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坂東武者と比べて、京の武士や侍は弱かったのでしょうか?
弱いままでは屈辱でしょう。

A 回答 (3件)

> 坂東武者と比べて、京の武士や侍は弱かったのでしょうか?



どのように比べることができるのかが問題でしょう。
個人的な、腕力、膂力、背筋力、脚力、武技、弓技、視力、聴力を、坂東武者、京武者・北面武士で、比較出来る資料も、推定のもとに出来る資料もないです。

坂東武者と呼ばれるものが属する坂東の武士団は、いわば一種の在地武力集団なので、利権を保持するためにも基本は武力行使の実力を誇示することが大事でした。
一方、京の武者・武士は侍としての地位保証とその地位を守るための実力も必要でした。 
当時のことですから、たぶん、弓は重要だったでしょう。 馬も操って出動し闘う必要はあったのでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89 …
どちらが強いとは言えないでしょう。 サッカーW杯のようなゲームもないし、当時の人々でも、どちらが強いかなどという発想そのものがなかっただろうと思います。
もちろん、「弱いから屈辱」というのも、関係のほとんどない遠方に対しては懐きようもないでしょう。 せいぜい、数十キロの範囲で、実際に競い合えるような場所に武威や膂力で名を知られるものがいたとしても、「私の方が上だ」と手前勝手に自負したり、豪語しているのが、ごく普通の感性でしょう。

たぶん、京の侍、武者というのは、個人技としてもかなり強かったのだろうと思います。

現在だと、高校駅伝の全国大会もあって、各地の名門がでてきますが、平安時代、中世では、そのような全国で競うような仕組みそのものがなく、各地の武士・武者は、その地でのその人の地位を保持・堅持・アップさせることが主要な認識にあったでしょう。 関東武士団の場合、ちょっと弓矢、婚姻関係に関心がある程度だったのでしょう。 在京の武者は、その点、もっと武・弓矢・権威・強さに強い関心をもっていたと、想像します。 警官兼軍人兼警備責任者であるという意識はとても強かったのが、在京の武者でしょう。
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朝廷には自前の軍隊はありません、平安時代は任命された武士達が交代で、


天皇や上皇を警護してました、天皇の警護の武士は滝口の武士、上皇の
警護の武士は北面の武士と呼ばれていました。

京都所司代や六波羅探題は公家を監視する、目的で幕府がつくったのです。
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今は京都と言えば京都府あるいは京都市のような広範囲な地域を含みますが、昔は京の都と言えば洛内の、ごく狭い範囲だけを指す言葉であり、京の都は、住民ほぼ公家ばかりの都市国家だったのです。



現在のイメージで言えば港区のタワマンに住んでる住民と言えば通じやすいかもしれない。あなた港区のタワマン住民に喧嘩強いイメージありますか?
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