「第一次世界大戦」というのは、第二次世界大戦が起きてからの呼び方だと思います。それ以前は何と呼ばれていたのでしょうか?

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A 回答 (5件)

身に回りの史料等、探してみました。


明治大正時代の雑誌・・・『風俗画報』では対ドイツ宣戦布告に際し、数号に渡って「欧州戦乱号」を特集しています。
(アダルトの風俗ではなく大衆風俗の意味の風俗です。念のため)

宣戦布告に際し天皇の詔勅には
「朕ハ深ク現時欧洲戦乱ノ殃禍ヲ憂イ」
帝国議会開院の勅語にも
「欧洲戦乱ノ殃禍今ヤ東洋ニ波及シ」
と、欧州戦乱という表現を用いています。
日本が参戦する以前の時点では「欧州戦乱」という事でしょうか。

日本も参戦し、終結後・・・
直後の史料がなくどういった表現をされていたかは
わかりませんが、少し下って昭和に入り九年発行の三省堂の教科書用歴史地図には
「世界大戦」と表記されていました。
ご参考までに
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この回答へのお礼

戦争のさなか、およびその後第二次大戦が始まる前にどのような呼び方がされていたのか疑問に思っていたのですが、当時の資料を使って、ずばりと答えていただき有難うございました。

お礼日時:2005/04/07 00:09

「大戦」「世界大戦」「欧州大戦」


参考URL 5) をご覧下さい。

参考URL:http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_18.html
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この回答へのお礼

当時の資料を探していただき有難うございました。

お礼日時:2005/04/07 00:06

そもそも第一次世界大戦も、セルビアとオーストリアの戦争だったわけで世界大戦とも呼ばれてはいなかったでしょう。



一般的には、世界大戦で通っていたようですが、これもどの時点で言ったものかはわかりません。

ちなみに日本における正式名称は現在でも、「大正3、4、5、6乃至7年戦役」だったと思います。第一次世界大戦というのは通称に過ぎません。
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この回答へのお礼

戦争に正式名称というのがあるのをはじめて知りました。ありがとうございました。

お礼日時:2005/04/07 00:04

「欧州大戦-European War」


「世界大戦-the Great War」
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。学校では World War I としか習った覚えがなかったのですが、the Great War ともいうのですね。また主な戦場は欧州だったので、欧州大戦とも呼ばれたのでしょうね。

お礼日時:2005/04/07 00:02

グレートウォーが世界的な言い方です。


現在でもそう言います。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。学校では World War I としか習った覚えがなかったのですが、the Great War ともいうのですね。

お礼日時:2005/04/07 00:00

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Q「第一次世界大戦」用語の発祥

用語の事について伺いたいのです。「第一次世界大戦」はいつから世界史の用語として定着したのでしょうか。当然第二次世界大戦が発生してからと思われます。しかし発生した時点ではこれが「世界大戦」と呼ぶにふさわしいか未定ですから、ある程度その様相が明らかになりつつある段階で、「第二次世界大戦」になったと思われ、ここで「第一次世界大戦」の語も生まれたのではと想像します。

Aベストアンサー

忘れたころの回答でスミマセン。締め切られてないので、一応…

先日たまたま古い『朝日年鑑』を見る機会がありました。
『朝日年鑑 昭和19年版』では、掲載されている年表の中に「大正3年 世界大戦勃発」とあります。ここでは単に「世界大戦」で、まだ「第一次世界大戦」の語は使われていません。第二次世界大戦については、「大東亜戦争」と「欧米戦争」に分けて記述されており、それをひとつの「世界大戦」として捉えてはいないようです。
いわゆる太平洋戦争は、日本では開戦後まもなく「大東亜戦争」と公式に命名され、敗戦までそれが使われています。
それが『朝日年鑑 昭和22年版』では、「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」とも普通に使われており、このころまでにはすっかり一般に定着しているのがわかります。
国内では「第一次世界大戦」の語は、「第二次世界大戦」の語と同時に、戦後のわりに早い時期に生まれ、遅くとも昭和22年までには一般に定着したと考えてよいようです。あるいはGHQと一緒に入ってきた英語を訳した用語かもしれませんね。
ちなみに本のタイトルなどに「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」を使ったものは、国会図書館の蔵書検索で見ると、昭和ヒトケタごろすでに何冊も出ていますが、これらは今「第三次世界大戦云々…」という本があるのと同様の近未来小説の類のようです。

忘れたころの回答でスミマセン。締め切られてないので、一応…

先日たまたま古い『朝日年鑑』を見る機会がありました。
『朝日年鑑 昭和19年版』では、掲載されている年表の中に「大正3年 世界大戦勃発」とあります。ここでは単に「世界大戦」で、まだ「第一次世界大戦」の語は使われていません。第二次世界大戦については、「大東亜戦争」と「欧米戦争」に分けて記述されており、それをひとつの「世界大戦」として捉えてはいないようです。
いわゆる太平洋戦争は、日本では開戦後まもなく「大東亜戦争」...続きを読む

Q第一次世界大戦と第二次世界大戦がおきた理由 

 第一次世界大戦と第二次世界大戦がおきた理由って何だったんでしょうか?。
 学生時代に習ったはずなのにまったく覚えていません。 
 直接的なきっかけを知りたいんですが。

Aベストアンサー

どちらも植民地と言う名の甘いケーキの奪い合いです。

WW1では確かにオーストリア皇太子暗殺によって勃発しましたが連合国も枢軸国も同様の問題を抱えておりたまたまトランプでジョーカーを引いたのが枢軸国側だと思って貰って結構でしょう。ある意味熾るべくして熾った戦争とも言えます。

それに対してWW2はと言うとこれはWW1の戦後処理の拙さと世界恐慌が連続した事による側面もあったのです。
WW1後のドイツは確かに最悪のインフレに悩まされました。しかしながらドイツ人自身の資質とアメリカからの資金援助(借款)によりなんとか再生への道が見えていた時代が確かにあったのです。しかしご存知の通りアメリカ発の世界恐慌でそれは御破算。かてて加えてフランスがルール地方を強制的に借金(賠償金)の担保として押さえたりと外圧が加わりました。一方でドイツ国内では数十年前までは群雄割拠しておりその後はドイツ帝国として成立した経緯であり、WW1敗戦後のワイマール憲法による民主主義が成熟していたとは言えない状況です。
ちなみにナチスのSA隊とは当時の民主主義時代の選挙活動等で敵対する共産党などの他政党からの妨害を排除するために結成された経緯があります。まぁ平たく言えば政党お抱えの暴力団とも言いますね。勿論これは当時のナチスだけでなく他の党も多かれ少なかれやっていたことです。当時のドイツの民主主義は暴力団を使った抗争とセットになったものとさえ言えるでしょう。
そんな絶望的な状況下でナチスと共産党以外の党が政権を担ったのですがどれもこれも失敗。でドイツ人はダメ元でナチスを選んだのですが・・・悪魔が実在する証明だったのでしょう。彼らは相当に悪どい事をやってでも一定の成果をだしました。ナチスが政権を確立できた要因がここにあります。

一方でフランスやイギリスの思惑もありました。イギリスのチェンバレン首相は融和派でありWW1の再現だけはなんとしても回避したいがためにドイツに譲歩を重ね、それがヒトラーの増長へとつながりポーランド侵攻へと繋がったとする説は当を得ていると言えるでしょう。
しかしこれがソ連を視野に入れると状況は変わってきます。ソ連による共産主義の拡散は他国にとっては脅威以外の何者でもありませんでした。共産化すれば確実にその国のトップは粛清されることが確実だからです。そうした視野から見ればソ連vs英・仏・独・米といった状況の出現もあり得るのです。実際スターリンはその事を一番恐れていました。
地図を眺めれば分かると思いますがソ連がヨーロッパへ侵攻するとなれば一番バッターになるのは確実にドイツ。二番手がフランス・・・となります。そこでチェンバレンはそこも視野に入れての抱込みの意味での譲歩を重ねたと言えるでしょう。実際にWW2以後のドイツは東西に分裂し西ドイツ軍は強力な陸軍国となっていますしね。

少し話が逸れましたがヒトラーがああも政権を維持できた理由として最大の原因がWW1の戦後処理です。同時代の人はこう言っています。
「過酷にしては生温く、生温いにしては過酷だった。」とね。これはもう二度と立ち上がれない位に潰すのか逆に過剰な程に優遇して恩に着せるかして陣営に抱込むかしておけばWW2は回避できたか規模の縮小はできたのではないのか?という考察です。
実際WW2以後はこれを踏まえて日本と西ドイツを西側陣営に引き込む事に成功してますし両国ともPKO等の派兵位で済ませています。WW1での教訓は敗戦国を潰そうとしてもその国民は恨みをバネにして即座に復興して矛先を真っ先に戦勝国に向けてくる事を踏まえた教訓によるものなんですよ。

どちらも植民地と言う名の甘いケーキの奪い合いです。

WW1では確かにオーストリア皇太子暗殺によって勃発しましたが連合国も枢軸国も同様の問題を抱えておりたまたまトランプでジョーカーを引いたのが枢軸国側だと思って貰って結構でしょう。ある意味熾るべくして熾った戦争とも言えます。

それに対してWW2はと言うとこれはWW1の戦後処理の拙さと世界恐慌が連続した事による側面もあったのです。
WW1後のドイツは確かに最悪のインフレに悩まされました。しかしながらドイツ人自身の資質とアメ...続きを読む

Q第一次世界大戦で、電信連絡はどんな役割を果たしたのでしょう。

第一次世界大戦で、電信連絡はどんな役割を果たしたのでしょう。

よく映画の戦闘場面で「通信兵?」のような兵士が「本部と爆撃などに関し緊密な連絡をとる」シーンがあります。第二次世界大戦なら、よく意味がわかります。

問題は第一次大戦です。この大戦は塹壕戦と言われています。ここでかりに「通信兵」がいたとすれば、
無線ではなく有線による通信だと思われます。また通信はもっぱら塹壕でなされていると思われるのですが、あるいは「突撃」して塹壕から出るとしたら「通信兵」も塹壕からでて「通信器」をもったまま敵に撃たれるということはありうるでしょうか。そもそも「通信兵」などいなく「通信」はもっぱら「士官」の任務だったのかもしれません。
「通信兵」が塹壕のそとで撃たれて必死で通信を続けるという場面はあり得るのでしょうか。
「塹壕戦」というものの実態がわかっていないので、詳しい方にお訊きしたく何卒宜しくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは

> 第一次世界大戦で、電信連絡はどんな役割を果たしたのでしょう

主に砲撃(弾着)観測だったと思われます。

> 「通信兵」も塹壕からでて「通信器」をもったまま敵に撃たれるということは
> ありうるでしょうか。

皆無とは言い切れませんが、極めて少ないかと思います。

主に第一次大戦における塹壕の配置は
前線と後方の2つ(戦線によっては後方が2つの場合もあるので 合計3つ!)が
あり、それぞれに 第1線、予備(ないしは補助)、第2戦という主要3線と、それ
らを結ぶ交通(補給)塹壕、という複雑な構成になっています。
(ちなみに砲兵部隊はそのさらに後方、前線から10Km程度の所に展開、配備
されていたようです)
そのうち、通信兵 というか通信所が開設されるのは最前線である、第1線では
なく、予備または第2戦のいずれかですので、通常は「突撃のために塹壕から
出る」という事態は、まず起こりえないであろうと思われます

ただ、このように塹壕を重層構造とする理由は「敵に第1戦が突破、制圧され
ても、後方の予備、第2戦で防御する」という ある意味の柔軟戦術によるもの
ですから、もしも敵が後方線(の塹壕)を、急速に制圧しかねない状況に陥った
としたら、その時は「撤退のために塹壕を出る」ことは十分あるでしょう。

> 「通信兵」が塹壕のそとで撃たれて必死で通信を続けるという場面はあり得る
> のでしょうか。

第1次大戦当時には 既に無線通信機は開発されてはいたものの、まだまだ機器
自体が大きく、重かったため、もっぱらそれ(無線)は"艦船への搭載用"のもの
がほとんどで、ご指摘の通り 陸戦の野戦通信は主に"有線通信方式"によるもの
でした。
さらに導線(ケーブル)自体も保護のために土中などに埋設するのが常で、かつ
不意の断線などによる通信途絶を防ぐために、二重三重のライン(つまりバック
アップですね)が敷設されていた、と聞いております。

従って、それら配線のことまで考えると、通信機を塹壕の外に持ち出し、なお
かつ外で通信を行う、ということは まず不可能であろう、と思います。

こんにちは

> 第一次世界大戦で、電信連絡はどんな役割を果たしたのでしょう

主に砲撃(弾着)観測だったと思われます。

> 「通信兵」も塹壕からでて「通信器」をもったまま敵に撃たれるということは
> ありうるでしょうか。

皆無とは言い切れませんが、極めて少ないかと思います。

主に第一次大戦における塹壕の配置は
前線と後方の2つ(戦線によっては後方が2つの場合もあるので 合計3つ!)が
あり、それぞれに 第1線、予備(ないしは補助)、第2戦という主要3線と、それ
らを結ぶ交通(...続きを読む

Q第一次世界大戦と第二次世界大戦らへんのこと様ですが。。

↓↓↓の問題が分かりません・・・。

「1923年にフランスは、ドイツの賠償金支払い遅延を理由にどういう手段をとったのでしょう。また、フランスがこの手段を行ったことにより、ドイツ経済にどんな現象が起こったのでしょう。」

「ドイツが国際連盟に加入したのは何年ですか。」


急いでいるのでお願いします!!!

Aベストアンサー

>1923年にフランスは、ドイツの賠償金支払い遅延を理由にどういう手段
1月11日にベルギー軍とともにルール地方を占領
>ドイツが国際連盟に加入したのは何年
1926年9月8日

Q第一次世界大戦の日英同盟から、第二次世界大戦に至るまでについて質問させ

第一次世界大戦の日英同盟から、第二次世界大戦に至るまでについて質問させて下さい。
第一次世界大戦で共に連合国側で勝利を収めた日と英が、第二次世界では敵になったところまでの流れが知りたいです。日英同盟の中で、日本はイギリスからの兵力要請に応え、その活躍に感謝されたと何かで読んだのですが、関係が逆転した原因や背景を教えて下さい。

Aベストアンサー

補足説明として、

1)英国の国力の減退。
2)アングロサクソンの基準からはみ出した国家主義との対立。
3)両国の中国での利権が対立。
4)中国人の対外不満を日本に集中させるために日本を悪者化。

Q第一次世界大戦と第二次大戦

第一次世界大戦はどういう経緯でおきたのですか?
あと第二次では中国はアメリカ側だったのに、なんで日本より中国は発展が遅いんですか? 日本はアメリカに負けて戦争終わってからどんどん成長してきたけど、中国はもっとまえからアメリカとはそこそこの関係?(一方的かな?)だったのになぜですか?人口が多すぎるからですか? 教えてください。歴史の知識が薄いのでお願いします。

Aベストアンサー

>第一次世界大戦はどういう経緯でおきたのですか?
ぎりぎりの緊張した場所がひょこっと誕生し、どこも望んでもいない戦争が突然発生して、ヨーロッパ中を巻き込んでしまった、という雰囲気ですね。
>あと第二次では中国はアメリカ側だったのに、
>なんで日本より中国は発展が遅いんですか?
欧米以外で先進国になった国は日本だけです。中国が不思議なのではなく、日本にヨーロッパ的な要素がもともとあったということでしょう。日本がなぜ発展できたのか、米国のアフリカ系の社会学者とか大変興味をもって研究しているとか聞いたことがあります。そこはもう、社会学・経済学の奥深いところに答えがある気がします。

Q第一次世界大戦時のオーストリアとフランツ・ヨーゼフ1世について質問です。

第一次世界大戦でオーストリアは皇太子夫妻がサラエボで暗殺されると、オーストリアはセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦へと突入、結果オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊してしまいましたが、結局のところオーストリアは列強扱いされていながらも弱かったのでしょうか?緒戦でセルビア相手に敗北し、その後はドイツ依存の状況が続きましたが言語もバラバラであったと言いますし、軍隊にも多民族国家のため統一性がなかったようなイメージがあります。また、オーストリアは第一次世界大戦のさなかである1916年11月に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が崩御してしまいますが、オーストリアが戦争へと突入してしまったのは、オーストリア皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世が、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを編入してしまったのが原因なのでしょうか?

Aベストアンサー

第一次世界大戦は、参戦した全ての国にとって「予想外」に発生した戦争です。
例えば、普仏戦争なんかでは、プロイセン(というかビスマルクかな)が、フランスとの戦争をしたがっていた(戦争を始める大義名分を探していた)わけです。
これに対して、第一次世界大戦は、1914年時点で、戦争をしたいと思っていた(戦争の機会を伺っていた)国は一つもありませんでした。

「なぜ第一次世界大戦が発生したのか?」、というのは歴史学上の大きな謎といってよいものでして、いまだに決まった学説はありません。
起こったことだけを単純に後から見れば、
・主に鉄道網などで決まる兵力動員にかかる物理的な時間などの要因で決まっていた、各国の軍の兵力動員計画が、互いに矛盾した状態になっていて、全ての国で動員計画が同時に実行されると、結果的に、戦争を「自動的に引き起こす」ようになっていた
ということですかね。この意味で第一次世界大戦を「時計仕掛けの戦争」なんて言ったりすることもあります。

とはいっても、普通は、各国の動員計画が互いに矛盾していたからって、それが本当に戦争につながるなんてことはないはずなんですが、第一次世界大戦の時には、さらに、各国の政治家が、相手国の政治家の意図を互いに誤解する、というアンラッキーも重なりました。

>オーストリアはセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦へと突入

と書いていますが、オーストリアはセルビアに宣戦布告しただけであって、第一次世界大戦なんてものを引き起こすつもりは全くありませんでした。
サラエボ事件は、第一次世界大戦勃発の「きっかけ」ではありますが、「原因」ではありません。

他の参戦国(ドイツ、ロシア、イギリス、フランスなど)にしても、オーストリアがセルビアに宣戦布告をしたからといって、自国とは基本的には何の関係もないわけで、めぐりめぐって結果的にに自国が他の列強相手に全面戦争に巻き込まれる、なんてことを想定していた国は一つもありませんでした。

第一次世界大戦は、参戦した全ての国にとって「予想外」に発生した戦争です。
例えば、普仏戦争なんかでは、プロイセン(というかビスマルクかな)が、フランスとの戦争をしたがっていた(戦争を始める大義名分を探していた)わけです。
これに対して、第一次世界大戦は、1914年時点で、戦争をしたいと思っていた(戦争の機会を伺っていた)国は一つもありませんでした。

「なぜ第一次世界大戦が発生したのか?」、というのは歴史学上の大きな謎といってよいものでして、いまだに決まった学説はありません。
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Q第一次、第二次世界大戦

課題で困っているので、教えてください!!!
第一次、第二次世界大戦はなぜ避けることができなかったのでしょうか?
そして、もし避けることができたならどのように避けることができたのでしょうか?

Aベストアンサー

根本的なところでは、他の方の回答は的を得ていると思います。各国が、軍事力を用いてまで領土を拡張するという意思を持たなかったならば、戦争は防げたというのは、基本だと思います。僕は、もうちょっと細かい技術的なところを書きます。

第1次世界大戦の場合、多分に偶発的な要素がありました。当事者たちも何がどうなっているのかよくわからいないまま、軍事同盟網を伝って戦火が全欧に広がっていったようなところがあります。軍事力の均衡による平和という考え方のもろさを第1次世界大戦は示した、ということもできます。
実は、1870-71年のプロイセン・フランス戦争の後は、第1次世界戦までヨーロッパで列強同士の大きな戦争は起こっていません。しかし、激しい軍拡競争は展開されていました。また、局地的武力衝突が起こったときに、前面戦争を回避するためのメカニズムが整備されておらず、電報で瞬時に情報が伝わっていくことにも不慣れなところがありました。

第2次世界大戦の場合は、先行して満州事変につづいて日中戦争が東アジアで起こっていたことはまず1つの前提となります。日本が、軍事力による領土拡張と国際連盟の脱退という点で、ドイツに先例を与えたことの意味は大きいと思います。
第2次大戦に先行する時期にも、ナチス・ドイツは戦争も覚悟の賭けを何回かしています(1935年のザールラント併合や徴兵制復活・再軍備宣言、36年のロカルノ条約破棄とラインラント進駐など)が、これを米英仏が容認したことが、ドイツの領土要求のエスカレートの直接の要因となっていて、ミュンヘン会談が有名ですが、英仏はその要求も認めます。この段階で、英仏がドイツに対してもっと強く出ていたならば、早期に戦争になっていたら、ドイツの軍備拡張が追いつかず、早々とドイツの敗北で終わっていたでしょうから、ドイツ側が戦争回避に動いた可能性があります。戦争が防げたかどうかはわかりませんが、もっと違った展開になっていたのは確かだと思います。
1939年9月のポーランド侵攻のときも、ドイツは英仏と全面戦争になるとは予想していませんでした。これに対して英仏は対独宣戦布告はしますが、ポーランドの独ソでの分割占領の段階では、ドイツと英仏の大規模な軍事力の衝突は起こっていません。それで、ドイツは英仏を恐れるに足らず、と考えるようになって、その後、北欧・ベネルクス3国・フランスを「電撃戦」で次々に占領下に起きますが、そこには英仏の油断があったことは否めません。英仏がドイツを甘く見たということです。これはソ連についても言えます。ドイツが、英仏やソ連に勝てないと思うような状況だったら、また違う歴史がありえたとは思います。

根本的なところでは、他の方の回答は的を得ていると思います。各国が、軍事力を用いてまで領土を拡張するという意思を持たなかったならば、戦争は防げたというのは、基本だと思います。僕は、もうちょっと細かい技術的なところを書きます。

第1次世界大戦の場合、多分に偶発的な要素がありました。当事者たちも何がどうなっているのかよくわからいないまま、軍事同盟網を伝って戦火が全欧に広がっていったようなところがあります。軍事力の均衡による平和という考え方のもろさを第1次世界大戦は示した、という...続きを読む

Q第一次世界大戦は当初何と呼ばれていたのでしょうか?

「第一次世界大戦」というのは、第二次世界大戦が起きてからの呼び方だと思います。それ以前は何と呼ばれていたのでしょうか?

Aベストアンサー

身に回りの史料等、探してみました。
明治大正時代の雑誌・・・『風俗画報』では対ドイツ宣戦布告に際し、数号に渡って「欧州戦乱号」を特集しています。
(アダルトの風俗ではなく大衆風俗の意味の風俗です。念のため)

宣戦布告に際し天皇の詔勅には
「朕ハ深ク現時欧洲戦乱ノ殃禍ヲ憂イ」
帝国議会開院の勅語にも
「欧洲戦乱ノ殃禍今ヤ東洋ニ波及シ」
と、欧州戦乱という表現を用いています。
日本が参戦する以前の時点では「欧州戦乱」という事でしょうか。

日本も参戦し、終結後・・・
直後の史料がなくどういった表現をされていたかは
わかりませんが、少し下って昭和に入り九年発行の三省堂の教科書用歴史地図には
「世界大戦」と表記されていました。
ご参考までに

Q第一次 第二次世界大戦について

第一次のときは日本はアメリカ側でドイツが敵だったのに第二次ではドイツが味方でアメリカが敵になっているのはなぜですか?

いずれも二つの陣営にわかれて戦ってますが、お互い味方の国を助けたりするのでしょうか?それとも味方同士は攻めないくらいで各国それぞれ単独でうごいていたのでしょうか?

Aベストアンサー

当時の外交は、まだ欧州中心で考えるべきですね。アメリカは当時原則的に「欧州不介入」ですから、まだ世界をアメリカ中心で捉えるべきではないのです。
質問者さんはどうもアメリカ中心で考えておられるようで・・・この見方は第2次大戦終結後ならば正しいのですが、それ以前はやはりまだ世界は欧州中心です。

さて、欧州では中世以降、外交的対立によって対立軸がまるきり変わるというのはしょっちゅうでした。

ナポレオン戦争ではフランス対イギリス、オーストリアとドイツ諸連邦(プロイセン含む)、ロシアといった各国が対立しました。
クリミア戦争ではロシア対イギリス、トルコ、フランス、イタリア(このころはまだサルディニアですけど)という対決軸となりました。

その後に行われた普墺戦争(とイタリア独立戦争)ではプロイセン、イタリア対オーストリアという構図です。もっともこの2つは2国間の戦争ですけどね。
その後の普仏戦争ではプロイセン対フランス、という構図です。まあ、これも2カ国間の対決ですけど。といってもこの3国(イタリア、ドイツ、オーストリア)、あとで共同歩調をとります。

また、中国利権に関するアロー戦争では、イギリスとフランスは共同歩調を取っています。


なお、日清戦争で勝利した日本は、中国での利害対立からフランス、ドイツ、ロシアの3国と対立します。いわゆる三国干渉です。つまりこの3国はこのときは共同歩調。

20世紀にはいってからは・・・
日露戦争では日本とイギリス(日英同盟)、フランスとロシア(露仏同盟)という対決軸を見ることができます。もっとも、イギリスとフランスの代理戦争とも見れますけどね。
この時代(20世紀初頭)の対立軸は英・露仏・独墺伊の3すくみです。

しかし、10年後には英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟という対決軸となっています。
しかし対戦直前、独墺伊からはイタリアが抜けてかわりにトルコが入り、英仏露伊、独墺土という構図に変わります。

このように19世紀以降の大規模な動きを見るだけでもめまぐるしく対決軸が変わるのが欧州情勢です。アメリカと日本は、第1次も第2次も、この軸に巻き込まれたと考えたほうが良いでしょう。

当時の外交は、まだ欧州中心で考えるべきですね。アメリカは当時原則的に「欧州不介入」ですから、まだ世界をアメリカ中心で捉えるべきではないのです。
質問者さんはどうもアメリカ中心で考えておられるようで・・・この見方は第2次大戦終結後ならば正しいのですが、それ以前はやはりまだ世界は欧州中心です。

さて、欧州では中世以降、外交的対立によって対立軸がまるきり変わるというのはしょっちゅうでした。

ナポレオン戦争ではフランス対イギリス、オーストリアとドイツ諸連邦(プロイセン含む)、...続きを読む


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