
宮脇淳子の「モンゴルの歴史」より引用します。
<十三世紀のモンゴル帝国の建設が世界史の始まりだというには、四つの意味がある。>
その四番目の意味について
<第四に、モンゴル帝国がユーラシア大陸の陸上貿易の利権を独占してしまった。このため、その外側に取り残された日本人とヨーロッパ人が、活路をもとめて海上貿易に進出し、歴史の主役がそれまでの大陸帝国から海洋帝国へと変わっていったことである。
質問は、十三世紀のころ、日本は(倭寇は除くとして)<活路をもとめて海上貿易に進出>しましたか?
No.7ベストアンサー
- 回答日時:
<活路をもとめて>は動機としてあったのか、という質問です。
かつ‐ろ〔クワツ‐〕【活路】 の解説
1 追い詰められた状態から逃れ出て生きのびる方法。「―を開く」
2 生きてゆく手だて。生活手段。「―を断たれる」
当時のヨーロッパも、日本も、交易のことで「追い詰められた」とは思ってないでしょう。 交易活動は盛んでした。
この時代に、《世界史上、初めて》ユーラシア大陸を円環状に巡る交易路を多くの地域のものが利用可能になったのいです。 可能性や発展性が大きく開いたと言っても、間違いではないでしょう。
山賊や海賊行為を働いて、交易隊から盗むことを目的にしていた集団や部族は、活路を求める必要が出てきた可能性はあるでしょう。 しかし、ヨーロッパとか日本では、そうしたことで生活し、モンゴルの出現で生活の道を断たれたように感じたのは少ないでしょう。

再度の御回答ありがとうございました。
<交易のことで「追い詰められた」とは思ってない>ですね。でしょう。 宮脇は<可能性や発展性が大きく開いた>と言いたかったのでしょうが、誤解を受ける説明ですね。

No.8
- 回答日時:
私は活路を求めての進出はなかったと思います。
必要性もなかったと思います。江戸時代までの貿易の相手国は中国が中心であり、それ以外の国に日本の船が頻繁に往復した歴史的な記録は見当たりません。なお、南蛮貿易は、南蛮側の船が日本と往復していたのであり、日本の船が行き来していたわけではありません。
江戸時代まで使われた安宅舟に外洋航海の技術はありません。外洋航海で威力を発揮するのは、三角帆と船体構造のキール(竜骨)や堅牢な木材ですが、これらは日本近海や港ではその威力を発揮することができず、逆にデメリットが目立つような気がします。
早速の御回答ありがとうございました。
<必要性もなかった>のですね。
そして、必要もなかったので、高度な技術を開発する意欲が高まらなかったのでしょうね。
No.6
- 回答日時:
宮脇淳子の「モンゴルの歴史」を読んでいないのですが、その本の中で、「モンゴル帝国がユーラシア大陸の陸上貿易の利権を独占してしまった」というのは、具体的にどのようなことを指しているのでしょう。
元朝は単に広大な地域を支配下に置いただけでなく、国際貿易に力をいれ、陸路も海路も盛んに利用され、ムスリムも、ローマも、アジアの諸国も嵐ってその利を得るために盛んに活動し、人の交流も、旅行もすごかったです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB …
(日本の鎌倉時代後期・南北朝時代に相当)も日本と元の間には政治的対立とは全く別に経済的・文化的交流が盛んになっていった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%83 …
高校の教科書にも、陸海ともに国際貿易・国際交流が盛んであったと記載されています。
10世紀以降, 中国がめざましい経済発展をとげると, 中国商人の海上進出も活発となり,宋・元の時代には, 「海の道」による交易が著しく発展した。宋代の中国では, 白磁や青磁など陶磁器の生産が盛んとなり,絹や銅銭とともにジャンク船によって各地に輸出された。南宋を滅ぼした元は, 中国沿岸の諸港を支配下におき, さらに東南アジア地域へ進出して,海上交易の進展をはかった。元の支配領域では,駅伝制(ジャムチ)が整備され,交紗(紙幣)による貨幣制度がいきわたっていたことは,泉州・杭州などの沿岸都市を訪れたマルコーポーロの『世界の記述』やイブンーバットゥ-タの『旅行記』(『三大陸周遊記』)にみることができる。
> <あくまでもその時代の政府が、貿易のうま味を求めて海外に出て行った>ということには納得します。
スペイン、ポルトガル、イギリスでも、ムスリムでも、その時代の政治権力が利を求めて、交易活動を盛んにしたのだろうと思います。 商人はそれに乗じて稼ぎをねらった似すぎないでしょう。 ごく近隣との日常的な交易・商売とは違って、遠方との交易は単純に言えば、大勝負です。 投資も大変、危険は大きい、しかし成功の確率はそこそこあって、巨額の儲けが期待出来るので、その時代の政治権力のバックの元でやるものです。
早速の御回答ありがとうございます。
<活路をもとめて>は動機としてあったのか、という質問です。日本が存続の際に立たされて、活路を求めた、と言うならば、了解できます。
しかし、たんに、政権や<商人はそれに乗じて稼ぎをねらった似すぎないでしょう。>なら納得できます。
No.5
- 回答日時:
#2です。
お礼ありがとうございます。>ただ、腑に落ちないのが、当時、日本は活路をもとめて海上貿易に進出したかどうかです。
確実にしたといえます。
>日本は(海に囲まれている)内陸国であリ、その中で経済はほどほどに回っていた、と思われます。
ならば倭寇は必要なかったはずです。国内でそこそこ満足できるなら、未熟な航海技術で死ぬリスクを負ってまで貿易や略奪は不要だったはずです。
>当時は、海上貿易はなかったとは言えませんが、規模はごく小さく、人々の生活に影響するほどではなかった、と思います。
大航海時代がなぜ始まったかというと「信じられないほどの莫大な富が築ける」からです。
平氏や鎌倉幕府、室町幕府、そして信長や秀吉が貿易を推奨したのは「国内経済では得られない莫大な富がえられ、その富をつかって国内を支配できる」からです。
とにかく、当時の貿易は今ではちょっと無理なぐらいの利益をもたらしていたのです。(わかりやすく言えば、スマホを日本だけが供給するとして、そこで得られる利益ぐらい稼げました)
だから、日本の各政権は遣隋使や日宋貿易・日明貿易などを行い、徳川幕府でさえ、南蛮貿易を完全には禁止しなかったわけです。
徳川政権は「幕府だけが独占できるが、リスクを負わない出島だけで貿易する」形にしました、それでも徳川260年の支配を支えるだけの富は生み出したわけです。
逆になぜ江戸時代が終わったかというと、出島での貿易に従わないロシアとアメリカが日本にやってきたからです。
教科書ではアメリカの黒船が「明治維新への布石」だと教えますが、ロシアはアメリカの前から何度も幕府に通商を求めていて、軍事衝突も起こしています。
明治政府が貿易ではなく「西洋文明の取入れと近代化」に動いたのは、戦国時代から260年経って、西洋と日本の技術レベルの差が追い付けなくなるギリギリまで開いていたからで、貿易ではなく「日本も近代化しないと植民地にされる」という危機感があったからです。
なので、明治時代は「より良い経済・生活を求めも(活路を求めて)本格的に海外との交易を始めた」なんて甘いものではなく、マジで植民地化されるか独立を維持できるかギリギリのタイミングだった、といえます。
再度の御回答ありがとうございます。
私は、活路をもとめて、すなわち国(政府)の存続をかけて、海上貿易に進出したとは思えません。倭寇も政権が主導したわけではないはずです。
前の御回答から引用させ頂きますが<あくまでもその時代の政府が、貿易のうま味を求めて海外に出て行った>ということには納得します。
No.3
- 回答日時:
No2さんが丁重に説明されているように、日宋貿易、日元貿易などはおこなわれています。
そして日宋貿易の時代には博多に中国人街がつくられていたようですね。でもそれは貿易をしていただけであって海外に進出していたとまでは言い難いです。貿易をしていたということでいえば、遣隋使、遣唐使だって貿易です。平家が積極的におこなった日宋貿易もあります。でもそれは日本人が「海外進出」したとまではいえないですよね。少なくとも日本人街が海外につくられた安土桃山時代の朱印船貿易以降でしょう。
ヨーロッパが海上貿易にのりだしたのは大航海時代、15世紀半ばからです。元が中国を制圧していた時代とは全く異なります。大航海時代のひとつの原因は元が中国を統一したのではなく、オスマントルコが中近東を制圧していたからでしょう。
宮脇淳子さんはその部分の記述は、お粗末だと思いますよ。
早速の御回答ありがとうございます。
紛争の絶え間のない大航海時代のヨーロッパ諸国ならいざ知らず、日本は自給自足で運営していた(運営せざるをえなかった状況で)<活路をもとめて海上貿易に進出>したとは思いません。
No.2
- 回答日時:
しました。
日本は遣唐使の派遣が終了した後、平氏が実権を握ると日宋貿易を開始します。平家が莫大な権力を誇ったのは、単に「武力が強く、内政で天皇家に取り入ったから」という理由だけでなく、貿易を独占し、その利益で天皇家を篭絡したからでもあるのです。
平家を滅ぼした源氏が鎌倉幕府を開くと、いったん日宋貿易は下火になります。しかし鎮西奉行が九州で権力基盤を確立すると、博多港を基盤に日宋貿易を再開し、莫大な利益を上げます。
これは宋が元に圧迫され南宋になってからも続けられ、南宋も元に負けて元が統一王朝を開いたことを鎌倉幕府は知っていたし、元が日本を攻める準備をしていたことも知っていたわけです。
ただ現地に集まった武士たちは「大陸の戦い方を知らなかった」ので最初の元寇では劣勢になってしまったのです。
その後しばらく日本の政府による貿易は途絶えますが、博多や日本海側からはいわゆる倭寇が続いていきます。
室町幕府が開かれると、すぐに日明貿易が再開されます。室町幕府の足利家は非常に権力基盤が弱く、それを補うために貿易で富を作り、経済力での支配を目指したからです。
日明貿易は戦国時代まで続き、千利休なども莫大な富を築きましたし、日本人が東南アジアに大量に進出して日本人街もできました。
>その外側に取り残された日本人とヨーロッパ人が、活路をもとめて海上貿易に進出
日本の側から見れば「あくまでもその時代の政府が、貿易のうま味を求めて海外に出て行った」というものです。
戦国時代になると南蛮人が日本までやってきますが、彼らはまさしく「元が陸路を抑えているので、海路で極東の最終地点=日本までやってきた」わけです。
しかし、よくよく考えてみると、マルコポーロなども東南アジアあたりから「どうも、大陸の一番東の海の上に黄金の島があるらしい」という噂を聞くようになっていたわけで、これは日明貿易で日本が大量の金銀をアジア地域に供給していたからこそ出てきた「噂」であるわけです。
この噂の元になった「14世紀の貿易」そのものはすでに日本も行っていたし、元との関係は最悪だったので、明になってから再開したので「14世紀に改めて海路に活路を求めた」というのは正しいでしょう。
ただ「海路だけに活路を求めた」のは南蛮人であって、日本は別に海路だけにこだわったわけではない、といえます。
単に日明貿易を始めてみたら、東南アジアまで南蛮船が来ていて「儲かるよ!」と言われて、だんだん大陸沿岸沿いに南下し、結局南蛮船と出会って、日本にも船がくるようになった、というのが実情として正しく、グローバルな視点では「日本もヨーロッパ人も海路に活路を求めた」とはいえるでしょうが、実態的には「日本は別に海路だけを重要視したわけではなく、内陸に苦労してはいらなくて、海路で商売するほうが儲かっただけ」といえます。
明の首都の南京は長江沿いに遡上できるとはいえ、300キロも内陸でしたから、そこまでして内陸で貿易するよりも、東南アジアや南蛮船と上海あたりで貿易するほうが儲かったわけです。
早速の御回答ありがとうございました。
大量の御回答を拝見させていただきました。
ただ、腑に落ちないのが、当時、日本は活路をもとめて海上貿易に進出したかどうかです。日本は(海に囲まれている)内陸国であリ、その中で経済はほどほどに回っていた、と思われます。当時は、海上貿易はなかったとは言えませんが、規模はごく小さく、人々の生活に影響するほどではなかった、と思います。明治時代から、より良い経済・生活を求めも(活路を求めて)本格的に海外との交易を始めたもの、と思っています。
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