認識するか、「(空間的)静止点」として認識するかの違いです。

「ベニスで死す」
⇒「死す」という動作がベニスという地(領域)で行われた。
といった構文になります。
ベニスは「死す」という動作の動的拠点(領域)として認識されている。
「死す」という動作に重点が置かれる反面、ベニスはその動作を引き立てる舞台、言ってみれば二義的な要素としてより認識されない。
「ベニスで死んだんだよ・・」といったニュアンス。

「ベニスに死す」
⇒「死す」という動作がベニスという地点で静止して終わった。
といった構文。
ベニスを「死す」という動作の静止点、あるいは「死す」という動作が完遂された地点(収束点)として認識している。
「死んだんだよ。ベニスでね・・・」といったニュアンス。

この映画の翻訳者は、「死す」こと以上に、その舞台が「ベニス」であることのほうに重点を置きたかったのでしょう。
ある意味、映画の本質を掴んだ名訳と感じますね。

「浜辺にあなたとスイカを食べた」は、「あなたとスイカを食べた。浜辺でね・・・」というニュアンス。
浜辺を「あなたとスイカを食べた」という動作の静止点、あるいは「あなたとスイカを食べた」という動作が完遂された地点(収束点)として認識するのは若干大げさになってしまうため違和感が生じる。
「浜辺であなたとスイカを食べたよね・・・」というニュアンスで、「浜辺であなたとスイカを食べた」と表現するのが一般的。
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文法的に間違いです。


「で」もしくは口語的ではありませんが「にて」が正しいです。
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根本的に誤った回答が散見されるので指摘しておきましょう。



>>質問の「ニ」は「動作・作用の行われる場所を表す」

「動作・作用の行われる場所を表しているのは、「浜辺」でしかなく、本質的に「ニ」が何を表すのかが理解できていません。こうした誤った理解が学習者を混乱させます。

>>【に】の本質的意義は、『動作・状態における時間的・空間的・心理的等の静止点を表わす』というもの。「浜辺」は「食べる」という動作の(空間的)静止点として、すなわち『静的地点』として認識されている。

これも同様で、当然のことながら「浜辺」は地点で、【に】の本質的意義とは全く関係ありません。

こうした奴素人の思い付き発言が学習者を混乱させます。

格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷 Ⅱ
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9663 …

他参照。■
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No.5でコメントした者です。


 みっともない間違いがあるので訂正します。

×ちょっと余計な話を……。
「浜辺であなたとスイカを食べた」が絶対に間違いかというと、そうともいえません。
 ↓ ↓ ↓
○ちょっと余計な話を……。
「浜辺【に】あなたとスイカを食べた」が絶対に間違いかというと、そうともいえません。


 あとの部分はそのままです。
「浜辺に……」だと使える動詞はかなり限られる気がします。
「浜辺にある」「浜辺にいる」「浜辺に座る」「浜辺に立つ」「浜辺にたたずむ」ぐらいですかね。
 これが「海辺に……」だと
「海辺に住む」「海辺に勤める」「海辺に泊まる」「海辺に止まる」あたりも使えそうですが。
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意味は通らないけど、文法的にはオーケーでしょう。

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>昔聞いて頭に残っている言葉。


①オックスフォードに遊ぶ。
②オックスフォードで遊ぶ 。
①の場合は、それなりの識者なら、遊ぶ=遊学、と判断します
何故オックスフォード?、他には無い内容が学べる(オックスフォードの内容が最先端、オックスフォードならでは、の内容、と共にその地の生活習慣をも含めて・・等)。
②の表現の場合は、単なる遊び、何をして遊んだのかな・・・が知りたいですね。
遊びの内容が重要な要素?それが可能ならばオックスフォードである必要は無い。
夜うち朝がけ、海釣り・川釣り → 時間(時刻)、場所も手段・方法の一つですね。
単なる位置の認識だけなら「に」は不要、前の言葉で十分と指摘したところ、「認識づけ」です、と回答ありました。
今回は「づけ」が省略されていますね。
私の感覚では、この認識の内容が上記①の説明で示した内容として認識→これが認識づけ。
従って、「認識づけ」、だけでは不十分なんです、指摘されてその場の思いつきで、取って付けただけなんです、しばらくは「認識づけ」を使っていましたが、今回はもうすっかり忘れた様ですね。
このあたりを突き詰めるとオーム返しになることを知っているので生活の智恵で、先に相手を痴呆呼ばわりします、そうすればオーム返しの醜態をさらさずにすむから・・・。
こんな対応するのが、言葉の論理?、論理的な言葉?らしいですよ。
あさってになっても、数ヶ月後でも果たして成れるのかな?。
改めて、オックスフォードに遊学する、オックスフォードで遊学する。どちらも、遊学の意味でとらえれば、には非常に不自然な表現になります、使われません。個人的な結論ですが、「に」は時間的、空間的の位置、だけではなく、抽象的な「目指す」位置も含むように思っています、目指す位置=目標、とすればベクトルの感覚が生じます。
他動詞の目的格に「に」が使われます、もう一つ「を」も使われます、が「に」とは逆の感覚?になります。
汽笛一声新橋を・・・これだけで新橋から離れる(拡散)
汽笛一声新橋に・・・だと、新橋に到着?(収束)
興味があれば参考に・・。
興味がない、読解力がないといわれる理解力に疑問がある人にとっては念仏にしか聞こえないようですが。
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文法的には間違いではありませんが不自然です。


以下に理由を。

1.浜辺であなたとスイカを食べた。

【で】の本質的意義は、『動作などが為される状況(環境)や成立条件を表わす』というもの。
「浜辺」は「食べる」という動作が行われた状況(環境)、すなわち『動的領域』として認識されている。

2.浜辺にあなたとスイカを食べた。

【に】の本質的意義は、『動作・状態における時間的・空間的・心理的等の静止点を表わす』というもの。
「浜辺」は「食べる」という動作の(空間的)静止点として、すなわち『静的地点』として認識されている。

3.
「浜辺にあなたとスイカを食べた。」は文法的に間違いではありませんが不自然な印象を与える。つまり、実際的に使われることは基本的に無いと考えてよいかと。一方下記例の場合は自然でしょう。

〇浜辺で佇む。⇒浜辺は佇むという動作の為される状況(環境)であり、『動的領域』として認識されている。
〇浜辺に佇む。⇒浜辺は佇むという動作の(空間的)静止点であり、『静的地点』として認識されている。

「浜辺に佇む」が自然(「浜辺で佇む」も無論ですが)なのは、人間の感覚として浜辺は「佇む」という動作の「(空間的)静止点」として認識されやすいからと思います。しかし、「スイカを食べる」という動作の場合、浜辺は「(空間的)静止点」としては認識されづらい。
逆に言うと、「食べる」という動作が行われた『動的領域』として認識するほうが自然。

4.
ややこしい説明になってしまっているかもしれませんので、「(空間的)静止点」のイメージとしてもうひとつ例を挙げてみます。

〇大海に浮かぶ孤島
は自然ですが、
△大海で浮かぶ孤島
が不自然と思います。
「大海」は孤島が浮かぶ「状況(環境)」というよりは、孤島が浮かぶ「(空間的)静止点」と認識するほうが人間の感覚にフィットしやすいからなのでしょう。
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「ニ」にはいろいろな働きがありますが、質問の「ニ」は「動作・作用の行われる場所を表す」でよいでしょう。


 多くの場合、「デ」と「ニ」が同じように使えます。
 ただ、「で」は多くの動詞と組み合わせて使えますが、「ニ」が組み合わせて使える動詞は限られます。
 大雑把に書くと、
===========引用開始
「ニ」は「動作・作用の行われる時・場所」を表わし、「存在」に関係する動詞と結びつくことが多い。「ある」「いる」「住む」「勤める」「座る」「立つ」「泊まる」「止まる」などのほか、「書く」「盛る」などとも結びつく。
===========引用終了
 ということです。
 詳しくは下記https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12371915228.htmlの〈4〉をご参照ください。
 辞書の記述http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/17117/m1u … を中心にまとめたものです。

「食べる」は場所を表わす「ニ」とは相性がよくないので、一般的には使われないでしょう。
 ただし「夕食ニ、すき焼きを食べる」「食事のあとニ、デザートを食べる」などは、場所を表わす「ニ」ではないので、別の話です。

 ちょっと余計な話を……。
「浜辺であなたとスイカを食べた」が絶対に間違いかというと、そうともいえません。
 古い時代には、↑にあげた動詞以外でも「ニ」を組み合わせていました。
「ベニスに死す」「阿寒に果つ」などは例外的な使い方です。
 そう考えると、「浜辺に愛しき人とスイカを食す」としても、古風な言い方としてはおかしくなかったのかもしれません。でも現代の言葉遣いでは一般的とは言えないでしょう。
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文芸作品なんかでは、似たような使い方はあるのかもしれません。


昔テレビドラマで、「パリにミショウを切る」というタイトルのドラマがありました。
ある企業のパリ支店、ミショウという人物、経営上相当の支障があるので解雇したい、のだが、フランスでは解雇についてはアメリカや日本と異なり客観的に見てよほどのことがない限り艱難なので、本人が納得した上での同意が必要なんです。
その任務(役目)を担ってパリ支店に行く人の話。
「で」で待遇される「浜辺」は手段の一つということになります、手段なのだから、続く内容が実現可能ならばどんな手段での良いのです、たまたま今回は「浜辺」。
「に」は空間に位置付け、というより、受け取る側の意識のほうを浜辺に位置付け、というより向かわせます。
言い換えれば、受け取る側の意識を浜辺に集中させます。
その状態で、それに続く内容で表現される変化?がそこに現れます。
表現する側の表現で使う言葉がすべてではありません、受け取る側がどう対応するかの共同作業になります。
ということで「に」の場合は浜辺以外では、話になりません。
文法上間違いとは言えません、表現の仕方、きつい言い方すれば表現能力の問題はありますが。
感覚的には過去形ではなく、現在形なら(食べる)あり得るかも・・・・と思います。
例 手段の場合、浜辺で・・をキッチンで、とした場合単純な状況描写なので、「さよか」で大きな違和感はありません。
キッチンに・・・としたらどうでしょう、「それがどうした」と返したくなりませんか?、浜辺という場所の雰囲気その他が重要なんです。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

お礼日時:2022/08/01 19:15

浜辺であなたとスイカを食べた。



この文の格助詞「で」は手段・方法の認識を表します。室内や路上ではなく浜辺を手段としてという意味になります。

この「で」を「に」を置き換えて、

浜辺にあなたとスイカを食べた。

とすると、「に」は浜辺を空間的に位置付けるもので、文法的に誤りではありませんが意味が異なります。つまり、空間的な位置を指定することになり、本来場所を表す「浜辺」をあえて空間的に位置付け強調するクドイ表現になります。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2022/08/01 19:09

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