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今、80歳以上のおじいちゃん、おばあちゃんたち、アレルギーなどとは無縁のご様子、とってもお元気。いったい子供の頃はどんなもの食べて育ったの?牛乳や卵は毎日食べてたの?子供の頃の食事、朝昼晩それぞれ教えてください。ご存知の方、よろしくお願いします。私の娘がアレルギーから脱出する糸口が、そこにあるように思えてなりません。

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A 回答 (9件)

アレルギーとの関連は存じませんが、「ちゃぶ台の昭和」という本に戦前から戦後の日本の食卓についての記述があります。



戦前(1930年代ぐらいでしょうか)の東京の食事については、三食ともご飯、いわゆる一汁一菜で漬物、佃煮、煮物それと魚が中心のようです。牛乳や卵などの洋食の登場は地域や家庭にもよるのではないかと思います。

なお、このような昔の和食は、総じて味が濃く、塩分や糖分など一概に薦められるかどうかは判断しかねます。参考程度に留めるのがよいのではないでしょうか。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309727 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。本の題名まで教えてくださって。牛乳や卵は洋食なんですかぁ、知らなかった。昔はどこの家でも鶏を飼っていて、毎日産み落とした卵を食べていたのかと思ってました。

お礼日時:2005/04/11 10:18

No.5です。



むかしの日本人のタンパク源は、主に豆類、穀類などの植物性タンパク質でした。米にも意外にタンパク質は含まれているので、大量に食べればタンパク源になります。

ただ、植物性タンパク質は必須アミノ酸をバランスよく取るのがむずかしいため、動物性タンパク質もとったほうがよいのです。むかしの日本人はタンパク質の摂取量やバランスが悪かったので、背が低かったし、短命でした。

お子さんは、牛乳や卵はだめと言われたそうですが、肉や魚はどうなのでしょうか。通常は、動物性タンパク質というと、肉や魚を指すものですが。できれば、禁止されたもの以外は、できるだけさまざまなものをおとりになったほうがいいと思います。特定のものに偏るのは、栄養的にも、万一食品汚染などがあった場合にも、危険が高くなります。

それから、No.6の方が紹介されているのは、「生物濃縮」という現象で、環境汚染を語る場合には、とても重要な問題です。ただ、分解されにくく、体外に排出されにくい物資が選択的に子宮にたまるのではなく、生体の中、特に内臓にたまりやすいということです。興味がある場合は、「生物濃縮」をキーワードに検索してみられるといいでしょう。人体にたまりやすいだけでなく、海が汚染されていると、魚介類に化学物質が濃縮され、それを食べることで、予想外に多くの化学物質を摂取してしまうことになります。

ただ、ここで問題になる化学物質汚染は、ppb(10億分の1)とかppm(100万分の1)単位の濃度の問題で、通常は、目に見えるものではありません。「羊水がにごっている」と聞かされると、大変怖い話に思えますが、にごっている原因物質を分析して研究されたのでない限り、「だから環境汚染や食品添加物が」と結論してしまうのは、科学的とは言えません。にごっているのは、実は脂肪が原因ということだってありえるわけですね。

また、環境汚染は目に見えないレベルでの汚染が問題になるのであって、目で見てきれいだから安心というわけではないことは、知っておいたほうがいいかと思います。

いま80歳以上の大正生まれの方と、昭和一桁、昭和20年代~30年代、昭和40年代以降生まれの人とでは、食生活も運動や早寝早起きなどの日常生活も、激変しているわけです。その影響を抜きにして、アレルギー体質をすべて食品添加物や環境汚染のせいにするのは、どうかと思います。まあ、そう思っていた方が、生活改善をしない言い訳にしやすいわけですが。

それから、「いまの野菜の栄養価は落ちているから、サプリメントは必需品」などという意見もときどき見かけますが、これも短絡的ですね。栄養価が落ちているからといって、10分の1とか100の1になっているわけじゃなし、せいぜい半分くらいに落ちているのであれば、きちんと野菜を取ればじゅうぶん必要量は摂取できます。また、有機野菜や低農薬野菜を選択することだってできるわけです。

自分が何が不足しているのかを調べもせずに、安易に総合ビタミン薬でごまかそうというのは、かえって栄養の偏りや、不要な添加物摂取につながるでしょう。

アレルギーや栄養の問題は、まだまだわからないことも多く、「これが原因だ」と決めつけて、極端に走るのはかえって危険です。バランス感覚を大切にしたほうがいいですね。
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この回答へのお礼

数年前に90歳で亡くなった私のおじいさん、こどもの頃は知りませんが、なんか、いつでも漬物だけで、お茶漬けサラサラ食べてたような・・・あと、山菜とか煮物は食べてたかな。背は低いが長命でした。私が見ていないだけで、たんぱく質もきっとどこかで摂ってたんでしょうね。(死んだので何も聞けない!)
それにしても、No.9さんは色んなことをご存知ですね、感心してしまいます。ためになるお話ありがとうございました。

お礼日時:2005/04/12 15:40

>ホントに魚や卵とか、たんぱく質系は食べてなかったんでしょうかね。


漁村を除くと極端に少ないです。逆に漁村では魚しか食べるものがなかったのです。

>はあまりとらないでも大丈夫なのかな。
簡単に死にます。

>わなをかけて取った鳥・魚・獣類は毎日食べていたわけじゃないんですよね?
取れれば毎日。取れなければまったくなし。だから.たんぱく質が極端に少ないので.妊娠中から出産直後の死亡率が高かったのです。

60代以下の内容は6番の方が書いているのでそちらを参照。近年のアレルギー性なんとかは6番の方の内容が適切でしょう。
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この回答へのお礼

本当にお詳しいので頭が下がります。大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2005/04/12 09:21

 補足・お礼を読んでの回答です。

卵や牛乳にこだわっているようですが、蛋白質は穀類や豆類にも多く含まれていますし、カルシウムも小魚などで摂取できます。良質な豆腐であれば半丁で牛乳一本文に近いカルシウムが含まれています。

 制限されない食物で、お子さんが上手く栄養摂取できるよう勉強されてみては?
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この回答へのお礼

そうなのです。動物性のたんぱく質を制限されただけで、植物性は制限されていないのです。ですから、お年寄りたちは、植物性たんぱくを中心に成長してこられたと思うので、何を食べてきたのか、そこが知りたい所です。アドバイスありがとうございました。

お礼日時:2005/04/12 09:27

ちょっと質問と趣旨が違うことをお許しください。



様々な化学物質(公害、食品添加物、排気ガス、薬、シャンプー、洗剤 等々)もアレルギー体質の原因だということが言われています。
しかし公害や添加物などの害はたぶん戦後の経済成長期のほうがひどかったと思われるのになんでアレルギーが今のほうが多いんだ?と疑問を持っていましたが最近お医者さんと話をしていて納得がいきました。

 そういった自然界に存在しない化学物質は、もともと人体の代謝のサイクルに入っておらず、消化や排泄しにくいものがあるようです。そして体内に蓄積された化学物質が集まる先の一つが子宮らしいのです。
 子孫を残す本能より体から毒物を追い出す本能が勝るということでしょうか。その証拠に、昔の妊婦さんの羊水は透明だったのに今は濁っているそうです。(一人目の子供より二人目の子供のほうが身体能力や身長、IQなどが勝っている傾向はこれのせいなんじゃないでしょうか。)
 その濁った羊水から100%栄養を吸収しなきゃいけない赤ちゃんは母親の20倍もの化学物質を生まれながら蓄積させているということのようです。
 これがおじいちゃんの代よりお父さんの代、お父さんの代より今の子供の代のほうがアレルギー、生活習慣病の多い理由ではないかと私は推測しています。
 
対処法としてはやはり野菜果物を多く取り、必須脂肪酸のバランスを整え、あまり潔癖すぎる環境を作らないといったところでしょうか

昔の食生活をまねても栄養のバランスはよくないし塩分は摂りすぎだし今の野菜には昔ほどの栄養はないし あんまり意味が無いと思います。
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この回答へのお礼

いろいろ知らないお話(子宮のお話)を教えてくださりありがとうございます。ただ、どうしてこんな質問をしたのかといいますと、私の娘は成長期にあるのに、卵や牛乳などの動物性たんぱく質を制限するように言われてしまったのです。これにはうちの主人がお怒りモードで、「大きくなるには、たんぱく質とカルシウムが必要なんじゃ、食べるもんあれへんやんけ。(すみません関西人なので・・・)」と言っていました。そこで私はちょっと待てよ・・・そんなにたんぱく質って毎日毎日必要か?と思ったのです。そしてあのアレルギーには無縁な元気なお年寄りたちはどうやって大きくなったのだろうと。昔は子だくさんで、物も豊富でないし、毎日、たくさんたんぱく質を摂取できただろうかと。たんぱく質は、たくさん摂らなくっても大丈夫じゃないかって疑問がわいたからなのです。栄養のバランスは良くなくっても、少々背が低くても、元気な老後が送れるのならいいですよね。

お礼日時:2005/04/12 01:20

アレルギー体質の原因ですが、最近、乳幼児期に清潔すぎる環境で育つとアレルギー体質になりやすいと言われています(参考URL)。

小さいときにどろんこ遊びなどで適度に異物が体内に入ってきたほうが、免疫能力がつくといったところでしょうか。この説は、けっこう有力なようですね。

卵焼きは江戸時代にも高級料亭などのメニューにはあって、立派な和食です。ただ、高度経済成長の頃に大量生産が始まるまでは貴重品で、庶民の口にはめったに入りませんでした。牛乳は明治に入って奨励されたようですが、実際にみんなが飲み始めたのは、戦後、学校給食で配られるようになってからのようです。

牛乳や卵アレルギーについては、妊娠中や授乳中に母親がとりすぎると、牛乳や卵特有のペプチドが過剰摂取になって、アレルギーになりやすいという話を聞いたことがあります。なんにしろ、身体にいいからといって、特定のものにかたよった食事はよくありません。

アレルギー体質には食品添加物や大気汚染などの影響もあるのではないかと言われていますね。

また、運動不足で宵っ張りの朝寝坊で生活リズムが崩れた生活習慣も影響があるのではという説も聞いたことがあります。

食事だけではなく、むかしの人は日の出と共に起きて、よく動き回りました。いま80歳の人の生まれた頃と言えば、電子レンジはもちろん、洗濯機も冷蔵庫もない生活で、煮炊きはかまどや七輪です。水道もまだ少なく、私の両親が住んでいた地方都市では、井戸を使っている家が多かったようですね。交通機関も発達していないので、小学生でも30分くらい歩いて通学するのは珍しくなかったでしょう。水くみや風呂たきの火の番は、子どもの役目だったようです。

食事は地域差があると思いますが、日本人はご飯とみそ汁というのが一般的だったのではないでしょうか。
ご飯がろくに食べられなかったというのは、一部の水飲み百姓の話で、むしろ一般庶民の食生活の中心は米だったと思います。むかしの人は、いまよりもずっとご飯をたくさん食べました。そのぶん身体を動かしたので、太ったりはしなかったわけですが。

ただ、白米はごちそうで、雑穀や玄米、7分つきなどが多かったかもしれません。おかずは贅沢品で、みそ汁と漬け物でご飯をかっこんでいたようです。

というのは、冷蔵庫や冷凍庫はないので、魚はひもの程度、沖縄をのぞいては、普段に肉を食べることは少なかったと思います。菜っ葉や大根、芋など旬の野菜はたくさん食べたでしょうが、これも漬け物が多かったのでは。

参考URL:http://www.fine-club.com/child/kids/allergy.html
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この回答へのお礼

うーん アレルギーには色々な説があるんですね。勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2005/04/12 01:24

アレルギーは添加物や農薬などの蓄積によって起こるそうです。


一度鈴木そのこさんの食事をしてみてはいかがでしょうか。
勧誘でも何でもありませんが、友達がすごいアトピーできれいに直ったのでびっくりしたので書き込みました

この回答への補足

鈴木そのこさんは、息子さんを拒食症で亡くされてから食に目覚めたそうですね。きっと参考になると思います。

補足日時:2005/04/11 10:04
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考にしてみます。

お礼日時:2005/04/11 10:03

地域差が激しいのでその点はご理解ください。


内陸部での生活は.
塩っけのまったくない漬物+粟・蕎麦 お祭りのときに魚の干物。わなをかけて取った鳥・魚・獣類
「塩」に高額な物品税がかけられていたので.簡単には食べられなかったのです。また.米はかなりの高級品であり.小作程度の所得層では食べられなかった状態です。

都市部での生活と海岸地区での生活は既にあるので省略。

>私の娘がアレルギーから脱出する糸口
当時の人口分布を理解してご質問していないようなので。
当時.1歳までに2-3割が死亡します。ですから.1歳の誕生日を迎えるまで戸籍に入れないという習慣がありました(所得があった家はすぐに入れましたが.)。
次に成人になるまで残る人々の5割が死亡します。
ですから.アレルギーなんて持ってい様物ならば.食中りという診断で乳幼児の頃に死亡してしまいます。このようにアレルギー体質の人間を殺した残りの人々について.調べられるから「昔はアレルギーがなかった」ということになります。

この回答への補足

ごめんなさい。「昔はアレルギーがなかった」と昔のアレルギーの話ではなく、今は中年くらいの人でも、花粉症でマスクをしている人が多いのに、お年寄りはまったく皆無で不思議だなと思っているのです。だから今のお年寄りの子どもの頃はどういう食生活なのかなと知りたいわけです。ホントに魚や卵とか、たんぱく質系は食べてなかったんでしょうかね。成長期でも。たんぱく質はあまりとらないでも大丈夫なのかな。わなをかけて取った鳥・魚・獣類は毎日食べていたわけじゃないんですよね?。

補足日時:2005/04/11 09:50
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私も子どももアレルギー体質です。


昔の人は強かったですよね。
私の祖父母は島国育ちなので、肉はほとんど食べたことがなく、魚やサザエ、あわびなど貝類はたくさん食べていたということです。お米は滅多に食べれなく、お祝いなどのときだけで、主食はなんとおいも(さつまいもとじゃがいも)だったそうです。小麦粉は豊富にあり、おだんごやおまんじゅうは作って食べていたらしいです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。とても参考になりました。

お礼日時:2005/04/11 10:08

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 ひとつ大きく言えることは昭和16年から昭和20年までの太平洋戦争のいわゆる戦時中、そして昭和20年の8月に終戦を迎えてから昭和24年頃まで。このふたつの期間にはおどろくほど違いが見られます。終戦以降についてはもう#1さんからかなり詳しいご回答がありますので、それ以前の戦時中を中心に書いてみます。

 まず昭和16年から昭和20年までの戦時中。真珠湾攻撃で始まった戦争ですが、最初の勢いはともかく年々戦局は厳しいものに。米や麦、塩やタバコなどは配給制、食料はもとより物資がとにかく無くなって窮乏生活。
 ただ、わが家にはダットサンという小型車と人力車がありましたが、車引きの方も運転する人もみんな戦地に。それに、ベビーパールとツァイスイコンという2台のカメラにバーディーという8ミリのセット、それに電蓄というオーディオに沢山のレコードもありました。これらは戦前からあったようですが、終戦間際の空襲で全部焼失してしまったということです。

 ラジオはNHKの第一と第二だけですからほとんど選局しなくてもいいという便利さ?も。番組についてはまだ調べ切っていませんが、ラジヲ体操に落語に講談、浪花節などは人気番組。それらに挟まるように「今日の戦果は米戦艦1隻に巡洋艦4隻」なんて臨時ニュースが入るのも毎日のこと。今考えてみれば毎日そんなに戦果が上がるはずもないウソばっかり。そして空襲警報とともに「和歌山上空に敵B29爆撃機が100機編隊で関西方面に向けて侵入中」などとの軍の発表も。当時の子供の歌としては「お山の杉の子」、この歌知っています。

 当時の食事は、かなり裕福だったわが家でも玄米におかずは一品、それにお味噌汁。派手な服や和装、パーマなどは「非国民」と非難されたとか。よそ行きの高級なお召しをリフォームして作ったモンペと白い割烹着姿で国防婦人会というタスキをかけた祖母の写真も。これ、男性はほとんど戦地に出征していて女性が「銃後を守る」、つまり国土を守るということの現われ。
 宝石や貴金属類はもとより、鉄や銅のものなどはお国のためとなかば強制的に「供出」。当時の三種の神器といえば、氷で冷やす冷蔵庫、ハンドルを回して交換台を呼び出してつないでもらう電話、それにラジオぐらい。とにかく「欲しがりません、勝つまでは」がスローガンの時代でしたから。

 当時からの製品といえば、メンソレータム、花王石鹸、中将湯、ライオン歯磨き、三菱やトンボの鉛筆、ナショナルや東芝、シャープなどのラジオや電気アイロン、扇風機といった家電製品。まだ沢山あります。

 とにかく男性が足りない時代とて、家庭の主婦をはじめ女性が職場に。女子高(旧制)などの若い女性も挺身隊として学業そっちのけで職場や軍需工場、そして農村へ。勤務時間などはあってないようなもの、とにかく働けるだけ働くか、空襲警報で避難の毎日だったとか。そして終戦。。。。。。

 あとは#1さんがお答えの通り。終戦の時点ではたしかに車を持っている人はほとんどなかったと思います。空襲で焼け残った親戚にはカメラも8ミリもあって、まだ幼少の頃にそんな古いものを見せてもらった記憶がありますが。
 「尋ね人」、それに戦災孤児を扱った「鐘の鳴る丘(ラジオドラマ)」なんかはとても象徴的ですね。この時代ではとにかく食料が乏しく、まして甘いものがなかったとか。まるで今の北朝鮮さながら。

 ラジオではそのほか、「三太物語」「えり子とともに」、「大学を出たけれど」などラジオドラマや「日曜娯楽版」などが大人気、これやがてのちの大ヒットドラマとなった「君の名は」につながって行く。#1さんよくご存知ですね。

 当時流行した歌に「一万三千八百円」というのがありましたが、これは当時の平均的サラリーマンの給料の額。
 電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビが三種の神器と言われたのはわが国が戦後の復興期から高度成長期にさしかかった昭和30年のこと。もうこの時代ともなるといろいろな分野で今と同じブランドの製品が出ています。こんな話、好きですが書ききれません。

 わたしも書き物をするために、おもに親や当時を生きた方々から昔話として聞きながら、このような時代の資料を集めたり考証を重ねていますが、なかなか興味深いものがありますね。

 ひとつ大きく言えることは昭和16年から昭和20年までの太平洋戦争のいわゆる戦時中、そして昭和20年の8月に終戦を迎えてから昭和24年頃まで。このふたつの期間にはおどろくほど違いが見られます。終戦以降についてはもう#1さんからかなり詳しいご回答がありますので、それ以前の戦時中を中心に書いてみます。

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Q太平洋戦争中の子供達の遊び

戦時中の子供達の遊びを、詳しく教えてください。

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戦時中、空から落下してきたものには、B29やグラマンという戦闘機などから爆弾、焼夷弾(しょういだん)、銃弾(大人の親指大、何割かは爆発して火災の原因になる)とその薬莢(やっきょう)、アルミ箔のテープ(レーダ攪拌用、この時はラジオにザーザーという雑音が入っていました、日本にはそのようなレーダはなかったと思いますが?、何しろ八木アンテナの発明国ですから、、、。この八木アンテナは、東南アジアへ進軍したときに、英軍が使用していて、初めて日本の八木博士の発明と分かったようです)。

 これ以外にも、敵機B27が高射砲で命中して、落下してくるのを見ました。そのあとはグラマン戦闘機による低空飛行による機銃掃射です。日本の飛行機は一機の見かけません。日本には殆ど飛行機が無かったようです。

それよりも、日本の飛行機の落下が多かったですが、小生の近所にも、赤とんぼという練習機、爆撃機、戦闘機がそれぞれ落下してきました。それは殆どがガソリンが粗悪だったからです。何しろ、飛行機用に、松ノ木から、ゴムの樹液を取るように、松脂を取っていましたから、エンジン不調になるのは当り前。

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一番大きな落し物は、原子爆弾でした。その落下して爆発する瞬間まで、遠くから、目撃してしまいました。当時は新型爆弾と言っていました。話がそれてしまいました。周りに経験者が居られないと言う補足がありましたので2度も書き込んでしまいました。

戦時中、空から落下してきたものには、B29やグラマンという戦闘機などから爆弾、焼夷弾(しょういだん)、銃弾(大人の親指大、何割かは爆発して火災の原因になる)とその薬莢(やっきょう)、アルミ箔のテープ(レーダ攪拌用、この時はラジオにザーザーという雑音が入っていました、日本にはそのようなレーダはなかったと思いますが?、何しろ八木アンテナの発明国ですから、、、。この八木アンテナは、東南アジアへ進軍したときに、英軍が使用していて、初めて日本の八木博士の発明と分かったようです)。

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実習で特別養護老人ホームへ行くことになりました。
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Aベストアンサー

基本的にはお話を「聞いてあげる」ことです。
あなたが勝手に喋ってもなかなか
「聞いてもらう」のは難しいです。

平凡ですがその方の
「人となり」をお聞きするのが
一番無難です。
お年はいくつか、どこで生まれたのか、
どんな仕事をしていたのか、
奥様、旦那様はどんな方か?
(どんな人だったか?)
お子様、お孫様のお話
も良いでしょう。

事前にその方のプロフィールが
分かっていれば話しやすいですが
そう言うケースはあまり無いでしょうから
上記のような無難なお話しから
入るのが良いでしょう。

はっきり行ってほとんどの特養では
人手不足で利用者様のお話を
のんびり聞いてあげることなど出来ません。

おそらく、あなたが嫌になるくらい
利用者様から話し掛けて
いただけるでしょう。^^;

年齢的には質問された方の祖父祖母
あるいは曽祖父曾祖母といった
年代の方になると思いますが
人生の先輩として尊敬の念を持って
接することを忘れずにお願いします。

まあ、あまり緊張しないで
普通にお話ししてください。^^

あ、あと残念ながら実習することが
多くてあまりお話しする時間など
取れないかもしれませんが・・・・。

頑張って下さいね!

基本的にはお話を「聞いてあげる」ことです。
あなたが勝手に喋ってもなかなか
「聞いてもらう」のは難しいです。

平凡ですがその方の
「人となり」をお聞きするのが
一番無難です。
お年はいくつか、どこで生まれたのか、
どんな仕事をしていたのか、
奥様、旦那様はどんな方か?
(どんな人だったか?)
お子様、お孫様のお話
も良いでしょう。

事前にその方のプロフィールが
分かっていれば話しやすいですが
そう言うケースはあまり無いでしょうから
上記のような無難なお話しから
入るの...続きを読む

Q腫瘍と腫瘤のちがいは?

腫瘍と腫瘤のちがいはなんでしょうか?
たとえば肝臓に発生で例えると前者は内部、後者は表面発生のニュアンスでしょうか?教えてください

Aベストアンサー

私の文章が悪かったようです。腫瘤と腫瘍は比べることが不適当な☆別次元☆の言葉です。

とはいえ、腫瘍は腫瘤とは★区別されるものではありません★。

白血病を除く殆どの腫瘍は腫瘤を形成します。

字が似ていて混乱するのはやむを得ません。

腫瘤という呼び方をやめて、単に「かたまり」と言い換えてもいいでしょう。そうすれば、腫瘍と区別するとかしないとか考えずに済みます。

■子宮に腫瘤があり、調べてみたら良性腫瘍だった。→子宮にかたまりがあり、調べてみたら良性腫瘍だった。

と言い換えることができます。

「肝腫瘤」という言い方はあまりしません。また、「肝臓についている」という表現を拝見すると誤解なさっているようです。肝臓の内部にかたまり状の病変があるときは、「肝内に腫瘤を認める」という表現をします。

■肝内に径3cmの腫瘤を認め、エコー下針生検を施行したところ、病理組織は肝細胞癌(悪性腫瘍)であった。

■肝内に径3cmの腫瘤を認め、エコー下針生検を施行したところ、病理で膿瘍(怪我のときのうみのようなもの)と判明した。

というような例文が正しいのです。

私の文章が悪かったようです。腫瘤と腫瘍は比べることが不適当な☆別次元☆の言葉です。

とはいえ、腫瘍は腫瘤とは★区別されるものではありません★。

白血病を除く殆どの腫瘍は腫瘤を形成します。

字が似ていて混乱するのはやむを得ません。

腫瘤という呼び方をやめて、単に「かたまり」と言い換えてもいいでしょう。そうすれば、腫瘍と区別するとかしないとか考えずに済みます。

■子宮に腫瘤があり、調べてみたら良性腫瘍だった。→子宮にかたまりがあり、調べてみたら良性腫瘍だった。

と言い換...続きを読む

Q日本史Aと日本史Bの違いについて教えてください。

こんにちは、疑問なのですがセンター試験の日本史Aと日本史Bとはどのような違いがあるのでしょうか?
ちょっと気になって調べてみたのですが、ほとんど日本史Bの事しか載っていませんでした。

二つの教科の違いや、選択時の有利不利などを教えてください。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

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 日本史Aでは、大体どの時代も勉強すると思いますが、教科書の構成上「近現代史」に特化した取扱になっています。また、日本史Bでは、古代史からスタートするので日本史Aの教科書より内容的に若干難しい内容も取り扱います。

 したがって、単位数の違いにより、日本史Aと日本史Bの教科書を使い分けていることです。主に、日本史Aは、職業科の学校で使われています。

 農業高校・商業高校・工業高校など普通科以外の学校で日本史Aの教科書を採択しているケースが多いです。普通科の高校でも日本史Aで近現代をやって、日本史Bで古代から江戸まで勉強して、受験するときは日本史Bで受験するというケースも見られます。

 つまり、日本史Aでは、教科書の構成上、近現代史がメインになりますが、日本史Bでは、古代史からスタートして現代史まで扱うという幅広内容になるということになります。そういうことから、日本史Aで勉強したいようで、勉強していないところ古代史~江戸時代の内容に関しては自力で勉強することが求められます。

 【大学受験での日本史選択】
(1)センター+私大(日本史で受験)する場合
 →「日本史B」を選択
(2)センターのみの場合(日本史A・B両方選択可で2次試験で日本史を必要としない学部学科を受験の場合)
 →「日本史A」を選択(学習時間が少なくてすむ)

 ※私大受験を考えていて、日本史で受験を考えているのであれば「日本史B」を選択するのが無難です。リクルートの進学サイトのURLを載せておくので受験科目の選択に参考にして見てください。

 何らかの参考にならば幸いです♪

参考URL:http://www.shingakunet.com/cgi-bin/shingakunet.cgi

 日本史Aと日本史Bの違いは、高校での単位数の違いと、教科書で学習する内容の対象が若干違うことです。

 日本史Aは、単位数が2単位など。単位の少ない時間で取り扱う科目です。教科書の内容も近現代史~の内容をメインとした教科書の構成となっています。日本史Bの場合は、大体4単位で、教科書の構成が古代史~スタートし歴史全体の内容を取り扱うものです。

 日本史Aでは、大体どの時代も勉強すると思いますが、教科書の構成上「近現代史」に特化した取扱になっています。また、日本史Bでは、古...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。


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